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道行  作者: 墨太郎
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変化

 久しぶりに風邪をひいてしまった。学校は休んで、お医者様に来てもらったけれどただの風邪だったので安心した。頭がぼうっとして喉が痛い。父は私が食べられるようなものを買いに出かけてしまった。りんごが食べたいな、と言ったらすぐに父は立ち上がった。

 床がきしむ音で目を覚ます。父が帰って来たのかと思ったら珍しく梅が私達の住居にやって来たのだった。無言で傍らに座り、手のひらを私の頬に当てた。

 「熱いな。」

 手のひらは硬く、ペンだこが目立った。手にかかる二つ分の仕事を片方の手で全て引き受けているために梅の手は硬く強い。

 「亮司は、買い物か。」

 少し寝たので気分が良くなっている私は頷いた。もし父がここにいたらあのお互いを探り合うような視線を交わすのだろう。私はもう梅と父の間にある薄氷を踏む様な緊張感にとっくに気が付いていた。

 梅は私の額に乗っていた手拭いを剥がして水に浸け、また乗せてくれた。冷たくて気持ちがいい。そのまま梅は庭の方を向いて放心してしまった。私も熱を持った頭で梅をなんとなく見つめた。

 いつも怒ったような顔なのに私には出会ったころから優しかった。ぼんやり覚えているのはひもじさと寒さから救ってくれた大きな影。それ以前の記憶は判然としない。

 梅が父に送る視線を、どこかで見たとずっと考えていた。記憶を探りながらたどり着いたのはあの七夕祭りの日に道子さんが境内で見せた凛とした悲しい眼だった。二人には私に入り込めない関係があり、私よりずっと近しいだろうに梅はとても悲しい眼をして父を見る。

 私はそっと布団から腕を出して梅のペンだこだらけの手を握った。

 「ん?」

 梅はやっと私の世界に帰ってきた。

 「お父さんのことが好きなのね。」

 彼は思ったより驚かなかった。一つ屋根の下で隠し通せるわけもないと腹をくくっていたのかもしれない。肯定も否定もしなかったが手を握り返して来たのでそれが答えだなと思った。

 「今度教えてね。」

 わかった、と梅は低く言った。梅が傍に居てくれるという安心感で私はまた瞼が重くなる。父と梅はどこで出会ったのか、どういう関係なのか、そしてどうして梅は父のことが好きなのか。何も知らずに私は大きくなった。

 疑問を持たなかったわけではない。ただ、父の言いようもない目の暗さに、それを抑えて微笑もうとする口元に、これは無闇に聞いてはいけないことなのだと悟ったのだった。

 男が男を、という嫌悪感は感じなかった。それは父と梅だからかもしれない。偏見を持つことの恐ろしさを私は身をもって知っていたので同性の恋愛についても厭いたくなかった。私が金髪で碧眼なのと同じように自然に梅は父のことが好きなのだ。

 

 子供が十分に成長したと分かるのはいつの瞬間なのだろう。体が大きく成った時か、喋る言葉が達者になった時か。柔らかい心を狡猾さやしなやかさで隠せるようになったときだと私は思っていた。その日が来るまで何も言わないでおこうと。私も安心していたのだ、まだ何も言わないで済むと。

 風邪が治ったばかりの真理は意気揚々と学校に出かけて行った。まだ病み上がりなのだから無理はしないようにと言い含めたが帰りが遅い。帰り道で遊んでいるのだろうか、それにしては遅すぎると心配になった私は屋敷から出て彼女が学校に行く道を辿った。

 屋敷に続く道の向こうから真理は髪の毛を逆立たせ、ゆっくりと道を歩いてきた。息を飲んだのは服が乱れ、髪の毛が短くなっていたからだった。青い目が夜闇に浮かび、まっすぐに私を見つめてくる。私は立ちすくんだ。

 「真理、どうしたんだ。大丈夫か。」

 近づくと膝や腕が汚れているのがわかった。両腕を掴み、顔を見ると涙も流さない。だが、怒りに震えているのがわかった。

 「何があった、話せるかい。」

 真理は私の腕の中に頭をうずめてただ深く深く呼吸を重ねるだけだった。肩より少し長いくらいだった髪の毛は首元まで短くなっており、切りそろえられたのではないばらばらの長さで無残な姿になっていた。一番最悪なことを考えてそっと彼女の胸元を見たが釦は無事で、衣服はそう汚れてはいない。スカートも破れたりひどく汚れた様子はなかった。

 私は真理の手を握って屋敷まで歩いた。遅いことを心配した瀬尾もまた顔を覗かせた。一見してなにがあったかわかったのだろう、瀬尾の顔は怒りで歪んだ。

 家の中に入り、兎も角温かいお茶を入れて飲ませた。光の下で見ると綺麗に伸ばされていた髪の毛がざんばらに切られている様子を目の当たりにしてしまう。私の腹の底はしんしんと冷え、真理の気持ちと混ざり合って体が震えた。

 「お父さん、私の髪の毛はどうして金色なの。どうして目が青いの。」

 子供の頃も同じことを言った。昔一度きりだったが。心を決めたような硬い表情が悲しかった。

 「休んでいた分の宿題をしていたら学校から出るのが遅くなってしまって。お友達は先に帰っていたの。」

 真理は俯いてぽつりぽつりと言葉を押し出した。嫌なら何も言わなくてもいいのに。

 「学校を出てから嫌な視線を感じて、振り返ったら男が三人笑いながら私を見ていて。」

 男に追いかけられ、捕まって鋏で髪の毛を切られた、と真理は感情を押し殺して言った。足を引っかけられて転んだところを押さえつけられて髪を切られたと。

 瀬尾が無言で立ち上がった。

 「梅。」

 真理が見上げると彼は軍人時代の冷血な瀬尾梅太郎の顔をしていた。平和な時代では見せることの無い顔を。

 「警察に知り合いがいる。」

 「梅ありがとう。でもね、今は私の話を聞いてほしいの。」

 瀬尾は大人しく従った。娘は落ち着き払った顔を取り繕っているが目の奥が煮えたぎっている。

 「私はあいつらを絶対に許さないし捕まえてほしいと思ってるわ。だけどその前に知っておかなければならないことがあるでしょう。」

 梅にも一緒に居てほしいの、と娘は顔を上げて私を見た。もっと早く伝えておくべきだったのかもしれない。短くなり過ぎた髪の毛の先が私を責めるように逆立っている。

 「あいつら私のことガイジンだって言ったわ。敵のスパイだって。」

 真理の怒りは大気の温度を上昇させ、私は汗をどっと噴き出した。娘の沈痛が、やり場のない気持ちが、世間の無情が私をも乗っ取り熱となった。

 「私のことを教えて。」

 言葉を探して口ごもり、どう誤解なく伝わるかこねくり回す時間もなく、私は真実を伝えた。本当の父親は宣教師で底抜けに明るい男だった。日本語は片言しか話せずどう梢子と連絡を取り合ったのかは知らない。朝早くから村を散歩し、仕事に行く私に手を振った。梢子を妊娠させてからは国に帰ったと聞く。

 母親は村の地主の娘で美しい人だった。私とは形ばかりの結婚生活を二週間、復員してから一か月近く一緒に暮らした。あまり感情を外に出さない人で宣教師に惹かれ情熱を注いだとはとても思えなかった。料理がとくいで字も上手いことを戦後初めて知った。今は私のもといた村で夫と子供と暮らしているのだろう。

 実は一度葉書を出していた。瀬尾の屋敷で働くことになってすぐ、仕事が決まり子供も元気だと書いて村に送った。忘れたころにお手本のような字であのとき腹の中にいた子供が産まれ、こちらも元気でやっていますと返ってきた。それ以降やりとりはない。

 真理も瀬尾も静かに聞いていた。私は娘の顔を伺い、梢子の面影を見つけた。あの人も強い人だった。地主の父という後ろ楯を失っても逞しく混血な子供をあんな閉鎖的な村で育てたのだから。

「お父さんはどうして私を連れていくことにしたの?」

お父さん、という呼びかけにほっとしている自分に気がついた。今さら変わることもないと思っていた関係だが、少しは不安があったのだ。

「お前が私を離さなかったんだ。どこにでも付いてきて、私も手離し難くなっていた。」

真理の感情はわからない。男に襲われた後に自分の出生を知らされて、混乱するなという方が酷だ。今日はいろいろなことがこの子の身に降りかかりすぎた。

「夢だと思っていたことがあるの。小さい頃野原で遊んでいて、ご飯よって誰かに呼び掛けられるの。そういう夢。」

ぼうっとした顔で真理は言った。

「きっとお母さんだったのね。」

黙りこくった彼女を風呂に入らせ、寝かしつけた。娘は暗闇を怖がって幼子のように丸まった。背中をさすってやると呼吸が落ち着いてやっと寝入ったのだった。病み上がりだったのだからもう少し休ませておけばよかった。迎えに行ってやれば良かった。寝顔は嘘のように穏やかでそれだけが救いだ。

瀬尾は忙しく方々に電話をかけていた。一区切りついたらしく私を呼びつけると荒々しい口調で明日警察が来ると伝えた。

 「明日は休ませろ。それから髪、どうにかしてやろう。」

 瀬尾は本来ならば私がすべきことを全て代わりにしてくれた。警察と交流がある瀬尾の方が適任だったとはいえ、私にできたことは娘をさすってやることくらいだった。私の心は未だ男に襲われた娘を思って凍り付いていてうまく頭が働かない。

 本当はきちんと時期を見定めて、手順を踏んで伝えようと思っていたことをなし崩しのように伝えてしまった後悔もあとからやってきた。娘は何を思ったろうか。母親は父のいない子を作り、十数年一緒に居た男には血縁が無かったと知って。

 「ここ数年この辺りにも外国人が増えて、偏見も減ってきていると油断していた。」

 真理が幼いころはやはり一目が気になって、どこに行くにも私か瀬尾が付いて行った。成長するにつれて本人もそれを恥ずかしがって、世間の眼もだんだんと変わってきたことから気が緩んでいた。そして今回の件は外国人に対する偏見もあるが、真理が美しく成長した女性であることにも理由があると瀬尾も私もわかっていた。これからはそういう心配も増えるのだと肝に銘じた。後悔してからでは遅いのだ、と。

 「今日は夜見回らなくていい。真理の傍に居てやれ。」

 瀬尾は私を慰めるように肩を叩いて木戸を抜けて行った。どっと疲れが来て私はへたり込んでしまう。娘はすうすうと寝息を立てていて、気持ちを落ち着けてくれる。私はその音を背に久しぶりに文机に向かった。葉書を取り出し慣れない漢字を書いた。ゆっくり丁寧に。

 お元気ですか。お久しぶりです。今日子供に…、と書き出しを書いては消し書いては消ししながら私はどうにか筆を進めていった。葉書一枚書くのに時間がかかり出来上がったころには深夜になっていた。


 私の怒りはぐつぐつと煮えている。

 梅の呼んでくれた警察は事情を聴くと明らかに態度を変えた。最初は梅の娘が男に襲われたと勘違いしたらしい。使用人の娘が、しかも混血の子供が髪を切られたくらいでなんだと言いたそうな顔をしている。梅も感じ取ったらしく事情聴取をしている男に向かって刃を含んだ声を放った。

 「夜道で女が襲われたんだぞ。市民を守るのが君たちの仕事では無いのか。そのざまで治安を保っていると言うつもりか?」

 上司と知り合いだという瀬尾梅太郎の言葉に警察は姿勢を正して、そこからは一応私に対する態度も改まったが、これで犯人が捕まるのだろうかと不安ではある。梅は軍隊時代の同期だという警察の知り合いに一筆手紙をしたためて部下に持たせた。梅のこんなに怒った顔は初めて見た。

 父は青ざめており、普段に増して口数が少ない。本当の父親でないことを、隠していたことを気にしているのだろうか。出生の秘密を聞いても思ったより私の心は動かなかった。それは父が必死に私を育ててくれたことを知っているからだし梅が私の出生を気にせず平等に扱ってくれたからだと思う。二人のことが大好きだから母のことや宣教師のことを聞いても昔話のように感じただけだった。でもこれでガイジンだと言われても、スパイなんじゃないかと言われても毅然とした態度でいることができる。私の母はたまたま宣教師だった人に惹かれただけでそこには純粋な愛情があっただけだ。

 警察が帰ったのと前後して青柳さんとその知り合いだという床屋さんが連れ立って来てくれた。私のざんばらになってしまった髪を切り直してくれるのだ。床屋さんは若いころ大都会で働いていた女性で両親の面倒を見るために最近この辺りに戻って来たのだと言った。殿方はお外に、と梅も父も青柳さんも追い出された。なかなかパワフルな女性だ。

 「かわいそうに。こんなに綺麗な御髪なのに。」

 深く事情を掘り下げず、床屋さんはすいすいと鋏を動かした。

 「最近じゃ短い髪も流行っているのよ。絶対可愛くしてあげるから。」

 鏡を見る気もしなかったが私の髪の毛は長さもちぐはぐでばらばらになっていた。ここからどう頑張っても可愛くはなりそうにない。見れる程度になればいいのだ。これからも私は外に出るし学校には行くしあんなやつらのせいで生活を変えたりしない。そのための宣戦布告として綺麗にまとまった髪の毛が必要なだけだった。変でなければ良い。

 少し話をしながら髪の毛はぱさりと下に落ちていく。私は母のことを考えてみた。父は美しい人だと言って写真と葉書を見せてくれた。確かに綺麗だったが結婚後に取ったという写真は生気がなく、今よりもっと若い顔をした父もけして嬉しい顔では無かった。葉書には達筆で産まれた子供のことが書いてあった。腹が大きいと思っていたら双子だったと。その子たちは今いくつくらいだろうか。私の妹達。もしもずっと村に居たら、父が私を連れ出してくれなかったらどうなっていたろうか。外国の血の混じった娘を母は守りきれただろうか。襲ってきた男たちのような考えを持った人々が大勢いる村ならば私も母も無事では済まなかっただろう。

 「もう少しだからね。」

 床屋さんは軽やかに言った。長い間髪を伸ばしていたのは小学校の時男の子に髪の毛の色が変だとからかわれたからだ。言い返す前に道子さんが私の髪の毛を一房掴んで「お日様の色よ、とっても良い色じゃない!」と叱りつけてくれたのだった。嬉しかったけれど髪の毛に引っ張られて頭皮が痛かった。私は負けず嫌いで男の子への仕返しのつもりで髪の毛を伸ばしていた。道子さんに会いたいな、と昨日学校で会ったばかりなのに思った。

 顔が皆と違うことが気にならなかったと言えば嘘になる。でも私には父もいれば梅もいて、お友達もたくさんいる。日々を過ごすうちに血のことは些細な事柄になっていた。蔑みも異端を見る目も学校には無かった。それなのに男たちによって幼いころの何とも言えない疎外感を無理やり思い起こされたのが悔しかった。私は負けない、と心に決めている。あいつらが捕まって謝罪をするまでけして負けない。


 青柳さんが連れてきてくれた女性は快活に「ちゃんと直して差し上げます。」と請け負い、私達は部屋の外で待つことになる。青柳さんには事情を話してあるので彼は神妙な顔をしている。先ほどの警察の態度について瀬尾が不満を口にすると青柳さんは「無理もないですぜ」と言った。

 「お嬢さんが悪くないってことも暴漢が許せないってことも重々承知の上で申し上げますけどね。」

 彼は四角い顔をしかめている。

 「俺達はつい十数年前まで外国と戦っていたんですよ、先生。そりゃ先生は身近にお嬢さんがいらっしゃるから理解もありますがね。未だに御国第一の警察じゃあそうもいきませんわな。」

 青柳さんも小さい頃から真理を知っている。お嬢さんお嬢さんと菓子をくれたり娘さんのお下がりをくれたり。だが一方で公平な目線を持っているのもこの人の魅力だった。

 「ところでお嬢さんの事情を知らない人がどう思っているかご存知ですか。」

 瀬尾は知らない、と短く言った。青柳さんは遠慮のない口調で話す人で、そこが瀬尾と合うらしかった。

 「瀬尾の三男が外に産ませた子供だと。」

 「誰だそんなことを言うやつは。」

 叩き切りますか、と青柳さんはにやりと笑った。

 「先生がお嬢さんに心を砕けば砕くほどこういう噂は消えません。」

 なるほど世間から見れば私と真理と瀬尾はそう見えるかと妙に納得した。どうも三人で暮らしていると世間からずれて行ってしまう傾向にある。

 「あの子のためなら世間なんてどうでもいいんだ、俺は。」

 「お嬢さんはそうも言っていられないでしょう。一番世間に晒されるのはお嬢さんだ。」

 「何が言いたい。」

 瀬尾と青柳さんは出会ってからずっとこういう話し方をする。喧嘩をしているのかと思い、ひやりとするがそういう交流の仕方なのだった。理解しがたい。思考回路が似通っていてぽんぽんと会話が続くのがお互いおもしろいらしかった。

 「真理さんはこれから大きく成って社会に出るでしょう。今回のようなことは将来またおこりますよ。」

 「そんなことは承知の上だ。」

 「じゃあどうします、ずっとここに隠しておくわけにもいかないんですぜ。」

 「だから学校に通わせているじゃないか。」

 瀬尾は青柳さんの前だと年のせいもあるだろうがほとんど不良少年のような顔つきになる。

 「なんの役に立ちます?」

 「学があれば強くなるさ。吸収して、跳ねのける力になる。」

 私はいつも不思議な気持ちで彼らのやり取りを見つめるのだった。親しくなかったという兄の代わりのようにして青柳さんとやり合っていると感じるのだ。編集者の方も一人っ子だったそうで弟が欲しかったと漏らしたことがある。

 「武道もお勧めしますよ。」

 ぜひ、と青柳さんが趣味でやっている空手のチラシを持ち出してきたところでお互い笑ってしまって終幕となった。こういうやりとりで瀬尾の心労を思いやれるような技術を私は持ち合わせていない。友人のような関係性が羨ましくもあった。

 「武道はやらせないが送り迎えはこれから必要になるな、亮司。俺とお前と交代でやろう。」

 「先生も亮司さんもひ弱そうですからなあ。ぜひご一緒に武道を。」

 「黙れ青柳。」

 学生時代の付き合いも軍隊時代の付き合いも減り、瀬尾家とも縁を切ってから初めて関係を結んだ相手が編集者の青柳さんだった。この気のいい男はずいぶん瀬尾の心を明るくしてくれたようだ。私達の主柱だった真理が倒れそうになってしまって、陰鬱になりそうな屋敷に彼の存在はありがたかった。

 「終わりましたよ~。」

 床屋の伸びやかな声に私達は襖を開ける。そこには髪の毛をすっきりさせ、明るい顔つきの真理がいた。何年も伸ばしていた髪の毛はすっかり短くなったが彼女の卵型で形の良い輪郭が出て毛先にはまとまりがあり、一言で言えば似合っていた。

 「可愛くなったでしょう。」

 そうだ。真理はかわいい。床屋の腕は確かだったようで、真理自身も鏡を見て微笑んでいる。よかった、と心から思った。娘が笑っていてさえくれればそれでいいのだ。送り迎えもする、なんでもする。ただこの笑顔を曇らせないでほしい。

 「見違えたな。いいじゃないか。」

 瀬尾も一瞬言葉を飲み込んだのがわかった。瀬尾も私も女性に耐性がなかった。髪の毛を短く整えた真理は以前よりもいっそう女性らしくなり、あの長い髪の毛で少女を彩っていたのだなと私は思った。

 「いいでしょう。」

 頬が紅潮している。本当に綺麗に育った。

 床屋の女性と連れてきてくれた青柳さんに厚くお礼を言って見送ると屋敷の中は妙にしいんとしてしまった。様々な来客があったのにまだ日が高いのだった。元気を取り戻した真理は一緒に仕事をしたがり、私は久しぶりに娘と掃除や洗濯をした。瀬尾は仕事場に戻って行った。

 真理は一つだけわがままを聞いてほしいと言い出し、その日の夜は幾年ぶりかで三人並んで眠った。真理を真ん中にして川の字で。ここに来たばかりの頃、真理は眠くなっても瀬尾の腕を放さず仕方なく三人で床に就いたことがあった。

 「あのね。私道子さんにだけは何があったか言おうと思うわ。」

 学校の先生方にだけは事件を伝えてあったが生徒には何も話は出ていないはずだ。風邪がぶり返した病欠だと思っているはずだ。

 「そうしなさい。」

 娘に友人がいることがうれしかった。

 瀬尾は黙っているが、私達が寝入るのを窺っている。私と真理は瀬尾に見守られながら寝た。


 瀬尾と私は交代で真理の学校まで迎えに行く。娘が恥ずかしがるのでそのうち学校ではなく道子さんと別れるT字路で待っていてそこから一緒に帰るようになった。瀬尾が学校を見たがるので止めてほしい、と真理はぼやいた。

 「旦那様はお仕事の取材のつもりなんだよ。」

 「じゃあ正式に申し込んでからにしてほしいわ。」

 髪の毛は学友に好評だったらしい。先生にまで褒めてもらって、真似をしたいと言われたと誇らしげだ。

 事件から復活した送り迎えの風習だったが娘と話す時間が増えて案外悪くない。私の昔の話を聞きたがるので村に居た時のことを思い出しながら話した。

 「貧しい村でね、村の中での仕事なんか畜産と農業しかなかった。その仕事は大体世襲性だったから、親のいない私には仕事が無くて。それで歩いて町の工場まで働きに行っていたんだ。」

 寒い日は朝起きるのが辛かった。工場では金属の型を削って、貼り付けて、同僚と何の話をしていたかもよく覚えていない。冬の手先の冷たさや夏に手拭いが機械油と汗で黒く汚れること、そんな細かいことしか思い出せないのだった。食うには困らず、ただ淡々と日々を消化しているうちに戦争が始まった。

 子供の頃のことを話してと強請られたがもうほとんど記憶が朧気だった。

 「ええと、畑の手伝いをしていたかなあ。よく働けばその日の飯が貰えるんだ。怠けるともらえない。」

 たらい回しに村の大人がいる家を巡った。繁忙期は人手が足りずにありがたがられたが冬は引き取りたいという家が無く、人の住んでいないあばら家で眠らずに過ごすか和尚の機嫌が良ければ寺で暮らした。そんな暮らしだった私に工場の働き口があったのは奇跡に近い。確か村の誰かが親切に教えてくれたのだった。

 「お母さんはどんな人なの?」

 戦争に行く前よりも帰ってきてから梢子とその夫と暮らした時期の方が覚えていることが多い。軍隊に行く前は赤切れもなく滑らかだった女の手だが月日を経てざらざらと硬い手になっていたのが印象的だった。地主の娘という殻などいざとなればあっけらかんと脱ぎ去ってしまえるような強さがあった。聡明な人でもあった。学校は優秀な成績で卒業したらしい。何人も結婚したいという相手がいたのにどこでどうしたのか宣教師と懇ろになった。真理が聡いのは梢子のお陰に違いない。

 偶々二人とも忙しくて迎えに行けないときに道子さんの御兄さんである鷹尾君が名乗り出てくれて屋敷まで送ってくれた。それから真理も迷惑でなければ鷹尾さんやその友人と共に帰りたい、と言うので瀬尾の許しを貰って彼らの好意に甘えることにした。

 いつの間にか道子さんの家に遊びに行っていたのが逆になって私達の小さな家に真理とその友達が集まるようになっていた。道子さんと鷹尾君、顔の涼しげな森下君、体躯の良い畠山君、眼鏡をかけた本好きの中村君、おしゃべりで物知りの田代君。入れ替わり立ち代わり真理を送ってくれては何を話し込んでいるのか皆でがやがやと楽しそうだ。

 驚いたことに瀬尾が私達の家で若者7人は狭かろうと屋敷の一室を使うように真理に伝えたのだった。若者たちは喜んで瀬尾に礼を言った。本当に良いのか、と尋ねると取材の代わりだと瀬尾は答えた。すっかり屋敷は若々しくなった。

 夕飯を食べていく者もいるので男の子の食べたそうなものを作るときもある。真理もよく食べる方だと思っていたが男の子は体感でその倍だった。最初は流石に遠慮していたが慣れてくると米がみるみる減った。彼等は瀬尾屋敷に遊びに行っていると両親に話して驚かれているらしい。彼等の親が訪れていつもすみません、と本当に済まなそうな顔をして菓子や米を置いていく。

 訪問者が増えると屋敷の雰囲気も変わってくるものだ。部屋にいないと思ったら瀬尾が若者たちと政治談議や小説の話に興じていて驚いてしまった。梅太郎さん、と慕われているようだ。特に本好きの中村君と話が合うらしい。

 青柳さんが文章の感じが変わった、と瀬尾に言っているのを聞いた。若者の力は私達の間の何かを動かしていく。

 私は畠山君を見る真理の視線が少し熱っぽいのに気が付いていた。恋とはまだ呼べないような萌芽を感じそっと目を伏せる。道子さんも同様に気が付いているらしく、私と目が合うとにこりとした。

 あの事件の犯人はまだ捕まっていない。真理の記憶を頼りに似顔絵が出回ったが暗かったこともあり確かな証拠にはなっていないようだ。私が楽しく暮らしていることが奴らへの一番の復讐だわ、と真理は言った。真理は確かに楽しく暮らしていて、私達までその波に飲み込まれている。幼いころ友人がいたらと願った自分の思いが娘の生活に現れているような気がした。

 「お母さんに会いに行きたいの。」

 秋の気配が近付いてきたある日真理は私にそう言った。


 ずっと考えていたことだった。父に出生のことを聞いてからずっと母に会いに行きたかった。父は驚いたようだがだめだとは言わなかった。秋の連休に合わせて父のいた村に行こうと思う、と伝えた。

 「皆で行くから。心配しないで。」

 流石に7人全員は都合がつかず、道子さんと私と鷹尾さんと森下さんで行くことになった。

 「手紙を書いておくよ。」

 夏ころからまた連絡を取り始めていた、と父は明かした。四人泊まって良いかも聞いておいてくれる。

 「ありがとう。お父さんも一緒に行く?」

 行かないだろうな、と思いながら聞いた。案の定父は首を振った。

 「梅にも言ってくるね。」

 茶菓子を手に梅の部屋に向かう。このごろまた新しい本を書き始めたので彼はうんうんと唸り声を上げている。文章が詰まると気分転換に私達のところにやってきて主に男の子達とおしゃべりしていく。

 「お母さんに会いに行こうと思うの。」

 筆を止めて一息ついた彼はそうか、と一言呟いた。

 「どんな人か会ってみたくて。あと、妹にも。」

 一度も会ったことの無い血縁という存在が私には不思議だった。血のつながりが無いのに父や梅とはこんなに近しくて血縁があるのに母や妹とは会ったことが無い。けれど今ならば母と互いに誤解なく話し合えると思う。お互いに大切な生活がある今では。

 「遠いんだろう。金のことは気にするな。」

 梅の目が遠くを見つめているのは寒村を思うからだろうか。父の育った村を。しばらく二人とも無言で互いのことに思いをはせた。

 「ね、お父さんとのこと教えて。」

 彼は私の方を見ないまま薄く微笑んだ。ゆっくりと梅は言葉を選びながら話した。梅はずっと父のことが好きで、父を見て来たのだ。そのことが私の心に沁み込んで広がった。

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