瀬尾梅太郎の屋敷
時代背景は戦争が短く終わった日本のパラレルワールドを想定しています。
あまり歴史に詳しくないので変なところもあるかと思いますがご容赦ください。
年齢を重ねても人は変われるのだということを書きたかった…です…。
物心ついたころから私は父と共に大きなお屋敷の離れで暮らしていた。私は母を知らないし父も語ろうとはしない。
時計が午後の3時を告げた。梅のところに行かなくちゃ。私はお屋敷へ続く木戸を開ける。庭から台所に上がり込むと父が茶菓子と緑茶を用意して待っていた。私も一緒に食べると分かっていて湯呑も菓子も二つ分ある。
「わ、桜餅。」
「季節だからね。」
簡単な会話を交わしつつ父は私に盆を持たせる。そしてさりげなく服の襟や裾を正すのだった。梅は屋敷の旦那様なのだから失礼が無いようにとの気遣いなのだろう。
いってきます、と父に声をかけて梅の書斎へ向かう。屋敷には廊下と畳の通路があり私たちのような使用人は廊下の方を歩くのが決まりだった。
失礼いたします、午後のお茶菓子をお持ちしました。そう言って私は正座の状態で襖をするすると開ける。これは父に仕込まれた所作だ。
「おお、来たか。」
梅はそう言って片頬をあげた。父よりいくつか年下の彼は私の第二の父親と言っても過言ではない。
「筆は進んだ?」
部屋に入ると私はさっきまでのしかめつらしい顔を崩して彼に笑いかける。はしたないと言われる大きな笑顔で。
「まったく。また青柳に怒られると思うと気が重い。」
青柳というのは梅の担当編集者だ。梅は出版社に文を掲載して生計を立てている。もちろんそれだけでは暮らせないのできっと何か他のこともしているのだろうと思う。そういう事情も私は良く知らない。わかっていることは梅が父を雇っていて私は梅の補助で学校に通っているということだ。
「休憩しましょ、桜餅よ。」
梅は子供の様に目を輝かせた。黙っていれば眉間にしわの寄った渋い顔の男なのだがこういう表情をすると少年のようだ。
「学校はどうだった。」
私は屋敷からは一番近い女学校に通っている。本当はすぐに働いても良かったのだけれど梅が金を出すから教育を受けろと言ってくれたおかげで楽しく学校に通っている。
「今日は茶道の時間があってね、先生が怒っている途中に田中さんが笑いだしてしまって。」
箸が転げても笑える年頃だ、田中さんが何で笑ったのか後で聞いてみたら先生の解れ髪が風もないのに揺れていたのが面白かったそう。それを聞いて私も大いに笑ったのだった。
梅はいつもうんうんと頷いて私の話を聞く。私の話なんてなんのためにもならないとは思うけれど学校で何かあると私はいつも「これは帰ってから梅に話そう。」と考えている。土曜は午前中で学校が終わるのでおこったことをすぐに話せるけれど、平日は梅の夜ご飯が終るまで邪魔をしてはいけないことになっている。
私を学校に行かせるにあたって梅が父に出した条件はたった一つだった。毎日私が学校に行って何をしてきたか報告させること。私に出した条件は必ず卒業すること。
「梅は今日何をしていたの?」
話が尽きると私は彼に尋ねる。私だけ話していたらつまらないじゃない。
「うーん、朝起きて飯を食って机に向かって。何行か書き進んで、昼飯食って。気が付いたらお前が来たよ。」
「気分転換したらいいじゃない、部屋から出たら?」
散歩に行きましょうよと私が言うと梅はううん、とうなった。あまり乗り気でないらしい。
「昔は良く行ったのに。」
「お前も小さかったしな。俺も年取ったんだよ。」
幼い頃は散歩と称して私と梅と父でちょっとした山を散策したりもした。確かにあの頃は二人とも今よりは若かったが確かまだ三十代のはずだ。
「おじさんみたいなこと言って。」
「もうおじさんだよ。」
大人しい父より豪快に遊んでくれる梅の方が遊びがいがあった。戦争で隻腕になった梅だが時折そのことを忘れるらしく肩車をしてくれようとして父に止められたり私と一緒になって走ってこけたりしていた。
「まあでもそろそろ花見の時期だな。」
しんみりしている私に気が付いたのか梅はつとめて明るい声を出した。花見だけは私が幼い頃からずっと三人で出かけるのだ。
「ね、楽しみ。」
それからひとしきり話をして4時の鐘が鳴るとお暇する。あまり梅の邪魔をしてはいけないよと父から言い含められている。
「学校で何かあったら俺か亮司に直ぐ言うんだぞ。」
最後に必ず梅はそう言う。私の薄い虹彩や髪の色が気になるのだろう。なにもないよ、と私は必ず言う。本当は何人か私の髪の色や色素の薄い肌を陰でからかう者がいることも学校の行き帰りで知らない男の人に怒鳴られたりすることもあるのだけれど何も言わない。それ以上に仲良くしてくれるお友達はいるし学校に行かせてもらえてうれしいから何も心配させたくないのだ。
父のところに空になった盆を持っていくともう夕食の準備をしていた。
「今日早いね。」
「時間がかかりそうなんだ。」
旦那様どうだった、と父は聞く。私よりも頻繁に顔を合わせるくせに二人は会話が弾まないのだ。雇用主と使用人の関係なんてそんなものなのだろうか。
「そろそろお花見だねって話をした。」
ああ、そういえばそうだったね。父は聞いているのかいないのかぼやっとした返事を返す。今は鍋の中のあくを取るのに夢中だ。まあ梅の方から父に言いだすだろう。
「私家に帰ってるね。」
「気を付けてお帰り。」
木戸を開けてすぐなのにいつも父はそんなことを言う。私のことをまだ小さい子供だと思っている節が梅にも父にもある。
真理が寝入ってから半時間ほど後、日課である夜の見回りに向かうと主人の部屋には未だ明かりがともっていた。夜半に書き物をすると進むのだという。
忍び足で歩いたつもりがどこで知れたのだろう、部屋の中から呼び声がかかる。襖を開けると散らかった原稿用紙と先ほど私が敷いた床が皴一つ無いままでそこにあった。
「肩を。」
こちらを向かないままで言い放った主人は長らくの机仕事で凝り固まった両肩を差し向けた。近くにいるとどうしても中身のない左袖が気にかかり何年たっても落ち着かない。他に使用人も雇わず私に身の回りの世話をさせるのは無くした腕のことを忘れさせないためだ。無言のうちに私に忘れるべからずと宣うのだ。
兵役についていたころから彼はちょくちょく私に肩を揉ませた。あのころより流石に細くなった体に年月を感じたが上官と部下の関係だけは変化が無い。
凝りもほぐれたであろう頃に手首をつかまれ、合図だなと察した。昔から個人的な命令は下手糞な人だった。私の顔を見ようともしない。
兵役時代にこの上官から同衾を望まれたときは嫌悪よりも打算が勝った。良家の三男で若くして高位についた眉目秀麗、謹厳実直な瀬尾梅太郎にも欲があるのかと驚いたことも事実だ。どこまでも真面目な上官は妻子の有無を聞き、腹に子を成した妻を残して来たと答えると私の肌に触れることは無かった。共に床に入って文字通り寝たのだつた。
先に床に就くと男は文机にもたれて私の顔をじっと見つめた。もうためらう理由はどこにもないし上下関係がはっきりしている現在も恐れることなど無いのに主人は私を求めることは無い。ただ同じ床に入って寝るだけだ。もう三十をいくつも過ぎた男を呼びつけて共に寝る理由はなんだろう、私も瀬尾を見つめ返す。
ふっと瀬尾の顔が緩んだ。
「おかしなやつだ。」
それは貴方もだと頭の中で言い返す。隊の中で私よりも若く見目の良いものなどいくらでもいた。それなのに茫洋とした年上の田舎男を選ぶとは変わった趣向としか言いようがない。
なかなか布団に入ってこない瀬尾を残して私はうつらうつらと夢の世界へ片足を入れた。やがて明かりが消え元上司は冷たい足をして入って来ると彼は俯せになり顔だけ私の方に向ける。そして私の呼吸が深いことを確認すると自分もまた眠りにつくのだった。私は薄眼を開けてそれを見ている。軍隊にいたころからもそれは変わらない。何かの呪いなのだろうかと思う。
幼かった真理を連れて途方に暮れていた私を見つけ出し、仕事をくれたことに感謝はしているがこの関係はいったい何だろう。もう軍の上官ではないのだから彼の言うことに従う必要はなかった。自分で生計を立てられると思った時点で出て行ってもよかった。それなのに自分がそれを実行に移せなかったのは腕のせいか?彼をだましたという罪悪感か?
瀬尾にせがまれて妻の写真を見せたことがあった。夫婦生活は私が軍に赴く前の2週間にすぎず、急ごしらえの婿は写真の中で村一番の美人を横に硬い表情をしている。
突然降って湧いてきた話だった。昔から綺麗な人だと思って眺めていた地主の娘が宣教師と通じて結婚が取りやめになったとそういう噂は聞いていたが、片言でアリガトウゴザイマスを繰り返していた人のよさそうな男と笑ったところを見たこともない白い肌の娘との逢瀬が現実味を帯びず忘れかけていたころ。私のところにも召集命令が来て親族の居ない私はぼんやりと自分で自分を送り出す準備をしていたころ。
「娘をもらってくれないか。」
口調こそ頼むという形だったが明らかに美しい娘をお前のような男にやるのだからありがたいと思えと言外に表した態度で地主が私の下宿屋に来たのだった。隣町の小さな金属加工場で働く私には結婚などという話は実感がなくあまりの地主の剣幕に否と言えないまま婿入りすることになった。
村の中で若い男はたいてい結婚していて、そうでないものは両親が健在なので宣教師のお手付きである娘は敬遠された。方々に頼んで最後に行きついたのが私だということを噂好きの人々から聞いた。前線に赴く男なら名誉の戦死で拍が付くし、たとえ帰って来たとしても村での身分が低ければ地主には逆らえないだろうという思惑もある。何よりも身重の娘がずっと未婚だと外聞が悪かったのだろう。
とんとん拍子に話は進み、あっという間に婚礼の日になった。地主の近しい家族以外は誰も呼ばれず形ばかりの式は半時間ほどで終わり後は宴会になった。赤くなって笑っている地主や親戚の前で借り物の衣装を着た婿は能面のような娘の顔を一度も見ることができなかった。白い着物の先から覗いた手先ばかり目に入る。
式が終わると女中の手によって私は花嫁とは違う部屋に通された。北向きの部屋でどことなく湿っていて暗い。あと2週間はここで暮らせと言うことらしい。娘に手を出すことは許さないという地主の気迫を感じた。
次の日から妻になった人と顔を合わせることはあったが最低限の会話しかしなかった。恋しい宣教師と引き離された女の憂鬱は私にも伝染し、こんなことならすぐにでも戦場へ向かいたかった。女はそれでも妻としての役目をこなし、徴兵に必要なものはすべて揃えてくれた。自分の給料では到底手に入らなかったろう品々を眺めながら女の心の中を推察した。もう二度と帰って来るなと思いながら針を進めるのはどういう気持ちなのだろう。
結婚から1週間ほど経った夜、枕元に女がいた。洗い髪を垂らして寝間着を着込んだ妻は青白く、唇だけがいやに赤い。驚きで口を動かすだけの私に女は抱いてくれと言った。
「あなたに悪いと思って。」
ゆっくりと着物を脱ぎにかかる女を押しとどめて、「できない。」となんとか絞り出したのはあまりの悲惨さからだった。傷物になったと他人から後ろ指をさされて、自分の体を体裁のためだけに存在する夫に差し出す女。
「じゃあ何の利益があって結婚を承諾したの。」
表情の乏しい女だったがその時だけは心底怪訝な顔をした。きめの細かい肌が目に痛い。
「自分でも何が何だか。」
そう答えると妻はやっと着物を正した。こんな調子で宣教師にも抱かれたのだろうか。私は恋人もなく商売女しか相手にしたことは無かったが今まで出会ったどんな人より綺麗で可哀そうだと思った。こんな男と結婚させられてしまった彼女が気の毒だった。
人に知られないうちにと彼女を部屋に帰してから布団に転がった。まだ妻の腹は膨らんでいないがあの中には宣教師との子が入っているのだろうか。生きて帰ったらその父親になるのだろうか、なんだか現実味のない話だった。
瀬尾に妻と子がいると言ったのはそうでもしないと求められるのではないかと危険を覚えたからだ。彼の性格からしてそんなことはなかっただろうが。確かにいることにはいるのだ。機械的に私を送り出した年上の儚げな妻、宣教師と作った子供。上官の小姓になればいろいろとお目こぼしもあり、軍隊生活が少し楽になる。しかし他の小姓が手を出された次の日も訓練に出て倒れ込むのを見ると抱かれるのは嫌だった。そもそも痛いことは嫌いだ。
今も私に手を出そうとしない彼だが被弾して切断した腕と共に性欲もどこかへ行ってしまったのか。そもそも抱く気が無いのか。純愛、という言葉が浮かんで頬がひきつった。少女ではあるまいし男が抱く欲望の類など知っている。彼にとって私は対象ではないだけだろう。同衾する理由は、わからない。
朝は早くに起きだす。瀬尾を起こさないようにそっと布団から起き上がるのはここ何年かの間に身に付けた技の一つだ。私はとりえのない男で、学も無かったが瀬尾の世話をすると決まった時に本家から女中頭や執事が来て一か月ほど炊事洗濯、植木の手入れ、窓の磨き方というような細部に至るまで仕込まれた。坊ちゃんを見すぼらしい姿にしたら承知しない、という彼らの意気込みを感じた。そのおかげで今ではなんとかこの広い屋敷の掃除や飯の煮炊きができるようになっている。なぜか瀬尾は私以外の者を厭い、本家の者たちでさえ最低限の世話しか許されない。隻腕を見せたくないのだろうか。私は着替えを手伝う度自分の犯した罪に向き合わされているというのに。
娘はもう大きくなったので私が夜中にいなくなっていても何も言わない。幼い頃は朝に帰ると涙で顔をべたべたに濡らして私が帰って来るのを待っていたものだが。可哀そうだとは思ったが主人の望みを断ることはできない。ふと、瀬尾は私に上官か娘か選ばそうとしていたのかもしれないと思う。あの高潔な瀬尾梅太郎がそんなことをするだろうか、いや私は本当に彼を知っているのだろうか。こんなことを何年もぐるぐると考え続けている。瀬尾が私たちを受け入れた理由、金髪碧眼の子供を見ても何も言わなかった理由、そして私に好きだと言った理由。
そうだ、瀬尾は確かにあの時好きだと口を動かした。私は耳を寄せていたのにその吐息のような囁きをなかったことにした。聞こえなかったふりをしたのだ。そして腕を撃たれた瀬尾を置き去りにした。密林の中に。
部隊はすでに敵の奇襲により散り散りになり、他の部隊と合流したものの衛生兵も食料を持っている者もおらず私と瀬尾、他の部隊の隊長、前田という兵士の4人は密林の中をあてどもなくさまよった。いつ敵が襲ってくるともしれぬ緊張と飢えや渇き、そして銃撃戦で負傷した瀬尾を抱えての進むのは至難の業だった。瀬尾は何度も隊長に「置いて行ってくれ」と懇願した。しかし、瀬尾の兄と同窓の隊長はそんなことはできるものかと断固として断ったのだった。不幸中の幸いだが、前田に看護の心得があり応急処置としては最善の手が尽くされていた。前田が毎晩瀬尾の看病をするのを私は傍らでずっと眺めているだけだった。しかし明らかに瀬尾は衰弱していった。日に日に剛健だった体は軽くなり息は荒くなる。そのころからか、人前でも私を見る目に熱が籠った。戦中のことだ、他の者は気が付かなかったろう。
瀬尾は死ぬのだと思った私はあろうことか彼を哀れんだ。夜は彼を抱きしめて寝、昼は口移しで僅かな食べ物や水を分け与えたのだ。瀬尾は聡い人間で、私のそんな心などわかっていただろうに物言わぬまま目は喜色を表した。
置いていかないなら皆の前で自害すると隊長を脅したとき、瀬尾は隊長の苦しみや悲哀を噛み砕き、喉に押し込んでいた。ここまで連れてきてくれてありがとう、となんとか絞り出したのだった。それが最後の言葉だった。私が耳を寄せて皆に伝えたのだ。最後の言葉になるはずだった。
「好きだ。」
瀬尾は私だけを見ていた。もう瞼を開いているのさえ力を使うだろうに、声など出したくはないだろうに。泥と垢で汚れた顔の中で瞳だけが美しく濡れていた。私はそのまま何も言わず彼を置き去りにしたのだった。瀬尾は死ぬのだと痛切に感じた。
あの日のことを思い出すと胸を掻きむしって自分の心臓を暴き出したくなる。瀬尾は純粋に私のことを好いていたのかもしれない。他の上官と違って手を出さないのは妻子のせいだけではなく私の胸の内を知っていたからだろう。私の方は自分のことがわからない。瀬尾とは打算で一緒にいた、上官だから逆らえなかった。ならばなぜ哀れんだのか、死ぬと思ったからか。自分はそこまで卑しい人間だったか。私は時折耐えられなくなる。瀬尾のような清い人間と一緒にいると自分の生来の薄汚さが目立つようだ。
私のことを父と呼ぶ碧眼の子供と都会の路地で乞食暮らしをしていたころ瀬尾と再会したとき、浮かんできたのは単純な喜びの言葉だけでは無かった。今思うと可笑しいが家に来いと言われて、私はついに瀬尾に抱かれるのだろうと思った。よく考えれば汚物まみれの貧相な男を誰が好き好んで抱くものか。私達は風呂と清潔な寝床と着るものを与えられ、温かな食事をふるまわれ、回復したころ屋敷の使用人という仕事まで与えてもらったのだ。
十数年、同じ屋根の下で暮らしたが真理がいなければどちらかが相手を殺していただろう。瀬尾はもう好きだなどと口にしないし、私の方も前の妻のように抱いてくれと布団に忍び込むこともない。この家にいれば娘は学校に通えるし屋根もあり人間の生活が営める。また打算だ。
ため息をつくと大気が揺れて娘が唸った。暗闇でも金髪は光るようできれいだな、と思う。気温は春めいてきているもののまだ明け方は寒い。娘のはねのけた掛布団を直してやると伸びやかな四肢が嫌でも目についた。宣教師は手足の長い男だった。
部隊でも祖父が外国人だという男に会ったが彼は日本人とほぼ変わらない見た目をしていた。日の光に当たると少し虹彩が薄いかなという程度で彼自身も助かった、と語った。祖父が黒髪だったということもあるだろうが傍目で父親もそうとわかるような容姿ではないという。不思議だった。彼女がここまで色濃く宣教師の血を受け継ぐとは。それでも目の形や鼻は僅かに梢子を感じさせた。母親の、あの幸薄な女の名前は梢子といった。ついぞ名前で呼ぶことは無かった。
ここ最近娘が手を離れたせいか昔のことに囚われる時間が長くなった。日常のふとした瞬間に昔置き去りにした男の弱弱しい息使いや、寝物語にぽつりぽつりと生い立ちを話した男の眼差しを、目を細めた男の柔らかく刻まれた皴を、思う。女の湿った肌や2週間暮らした重苦しい家を、アリガトウと底抜けに明るく素っ頓狂に言った男の顔を浮かべる。けして嫌なことばかりでは無かったこの十数年の中で沼に落ちるように考え込むのは瀬尾や女のことだった。
友達の道子さんが恋をしている。道子さんは学校で一番仲の良いお友達で、5人兄妹の末っ子だ。彼女の家に行くといつもお兄さんたちが各自の学友を連れてきているので騒がしい。
「鷹兄のお友達でね、森下さんっておっしゃるのよ。」
彼女はおっとりした話し方をする。早口の私とは違って。
「見たことあるわ。優しそうな方じゃない。」
鷹尾さんは道子さんより二つ年上で私にも気軽に声をかけてくれる良い人だ。その鷹尾さんのお友達なのだから悪い人なわけがない。今日は道子さんにそんな話を打ち明けられて、なんだか私もうきうきしてしまった。
「弁論大会があるっていうんで近頃よくお勉強しに来るの。」
道子さんはぽうっと頬を染めている。自分でもわかっているようで両手で顔を覆った。
「じゃあ今日もいらっしゃってるのね。」
「そうなのよ。真理ちゃん、今日絶対遊びに来てね。一人だったら私、どうしたらいいかわからないわ。」
道子さんの家は八百屋をしていて、父はいつもそこで私達の食料を買っている。八百屋さんは道子さんのお兄さん夫婦が継いでいる。私の父だと知れているので行くと何かしらおまけをしてくれるらしい。
「いいわよ。一回帰ってからね。」
絶対よ、と約束して私達は一目散に家に戻った。土曜日と言えど時間は限られている。瀬尾屋敷は山の奥にあるのですぐに帰らないと遊ぶ時間が少なくなってしまうのだ。山道を駆けあがるので私の足はすっかり鍛えられて速くなってしまった。
見つかると叱られるのでいつもはしないが、梅とお客様しか使わない道沿いの門から入った。靴を持って梅の部屋まで駆け上がる。
「梅、遊びに行ってくるから。今日は遅くなるわ。」
振り返った梅は私が髪を振り乱して息を切らしているのを見て声を上げて笑った。そして私を手で招いて髪を直してくれた。
「道子さんのところ。お夕飯までには戻るから。」
八百屋のみっちゃん、だな。と梅は言った。家から出ないのに私のおしゃべりに付き合うせいですっかり私の仲良しを覚えてしまっている。
「暗くならないうちに帰れよ。それか、亮司に迎えに行かせようか。」
私は首を振った。広いお屋敷をほぼ一人で管理している父は毎日忙しいのだ。
離れに戻って父に置手紙をして、服を着替えるとまた山を駆け下りた。今度は少しゆっくりと。汗臭い状態で道子さんの家にお邪魔するのは気が引ける。
速足で街への道に出てからはもうすぐ道子さんの家だ。八百屋、と大きく書かれた看板が見え、道子さんの義姉さんがお客さんに旬の野菜を勧めている。
「あら、真理ちゃん。こんにちは。」
道子さんのお家の人達は私が明らかに外国の血を引いていることも、瀬尾の屋敷に住んでいることについても何も言わず、頓着しない。初めて遊びに行った時も道子さんの家族は眉一つ動かさなかった。
お義姉さんに挨拶してから裏口に回って大きな声でみっちゃん、と呼ぶと軽い足音が聞こえて道子さんが二階から降りてくる。
「上がって上がって。」
お家に上がると私の周りには無い男の子の持ち込む独特の雰囲気がある。父も梅も男の子の時代があったのだろうが、今の二人からはなんの想像もつかなかった。
「もしかして、もういらしてるの?」
二階は三部屋あって、道子さんは鷹尾さんの隣の部屋を貰っている。廊下に上がると障子の向こうから男の子のざわめきが聞こえた。
道子さんは頷き、私を彼女の部屋に入れた。襖を開けるともう鷹尾さんの部屋に筒抜けになってしまうので滅多なことは言えないが、今は隣がうるさいのであまり気にしなくてよさそうだ。
「どんな感じの方なの?」
控えめに聞くと、彼女の顔はまた赤くなった。
「鷹兄とは全然違うの。ええと、数学の原口先生いらっしゃるでしょう。先生をもっと若くしたような。」
「ああ、ジェントル!」
数学の原口先生は定年に近いおじさんで、ほぼ白髪だが背筋が伸びていて、漫画に出てくる執事長に似ているのだ。何かの拍子にジェントルマンという単語を知ってから私達は彼をジェントル先生と呼んでいる。もちろん敬意を込めて。
「ジェントル先生の口調なのよ。優しいし。」
原口先生の優しさは姦しい女学生に対する諦めもあるのだろうが、若いのにあの丁寧な口調が使えるとは大した人だな、と私はなぜか上から目線で考えた。
「おい、道子。なんかお菓子持ってきてくれよ。」
鷹尾さんの大きな声が隣の部屋から聞こえて、同時に男の子の笑い声がした。いつもなら威勢よく言い返す道子さんだが、今日はしおらしくそれに従った。
「どうしたのよ。」
一緒に階下に降りて尋ねると、彼女は菓子の箱の中からああでもないこうでもないと饅頭や煎餅を放り出している。
「だって、あの部屋には森下さんがいるのよ!変なお菓子もってけないじゃない。」
道子さんはお目当てのクッキーを見つけ出してにこにこと皿に盛った。
「これ、お父さんが貰って来たの。真理ちゃんもどうぞ。」
実は変なお菓子と称された饅頭の方が私の好物だが、洋風の甘いお菓子も悪くない。私達はお湯が沸くまで数分階下でクッキーを摘まんだ。
「何人いるの?」
お茶碗がいくついるのかわからずに聞くと彼女も把握していなかった。そう広い部屋ではないのにいったい何人が詰まっているのか。とりあえず五つ茶碗を出して、私と道子さんはお盆を持って上に上がった。いつもなら「自分で行けばいいでしょう。」と道子さんが怒って、鷹尾さんが私達の分までお菓子を取ってきてくれる、というのが一連の流れなのだが。
緊張しきっている道子さんの代わりに私が障子を開けるとそこにはちょうど五人の男の子がいた。初めて私を見る人は大抵驚くが、彼らは鷹尾さんが言い含めてあったのか特に反応はなく、ありがとうと爽やかな挨拶をもらっただけだった。
「悪いなあ、真理ちゃんまで。」
鷹尾さんがにやにやしているところを見ると、どうやら妹の恋路はすでに察しているらしい。お菓子をくれというのは彼なりのサポートだったのかも。道子さんとはよく口喧嘩をしているが妹思いな一面もあるのだ。
「クッキーじゃないか。いやぁ、ホントに悪いな。一緒に喰ってくか、道子。」
前言撤回。面白がっているだけだ。
道子さんは全然滑らかではない動きでなんとかお茶をこぼさず丸机に並べてその真ん中にクッキーを置いた。
「良いんですか、じゃあお言葉に甘えて。」
道子さんの緊張が伝染して私はさっき食べたばかりなのにクッキーを我先にと手に取ってしまった。なんだか声もいつもより甲高かったような。
八畳の部屋に七人が座ると結構な狭さになってしまった。森下さんは涼しげな顔をした男の子で、もう男の人と呼んだ方が良さそうな風だ。あまりじろじろ見ても失礼なので他の人にも目線をやる。
窓枠に腰を下ろして足を片方だけぶらぶらさせているのが鷹尾さん、その左隣が森下さん、右は顔を見たことのある眼鏡の人、私の隣が初めて顔を見た人、道子さんの隣が体つきのしっかりとした眉毛の濃い人。
緊張している私達を他所に鷹尾さんたちは学校の話や政治の話に花を咲かせている。森下さんはあまりしゃべらないがしっかりと皆の話を聞いていて、ときおり穏やかに発言した。他の四人に比べて彼は声が低くてなんとなくジェントル先生の「皆さん、夏が近づいていますね。」という授業の開始と共に始まる時候の挨拶を思い出した。
鷹尾さんが気を使ったのか、私達も会話に混ぜてくれてお互いの話をした。私が瀬尾の屋敷に住んでいると言うと眼鏡の中村さんが梅の本を読んだことがある、と興奮気味に伝えてくれた。体格の良い畠山さんは瀬尾屋敷のある山に昔探検しに行ったことがあるとか。
「セミを探してましてね、あの山は虫の宝庫なんですよ。」
「そうそう、夏はいっぱい採れて、楽しいんですよ。」
私はすっかり嬉しくなってそう答えた。道子さんは誘っても虫取りには付き合ってくれなかった。
「いやあ、でも親に後から怒られました。あの山自体が瀬尾さんの持ち物だからって。」
隣の田代さんが感嘆の声を上げた。
「瀬尾のご子息はやっぱり庶民とは規模が違うなあ。」
山が梅の持ち物だなんて知らなかったし、私は瀬尾のことを良く知らない。梅も語ろうとしないし、父も教えてくれない。
「私、知らなかったわ。瀬尾の御家ってそんなにお金持ちなんですか。」
皆が口々に言うことには瀬尾家は公家の一族で、公家制度が無くなっても商才があったために没落しなかったのだという。戦前は反物を主に取り扱い、貿易ではかなりの利益を得ていたらしい。その証拠に日本各地にいくつも屋敷を立て、親族は慰安旅行に各地を訪れていた時代があった。戦後はそれでも一時事業が落ち込んだが、長男に才覚がありめきめきと戦前の勢いを取り戻し、いまや反物だけでなく日用品から医療関係まで手掛ける大企業なのだとか。
「長男が松太郎、商売の天才だね。次男が竹太郎、学者で今は大学の教授だったかな。三男が梅太郎、陸軍学校を首席で卒業した軍人だよ。」
森下さんが穏やかに教えてくれた。彼は物知りなのだ。道子さんは憧れの熱い眼差しで彼を眺めているけれど、私は瀬尾家のことで頭がいっぱいだった。昔梅に兄弟のことを聞いた時に嫌な顔をして「冗談みたいな名前で、冗談みたいな暮らしをしているやつらだ。」と答えたことが頭に浮かんだのだ。確かに、松竹梅は冗談が過ぎる。
戦争で腕を無くしたことは知っていたから兵士だとは思っていたけれどそんなに優秀な軍人だったとは。昔、片腕と胸に挟んで抱き上げてもらった時に意外と力が有るのだと驚いたが、今ではすっかり痩せてしまっている。
話は別のことに逸れたが私は瀬尾の屋敷のことを考えていた。一度も梅の兄弟が来たことは無く、来訪者と言えば編集者の青柳さんばかりだ。手紙が来ている様子もない。道子さんのお兄さんたちは皆仲が良さそうなのに、なんと違うことだろう。
そろそろ帰らなければいけない、と告げるとその場もお開きになった。私に合わせてしまって申し訳ない気はしたが、道子さんは胸が高鳴りすぎてもう限界だったから良かったと言ってくれた。家の方向が一緒だからと畠山さんが家まで送ってくれた。帰り道に畠山さんとおしゃべりをして道を行く。私はぼんやりと森下さんより畠山さんの方が良いなあと思ったが道子さんのような高ぶりはやって来なかった。私に恋はまだ早いようだ。
屋敷が見えたところで彼は引き換えし、私は家に着いた。今度は裏の木戸から入るとご飯の良い香りがしてくる。お腹が鳴って父が私に気が付いた。
「ただいま。今日のご飯は?」
真理がここ数日なにか聞きたそうな顔をしている。母親のことだろうか、自分の容姿のことだろうか。幼いころは母親という存在を知らず、街に出ると母子連れを見て不思議そうな顔をしていたものだが、感じ取ったのか尋ねてくることは無かった。容姿については「なんで真理だけ皆と違うの。」と何度も言うので世界にはいろんな髪の色の人がいるんだよ。たまたま日本は黒い髪と瞳が多いだけで、とわけのわからない言い訳を聞かせているうちにこれも尋ねなくなった。これが良かったのか悪かったのか判断できないほど当時の私は子育てに余裕が無かった。
「お父さん。」
ついに夕食の後、瀬尾の部屋から帰ってきて彼女は口を開いた。
「梅の兄弟ってどうしてここに来ないの?」
聞いても良い部分と悪い部分の線引きを大人の顔色から読み取る聞き分けの良い子供に育ってしまっていた。真理の中で微妙な線だったために数日迷っていたらしい。
「旦那様、だよ。」
「仲が悪いのかな。」
ずいぶん彼女に助けられて生活してきた。しかし真理ももう大きくなり、いろんなことを噛み砕けるようになってきていた。だが流石に兄達が隻腕の弟を疎んで山奥の別荘に押し込んだとは言えない。
「さあ。でも時々瀬尾家から荷物が届くよ。」
これは本当だ。送り主は兄弟ではなく瀬尾の世話をしていた使用人頭で、体が心配だからと送って来る高級食品だが。
「知らなかった。あの美味しいお肉は梅の実家からだったのね。」
滋養強壮のための高級な牛肉は少し分けてもらって私達も口にしている。まあそんなことは向こうも承知しているだろう。だから時折成人男性向きとは思えない菓子やら玩具が入っているのだ。
「旦那様のことを詮索してはいけないよ。」
わかった、と真理は頷いたがどうなのか腹の中は読めない。このところずいぶん大人びて、ふとした瞬間に物憂げな表情を浮かべるようになった。真理にいつ出生のことを打ち明けようか、どうしようかと迷っている。いつ打ち明けるのが良いのかずっと考えてきた。口下手な私が誤解なく真理の母親のことを言葉にすることができるだろうか。
復員し、故郷に帰ると妻は内縁の夫と家庭を築いていた。まさか帰って来るとは思わなかったのだろう、驚いた顔をして私を迎え入れた。体が弱く出兵しなかったという若い男と妻の間には、夫婦というより戦中を生き延びるためにとりあえず得た戦友のような雰囲気があった。妻の腹は大きく成っており、腹に子供がいることは一目瞭然だった。
歩くのもおぼつかない年頃の子供が私のもとに駆けてきてお父さんと呼んだ時、梢子はそのように教えたのだなと何の感情も湧かずにただそう思った。目立たせないためか子供の頭には手拭いが巻いてあるがほつれて出てきた髪の色は淡く、虹彩は薄かった。宣教師も同じような色合いの髪の毛だった。
義父と義母は戦中に亡くなっていた。一人娘のために家と財産を残していたために食うものには困っていないらしく、慎ましく暮らす分には夫婦と子供一人飢えることもなかったようだった。子供が戦中を生き延びたことに私は安堵していた。自分とは何者か確認するためだけに妻との写真を持ち込んでいたが、戦地でその腹の中にいた子供に思いをはせる日もあったのだ。
内縁の夫は私に対して卑屈に自分は兵隊として国のために働けなかった軟弱者なのだと繰り返したが、食うや食わずの時代に地主の娘に取り入った男の強かさは追い詰められた人間の能力のような気がして悪いことだとは思わなかった。元々、妻とは何の関係もないのだ。私に彼を咎められるような激しい感情は無い。
子供は父親が戻ったと聞かされてただ嬉しそうだった。舌足らずに真理と名乗り、人見知りもせず懐いてくる。梢子や男に邪険にされている様子もないが、二人とも真理にはどう応じればいいのかわからない様子で、何かしら複雑な心の内が真理への態度として現れているのだと察した。
一か月ほど傷を癒し、郷里で過ごしたが寺へ捨てられていた子供だったために親族もいない。妻は家庭があり、私よりは情の通った夫もいる。ずっと里で暮らすという選択肢は私の中には無かった。都会では仕事があると聞くので行こうかと思う、と梢子に打ち明けた。意外に若い男と私と梢子は上手くやっていたがそれでも子供も産まれると言うのにこのまま暮らすのも気が引けた。
真理を連れて行こうと思ったのは思い切り親に甘えられない彼女の悲哀を感じ取ったからだ。いや、それは今までずっと村中をたらい回しにされて育った自分の環境と彼女を勝手に重ね合わせたせいかもしれなかったが。義理の父親と子供に心を開けない母親との間で真理は突然やって来た父と名乗る男に異常に懐いた。どこに行くにも付いてきて、姿が見えないと泣き出すほどになった。今思えば元地主の家は村の中で浮いていて、それは真理の本当の父親のことが理由だったのだろう。人もほとんど尋ねてこず、真理は部屋の中にいるように諭されていた。妻も村人からの視線に耐えかねていたのかもしれない。真理を連れて都会に行く、と言った時妻と夫は明らかに安堵していた。
「あなたには本当に申し訳ないことをしました。」
妻だった女は陰鬱な表情は以前よりずっと深くなっており、出発しようと言う日の前日にそう頭を下げた。無理な結婚だったことか、内縁の夫を持ったことか、子供を預けることについてか、そのすべてについてなのか、彼女は深々と頭を下げたのだった。
子供に関心が無いかのように見えた妻だったがそれでも真理の旅支度は完璧に済ませ、お父さんの言うことをよく聞いてなどと声をかけているのを見るとこれで本当に良かったのかと疑問も浮かんだ。真理の方も母親の微妙な心境を感じ取ってかべたべたと甘えることはしないが聞き分け良く返事をしている。
いくばくかの金を受け取り見送られて都会への列車に乗った。結局どこへ行っても職はなく、路上で生活する羽目になったがその時ですら真理は泣かなかった。列車で転寝して目覚めた時に一言「お母さんは。」と尋ねたが自分で解決したのかそのまま寝入って後は何も言わなかった。今でも彼女の中に母の記憶があるのかどうか尋ねたことは無い。私もなんと切り出したらよいのかわからずにいる。
自分勝手に子供を連れ出したことを後悔した日々もあったがいつのまにか彼女が私の支えになっていた。今更連れてこなければよかったなどと思うことは無いがいつか本当のことを言わねばならないのだ。瀬尾にも何も告げていないこの話をいつか。
真理が宿題を終えて寝ついたのを確認してから私はいつものように夜の見回りに行く。屋敷は広いので鍵をかけておく場所がたくさんあるのだ。最後に瀬尾の部屋を見ると光が漏れている。まだ仕事をしているのだろう。
「旦那様、お先に休ませていただきます。」
声をかけると入れと促され、室内に足を踏み入れると原稿用紙がそこら中に散らばっていた。とりあえず拾い集めて彼の傍に置く。
「明日青柳が来るんだ。」
編集者の青柳さんは瀬尾に物おじせず小言を言える唯一の人間だ。私より少し年上で、兵役時代は生意気だとよく殴られたと明るく話すなかなかの傑物だ。
「進んでいますか。」
あと少しだ、と瀬尾は言いため息をついた。
「子供を産むっていうのは大変な仕事なんだな。」
こんな軽口を叩くのは完成間近だからだろう。本当に苦しい時は彼はまったく言葉を発せず眉間に皴を寄せている。
「今度はどんなお話なのですか。」
こういう時は話しながらの方が瀬尾の気分が良くなることを私は経験から知っていた。話したくないときは私を部屋に招き入れることがまずないからだ。
「男が部屋に閉じ込められていて、なぜこんなことになったのかずっと考えるんだ。出口は無くて、窓もない。腹も減らないが眠気も来ない。罪を犯しているんだが男自身は気が付いていないから、ずっと考え続けるしかない。」
瀬尾の書く話を私も読んでいる。昔から演劇や小説が好きな人だった。寝物語に彼の好きな小説のあらすじを聞くせいで私は彼の趣味趣向を大体把握している。彼の書く小説にもそれは大いに繁栄されていて、読んでいて主人公が自分のようにも、瀬尾のようにも思える。時折届く彼への読者からの手紙にも似たようなことが書いてあるらしいので皆感じることは同じなのだろうが。
「俺はまだ書くからお前はそこにいろ。」
そこ、と差した先は私が敷いておいた布団で、久しぶりに同衾を求められているのだった。はっきりと布団にいろと告げられるのは珍しい。彼はきっと執筆中の熱に浮かされているのだろう。
布団の近くで正座をしていると、入って楽にしていろと言われたので眠気に任せて言われたとおりにする。うつらうつらしていると耳に瀬尾の万年筆の音が心地よい。何時間たったのかわからないが、電気が消えて瀬尾が布団に滑り込んでくる気配で目が覚めた。彼の足先はとても冷たい。
「次は若い女の話を書こうと思う。一五とか一六くらいの。」
真理くらいの年齢だな、と思う。
「あいつのお陰で俺は変わった。前ならこんなこと思いつきもしなかった。」
片腕が延びてきて私の手を握った。瀬尾の手は二つ分の働きをするせいで固く分厚い。私達は天井を眺めて手を握り合っている。この行為を拒まないのは雇われている身だからだ。罪悪感が手伝っているせいだ。顔を少し傾けて瀬尾を横目で見ると彼はまだ執筆の興奮が冷めていないようで目はしっかりと見開いている。
「真理が嫁に行ったら俺は寂しいよ。」
私は頬が緩んだ。あの仏頂面の瀬尾が、冷血と恐れられていた男が口にする台詞ではなかった。確かに瀬尾は変わったのだ。瀬尾はちらりと私が笑っているのを見た。彼の唇も弓なりに持ち上がっている。
瀬尾と私はとても近しいのだ、と感じた。今この瞬間は確かに二人とも同じことを考えていて、長く一緒に暮らすうちに私はいつの間にか瀬尾に罪悪感や雇用関係とは無縁の情を見出しているのかもしれないと悟った。
鷹尾さんを通して私と道子さんは森下さん達と仲良くなった。道子さんはだいぶ打ち解けて素が出せるようになったが森下さんを見つめる視線の熱量は変わらない。私はというとお転婆が過ぎて弟ができたようだと口々に言われる。
父や梅には彼等がどんな人達なのかとても聞かれる。心配しているのだと思うが恋をしているのは私ではなく道子さんなので心配するようなことは何もないのだ。
道子さんからお祭りに誘われて、彼女の口調から森下さんも来るのかもしれないなと思った。
「鷹兄が一緒に行くってい言っていたの。町内の広場でやるからきっと会えるはずなのよね。」
道子さんはどの浴衣を着ていくか本気で悩んでいる。私に選んでほしいと言われたが彼女はかわいらしい顔立ちなので何でも似合うと思う。私には金魚柄と花柄ど格子柄とどれがいいかなんてわからなかった。
「男の人に聞いた方が良いわよ。」
森下さんは男の人なのだからという私の無責任な発言で道子さんのお兄さんたちは呼び出され、一人ずつどれが良いか発言させられることになった。彼等は妹に甘いのだ。大学に行っている二番目のお兄さんを抜かして三人が集まったが見事に一人ずつ違う柄を指さし、道子さんは頭を抱えている。
「そうだ。父さんと梅に聞いてきてあげる。明日学校で教えるわね。」
道子さんのお父様のどれでも似合うよ、という言葉は無視され私が大役を仰せつかることになった。私はわくわくして家に帰る。
「、というわけなの。お父さんは何の柄が好き?」
父はおかしそうな顔をしている。
「若い娘さんの浴衣の柄を選ぶのが父さんでいいのかい。」
「大変な問題なのよ。大人の男の人の意見も重要だと思うわ。」
二人でちゃぶ台を囲んで食事をしながら開け放った障子から小さな中庭を見る。中庭の雑草は綺麗に抜かれれており、これは私の日ごろの努力の賜物なのだ。
「金魚が好きかな。」
もしこれで梅の意見と違っても二つには絞ることができる。あとは道子さんが決めればよいはずだ。
「あくまで参考意見ってことにしといてくれよ。その森下君が何が好きかなんてわからないからね。」
話は私が浴衣を着ていくか行かないかに移った。去年からぐんと背が伸びたので以前の浴衣はもう似合わないだろう、というのが父の意見だった。
「私、洋服で行きたい。だってきっと今年も背が伸びるわ。」
「確かにそうかもしれないね。お前は直に父さんの身長も越してしまうよ。」
父は眩しい顔で私を見た。小さい頃はあんなに大きいと思っていた父だが今では平均身長くらいなのだとわかる。まさか、と笑ったが本当にそうなりそうで怖い。普段務めて考えないようにしている血のことについて思ってしまうのだ。この国の肌とは違った肌色、髪色、虹彩に加えて身長まで。私はどこから来たのだろう。聞けばきっと答えてくれるはずだ。今ならばきっと。
「梅のところに行くわね。」
結局何も言えなかった。髪色をからかわれた言い返し、嫌悪されたら無視して生きて来た。言いがかりをつけてくる奴らと喧嘩して帰ってきたら梅が褒めてくれた。怖いものなんかないのに父の私を見る目が影を持つと、私は何も言えなくなる。
「それでね、梅は何の柄が好き?」
本を書き上げたという梅は珍しく机に向かっておらず、だらしなく寝転がってぼうっとしていた。私が行くと起き上がって伸びをした。茶菓子を頬張りながら梅も父と同じくおかしそうな顔をした。
「おいおい、そんな決め方でいいのか。」
「一意見として、よ。別に浴衣の柄良し悪しで森下さんがみっちゃんを好きになるわけじゃないもの。それくらい私にもわかってるわ。」
よくわかってるじゃないか、と揶揄われた。こういうとき梅は父よりぐっと若く見える。
「いいから、どれがいいと思う?」
「金魚だな。俺は金魚が好きだから。」
父と同じだったがなんとなく言いそびれた。
「梅は好きな人がいたことある?」
あまり詮索するなと言われていたことを易々と破ってしまった。なぜか梅の表情は固まり、呆けたように目は中空を彷徨った。
「あるよ。」
怒ったり悲しいという顔では無かったので安堵して私は質問を重ねる。
「私はよくわからないわ。恋ってなんなの?どうなってしまうの?」
梅は私を見たが感情が読み取れない。
「相手の幸福を願うようになる。損得関係なく、ただ幸せであってほしいと願うんだよ。」
瞳が逸れたとき直感的に今梅は誰かのことを考えているのだと思った。一般論でなく、彼の経験を語っているのだとわかった。そしてそれはもしかすると今も続いているのかもしれない。私はそんな風に人を思える梅や道子さんのことが羨ましくなった。恋をする彼等の顔は驚くほど無垢だから。
「もしお前にそういう相手ができたら教えろよ。どんなやつか見極めてやる。」
いつもの梅の顔になって彼は言う。恋とはまだ私には遠い。いつかすることがあったら梅に一番に教えるだろう。
道子さんに父と梅の意見を伝えるとありがたがって、結局金魚柄にすると言った。
「森下さんって大人びていらっしゃるでしょう。だから、お父様や旦那様のような方のご意見って貴重だと思うのよ。」
金魚が大人っぽいかどうかはともかくとしてあんなに悩んでいた浴衣がすんなりと決まったことに安堵した。
町内会の広場の前で待ち合わせをして、私と道子さんは連れ立って会場に行った。私は一張羅のスカートとシャツ、道子さんは青地に赤や黄色の金魚が良く映える浴衣で、髪をきれいに括り上げて簪を刺していた。簪は金魚玉やお花が付いて洒落ている。少しお化粧もしているのかもしれない、真ん丸の目がいつもより更に大きく見える。
「とっても可愛いわよ。」
彼女は照れて頬を染めた。
町内会の広場には露店が出ていて、お面屋から始まり、飴屋や焼き鳥屋、射的など様々で見ているだけでも楽しい。りんご飴を買ってこいと梅からお金を渡されている。息を吸い込むと人の汗のにおい、食べ物の匂いがして、夏だなと思った。梅と父も来ればよかったのに。
鷹尾さん達もいることにはいたが、肝心の森下さんの姿が見えない。
「今日は森下さんはいらっしゃらないんですか?」
無邪気を装って私が尋ねると鷹尾さんはばつのわるそうな表情で一度家に帰ったと言った。他の人達が口々に道子さんを褒めているとき、私はちょんと鷹尾さんに肩をつつかれた。
「森下さ、もしかすると許嫁がいるかも。」
「どういうことですか?」
「小耳に挟んだんだよ。噂だけど。」
道子さんが振り返ったので私達は慌てて離れる。こんなにかわいい彼女を悲しませたくないと心から思った。道子さんは私が屋敷に越してきてから初めてできたお友達なのだ。買い物に行く父に付いて八百屋に行ったとき彼女と出会った。その時はまだ道子さんのご両親が八百屋さんをやっていて、ちょうど娘が同じ年頃だからと街での買い物の間お家で遊ばせてくれたのだった。
鷹尾さんと私が変な顔をしていたせいか道子さんは怪訝な表情を浮かべたが、すぐ屋台のタコ焼きに惹かれたのか私を誘って屋台をめぐることになった。男の子達は射的に夢中になっている。食べ物を買い込んで休憩所で分け合っていると、道子さんが遠くに森下さんを発見したと言う。
なんとなく胸騒ぎはしたものの道子さんを追いかけて彼女の向かう方向へ私は歩いた。彼女の歩みはゆっくりになったかと思うと遂には止まってしまった。視線の先には紺色の浴衣を着た森下さんと、お人形のように美しい女性が並んでいた。女性は森下さんより少し年嵩に見え、藤色の浴衣がよく似合っていた。ほっそりした体は今にも折れてしまいそうで、柳腰という言葉が頭に浮かぶ。その女性は森下さんの浴衣の裾をちょいっと引っ張って綿あめ屋に二人で向かってしまった。笑顔が艶やかだった。
道子さんの顔を覗き込むと蒼白になっている。自力では動かない彼女の腕を取って屋台の喧騒から離れた神社の石段に座らせた。震えているようにも見える。道子さんの手を握ったまま、私はどうすることもできなかった。
「真理ちゃん。私解ってたの。」
しばらく経ってから聞こえたのは静かな声だった。
「あんな素敵な人が私みたいなちんちくりんに構うわけないわ。」
泣いてしまったのは私の方だった。こんなにかわいくて、心まで美しいのにどうして上手くいかないんだろう。私は道子さんの体に手をまわしてぎゅっと抱きしめた。
「ありがとうね。」
彼女は強く優しかった。
「私、森下さんを好きになったこと後悔なんてしないわ。」
何かを心に決めた女性はこんなにも強くあれるのかと私は驚いた。年齢など関係なく、経験が人を育てるのだと知った。私は彼女よりずっと幼いのだろう。
お祭りの間中私達は石段で一言もしゃべらずに手を握り合っていた。恋をしたことの無い私だが道子さんを通じて胸の痛みを追体験した。彼女の瞳はまっすぐ前を向き、清々しい美しさを持っていた。ふと梅が好きな人について語った時の瞳を思い出す。私に向けるのとは違う、何かの感情に満ちたあの眼。
「それでどうなったんだい。」
興奮冷めやらぬ様子の娘は帰って来て早々に私を捕まえて主人の部屋に誘った。どうしても二人に聞いてほしいと言うので瀬尾の了解をとってからの話だ。道子さんが森下君と美女を発見し、神社に逃げたところまで聞いた。
「その後鷹尾さんが呼びに来て、私達森下さんと合流したのね。」
真理は帰宅後すぐに水をがぶ飲みしてなんだか収まりがつかない顔をしていたのだった。
「結局その美女は森下さんのお姉さんだったのよ!」
道子さんは元気を取り戻し、お姉さんと意気投合までしたらしい。
「あんなに泣いてしまったのに…。よく見れば確かにお顔がそっくりだったのよね…。私達ってなんて早とちりでそそっかしいのかしら…。」
真理は恥ずかしいやら唖然とするやらで頭の中が忙しかったと言う。
「お姉さん素敵な人だったわ。病気がちでなかなかお外に出られなくて、最近ようやく治ってきたからお祭りに出て行きたくなったって言っていて。細くて白くて…。」
今度は森下君のお姉さんに心を奪われている。目まぐるしく変わる真理の表情がおもしろい。
「許嫁がいるっていう噂はなんだったんだ。」
瀬尾は若い娘の話題に飽きることなく目に喜色を含んで聞いている。次作の話の種になりそうだと思っているのかもしれない。
「それはね、お姉さんに結婚をお約束した人がいるっていうことだったのよ。噂が噂を呼んで変なことになったのね。」
道子さんと真理はお姉さんの結婚の話に大いに興味を示し、その話で盛り上がったそうだ。
「そうそう、そのお姉さんの婚約相手が瀬尾家とご縁があるって言ってたわ。」
娘は何気なく口にしたが私はちらりと主人の顔を窺った。表情は動いていないがほぼ離縁されたと同然な生家の話など聞きたくないだろう。
「梅の従兄弟のお子さんだっていう話よ?」
「あまり交流が無いからわからんな。」
彼女は瀬尾のそっけない返事にそうなの、と軽く返してお姉さんの話に戻った。慶事があったとしても彼には知らされない。戦争で目立った功績を出さずに負傷して帰ったことが瀬尾の父の怒りに触れたと使用人頭から聞いた。ひどい話だ、戦争の功績など殺しのひけらかしに過ぎないのに。
「本当はもうすぐにでも結婚されるはずだったけれど、お姉さんのお身体のことを考えて先延ばしになっていたんですって。でももう調子も良くなっているしそろそろ結婚の話が持ち上がってくるはずだってとっても嬉しそうだったのよ。」
結婚という未知のものへの憧れが真理の頬を上気させていた。幸せな結婚生活とは無縁だった私にとってはあまりにかけ離れていて普通の結婚生活の想像もつかない。
「五つ年上のハンサムで真面目な方なんですって。お姉さんすごく嬉しそうだった。」
顔も知らない女性の幸せな気分が真理から移って自然と心が温かくなる。こんな風に感じるのも真理がいるからだ。
「金魚の評判はどうだった?」
私も瀬尾も薦めた金魚の浴衣はきちんと役目を果たしたそうだ。
「森下さん、かわいいって褒めてくださったのよ。」
「真理のことは誰も褒めなかったのか。」
「私は普通の洋服だし、主役じゃないもの。」
瀬尾もずいぶん柔らかい顔をするようになった。二人でいると肝心なことを何も言い出せずに息を詰まらせている男二人が、一人の少女によって作り替えられていくのが愉快だ。
「お前が一番かわいいのになあ。」
瀬尾は真理の頭をわしゃわしゃと掻き撫でた。すぐそうやって揶揄うんだから、と真理は怒っているがこれは瀬尾の本心なのだと私は知っている。ふざけた様にしか表に出ないだけで彼は心からこの子供を愛している。父親として頼りない私の分まで愛してくれている。
話が尽きたたので真理と共に立ち上がって出ていこうとする私を瀬尾が引き留めた。真理だけ先に帰らせて、私は瀬尾の正面に座した。
「お前は案外顔に出やすいな。」
私と話す時に彼は仏頂面になる。目線も合わない。
「本家の話は禁句じゃない。いつかお前にも話そうと思っていたんだ。」
真理が話しているときに私が横目で窺ったのに気が付いていたらしい。昔から勘の良い人だった。
「俺はもともと本家じゃ鼻つまみ者だった。兄達とは年が離れていて話が合わないし、俺を産んだせいで母が死んだから嫌われていた。」
瀬尾の表情は自嘲に満ちていた。
「父のやり方とは合わなくて、それでも認めてもらうために軍人になった。時代のせいもあったがな。最初は喜んでくれたし父の口添えで軍の高官についた。」
彼は優秀な軍人だった。他の指揮官とは違って自らも律していたし、内地でさえ酒もたばこも女遊びもしなかったと噂で聞いたことがある。
「だが銃弾の前で位が何の意味を持つ?俺は大勢の人間を殺したし大勢死んでいくのを見た。あの戦地で俺は父のことを考えていた。」
瀬尾は多くを語らない男だった。それは戦中もこの屋敷に来てからも同じだった。その瀬尾が絞り出すように何かを語りだそうとしている。今日こそが過去と対面しなければならない日なのだろうか。
「自分に歯向かうものを徹底的に痛めつける人だった。圧倒的な力で組み伏せて言うことを聞かせる、そういう生き方をしている人だしそれを俺達にも求めていた。」
額に手をやり、彼は淡々と父親像を語った。
「瀬尾の一族を背負って立つにはそうせざるを得ないのだと俺も分かってはいたよ。しかしどうしても心の奥底で父を拒絶する自分がいた。だが同時に俺は父の望む人間に成りたいとも思っていたんだ。」
その矛盾を抱えた不安定な思いが瀬尾を今でも捉えて離さないのだと私は察した。
「兄のように商売の才があるわけでも、飛びぬけて勉学ができるわけでもない。だが父に俺が存在していると言うことを知らしめたかった。父のやり方とは違う方法で。」
男は今の今まで心情を吐露することをしてこなかった。何十年も一緒に暮らしてようやく何か一つ彼の枷が外れたのだろう。変わっていく、変えられていくことの不思議を思った。
「結局失敗したがな。戦地から帰った俺に父は何も言わなかった。会いにも来なかった。確かに俺の隊の戦績としては惨敗だったからな。しかも腕を無くした。戦ってのことならまだよかったのかもしれないが敗れて退去する途中だったから父は俺を見限ったんだ。」
「あなたは私を庇って銃弾を受けた…。」
銃撃戦の最中、どこから飛んでくるともわからない銃弾を避けながら歩みを進めた。急に後ろにいた瀬尾が私を突き飛ばし弾を受けた。鮮血が数滴、私の顔にかかった。
「お前が先に死ぬのだけは耐えられなかったんだよ。」
置き去りにしたこと、情けをかけたこと、それから私の代わりに瀬尾が弾を受けたこと。それ等の全てが私の腹の中にあって瀬尾から離れられない。それなのにこの男はいとも簡単に純粋な愛を語るのだ。
「療養中に兄が来てな。どこから聞いたのか、隊の男を囲っていたのかと尋ねられた。俺は嘘を付けない。」
それもまた家を出されたことの原因なのだろうか。
「これでよかったんだ。父はもう振り向かないし俺も父の陰に怯えることは無い。」
彼はそれ以上私達のことについて踏み込まず、生家とはもうなんの柵も無いのだと語った。
「高堂だけはまだ俺を気にかけてくれるがあれもそろそろ年だし隠居するかもしれないな。」
瀬尾の世話をすると決まった時に使用人頭の高堂翁は私に梅太郎様を頼みましたよ、と鋭い目線で言ったのだった。ひょっとすると幼いころの彼にとって父親代わりの男だったのかもしれない。
「瀬尾の本家のこと、もし真理が聞きたがるようだったらお前の口から話してやってくれ。あいつもいろいろと知りたがる年頃だし、隠すこともないだろ。」
真理の素性のことについても言っているのだと分かった。いつか瀬尾にも話さなければならない。真理に話すことと瀬尾に話すことのどちらを恐れているのか私にはわからなくなっていた。本当の父親ではないことを明かすのに躊躇っているのか、愛してもいない女の写真で瀬尾の気持ちを遮ったことか。
「俺達は真理に隠していることが多すぎるな。」
瀬尾は顔を上げてふふっと笑い声を漏らした。それは初めて彼が私達の関係性について踏み込んできた瞬間で、顔は笑っているが心の中では戦々恐々としている様子を受け取った。私もぎこちなく微笑みを返した。お互いに決定的なことは何も話さずに同じ屋根の下に居続けたのは奇跡だったがここにきてガタが来ていた。綱渡りのような感情の中で相手が口火を切るのを双方で待ち構えていたのだ。
瀬尾の部屋から逃げるようにして離れに帰宅し、娘の寝顔を見るとようやく気持ちが安らいだ。真理がここまで大きく育ったのは間違いなく瀬尾のお陰だ。しかし罪悪感や恩や上下関係が無かったとして、私は瀬尾の傍に居続けたろうか。純粋に好意を向けてくる相手に対して情けをかけた自分は対等な愛情を放棄したのだ。今まで瀬尾のように人を愛したことがあったか、と自分を振り返る。
人に気兼ねしながら生きた幼少期、他の子供が学校に通うのを横目に働いていた日々を思い出しても何も良い思い出が無い。感情を殺し、何も考えないように生きていた人間にとって瀬尾の行動は不可解だった。いっそ戦地で慰み者として扱ってくれた方が気が楽だった。人権がすれすれまで地に落ちたあの場所でなぜか瀬尾梅太郎は私を対等に扱った。あの時はそれが救いだったが今となってはゆるゆると首を絞められている感覚に近い。
罪を背負い秘密を背負い、私は淡々と主人に仕えることしかできない。こんな男を好きになった瀬尾はどこかおかしいのだと思った。出会ったころから更に年を重ねてもなお瀬尾が私を思っているのがわかる。今更離れることなど考えることもできないがため込んで腐りきった感情がついに噴き出してきそうな感覚に陥り頭を抱えた。瀬尾も私もお互いの距離を測りかねて逃げに逃げて十数年、娘のお陰でなんとか主従関係を崩さずに十数年。気が狂ってる。




