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■ 一時の休息 ■
はあはあ、と、荒い息遣いが響く。
薄暗い路地裏。入り組んだここには不要物が積み上げられ、人が通るようにはされていなかった。しかし私たちにはむしろ天国であり、誰も来ないならばとそこに飛び込んで現在。
カラオケ店の店員を振り切って、二人で路地裏に座り込んでいた。
「……八潮、八潮……」
ぎゅうっと手を握ると、八潮もゆっくりと握り返してくれる。
怖かった。殺されると、本気で思った。
何で。何でこんなことになったんだろう。どうして私がこんな目にあうのか。
「八潮ッ……!」
「うん。僕はここに居るよ」
縋るように握った手に、八潮はもう一方の手を重ねる。
「大丈夫。僕はちゃんと、真潮の側に居るから」
ゆっくりと頭を撫でられて、ささくれ立っていた気持ちも少しずつ落ち着いてくる。
深呼吸をして、八潮の温もりを感じて、ゆっくり――。
「……八潮、どうしてこんなことになったの?」
ようやく落ち着いた頃、やけに冷静な彼に問いかければ、八潮は困ったように笑うだけだった。
「ねえ、八潮は何が起きてるか知ってるんでしょ?」
どうして教えてくれないの。
責めるように見上げて問いただすけれど、やはり八潮は視線を落とすだけで答えはくれなかった。
――どうして。八潮は私の味方だって言ってくれたのに。
「……真潮、そんな顔しないで」
「じゃあ教えて。どうして私は狙われてるの」
「……真潮、」
「何で教えてくれないの? 八潮は私の味方なんでしょ? 嘘だったの?」
「嘘じゃない。それは絶対に、嘘じゃないよ」
「なら教えてよ、どうして教えてくれないの?」
今度は何かを考えるように、八潮はぎゅっと眉を寄せた。
苦しそうな表情で、唇を噛む。
「……何が起きてるか、知ってるよ。どうして真潮が狙われてるのかも。……でもね、僕は真潮と離れたくないんだ」
「……どういうこと?」
事情を話すと、私は八潮とお別れになるの?
「……真潮を守りたい。真潮を安心させたい。真潮の側に居たい。その一心で、この十七年を生きてきた。真潮と話せるのは喜びだった。真潮と笑い合えるのは感動だった。共に歩けるのは……泣きたくなるほどの歓喜だった。……だから終わらせたくなくて……だけどそれは、真潮の望むところではないんだ」
「……八潮?」
「だって今も、真潮は怖がってる。この世界に怯えてる。僕が与えたい安心なんて微塵もない。分かってるんだ。全部僕のエゴだって」
怯えるのは、理由も分からず自分の命が狙われているからだ。隣に八潮が居てくれてるから、私はまだ落ち着いていられる。
「……八潮、泣かないで」
「……どうしてそう思うの?」
悲しげに眉を垂れて見せられた笑顔は、なぜだか消え入りそうで不安になった。
先程までとは逆に、今度は私が八潮を撫でる。すると彼は気持ちよさそうに目を閉じて、甘える仕草で擦り寄ってきた。
「……真潮。一つだけ言えるのはね、この世界は怖くないってことだよ」
小さく言われたその言葉の意味を、私はまったく理解できなかった。
■ 繋がる記憶 ■
路地裏でしばらくゆっくりとしていたけれど、このままここにいるわけにはいかない。ここには食料も温かな布団もなく、それ以前に雨風すらもしのげないのだ。
「八潮……これからどこに行くの?」
「……遠いところだよ。誰も僕たちを知らないところ」
「そこなら、私は大丈夫なの?」
問いかけに、こくりと頷きが返ってきた。
ということはこれから駅に向かうのだろうか。しかし何も持っていない。お金も何もないのに、どうやって電車に乗るのだろう。
「私、お金持ってないよ」
「うん。さっき家に戻ったとき、持ってきた。……真潮、隣の県に親しい人は居る?」
「え、えと……居ない、居ないよ」
「そっか」
行こう、とゆっくりと歩き出す八潮に、私は必死について歩いた。
自然と繋がれた手は優しく、私に安堵を与えてくれる。
昔から、何があっても八潮だけは私の味方だった。
「……あ、ねえ八潮見て、猫」
壁際に丸くなって寝ているのは、まだ小さな灰色の猫だ。それになんとなく癒されて八潮に言ってみると、彼もどこか柔らかな目でそちらを見つめた。
「本当だ。子猫だね」
「うん。気持ちよさそうに寝てるね」
ほっこりとした気持ちになっていると、八潮にくいっと手を引かれる。
そうだ、私は逃げないといけないのだ。
少し前を歩く八潮について、私もゆっくりと足を踏み出す。
見慣れた街を抜けると、遠くに見えるのはついこの間改装されたという最寄駅だ。街からほんの少し離れているから、この街の人たちはなかなか不便そうにしている。
「そういえば私さ、小学校に入る前、小さな猫を拾ったんだよ」
思うままに言えば、八潮の足はどうしてかぴたりと止まった。
「八潮?」
「……でも真潮の家は、猫飼ってないだろ?」
「……あ、そうだね、うん……でも確かに拾ったんだけどなあ……」
確かに、小学校一年の春、雨にうたれていた子猫を連れて帰った記憶はあるのに……。
そういえば、その後はどうなったんだっけ。
考えているうちに駅に着き、八潮が切符を買うために私の側を離れた。するとそれと同時くらいに、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。
(……お兄ちゃんが探してるのかな……)
だけど事件も何もなく、兄の私情の独断でサイレンを鳴らしながら車を出すなんてできないはずだ。
そう考えると、ただ偶然どこかで事件が起きているだけのような気もしてくる。
兄ではないのだろう、と思い直し、安心してその場で八潮を待っていた。
「真潮、こっち、早く行こう」
八潮は戻ってきた途端に、私の手を引いてホームへと向かう。歩みだす一瞬前、八潮は近づいてくるサイレンの音の方を睨みつけたかと思えば、その綺麗な唇を噛み締めていた。それがなんだか悲しそうな表情にも見えて、私の胸も痛む。
八潮は何を知ってるんだろう。
どうして私には何も教えてくれないのだろう。
私が殺されそうになっている理由を、八潮は知ってると言った。
なのに、どうして。
ホームにはポツポツと人が立っているだけで、混雑は全くしていなかった。そんな風景に溶け込むと、私たちは一番奥まで突き進み、立ち止まって電車を待つ。
八潮は何も言わない。ただ私の手を握って、痛いくらいに強く握りしめて、前を見据えて立っていた。
八潮の真っ白な肌に、色素の薄い髪の毛が揺れては、影を落とす。眼鏡の奥に潜むその目は大きく、少しつっているのも私は知っているし、そこにある瞳の色が薄い灰色であることも、それを隠すために眼鏡をしていることも知っている。
綺麗な八潮。
どうして隠すのかと聞いた時でさえ、八潮はひょうひょうと「僕は真潮の側に居られたらいいから」と言ってのけた。他の人間には興味がない、と言っていた時期もある。
彼はどうして私に依存しているのか。
私はただの平凡な女で、ただの幼馴染というだけの存在なのに。
時折その灰色の瞳に、恋情などではない、まるで宝物に向けるような、大切なモノに向けるような、そんな慈愛に満ちた色を浮かべる事がある。
いつからかは明確には分からないけれど、物心ついた頃にはすでにそうなっていた。
彼には両親が居ないから、一緒に居た人間に対してそうなるのだろうか。
思いながらも再びその横顔を見上げるけれど、やっぱり答えなんか見つからなかった。