4.
「ただいま」
玄関の扉を開け、言ってみた。
普段なら父も母も帰宅時間は遅い。ずっと遅い。
問題は弟のイチロウだ。
イチロウは二つ下の中学一年生で、帰宅時間は僕より早いこともあれば遅いこともあった。
なるべくなら、名も知らぬ少女を家に連れ込んだなんて知られたくない。
耳を澄ます……家に人の気配は無かった。
僕は、スニーカーを脱いで玄関の三和土から廊下へ上がり、振り返ってツナギ服の少女に「むさ苦しい家ですが、まあ、どうぞ」言った。
「おじゃまします」言いながら少女は後ろ手に玄関のドアを閉め、軍手を脱いでポケットに入れ、三和土に片膝をついて編み上げのブーツの紐を緩めた。
キッチン兼ダイニング彼女を招き入れ、椅子を勧めて座らせ、何か食べ物は無いかと冷蔵庫を開けた。
卵に、牛乳、お茶のペットボトル、ビール、チューブからし、チューブにんにく、瓶入りの豆板醤、味噌、醤油……冷凍室には、レトルトの餃子、シュウマイ。
二個入りパックの大福餅があった。一つは既に食べられていた。
(確か、昨日イチロウのやつが食べてたな……)
学校帰りに小遣いで買って来たのだろう。残り一個は今日まで取って置いたのか。
電気炊飯器の蓋を開けると内釜が外されてた。
内釜は水を張って流しの隅に置かれていた。
僕は振り返って少女を見た。彼女は、いつも食事のときに僕が座る場所に座って、ジッと僕を見つめていた。
あわてて目をそらした。
……どうする?
ここは、弟の大福餅を無断で借用するか?
どうしても我慢できずに僕が食べてしまったことにして、あとで弁償すれば良いか?
しかし食べ物の恨みは恐ろしい。
特に、冷蔵庫に大事に保管してあった甘味を他の家族に食べられてしまった時の怒りは、想像を絶する。経験上これは間違いない。
……どうする? ……どうする?
「ぐうぅー」
その時、彼女のお腹がもう一度鳴った。
僕は決断した。
イチロウ、ごめん。
あとで倍返しするから許して。
「あの、大福餅しかないんだけど……それでも良かったら食べます?」
「はい。ぜひ。ありがとうございます」
俺は覚悟を決めた。
二個入り大福餅の片割れを冷蔵庫から出して小皿に移し、彼女の前に置いた。
「どうぞ……冷蔵庫に入ってたから、多少硬くなってると思うけど、我慢してください」
「ありがとうございます」
彼女の唇が、白い大福をパクッと噛んだ。
餅を噛み切ったあと、小さな顎が小さく何回か動いた。顎が動いているあいだ唇は閉じたままだった。
閉じた唇に大福の打ち粉が少し付いているように見えた。
口の中の餅が、喉から胃へ落ちたのが分かった。
また、彼女の唇が大福をパクッと噛んだ。
小さな顎が小さく動くあいだ、少しの打ち粉の付いた閉じたままの唇を僕はジッと見つめた。
僕は少女のあの唇を触りたいと思った。
ふるふるとした感じのあのピンク色を指で触りたい舌で触りたい自分の唇で触りたいと思った。
大福を食べ終わると、少女はツナギ服の左胸ポケットを右手で開けて白いハンカチを出し、唇と指先に付いた少しの打ち粉を拭い、また左胸のポケットにしまった。
「ごちそうさまでした」
少女が僕に向かって手を合わせ、軽くお辞儀をした。
「いえ……どういたしまして……あの、お茶、どうですか?」
「どうぞ、お構いなく」
「僕も飲みたいから」
「それなら……ありがとう。頂きます」
僕は電気ポットの中身を入れ替え、台座にセットしてスイッチを押した。
湯が沸くまでの間に、お茶の缶を出して葉を急須に入れた。
葉を入れてから、しまった、急須を温めて置くべきだったと後悔した。
湯呑みを二つ出して、沸いた電気ポットの湯を注ぎ、急須にも注いだ。
湯呑みが充分温まったのを確認して湯を捨て、急須から茶を注いだ。
「どうぞ」
一つを少女の前に置き、もう一つの湯呑みを右手に持ったまま、テーブルの相向かいに座った。
あらためて真正面から少女を見た。
少女は目を伏せ、お茶を飲んだ。
自分も茶をすすりながら、僕は茶碗を持つ彼女の指を見つめた。
「あの……」
少女が茶碗をテーブルに置いて、目を伏せたまま言った。
「願い事を一つ、どうぞ」
「は?」
「何かご馳走して頂けたら、私も願い事を叶えるという約束です」
「本当に、何でも良いんですか?」
「どうぞ」
「じゃ……じゃあ……」
僕は、もう一度、彼女の唇をジッと見た。
「キ……ス」
「無理です」
「え?」
「それは、無理です」
「え?」
「無理です」
「え? ……いや、だって、さっき『何でも叶える』って」
「そうは言いましたが……やはり、物事には『相場』というものがあると思うのです」
「はぁ」
「極端に相場を逸脱した要求は、相手に対する礼儀という面から見ても、いかがなものかと」
「はぁ」
「どうか誤解なさらずに……未来永劫、あなたの願いが叶えられない、その可能性は無い……と、言っている訳ではありません」
「可能性は有るんですか?」
「有るとも言ってません」
「どっちなんですか?」
「有るかも知れないし、無いかも知れない。それは、あなた次第」
「……」
何なんだ。この不可思議な押し問答は……
まあ、とにかく『キスは無理』だ、という事だ。その強い意志だけは伝わった。
「じゃ、じゃあ、別の願いなら叶えてくれるんですか?」
「何でも」
(……何でも……つったって、お前いま断ったじゃねぇかよ……何でも叶えてくれないじゃねぇかよ)
と、ちょっと荒れた気分になりかけたけど、ここは心を落ち着かせ頭を働かせる時だと自分を抑制した。
(『何でも良い』と言っても、それを文字通りに受け取ってはいけないんだ。何でも良いけど、何でも良くないってことだ。彼女が良いと思うものなら何でも良いってことなんだ。きっとこれは挑戦だ。彼女が良いと思うものを見つけてみろ、という挑戦だ)
……考えろ……
……考えろ……
「あの……」僕は冷めてしまったお茶を一気に飲み干して言った。
「はい」彼女が目を上げて僕を見た。
「あの……じゃ、じゃあ、名前を、教えて頂けませんか? お互い、名前を教え合うくらいなら……」
「ええ。それなら」
「ぼ、僕はジクウイン・フジロウと言います」
「私は……私の名は……」
「……名は?」
「人工機械第二号」
「はぁ?」
「人工機械第二号です」
「……」
その時、玄関のドアを開け閉めする音がして、弟の「ただいま」という声が聞こえた。
やばい。
無断で弟の大福を彼女に上げてしまった事がバレる。弟が帰って来る前にコンビニで買って補填しておこうと思ったのに……
「兄ちゃん、玄関に軍用みたいな靴があったけど、あれ何なん……うわっ!」
キッチン・ダイニングに入って来るなり、弟が大きな声を上げた。
「に、兄ちゃんが家に彼女連れてきたっ!」