幸せ者の遺書
新米刑事の村山は、その手に持った数枚の紙を封筒に入れ、遺書を書くために使われた筆の横に置いた。
現場はまさに地獄絵図と言った様子で、二人の被害者の形相は、何かに恐れ慄き、もがき苦しみながら逝ったように見える。
一人は体の至る所を引き裂かれていて、その傷口は明らかにいたぶる事を目的としたものだ。
もう一人は喉元を刃物で大きくえぐりとられ、何かを訴えるような、救いを求めるような表情で死んでいる。
どう見ても快楽殺人犯の殺害現場のようだ。
だが、遺書の内容が事実だと仮定すると、この現場は大きな別の哀れみを醸し出すのだ。
村山は二つの死体を横目に見ながら、一本の電話をかけた。
そして、同僚が到着するまでの間、再び遺書の内容を頭で整理して思い返すのであった。
「わたくしがいったい何者で、いったいどういった経歴を持った者かということは、この遺書にて描く価値のないことでございます。
なので、わたくしがこうして死の間際にて遺書を書くに至り、皆様にお伝えしたいと考えた事を率直に申し上げたいと思います。
まず、わたくしは幸せ者でございました。
わたくしは、生涯不自由を感じたことはありませんでした。
しかし、わたくしは経済的成功者でもなければ、財産家の孫でもありません。
むしろ、わたくしは一般的には不幸と言われる生まれでありました。
生まれた頃から父はおらず、体の弱い母に育てられました。
体の弱い母は、他人の助けを必要とするその体質のせいか、心をもまた弱くし、とうとう良くない男に執着し、彼に見捨てられる事を恐れ、言いなりになってしまいました。
その頃からわたくしの生活は、見も知らぬ男と、その男に操られる母との、息苦しい生活でありました。
時にはその男からの暴力を受けました。
そしてそのような時、必ず母はその男の味方でした。
このような生活にありながら、何故わたくしが自らを幸せ者だと言うことが出来るのかとお思いになるでしょう。
わたくしは、ただただ何事にも幸せを感じることができたのです。
早起きした朝の鳥のさえずりを聴き、紅き化粧を施した山々を臨み、ジリジリと照りつける太陽の熱さを感じ、それはもう無数の幸せをわたくしは感じていました。
今思えば、それはわたくしの一つの才だったのでありましょう。
要するに、わたくしは、人よりも不幸な身の上にありながら、人よりも幸せを感じていたのでこざいます。
さて、何故わたくしが幸せ者であるという事を述べたかと言いますと、それがこの遺書を書くに至った、あなた方への警告の発端となるからでございます。
わたくしは、わたくしが幸せだという事を信じて止みませんでした。
それは事実、わたくしは自身に起こっている不幸よりも、幸せの方を大きく感じていたのですから、嘘ではございません。
少なくとも、その時は真実だったのでございます。
今ここに結論を述べさせていただくと、そのわたくしの真実は脆くも崩れ去ったのでございます。
とある時、母を言いなりにしている男が、酷く酒に酔い普段よりも怒りを大きく露わにした日がございました。
母は、それは酷く痛めつけられ、わたくしもまた少なからず傷つけられていました。
母は、しくしくと、悲しげに涙を流しておりました。
そして、男はその泣き声を聴き、更に激昂するのでございます。
余りにも酷く痛めつけられる母を見て、私はとうとういてもたってもいられなくなり、母を庇い、男を跳ね除けたのでございます。
男は、初めての抵抗に一瞬呆けたようになり、何が起こったのかわからないと言うふうでした。
わたくしは、この時になってようやく、男に抵抗すると言う事を覚えました。
それがもう少し早ければ、今こうして遺書を書くには至らなかったのかもしれませんが、過ぎたことでございます。
わたくしの行動は、結果としてただ男を更に怒らせただけでございました。
そして、男は酔ったその眼でわたくしを睨み付け、空の酒瓶を振りかぶったのでございます。
ふらつく男の振りかぶった酒瓶は、大きな音を立てて壁にぶつかり、衝撃でよろめいた男は、そのまま割れた切っ先を母の首元に突き刺したのでございます。
母のそばにいた私は、母の首元から噴き出した温かい血を全身に受けました。
そして、母は声にならぬ気泡をコポコポと口から漏らし、動かなくなりました。
わたくしは、もはや何もわからなくなっていました。
ただ、わたくしはその時、母を失ったことで、悲しみという感情を知ってしまったのでございます。
男は、母の死体を何処かへ持ち去りました。その後私に口止めをしました。
わたくしは、男の言葉にはほとんど耳を傾けてはいませんでした。
わたくしの頭の中はとある事実でいっぱいだったのでございます。
先ほど、わたくしの信じていた真実は崩れ去ったと申し上げましたが、正しくは、新しい真実で塗り替えられたのでございます。
わたくしは、自分が幸せだと信じておりましたが、ただ、悲しみという感情を知らなかっただけなのです。
そして、わたくしは過去の記憶を辿ると、その幸せなはずの記憶は、新たに知ってしまった悲しみに満ち溢れているのでございます。
わたくしは絶望しました。
いきなり、大海に放り出されたような感覚でございました。
20年の幸せな記憶が、いきなり20年の絶望へと様変わりしていました。
わたくしの精神は、もはや崩壊したと言って良いくらいのものでございました。
しかし、ただただわたくしの中にこびりついた見知らぬ激情が、わたくしの精神を辛うじて繋ぎ止めていました。
わたくしは、周到な用意のもと、男をこの部屋に連れ込み、意識のない状態で縛り上げる事に成功いたしました。
その後に何をしたかは背後を振り返っていただければご理解いただけると存じ上げます。
こうしてわたくしは母を失った悲しみさえも、恨みを晴らすという形で失ってしまいました。
わたくしは空虚でした。
ですが、20年の絶望だけがわたくしの中にいつまでも残り続けているのでございます。
わたくしは恐れおののきました。
記憶というものは、常に不安定なものなのでございます。
記憶とは、その時々で表情を変えます。
それはその記憶を辿る時の自身の感覚で、幸せにも絶望にも変わるという事です。
幸せだと感じていたものが、ふと様変わりする瞬間があるのでございます。
そして、記憶は必ず、引き剥がすことができぬ枷のように脳裏にこびりつき、逃げることができないのでございます。
その枷は今のわたくしのように人を絶望に引きずり落とします。
わたくしは、死を決意いたしました。
母と同じ苦しみを味わいながら、母を追おうと思います。
しかし、この絶望をあなた方に知っていてもらいたかったのでございます。
願わくば、あなた方がこの絶望の枷にとらわれぬように、あの世で祈っております。」
検視官の一人は首を傾げた。
「刑事さん、この人、本当に自殺なんですかね。」
「まぁ、十中八九報復後の自殺だろうな。」
「でも、なんか違和感ありません?」
「...何がだ?」
「遺書の内容ですよ。」
「俺も何度か読んだが、特に気になることはなかったが。」
「いやー、僕もはっきりと何がおかしいってわかってるわけじゃないんですけどね。
でも、こんな恐ろしい顔で死んでいく人が、他人に忠告するためだけの遺書を書く余裕あったんですかねぇ?」
「まぁ、実際書いてあるんだからあったんじゃないのか。
もしかすると、書いているうちに更に恐ろしくなったのかもな。」
「そんなもんなんですかねぇ。
でも、ちょっと間抜けですよね。
殺人の用意を周到にしたのに、遺書は書いてくるんじゃなくて、書く道具だけ用意してるんですから。
...よくよく考えると不思議ですね。
この人、男を殺す前から死ぬつもりだったってことですよね。」
「...。」
「男を殺して自分も死ぬつもりで用意してきたのか...
男を殺す前から、絶望から逃れられないことがわかってたんですかね。
んー、そもそもこの死体は、空虚というよりむしろ楽しんで殺してるって言ってもいいくらい...」
「その辺にしとけ。
こっちが終わったら次は母親の遺体探しだ。
のんびり推理ごっこしてる暇はないぞ。」
「推理ごっこって。
結構いい線いってると思ったのになー。」
村山は現場を離れ、車に乗ってタバコに火をつけた。
しかし、遺書を書くタイミングか。盲点だった。
村山は、あの検視官は少し厄介だな、と思った。
読んでいただきありがとうございます。
初めて小説を書きましたが、何故か推理小説風という難易度の高いものを選んでしまいました。
ですが、個人的にはかなりの短編とはいえ一つの話としてまとまったことが嬉しく、よくできたと思います。
ちなみに、遺書の内容は少し私自身のメッセージがこもっていて、最初はただ遺書の部分だけを書くつもりでしたが、自然と前後のミステリー部分が出来てしまいました。
話がよくわからなかった方のために、ネタバラシをさせていただきます。
以下、ネタバラシ
まず、殺人犯は村山です。
最初のシーンでは、村山は刑事としてではなく殺人犯として現場におり、偽の遺書の用意が終わったところです。
村山は一般人のふりをして警察に110番通報をし、遺書に不審な点がないか思い返しています。
遺書の内容は村山の体験談ですが、村山は男への報復により快楽殺人犯として目覚めてしまいました。
検視官の指摘通り、遺書は被害者の物ではなく、村山が殺人を犯した後に用意した、自殺に見せかけるための罠です。
刑事モノや警察の技術などに詳しくないので、事件のトリックなどは単純で穴だらけだと思いますが、ご容赦ください。




