第二話(担当:水崎彩乃)
「そう、私にあなただけの呼び名を」
二つの月は少しの期待を込めてしずかを見つめる。
規則的に動く尻尾が地面をなでるのを見て考えながらしずかは少し眉を寄せた。
漆黒の毛並みに満月の瞳。まるで夜空のような…。
「シエル・ノクターン……」
「え?」
確か、フランス語で夜空はシエル・ノクターン。
しずかと同じストレートな黒髪を持つ、いかにも和風な雰囲気の彼女の母はその容姿とは反対にフランス語学に進んでいる。
一時期、家でやっていた仕事もフランス語関係のもので、幼かったしずかはその傍らで辞書を開いて遊んでいた。
その時にいろいろと教えてくれたことは覚えているのだが、残念なことに内容は少ししか記憶にない。
そんなおぼろげな記憶の中で奇跡的にこの単語は残っていた。正確さには欠けるがそれは考えてもしかたがない。
しかし、シエル・ノクターン。……、長いっ! どう短くしようか……。
「まあ、呼び名についてはそんなに焦ることないわ。とりあえず少し休ませてくれない? 道を開けて疲れたの」
そう言って、黒猫は口を大きく開けて欠伸をするとともにふかふかな草の上に丸まった。
そんな黒猫の隣に座って名前を考える。
シエル・ノクターン。短くするとして、三文字くらいがベストかも。
んー……、シエル。ちょっとそのまま過ぎるかな。
シエノ、ルノク、エタン、シクタ、……? 何かしっくりこないな。
――――シノン。シノン、シノン、シノン……しのん。
たぶん、おかしくないよね。しのん、……きっと大丈夫。
隣を見ると黒猫改めしのん――――まだ仮――――はすぴすぴと眠っている。
よほど疲れたのかしずかがふわふわの毛を撫でてみても気持ち良さそうに丸まったままだ。
その肌触りの良い毛から手を離すことができず、先ほどよりもゆっくりと辺りを見渡してみる。
日本に帰るには女王様の許可が必要。
そもそも女王様に許可を貰うにはどうすればいいんだろう。
やっぱり、あのお城に行って申請か何かをするのだろうか。
猫と一緒に落ちて来たと言って信じてもらえるのか。
「私、帰れるのかなぁ……」
一気に不安が押し寄せてきたしずかはつぶやいた。
隣の黒猫を見る。
この子のことは何も知らないけれど、協力してくれるという言葉を思い出して少しだけ不安が薄れた。
結局、しのんが起きたのは真っ青な空が茜色に染まる頃だった。
太陽はないのに空が茜になるのが不思議であるが、それは黒猫も同じで分からないらしい。
「ねえ、あなたの名前を考えてみたんだけど」
まず城へ行って、女王様の許可をもらうために城下町につながっている街道を進んでいる途中、前を歩く猫に声をかける。
「あら、そうなの? どんな呼び名かしら」
黒猫の尻尾が楽しげに揺れ、歩みが少しだけ軽やかになったように見えた。
「呼び名、というより名前なんだけど……。しのん、ってどうかな?」
なんせ名前をつけるなんて初めてで少し不安になってしまう。
茜色に染まった地面の上で揺れる前の影に目を落としながら返事を待った。
「しのん……。いい名じゃない」
耳をぴくぴくとさせて振り返ったしのんはその金の瞳でしずかを見つめて言う。
「ほんと!?」
「ええ」
そう柔らかく、金色こんじきの月は微笑んだ。
「ありがとう。こんなに……、嬉しいなんて思わなかったわ」
言葉を発して、再び歩き出す。
その少し後ろで小さく笑って小声で零した。
「……どういたしまして」
そして前の影を追いかける。
いつの間にか薄暗くなっていた空間に浮かぶ尻尾がゆらゆらと答えた気がした。
そのもう少し先に見えるのは大きな壁のように見える城壁。
今日は何だかいろいろあって疲れたはずなのに、少しも眠くない。
夜も歩いたら遅くとも明日には城下町につけるかな。
会えない家族や友人を思うとこの広い世界の中、ひとりぼっちになってしまったようで心細い。
しかし、すぐ前には闇に溶けそうで溶けない『夜空』がある。
――――ひとりじゃない。
そのことがすごく心強くて嬉しかった。
しずかは元の世界に帰るため、歩を進める。
まだまだ夜は長い。