第一話(担当:紫生サラ)
学校からの帰り道。
東藤しずかは交差点で信号待ちをしていた。
しずかの通う星ノ宮学園から最寄り駅である星宮駅に向かい、歩いて十分ほどのこの通りはもともと交通量が多い。
ここ最近で特に多い気がするのはこの先にショッピングモールができるからだ。
最大積載量ギリギリに資材を載せたトラックが行き来している。おかげで騒がしくて仕方がないが、そのおかげで便利になるせいかのか、苦情を言うものは一先ずいないようだ。
背中まで伸びるストレートな黒髪が、ダンプが通るたびに巻き起こる風にたなびかされる。少しもさわやかな気持ちにはならない。
横断歩道の前で立つ彼女から、凛とした印象を受けるのは弓道部に所属しているために妙に姿勢がいいせいかもしれない。
車の走り去る音を聞きながら、彼女は買ったばかり「竜人王国と純白の竜」に視線を落とし、細い指でページを捲る。買ったばかりの小説であるがすでに半分以上読んでしまっている。
ふと、通りが静かになった。
しずかは信号が青になったのかと思い、銀縁のメガネをかけた顔を上げて、歩き出そうとしたが信号はまだ赤だった。どうやら車の流れが一時的に途切れただけだったようだ。視界の隅に後続のダンプが走ってくるのが見えた。
「……?」
そのわずかな間隙を逃さないように一匹の黒猫がしずかの横を走り抜け、風のように通りに飛び出した。
「ちょっ!?」
飛び出した猫の視界には見えていなかったのだろう。通りに飛び出し、猫は初めてダンプの存在に気が付いた。予想外の出来事に猫は道の真ん中で竦み上がる。その姿はダンプの運転席からは死角になり、運転手は気がつかない。むしろ赤に変わろうとする信号に滑り込もうと加速する。
「あぶないっ!」
持っていた荷物をその場に投げ捨てると、しずかは無我夢中で駆け出していた。
飛び出した彼女には気が付いたのか、ダンプはけたたましいクラクションと怒声のようなブレーキ音を響かせた。その轟音は加速していたダンプを止めるほどの力はなく、猫が元いた場所をだいぶ通り過ぎた所でやっとその足を止めた。
「……ふぅ」
猫を抱きかかえ、通りの反対側にまで転がりこんでいた彼女は冷や汗を流しながら息をついた。
「全く、飛び出したらあぶないんだから」
「にゃあ~」
言葉が通じたのか、しずかの言葉に猫は一鳴きして返す。見れば慌てた様子でダンプの運転手が降りて来る。
その姿にしずかが立ち上がろうとした瞬間、緊張が解けたためかフラリと眩暈がした。バランスを取ろうと一歩、後ろに足をつこうとして踵を何かにひっかけた。
「きゃあっ!」
彼女は見事に後ろに転がった。
☆
「きゃああああああっ……っ、はあ、はあ……!?」
あまりに叫んでいる時間が長くて息が切れる。息が切れるほどに叫んでいたにも関わらず、しずかの落下は継続していた。
一応、もう一度叫んでみたが、やはり落下は終わらなかった。
ふと、今まで自分が落ちてきた方向を見上げたが、すでに入口は見えなくなっている。下も見てみたが出口の欠片も見えない。
周囲は、人為的にスコップで掘削したようなモロに土の見える内壁が延々と続く殺風景な風景。穴自体が拡張しているのか、体を伸ばしてもその内壁に触れることはできない。
もはや落下するしかないのだと彼女は早々に諦めた。それでもこの謎の穴が、全く光の差さない真っ暗な場所じゃなかったのは救いだった。
光苔の一種だと思われるものが群生し、穴の中を適度に照らしている。小説を読むには厳しいが漫画だったら余裕で読む事ができそうだ。
「この穴、何なんだろう?」
高校になってからこの辺りを二年も通ったにも関わらず、こんなに深い穴があるとは今まで知らなかった。しかも奥に行けば行くほど広がっている。この辺の地盤は大丈夫なのだろうかと少し不安になった。
「だいたい、こんなに深い穴があるのだったら、何かバリケード的なものがないとおかしいんじゃない?」と、しずかはプリプリと一人腹を立てたが今は意味のない事だと気がつき、考えるのをやめる事にした。
問題はそんなことじゃない。どこに落ちるかが問題なのだ。この勢いで落ちたらただでは済まない。それに……
「そうだ、それよりもさっき猫!」
抱いたまま転げ落ちてしまったが、その時の勢いで手を離してしまっていた。
せっかく助けたのだから、猫は穴に落ちていないといいけど……。
と、思っていると、しずかの少し離れた所で、落下しながら香箱座りで眠っていた。
「ええっ!? 一緒に落ちちゃってる!? しかも、ね、寝てる?」
眠っている猫を見ていると、何だか着地の事を心配しているのが馬鹿らしくなってくる。
そもそも落下時間が長かったためか、このこと自体にも飽きてきてしまった。流石に猫のように昼寝をする気にはなれないが。
何か暇つぶしは……。
「あっ!」
猫を助ける時に鞄と小説を置いて来てしまった。
ちょうどいい所だったのに……。
読みかけの「竜人王国と純白の竜」を読もうと思った事で同時に鞄の事も思いだした。
「あちゃあ、鞄、大丈夫かな……?」
教科書とノートしか入っていないはずだから問題はないはず。本がその場に放り出されている形になっているのが悔やまれる。
誰かが拾ってくれる事を祈るほかない。
あとでどこに取りに行ったらいいんだろ?
「うーん、交番? 学校? 学校だといいんだけどなぁ。そのままにされて雨に濡れたら嫌だな」
横断歩道で雨に濡れながら主の帰りを待つ鞄と小説の姿はどこか物悲しい。スマフォを入れておかなかった事が不幸中の幸いだった。
「そっか、スマフォがあれば……!」
昼休みに見かけた「オカルト研究同好会」というページの「動く人形」の続きを読むことができるではないか。黒の壁紙に赤い文字、アイコンがコウモリやドクロという如何わしい感じが、なんとも味がある。
しずか自身、オカルト的な体験は全くないし、そう言った事はあまり信じてはいないが、読み物として読むなら嫌いではない。
「発見者が多くなってきたのよねぇ。煽りっぽいけど、まあ、それはそれとして……」
鼻歌交じりで上着を探り、スマフォを取り出して操作してみると、当然の如く圏外だった。
「ああ、結構落ちたからかな……」
どれほど落下してしまっているのかわからないが、結構な深さにまで行ってしまっているようだ。
うーん。
しずかは落下した姿勢のまま考えた。
もし、スマフォの充電が切れでもしたら、使える場面になった時に動かなくなっていては大変だ。
「うわっ、っていうかよく見たら、もう十分も落ちてるじゃん!」
スマフォの時計を見て思わず声を上げた。
しずかの声に香箱に座っていた猫はうるさそうに体勢を変え、横寝になると空中で尻尾をパタパタと動かした。
いくら何でも落ちすぎだ。
しずかは物理の時間に、上空四千メートルからスカイダイビングをしても、フリーフォールの時間は僅かに五十秒、パラシュートを開いてから八分ほどで着地するという話を先生がしていたのを思い出した。それがあまりに印象的で、その時の授業の事はそれ以外に覚えていない。
それを考えると十分も落ちているのはいくら何でも落ちすぎである。
このままでは本当に地球の反対側にまで出てしまいかねない。
「って、ええっ!?」
気がつくと、今まで光苔のトンネルを落下していたはずが、その内壁はどこかに消えていた。まるで、星空に透明なトンネルでも通し、その中を飛んでいるかのように光は尾を引いて流れ、しずかのすぐそばを通り過ぎていく。しずかはただ呆気に取られ、その横で猫がまた寝返りを打った。
「な、何これ!?」
宇宙、ではない。呼吸ができる。かと言って、どう見ても、間違いなく穴ではない。落下しているだけで体の動きを自由にできないが、穴の内壁はおそらくなくなってしまっている。
しずかを支配していた落下特有の感覚もなく、今は何かに支えられるような浮遊感すら感じてしまう。
「な、何、何なの!?」
落ちているというよりは飛んでいる、とでも言った方がいいような感覚だ。
顔を上げると通路の先に微かに光が見えた。
その光の先が出口なのか、その奥を懸命に見ようとしたが、光はあまりに強く、暗さに慣れた瞳ではその先を見ることができない。
遠くに見えていた小さな光は、みるみる内に大きくなり、やがて、しずかや猫を飲み込むように膨張していった。
その光景に、忘れていた着地の恐怖心が急速に膨らんでいく。
この速度で、この高さで外に投げ出されたら!?
「きゃあああっ!」
どこから落ちる? どんな風に落ちる? どんな場所に落ちる? 下が水なら助かるかも!?
咄嗟に頭の中でそんな事を考えた。どこに落ちるにしろ、衝撃に備えなければならない。
しずかは本能的に頭を抱え、体を強張らせながら息を止めた。
次の瞬間!
「……あれ?」
しずかは座っていた。
ちょうど体育座りをするような形で頭を抱えていた。閉じられていた瞳をゆっくりと開け、止めていた息を吐き出した。
間違いなく落ちてきたはずなのに?
しずかは慎重に立ち上がると改めて自分の体を見た。どこも怪我はしていない。痛みがあるとか、制服が傷んでいるということもない。信じられない事だが、全くの無傷だ。
見上げると、空があった。真っ青な空で、穴のようなものは見受けられない。
「えっと……いや、うそ、確かに空は青いし明るいけど、もしかして、太陽がない?」
いや、いやいや……雲に隠れているだけかもしれないし……。それに今重要なのは太陽の有るなしじゃない。
「ここは一体どこなの!?」
わかる事はここがどこかの森だという事。
しずかが立つこの場所そのものは開けていると言っても、周囲には見上げてもその先端を見る事ができないほどの高さの木々が群生している。よく見れば、しずかが立っていた場所も地面に僅かに露出した巨石の上だった。
鳥の鳴き声、近くに川があるのか水の音も聞こえる。植物には特別詳しくないしずかだが、樹になる実や群生する花々を見ても自分の知っているものと少し違うような気がする。
もしかして日本じゃない?
穴は地球の反対側に突き抜けてしまったのだろうか? しかし、気候は日本の感覚に近い。もし反対側なら、気候が全然違うはずだ。
「えっと、日本の反対側は……?」
「やれやれ、やっと着いたみたいね」
「誰っ!?」
突然声がして、しずかは瞬間的に身構えた。声のする方に振り向いたが誰もいない。いるのは一緒に落下してきた伸びをしている黒猫が一匹。
「うーんっ、あら、どうしたの? そんな顔をして、命の恩人さん」
「……!?」
猫の口から発せられる耳を疑うような鳴き声にしずかは言葉を失った。
「えっ、あの、ね、猫がしゃべっているような気がするんだけど……?」
「ええ、そうね。しゃべっているわ」
「ええっ!?」
「さっきは車に弾かれそうな所を助けてくれてありがとう。感謝しているわ」
「う、うん……」
猫がペコリと頭を下げたので、しずかはつられて頭を下げる。
「って、何で猫がしゃべっているの? それにここは一体どこ?」
「ここはエレメンティア。そうね、陸と海の間にある世界、とでも言った所かしら?」
「陸と海?」
「魂の安息地と言う人もいるわね」
「魂の安息? 私、死んじゃったの?」
「ここは天国とかあの世ではないわよ。命の洗濯と言っても本当に命を取り出して洗濯はしないでしょう? 魂の安息地とはこの世界の別名よ。魂だけが来る場所というわけではないわ」
「……う、うん」
猫のクセに何を言っているのかよくわかんない。いや、猫の言っている事だから、わからなくてもいいんだけど……。
「で、その、私は何でここに?」
「あなたが転んだ時に、後ろに深い穴があったの。そこに落ちていたら、大変な事になっていたわ。だから、咄嗟に道を開けて、ここに来たってわけ」
猫は助けてくれた御礼にしずかを助けたのだと説明した。
「道を開けたって、じゃあ、あなたが私をここに連れてきたって事?」
「そう。まあ、緊急避難的にね」
「そ、そうなんだ……。一先ずありがとう」
お礼を言うと猫はまた頭を下げ「こちらこそ」と言った。
「で、ところで、帰るにはどうしたらいいの?」
しずかの言葉に猫は何かを誤魔化すように後ろ脚で首を掻く。
「ああぁ、実は簡単に帰る事ができないのよね」
「そ、それどういう事?」
「ちょっと来てもらえる?」
猫が歩き出したので、こんな所に一人にされてはたまらないと、猫の歩調に合わせてそのあとをついて行く。
森の中は見た事もなり花や植物が生い茂る。やはり日本ではないのだと納得するしかない。ときに茂みの陰などから頭に小さな角を生やしたウサギなどを見かけたが、どうやら、角があるからと言って、獰猛ということではないらしい。
「ねぇ、ここって、人とか住んでないの?」
「もちろん住んでいるわ。と言っても、人間そのもの数は地上ほどではないわね。固有文化を持つ種族の中では多い方だと思うけど」
「は、はあ、そうなんだ……えっと、それってどこに住んでいるの?」
「今いるこの国にも人は住んでいるわよ」
「国? 国もあるの!?」
「もちろんあるわ。少し地上とは発展の仕方が違うけどね」
エレメンティアには魔法や占い、予言、秘儀などの類のものが今も色濃く存在し、それらを主体とした発展をしているのだと猫は語る。
それは大気中に含まれる魔力の元となる物質、魔素が関連している。地上の何倍も濃度が高い魔素が生物の精神や生命力、意志、感情に作用するのだという。
猫と会話できているのも、それによるものだ。
「そうなんだ……」
俄かには信じがたい話ではあるが、実際に猫と話をしてしまっている以上、しずかは頷くほかない。他に人間がいるという事に安心感を覚えた。
「地上人は精神力や意志力が強いわ。その気になれば、簡単な魔法ぐらいすぐに使えるかもしれないわね」
「魔法って、火を出したりとかできるの?」
「火? そうね。必要ならやってみたら? 地上人のあなたなら、火を出す事を念じるよりも、速く走るとか、高く跳ぶとかの方が心に描きやすいんじゃないかいしら? もっとも、そんな事をすれば、魔法効率の関係ですぐ疲れてしまうことになると思うけど」
「魔法効率?」
「ええ、呪文、陣、触媒とかね、それらを単独で使ったり、重ねわせたりすると消耗が少ないらしいわ。人間っていう種族は研究熱心なのね。……ほら、あれを見て」
「うわぁ!」
しずかが案内された場所は森を抜けた高台のような場所だった。そこに立てば眼下に広がる広大な森林地帯が一望でき、その奥に荘厳に佇む中世ヨーロッパ風の巨大な純白の城と堅牢な城壁で囲まれた城下街が見えた。
「本当に街がある!」
ここからでは森の中から生えた城塞都市のように見えなくもないが、この高台を降りて行けば、街道だってあるはずだ。
あそこに行けば帰る事が出来るのであれば、今日中には無理だとしても、明日中には帰れるかもしれない。思わず顔を綻ばせるしずかに、猫は言葉を続ける。
「見てほしいのはそこではないわ。もっと奥を見てくれる?」
もっと奥?
猫に言われ視線をズラしていくと、およそ地上では見かけることがないであろうものがエレメンティアの景色を縦に分割すうように立っていた。
「何あれ!?」
「このアシの国の南の端に建つ、地上へと繋がる回廊。その名も天龍の回廊よ。アシでは南の端にあるあの塔だけが地上へと続いているの」
猫の話によれば、今いるアシの国の南には天龍の回廊という地上へと繋がる道が、北には別の異世界に繋がる地龍の回廊があるという。
そう言われて、しずかが振り返ると文字通り天をつくような建造物がもう一つ、北の方に見えた。
「このエレメンティアは地上世界と色々な異世界の中間の世界でもあるの」
ちょうど世界と世界を連結する鎖の輪のようなもの。ここを経由しないで、違う異世界に行く人は地龍の回廊をそのまま落下していくのだという。
「あそこを落ちる人が最近多いみたい。まあ、どこの異世界に行くのか、それはわからないんだけどね」
ここから見えるかぎりでも、地上から伸びた塔はエレメンティアの空の先で見えなくなってしまっている。この光景は、いくら何でも地上世界のどこにも存在しないものだ。
茫然と地龍の回廊を見つめていたしずかに猫はたしなめるように言う。
「もしも落ちたら帰るのが大変になるから、地龍の回廊には近づかないのが得策よ」
「な、なるほどね。つまり、目指すはあの天龍の回廊ってことね」
「ええ、でも、今の龍の回廊は厳重に管理されているわ。往来を許されている猫は別としても、人間は女王様の許可をもらわねばならないの」
「女王様の許可?」
「エレメンティアの種族が勝手に地上に出ないように管理しているの。昔、色々事件があったみたいでね」
「そ、そうなんだ……」
顔を洗いながら言う猫に、しずかはそう言葉を返すだけで精一杯だった。色々な事が一度におきて消化しきれていない。
ただ、確実にわかっている事は、帰るためには女王様の許可がいるという事、許可さえあれば、回廊を使い帰る事ができる、という事だ。しずかは一先ずそれだけを心にとめた。
あとは行動するしかない。
「と、ところで、協力はしてもらえる?」
おずおずと遠慮気味に猫に尋ねる。すると、猫は澄ましたような顔で鼻先を上げると「もちろん、必要とあらば」と尻尾を揺らした。
しずかはホッと安堵した。いくらなんでも、ここで、一人で動くのは厳しいものがある。この黒猫の存在は心強い。
「私は東藤しずか、しずかって呼んで、あなたの名前は?」
しずかが自己紹介すると、猫は耳をピクピクと動かし、少し考えてからこう答えた。
「そうね、じゃあ地上の流儀にならって、あなたに私の呼び名を決めてもらおうかしら?」
「私が呼び名を……?」