部屋の中
大家が一通り部屋の説明を終えて出ていく時、最後に見せた何とも言い難い表情がやけに私の脳裏に残っていた。苦虫を噛み潰したような、諦めと悲しみをたたえたような、私の貧相な語彙ではそんな言葉でしか彼の表情を形容し得なかったが、ともかく彼のその顔は、新生活に躍る私の心に一筋の暗い影を落としていた。何か言い残したことがあったのだろうか。それとも、この部屋の新たな入居者が私だったことを、あまり快く思っていないのだろうか。テレパシーの能力など持ち合わせていない私には無論彼の思うところを察することなど出来はしなかった。
これまで18年間ずっと東北の小さな町で暮らしてきた私が進学先に東京の大学を選んだのには、少なからず大都会への憧憬があったのは否めない。何もかもが目新しく、この街のすべてが輝いて見えた。地元の田舎ぶりに飽いていた私にとって、東京という街はまさしく宝箱のような存在だったと言ってもいいかもしれない。そんな私の心に唯一引っかかっていたのが先刻の大家の見せた顔だった。彼は一体何を訴えかけていたのか。いずれにせよそのことにあまりいい気はしなかったので、大学の新歓と重なったこともあり家にはあまり帰らず毎日遊び歩いていた。
新歓が一通り落ち着き、5月に入ったころのことだった。私は所属するハンドボールサークルの練習を終え、帰宅の途についていた。いつもならば練習の後には歓楽街へと繰り出し、しこたま飲んでから帰るのが常であったがその日はたまたま飲み会がなく、日付が変わる前に自宅へ戻ることができそうだった。
帰宅してすぐに気づいたのは、小さな水音だった。ドアを開けて、もはや習慣となっていた誰に言うでもないただいまをぽつりとつぶやいたところで耳にポタポタと雫の垂れる音が入ってきた。見れば、何のことはない、洗面台の蛇口がゆるまっていただけのことだった。今までにもこんなことは何度かあったし、別段気にも留めずに栓を締め直してその日は眠りについた。
しかし、翌日帰宅したときも水は垂れていた。昨夜のこともあり今朝家を出る時はきちんと締まっていることを確認したはずだ。蛇口のパッキン自体が駄目になっているのだろうか。おかしいなと首をかしげつつも、蛇口をまた締め直しておくだけにとどめた。先日のこともあり、修理の相談を大家にしに行くのがはばかられたからである。
案の定ではあったが、さらにその翌日になっても、水は止まらなかった。さすがに私も重い腰を上げ、大家の部屋へと向かった。チャイムを鳴らすと、拍子抜けするぐらいの早さで彼は姿を見せた。
「こんにちは。あの、部屋の水道の調子がおかしかったので修理の相談をと思ったのですが…」
「ああ、あれね。またか…」彼はそう言ってひとつため息をついた。
今、彼は「また」と言った。過去にも今回のようなことがあったということなのだろうか。だとしたら以前の住人が居た段階で修理がなされていてもおかしくはない。どういうことだ。
「あの、以前もこういったことはあったのでしょうか?」
「ああ、まあね…」
大家の返答はどうにも歯切れが悪い。なにか言いづらいことでもあるのか。ともかくその場で彼と話した結果、ちょうど全休になっている明日の午前中に水道会社の者が私の部屋に来ることとなった。
翌朝は休日の私にしては珍しく早起きをして業者を待った。業者はほどなくしてやってきて、点検と修理を開始し私はそれを傍らで見守った。
ものの10分もしないうちに彼らは作業を終え、私に告げた。
「蛇口の締まりが悪いとのことで点検させていただいたのですが、異常らしい異常は見つかりませんでした。一応蛇口の老朽化の可能性を考慮して新しいものに付け替えておきましたので、これでまた水が漏れるようでしたらこちらのサービスセンターまでお電話くださいませ」
「はあ、どうも…」
名刺を渡すと彼らは帰っていった。異常はなかったという彼らの言葉がどうにもひっかかった。異常がないはずであるのに水が漏れるとは何事だろうか。ともかく、新しい蛇口をつけてもらったのでこれでもうあのようなことはないはずだ。そう思い、私は午後から友人と遊びに出掛けた。
帰宅したのは夜の11時ほどであった。友人とカラオケで熱唱してきた疲れが私の足取りをいくぶん重いものにしていた。ドアを開けただいまを告げたところで、私は気づいた。
水音がする。
洗面台を見ると、また水が垂れていた。ピチョンピチョンと一定のリズムを保って、水は静かに滴り落ちていた。
業者は確かに「異常は見つからなかった」と言っていた。おまけに新しい蛇口にも取り換えたはずだ。なぜだ。頭の芯のところがスーッと冷えていくような、嫌な感じがした。この蛇口にしても、大家の態度にしても、なにかがおかしい。心臓が早鐘を打っていた。
その夜はカラオケの疲れにもかかわらずなかなか寝付けなかった。自分の家にいるのに安心ができない。一人暮らしにはよくあることなのかもしれないが、部屋の中に自分以外の何かがいるような気がしてならなかった。蛇口は怖くて締めることができなかった。水滴の音が一晩中私の耳の中でぐるぐると回っているような気さえして、結局徹夜の寝ぼけ眼で大学へ向かうこととなってしまった。その日の講義はすべて睡眠時間となったのは言うまでもない。
サークルの練習中も、そのことが気にかかっていた。おかげで出されたパスを取り損ねて顔面にもろにボールを喰らってしまい、先輩に注意力散漫だと釘をさされてしまうことになったが、そんなことはどうでもよかった。あの家に帰らねばならないことがどうしようもなく嫌だった。
練習のあとの飲み会が終わって、私は一人家へと向かった。足取りは重く、まだそれほど暑い季節でもないのにしきりと汗がシャツを湿らせた。部屋の鍵を開ける手が緊張で異様に冷たくなり、鍵がなかなかうまく差さらなかった。鍵をひねり、ようやくドアを開けたところで、私は気づいた。
風呂場の電気がついている。シャワーの流れる音がする。家を出たときは勿論そんなことはなかった。昼間この家には誰もいないのでシャワーを誰かが流すことなどありえない。なぜだ。何が起きている。どういうことだ。全身をぞわっとした寒気が駆け抜け、気が付けば私は全力で繁華街の方へと走っていた。とにかく人のいるところにいたかった。深夜のアパートの周りは街灯がポツポツとあるばかりで、暗い道に寂しげな白い光を落としていた。
駅前の繁華街はこの時間でも人通りは多少あり、少し落ち着くことができた。しかし、あれはいったいどういうことだったのだろう。私は朝シャワーを使った後きちんと止めて、電気も消したはずだ。蛇口がおかしいかと思ったら今度は風呂場か。あの家はどうなっている。
ともかく、水道代もばかにならないし水を止めねばならない。一人で戻るのが怖かった私は、友人に電話をし、ちょっと用事があると言って来てもらった。
「はあ?お前んちの水回りどうなってんだよ、さっさと業者にでも電話しろよ」私が一部始終を語って聞かせると友人はそう言って少し呆れたような笑みを浮かべた。いきなりこんな話をされては無理もない。私は彼に告げた。
「業者にはこの前、来てもらったんだ。でも異常はどこにもないって…」
「ふーん…。まあ仕方ない、とにかく見に行くか」
私たちは二人でアパートへと向かった。繁華街を抜けて横道に入ると人気もなくなり、暗闇と街灯の白光とのコントラストがスーッと続いていた。街灯に群がる蛾がアスファルトに落とす影のような、平素ならば他愛もないものが今の私には何かよくない未来を暗示しているように思えてならなかった。あたりはしんと静まり返っていて、私と友人の靴音のみがマンションの壁に反射してザッザッと響いていた。
部屋について、私がドアを開けるのをためらっていると、友人が私の震える手からあっさりと鍵を奪ってさっさと開けてしまった。なんのためらいもなく入ってゆく友人の後ろから私もこわごわ歩を進めた。
「おい、風呂の電気なんてついてないしシャワーも流れてねえじゃねーか」
「!」
彼の言うとおりだった。風呂の電気も、シャワーも、今朝家を出たときそのままで、先ほどの光景を微塵も想起させるものではなかった。私は自分の目が信じられず、思わず風呂場の扉を開け、電気をつけた。
電気をつけて見てみても、特に異常はないように思えた。いつもの風呂場であった。しかし、目を皿のようにして見ていた私は、ひとつ変なものを見つけた。
長い、真っ黒な女の髪の毛が一本落ちていた。普段この風呂場を使うのは私だけで、たまに友人を泊めたときに貸すことはあったがこんな髪の毛の持ち主を今までに泊めた記憶などない。
友人も私の視線から髪の毛に気づいたようで、私をからかってきた。
「なんだよお前、いつの間に彼女とお泊りデートなんかしたんだよ?俺にも今度彼女紹介しろよ、顔面偏差値採点してやっからさ。ハハハハ」
「違う。俺に彼女はいないし、この家にこんな髪の毛の女を泊めたことなんてない。まったく見覚えがないんだ」
「そんなこと言ったってここお前の家だぞ、お前が知ってなきゃおかしいだろ…」
「そうなんだよ。でも、本当に分からないんだ…」
これまで本気にしていなかった友人もさすがに怪訝な顔つきで、私たちの間には肌にまとわりつくような重く息苦しい沈黙が訪れた。まだそれほど暑い季節でもないのに私たちの鼻の頭には汗が光っていた。髪の毛はすぐに排水溝に流した。それをそこに置いておきたくなかった。
その日は時間も遅かったので、友人は私の家に泊まっていくことになった。自分で呼び出しておきながら床に毛布を敷いただけのところに彼を寝かせてそれをしり目にベッドを使うことには罪悪感を覚えたが、彼は別にいいと言って神妙な顔をしていた。
日付が変わっても、眠気は一向にやってきてはくれなかった。私と友人は、とりとめもない話をぶつぶつとしながら過ごしていた。そのときだった。
突然、シャワーの流れる音がし出した。ぎょっとして起き上がると、部屋と風呂場とを隔てている半透明のアクリル扉越しに、風呂の電気が点いているのが見えた。
私と友人は、起き上がった姿勢から動けなかった。歯の根が合わない。身体は凍り付いたように動きを止め、心臓は胸板を叩くが如く激しい拍動を刻んでいた。
数分すると、シャワーの音が止まった。響いていた水音が消え、私と友人の震える息遣いのみが部屋の中を支配していた。これまで鳴っていた得体のしれない音がなくなり私たちの発する音だけが存在するということが、私たちを少し落ち着けた。風呂の電気はついたままだった。
「おい、これは一体…」友人の声は掠れていた。
「わからん。とりあえず風呂場を見に行こう」
「そ、そうだな…」
私たちは起き上がり、風呂場の扉を開けた。扉が開いて、風呂場の中が見えた瞬間、私は恐怖と驚きに息を呑んだ。
床や、浴槽や、シャワーのヘッドや、ありとあらゆる場所に長い女の髪の毛が落ちていて、風呂場は真っ黒になっていた。
私はそれから幾らもしないうちにその部屋から引っ越した。荷物が全て引っ越し屋に運び出された後で、大家に世話になった旨を伝えに行った。私が短い間ですがお世話になりましたと言うと、彼はぽつりと言った。
「出たんだろう?また」
初夏の日差しが、私と彼の影をアパートの廊下にくっきりと落としていた。
日常の中でふと、部屋の隅っこやちょっとした暗がりに何故かゾッとすることが誰しもあるのではないでしょうか。もしかしたら、それはあなたの部屋にいるもう一人の誰かの気配なのかもしれませんね。