思い出の匂い
最近思い出した記憶がある。
もう10年近く前になる、小学生の頃のこと。
何故思い出したのかといえば、幼なじみが海に誘ってきたからかな。
ここ数年海にもプールにも行っていないから、自分が泳げるか分からないことと過去に泳いだ時はどうだったかを考えていたから、だと思う。
今は統廃合でなくなった母校は森の中の草と太陽の匂いに満ちた小学校だった。戦争よりもずっと前に開校され、父の何歳か年上の方々が入学した時に新たに建て直したという校舎も自分たちが入学した年を考えれば随分古い建物なのだろう。
入学した最初の頃は机や校舎の大きさ、教室の多さ、音楽室や図書室など見たことのないものに感動しきりだった。図書室は少し乾いた紙の匂いがしたし、図画工作室は削った木やニスの匂い、教室は少し残ったワックスの匂いと光景とともにそれぞれ特徴的な匂いがあった。
既に傾向があった少子高齢化で、集まる児童は父の通っていた頃の6分の1程度だと大人たちは口々に言っていた。そしてクラスが1クラスとなり学校の全校児童が200人を下回り、使われない教室が多くなってもいた。
年代物の足踏み式オルガン、随分前の児童向け絵本。
年代ごとの卒業文集。
イタズラ書きされた壁や机、重ねて塗られた校舎の壁。
ここに多くの人が通い、学んだ積み重ねの結晶。
知らない子達ばかりで緊張しきりの学校生活だけれど、徐々に馴染んで毎日がとても濃厚だった。外や中庭の花壇にパンジーやマリーゴールドなどが咲いていて花の匂いがほんのり漂う外を歩くときはわくわくしたし、夏になれば毎年一年生がへちまとアサガオの種を植え校舎にグリーンカーテンを作って植物の青々しい匂いが風によって広がった。
小さな飼育小屋にはにわとりやうさぎがいて、藁や土の乾いた匂いの中五年生や六年生のお兄さんお姉さんが世話をしていた。
お昼の放送も給食の匂いの中、高学年のお兄さん達が楽しそうに話したり音楽をかけていたりもした。
わくわくでいっぱいだった一年生から二年生、三年生と上がり生活に慣れていき、その反面段々現実を知り楽しいと思えなくなったこともある。
女の子は可愛い女の子や男の子に人気のある子を、その子の前では誉めるのにその子がいないと悪口を言う。ぶりっこだ、男の子とばかり喋ってて嫌な子だ、次の時間はあの子から離れよう。そんな言葉を聞くたびに大きくなるとみんな悪口を言うのかな、と悲しくなった。
多分誰よりも子供だったのだと思う。
なんで仲良くしないの?と問いかけて確かにあんまりいいことじゃないね、やめようと笑ってくれてたのはほんの僅かな人だけ。大半の女の子達は良い子ちゃんだと馬鹿にしたように言い放ち、話を持ちかけてこなくなった。
男の子達も女の子と話すことを恥ずかしがるようになり、通学路が同じ方面の男の子からも無視されるようになった。
少なからず友達や仲良くしてくれる上級生、優しい先生達のおかげでいじめられたり不登校になることはなかったけれど。
それでも心の中を素直に開け広げるのを止めたのはこの時期だった。
お気に入りの場所がひとつあった。
それはプール場。
屋根の一切ないプールと教室3つ分程度の大きさの建物。
トイレと更衣室、用具入れがあるその建物はコンクリートを白く塗った独特の匂いがかすかにする無機質な壁や床だった。鍵のない扉だけで仕切られた更衣室には木で作られた枠のロッカーからの水気を吸った木の匂いがする。高い位置に小さな窓があるクレンザーの強めの匂いがする和式水洗トイレは女子は4つだけの小さな作りだった。プールサイドまでは簀の子があって、ツンとする塩素の匂いが充満してる。
低学年向けの浅い小さめのプールと少し離れたところにある高学年向けの深さが奥に行くほど深くなる大きなプール。フェンスに囲まれた屋外プールは、濃い消毒用の塩素の匂いとプールサイドの焼けた石に水をかけた匂いが好きで、太陽を反射してキラキラ光る水が綺麗だった。
小学生四年生の夏休み。
地域ごとにプールを開放して親が監視員として数人入れば使える事になっていた。父母は仕事で同じ地区の子の親が監視員を引き受けてくれた日。1日通しての開放でお弁当を食べ食休みをしてから、午後の4時頃までプールで泳いでいた。
片付けをして帰る皆を見ながら、母の迎えを1時間ほど待っていた時。図書館で借りていた本を水着や手についた水滴で濡らさないようにビニール袋に入れて持ってきて、体を乾かし洋服に着替えた後の迎えを待つ暇つぶしに読んでいた。
木と土の熱された匂いが感じられる木陰のあるベンチでしばらく読んでいると雲行きが怪しく、辺りが暗くなってきた。まずいなぁと更衣室のある建物の軒下に移動すると、間もおかずバケツをひっくり返したような夕立が降る。
バタバタと大きな雨粒が木の葉や枝を叩いて、昼間の熱を吸収した土やアスファルトから蒸気が上がる。この雨が土などを伴って蒸発する匂いは大人になっても好きだったが、多分この時に嗅いだのが1番印象的だったと思う。
本をビニール袋に入れ直しながら濡れないようにプールバックに入れて、雨宿りをしていると遠くからこちらに向かって走ってくる子がいた。自分の地区の子ではないからか、知らない男の子だった。
男の子は同じ軒下に駆け込み、水着の入ったプールバックを見せながら屈託なく笑っていた。何をどんな風に話したかは覚えていないけれどとても親しくなって、監視員をした親が締め忘れた窓から建物に侵入して2人で夕立の中のプールで遊んだ。バレたら父母に怒られるだろうなというスリルと大きなプールを2人だけで使っている優越感でいっぱいだった。
夕立が止むまでの1時間足らずを遊び、雨が上がりきる頃にはまた窓から外に出て笑った。
内緒の共有者になった男の子はとても可愛くて、今思えば初恋だったと思う。
どうやって別れたのかも分からないのは、母が迎えにきて家に帰ってから熱を出したからかもしれない。
残ったのはあの強烈な夕立の音と蒸発する雨の匂い、誰にも言えない男の子とプールに侵入した記憶だけ。もしかしたら夢や狐に化かされたのかもとも思った。学校の子かと思っていたけれど、その男の子はどの学年にもいなかったから。
いつの間にか忘れて大人になっていた記憶は懐かしくて優しい思い出。
あの頃はクロールを特訓していたから、思い出せば海でも泳げるかもしれない。
「かすみ!今日はいっぱい泳いでいっぱい遊ぶよ!」
幼なじみと約束して来た磯の匂いがする海はとても綺麗。
新しく買った水着も周囲から浮きすぎずに良かったと思う。笑う幼なじみも楽しそうだ。
「そうそう、私の彼氏と従兄弟も一緒だから!」
公衆の更衣室から荷物を持って乾いた砂と湿った砂の微妙に違う匂いを感じながら移動していると、先に彼氏と従兄弟にビーチの場所取りをさせているという幼なじみが走り出した。
抱きつく幼なじみを受け止める男性が幼なじみの彼氏かと眺めその横に立ち苦笑いしている別の人に目がいく。何故かあの夕立の日の匂いがした。
「あ…」
お互いにぶつかった視線の先にいたのは、狐に化かされたのかとも疑った思い出の男の子の面影を残す男性だった。
よく思い出すことには匂いがあったことから衝動的に書いたもの。
大半は私の好きな匂い。
今回掛けた制限は主人公の名前は一度だけだし、主人公に私という一人称を言わせないこと。