第一章『小さな波紋』
遮光カーテンの隙間から日が差し込む。薄暗い中、何かが焼けるイイ匂いで目を覚ました。
枕に顔を埋めたうつ伏せから、両手でスプリングの軋むマットを捕らえる。ゆっくりと膝立て伏せのように上半身を起して、両足を外にしてペタンと座った。そして、肩に引っ掛かっていた毛布が後ろにズレ落ちていく。
そのまま動かず目を細めると、冷えた朝の空気に肩を震わせる。
重たい目蓋を開いて数回瞬きをして、焦点の合っていないまま辺りを見回す。とりあえず、ぼやけてはいるが自分の部屋で間違いない。
時間が経つにつれて、視界がはっきりとしていく。
最初に捉えたのはベッド側の床、綺麗な三つ折りで置かれていた布団がある。毎朝の事だが、既に同居人は起きて行動しているようだ。
「ん~~~~~~」
フラフラと不安定なマットの上を這うと、ベッドの縁に辿り着き立ち上がる。勿論、寝惚けていても爪先にスリッパを引っ掛けるのは忘れない。そして、先程から部屋を満たしている美味しそうな匂いを追って歩き始めた。
部屋を横断する途中、衣装ケースの隣に設置されている姿見が視界に入った。なんとなく、その前で立ち止まる。
そこに映し出されるのは、少しだけサイズの合っていない薄いピンクのネグリジェ姿の少女だ。同色のナイトキャップからはアッシュブロンドの髪が覗く。エメラルドのような大きな瞳は眠たげに見つめ返す。そして、形のいいふっくらとした唇は少しだけ開いる。
これが私――レーラ・A・リースキッドの今の姿だ。
あまりの酷さに思わず、
「……酷い格好ね」
と鼻で笑ってしまった。
すると、鏡の中の自分も同じように笑う。
こんな事を傍で誰かさんが見ていたら、大爆笑間違いないなどと考えてしまった。自分で考えておきながら、何だかムカついてきた。
このまま自分の姿を見ていても仕方ないので、目的地に向けて行動を再開する。
寄り道をしながら行き着いた先は、微かに開いたドアの前だ。その隙間から音を立てずに顔を出すと、視線の先には見慣れた後姿が立っていた。何をしているのかと言えば、ここはキッチンなのだからやる事は一つしかない。
音を立てず静かに観察していると、こちらに気付いたのか肩がビクッと動いた。
「やっぱりレーラ殿だったか。おはよう」
体ごと振り返って挨拶をするのは、宮下 奏。
腰まで届く艶やかで真っ直ぐな黒髪。こげ茶色の切れ長な瞳に眉尻の上がった柳眉。ほっそりとした輪郭の顔立ち。遠く東の国独特のニオイを感じさせる綺麗系の女性だ。
今は、普段着である中袖に袴姿の上には羽織のではなく、奏の私物である白い割烹着を着ている。
「おはよう、奏」
「朝食は出来ている。拙者は並べているから、顔を洗って着替えてくるといい」
「そうね。……そうさせて貰うわ」
よろしく。と手を振ってキッチンを横切るレーラを見送った奏は、出来上がった料理を唯一テーブルのある事務所へと運び始める。
この一ヶ月で、劇的に生活は改善された。
ここに事務所を構えてから3年も経つが、掃除らしい掃除など数える程度しかやった覚えがない。
顔を洗い終えて自室に戻ったレーラは、下着一枚で整理整頓された衣装ケースから服を選ぶ。数ある中から一着を手にとったのは、袖広にフリルを拵えた薄いパステルカラーのドレス風のワンピース。足元は、それに似つかわしくない鉄板入りのコンバットブーツ。
姿見の前で、アッシュブロンドの髪を三つ編みすると、いつもの姿が鏡に映っている。
着替えを終えてキッチン側とは違う扉を開けると、タイミングよく並べ終えた奏が席に座ろうとしていた。
「目は覚めたか、レーラ殿?」
「勿論よ。さ、朝食にしましょうか」
向かい側にレーラは腰を下ろして、2人はそれぞれの宗教にしたがって食べ始めた。
ちなみに、今朝のメニューは奏の国の料理だった。
――そして、勿論レーラは箸に馴れているわけもなく、苦戦を強いられたのは言うまでもない。
そんな事もありながら朝食を終えた奏は、洗い物の為にキッチンに立っていた。一方のレーラは、事務所にある自分のデスクに座って弾の選別をしていた。
何でこんな事をしているのか言うと、しっかりとした理由がある。
よく間違えられるのだが、銃というのは発射機構であり本来の力を発揮するのは、様々な状況に応じて使い分ける弾頭だ。
現に、様々な弾頭を装備した弾をレーラは常備している。だが、この商売を長くやっていると自ずと普段使う弾は限定されてくる。なら、それだけをストックしていればいいのだが、場合によっては戦況を覆す事が出来るので、少なからず手元に置いていた。
したがって、厳重に保管をしてはいるが、使い所もなく鉄クズになる弾が出てくる。
銃の動作不良を無くすための整備も重要だが、そうした使えないような弾を見極める作業も、銃使いの仕事の一つというわけだ。
一つ一つ丁寧に錆や雷管の不良があるか見ていると、
「なぁ、レーラ殿」
洗い物を終えて事務所に戻ってきた奏が話しかけてきた。
「何よ。何か用なの?」
声を掛けられたレーラは、視線を手元に向けたまま機嫌が悪そうに聞き返した。
「用と言う程ではないのだが、今日の予定はどうなっているのだ?」
「予定、ね。大きなモノは、特にないわ。この弾、いつ買ったのかしら? 火薬が湿気ってるわ」
「そうか。では、他のモノは?」
「昨日の賞金を受け取りにギルドへ顔を出すって、お使い程度のがあるけど……何、行ってくれるの?」
「ちょうど材料がなくなったから、買い物ついでに寄ってくるさ」
「そうなの……なら、たまには私が留守番でも」
してようかしら? と言葉を続けたかったが、唯一置いてあるデスクの黒電話が鳴った。
一体、誰よ! などと思いながら選別作業を中断すると、
「はい。こちらは『Better than none at all”ないよりまし”』のレーラ・A・リースキッドの事務所です」
普段とは違い3、4匹の猫を被って受話器を取った。
「ご依頼のお電話でしょうか?」
『よぅ、レーラ。相変わらず、その声で電話に出るのは止めたらどうだ? 普段とギャップがあり過ぎだ」
「ムッ」
第一声から喧嘩を売る電話越しの声に、受話器を持ったままレーラは顔を引き攣らせた。
それを静かに見ていた奏は、短い付き合いながらもなんとなくだが、その電話の主が誰だか分った。知っている限り、一人しか居ない。
その証拠に、怒りが沸点近くまで一気に上昇する。
「なぁによ! 何か、文句でもあるの? 私の商売にケチつけないで頂戴!」
『はっはっは。そう怒るな、リースキッド』
棘のある言い方でも、笑いながら受け流す電話の主――リンクス・スコットウェル。
だが、それが更に火に油を注ぐ。
「怒らせているのは、誰のせいだと思ってるのよ!」
『おいおい。これでも俺、お前のお得意様だって事を忘れるなよ?』
「それでしたら、もう少しお得意様らしい態度を取って頂けませんか、団長殿?」
『……他人行儀は嫌いなんだけどね、俺。前に言わなかったっけ?』
「覚えているわ。だから、ワザワザ使ってるのよ、リンクス」
言い切るレーラの言葉に、
『いや、参ったね』
とは言ってはいるが、リンクスの言葉からは全くそんな風には感じられなかった。
荒事専門である何でも屋のお得意様であり、団長と呼ばれる彼は何者なのかと言えば、その正体は都市にある自警団を統括しているお偉いさんである。とはいえ、今の言動だけでもその意識が本人にあるかは定かではない。
「どこの誰が困っているのよ。それで用件は何? まさか、暇だったから電話したって言うんだったら、今度そっちに行ったら鉛弾喰わせるわよ」
『おーおー、怖いね。大丈夫、しっかり仕事の話だ。だからと言って電話越しで話せるモノじゃない。いつでもいいんだが、今日中に時間空いているか?』
「今日の予定は特にないから、いつでも空いているわ」
『そうか。なら、そっちで時間を決めてくれ。俺は、お前に合わせる』
合わせると言われてもと思いながら、壁に掛けてある時計をレーラは見上げる。
現在、午前九時を指していた。
とはいえ、もうどうするかは決まっている。
「なら、これから支部に顔を出すわ。どうせ、すぐに取り掛かって欲しい仕事なんでしょ?」
『流石は、リースキッド。しっかり、こっちがして欲しい事を分ってやがるな』
「煽てても、依頼料は安くしないわよ。それじゃ、また後で」
『あぁ、熱いコーヒーでも淹れて待ってるぜ』
そう言ってリンクスは電話を切った。
用済みになった受話器を元に戻すと、デスクの上を占領する弾を片付け始める。
すると、静かに側で電話の内容を聞いていた奏が口を開いた。
「出かけるのか、レーラ殿?」
「えぇ、自警団支部に行って来るわ。たぶん、そのまま依頼を受けて動くと思うから、夕方までは戻ってこないと思う。お昼は、外で適当に済ませるわ」
「分ったが、留守番の方はどうする?」
「別に奏も出て構わないわ。だって、今夜の分の材料自体もないんでしょ?」
弾が敷き詰められた弾薬箱を抱えながらレーラは立ち上がる。
部屋の中を移動するレーラの背に向かって、確かにそうだな。と奏は頷いた。
「それに、ギルドへのお使いだってあるんだから、一時間や二時間くらい留守にしたって、どうって事はないわよ」
保管庫に弾薬箱をしまうと、厳重に鍵を掛ける。
デスクの前にレーラは戻ってくると、上に置かれていた愛用のリボルバーが挿してある牛革製のホルスターを手に取った。それを手馴れた手付きで腰に廻すと、銃のグリップが右腰下にくる位置で固定する。
その他にも必要なモノを持ち出かける準備を終えると、
「それじゃ、出かけてくるわね」
「気をつけてな、レーラ殿」
「誰に言ってるのよ、奏?」
立ち止まって肩越しに振り返ったレーラは笑顔で事務所を後にした。
その場に一人残された奏は迷っていたが、とりあえず午前中に洗濯物を片付けようと寝室へと入っていった。
―●―●―●―●―●―●―
日が徐々に真上に位置しようとする頃。
西地区の外れ。築数十年は経っている木造住宅が立ち並ぶ中、乳白色の長方形に整えられた石を積み上げた古びた教会が建っていた。そして、建物の中から大小二つの人影が出てくる姿があった。
道端で邪魔にならないように二つの影は向かい合う。
「ここでお見送りは大丈夫です」
鈴の鳴るような声で小さい影が顔を上げる。
すると、その視線先に居る大きい影――三十代後半の女性。
彼女の名前は、シスター・セイラ。普段は温和な彼女の表情は、細い目を更に細めて心配一色に染められていた。
「本当に気をつけて下さいね、マシュー。何があるか、分りませんから」
そうして名前を呼ばれた小さな影――マシューは小さく頷いた。十代前半の中性的な顔は、歳相応の無垢な笑顔を咲かせている。
この二人は何者かと言えば、この教会の修道女だ。その証拠に二人は、黒を基調とした修道服にベールを身にまとっていた。勿論、シスター・セイラの胸元には金色に十字架が輝いている。しかし、十字架の代わりに鍵のようなアクセサリーがマシューの胸元には合った。
そんな彼女たちのやり取りから、何やら今生の別れのような雰囲気があった。だが、それを醸し出しているのはシスター・セイラのみで、これから出かける当本人は普通にしていた。
簡単な話、ただマシューが別地区にある教会へお使いに行くだけだ。
それだけ実の子のように思われているのだろうが、これは異常だろうとは口が裂けてもマシューには言えない。
だから苦笑いを浮かべるしかない。
「大丈夫ですよ、シスター・セイラ」
「本当ですか? 本当に大丈夫ですか?」
「夕方には、必ず戻ってきますから……心配しないで下さい」
「アナタに神のご加護がありますように」
胸の前で十字を着るとシスター・セイラは神に祈る。
「大げさですよ、シスター・セイラ。約束の時間もありますので、そろそろ行きますね」
「えぇ、そうですね。ちゃんと帰ってきてくださいね、マシュー」
その言葉にマシューは返事を返した。
こうして歩き始めるマシューの背中を、両手を組んで心配そうにシスター・セイラは見送った。
――この時、誰が想像しただろうか?
本当にこれが今生の別れになるとは想像もしなかった。
―●―●―●―●―●―●―
人通りの激しいメイン・ストリートは東地区。
2、3階建ての商店や家屋が並んでいる中、一際目立つ立派な6階建てのビルがあった。その建物の大層な玄関の前には、ノリの効いた紺の制服の男が立っていた。そして、そこに掲げられていたのは、
『王国陸軍所属商業都市バン・フィ自警団支部』
とビルの名前が書かれていた。
ここで言う自警団とは、実力を似て社会の治安を維持する行政作用及びその主体の事である。もう少し分りやすくすると、社会の安全や治安を維持するべく、その社会的責任を課せられた行政機関だ。
何やら難しい言葉を並べてはいるが、国民やその財産を守るのが彼らの仕事だ。
建物の1階から5階には交通課や地域課といった身近なモノから、刑事課といった物騒な事件を取り扱う課が収められている。最上階である6階には、小規模な人員で使える小会議室が2つと捜査本部として使える大会議室が1つといった感じだ。
――そして、刑事課のある5階の日当たりのいい場所。
扉のプレートに『自警団・団長』と書かれたオフィス内。
品のいい応接セットや調度品に囲まれながら、窓を背に執務机に座る30代前半の男の姿があった。
リンクス・スコットウェル。それが彼の名前だ。
燃えるような赤色の短髪。歳のわりに貫禄のある厳つい顔。中肉中背だが無駄のない筋肉質なスポーツマン体格。そして、着崩された玄関の彼らとは違う少しだけ豪華な制服といった格好をしている。
そんなリンクスは、静かにホットコーヒー(ブラック)を飲んでいた。
すると、オフィスの外から扉がノックされた。
「誰だ?」
『マリア・ヴェールクートです』
「あぁ、ヴェールクート君か。開いているから入ってきてくれ」
リンクスの呼び声に、
『失礼します』
と共にオフィス内に入ってきたのは20代の女性。
黄金色に輝く肩に触れる程度のショートヘア。銀縁丸眼鏡に眉尻の下がった瞳。人当たりの良さそうな顔立ち。そして、団員の証である紺のパンツではなくタイトスカートの真新しい制服を着ている。
その姿をリンクスは黙ってみていた。そして、入ったところで立ち止まると、
「お客様をお連れしました」
彼女――今年入った新入団員のマリア・ヴェールクートは、一礼してからこう告げた。
すると、それと同時に、
「呼ばれてきたわよ、リンクス」
廊下から中を覗うようにレーラが室内へと入ってきた。
その姿を見たリンクスは、腰を浮かせて笑いながら歓迎した。
「待っていたぞ、リースキッド。そっちで話そう」
「えぇ、そうさせて貰うわ」
「ヴェールクート君。彼女にもコーヒーをよろしく頼む」
飲みかけのカップを片手に移動しながら言うと、はい。とマリアは頷いて退出していった。
扉が閉まり誰も廊下に居ない事を確認したリンクスは、足を組んで座るレーラの向かいに腰を下ろす。
そうして二人は何も話さないまま、互いの顔を見ていた。
だが、それもすぐに終わる。
「ちょっと、何をジロジロ見てるのよ! さっさと依頼の話をしなさいよね!?」
年齢なのか性格なのか。はたまた、どちらもなのか。
早速ガマンの出来なくなったレーラは、目の前の応接セットの木製テーブルを力任せに叩く。
「そう話を急かすな。何事も慎重に行かないと、その内に足元を掬われるぞ、リースキッド? カルシウム足りてないんじゃないのか? ……前々から言ってるだろう。牛乳を呑め。牛乳を」
「何が牛乳よ。私が怒りっぽいんじゃなくて、どこかの誰かが怒らせているからでしょうが!」
「それでも俺は牛乳は必要だと思うぞ。何せ、身長や胸だって平均よりも少ないんだ。飲んでおいても損はない」
何を一人で納得しているのかリンクスは頷いていた。
それが更に、燃える火へニトログリセリンを混ぜるようなモノだった。
「そういった言葉が、私を怒らせているのよ!」
身を乗り出すレーラは何度も天板を叩いた。
軋みながらいい音を打撃音を響かせるテーブル。
これ一つで彼女の事務所に置いてある備品が全て揃う程の値段なのだが、そんな事もお構いなしの勢いだった。
「そう感じるのは、所々にコンプレックスを抱えているレーラの所為だろう? 第一に賞金首から恐れられている何でも屋が、そんなのが弱点なんて格好悪いだろうが」
「ッ……」
ニヤニヤと笑いながら告げられた言葉に、それ以上何も言えずレーラは黙った。
その顔は不機嫌そうで、分かっているが理解したくないと語っていた。
「とりあえず、仕事の話でもするか」
「そうね」
「こうしてリースキッドに頼む内容は、殺人事件の捜査をお願いしたいんだ」
「捜査?」
訝しげにレーラは顔を顰める。
それを一目したリンクスは、あぁ。と頷いてから告げた。
「これは昨日の話なんだが、南地区付近の住人から人が殺されていると通報があった。それで団員が事件現場へと向かった。すると、乾ききっていない血糊を撒き散らされた部屋と、そこの住人と思われる四肢を分断された男の死体を発見した」
「その事件と私の所に依頼してきた理由が分からないわ。捜査だったら、私よりも長けている人の方が多いんじゃない?」
実際はそうなのだ。
犯人を突き止めるための情報収集・解析よりも、見つけた犯人を追いかけて捕まえる。どちらかといえば頭脳労働よりも、そうした肉体労働の方が専門だった。
捜査を主体にしているのであれば、あまりにも効率が悪い。
それを重々承知しながらそれでも依頼しようとは、彼を知っている人間なら考えられない。何せ、外見は肉体労働専門と見せかけておきながら、かなりの切れ者なのだ。そうでなかったら、この若さで自警団の団長という役職にはついていない。
「それ相応の理由がないんだったら、この依頼は受けないわよ」
目を細めて威圧するが、リンクスは静寂を保った。
しばらく視線を交わしていると、何も言わずにレーラは立ち上がる。それから扉へと向かって歩いていく。そして、廊下へ出ようとノブに触れようとした。
「……ふぅ、分かった。降参だ」
背後から聞こえた声に振り返ると、参ったとばかりにリンクスは両手を天井に向けていた。
「ちゃんと理由を話すよ」
「始めからそうしていればいいのよ。……ワザとでしょう、リンクス?」
「バレた、か」
元の場所に腰を下ろすと、詫びれるワケでもなく彼ははおどけた表情で返した。
「それでお前に頼む理由なんだが、この事件の死体に関係してくる」
「死体?」
「鑑識からの報告なんだが、その四肢の断面が妙に”綺麗”なんだ。まるで、鋭利な刃物で切ったみたいに、肉だけでなく骨までもだ。この意味、お前にも分かるだろう、リースキッド?」
その言葉にレーラは静かに頷く。
バラバラ殺人事件なんて珍しいモノではない。いや、こういうのは少し違うような気がするが、両手両足の切断はまだ易しい分類に入るという事だ。ここでは、もっと残酷な殺し方で人間と判別するのが困難な死体もあった。
とはいえ、人が人に殺される時点でまともな死に方とは言えない。
比較的まともな四肢切断の事件だが、今回の事件は特別だった。
例えば、どんな刃物でもいいが、剣で腕を斬り落とそうとすれば大体は骨で刃は止まる。だが、力任せにやれば斬り落とす事が出来る。しかし、その場合は骨を叩き叩き折る形となり、この事件のように綺麗な切断面にはならない。
勿論、ノコギリで切断した場合、骨どころか肉もズタズタになってしまう。
それでも、そんな事が出来るとしたらと仮定して必要なのは、柔軟性で頑丈な鋭利な刃物と達人クラスの腕。
この都市で考えられる人物は、どう考えても一人しか知らない。
その人物へレーラは結論が行き着いた。
「もしかして、奏を疑っているの?」
「職業上な」
誰であろう奏だ。
その彼女が腰に差している二振りの刀。遥か遠く東方の国で鍛えられた太刀と打ち刀。独特の弧を描き質実剛健で、その切れ味は一級品。そして、何でも屋としては半人前でも、刀を持たせれば右に出るものはいない程の腕前だ。
まさしく、条件は揃っていた。
「だからといって、俺だって宮下の事は数回顔を合わせた程度だが、こんな事をする奴だとは思っていないさ。お前に頼んだ理由は、もっと別なモノだ」
「別?」
「この殺人を犯した奴は、この殺しを見た限りでは宮下と同等かそれ以上の腕前になる。もし、ソイツを探し出せたとして自警団には腕の立つ奴は数える程度だ。だからといって、その辺の何でも屋が捕まえに行ったら、無駄な殺しが起こって俺達の仕事が増える」
それ以上言わなくても、リンクスの言いたい事は分かった。
「成る程。だから、それに対抗できるだろう奏が居る私に依頼するのね」
「そういう事だ。だが、本格的な捜査はお前がやってくれ。そういった経験、たぶんだが宮下はないと思うしな」
「そういう事なら、分かったわ。それじゃ、報酬の話をしましょう?」
「あまり高くするなよ?」
「それはアナタ次第よ」
苦笑いするリンクスに、満面の笑みでレーラは答える。
商談の話が纏まる頃、ノックの音と共にコーヒーをお盆に乗せたマリアが入ってきた。
―●―●―●―●―●―●―
人通りの少ない西地区の裏路地。
そこを一人で歩く人物が居た。
「さて、今夜は何を作ろうか」
暢気にそんな事を呟くのは、羽織袴姿の奏である。
時刻は午後2時を指そうとしていた。
どうしてこんな所を歩いているのかというと、レーラに言われたとおりギルドへの用事を済ませた帰り道だった。
事務所とギルドは同じ西地区にあるが、メイン・ストリート沿いにギルドは面した形で建っていた。それに対して、事務所は地区の中ほどの住宅街に囲まれる位置している。
大半の個人経営者に言えるのだが、構える事務所と住居は一緒にしていた。
それはなぜか?
何でも屋という職業は賞金首を捕まえる時に危険を伴う。だが、危険なのはそればかりではない。その賞金首の肉親や恋人からの復讐を受ける場合もある。その時というのは、無防備に歩いている時が殆どだった。
だから、少しでも危険を避けるために一つにしている。
その他の理由として、そういった殺人や強盗といった事件が住宅街で行われているため、そこに事務所を構えているという者も居る。だが、単に二つの物件を維持する資金がないという場合が殆どだった。
ちなみにレーラはどちらかといと、後者の金銭面が理由になっている。
それよりも、どうして滅多に人が通らない道を奏は選んだのかというと、これといって深い理由はなく近道だからという理由だった。
しばらく歩いていると、
「ん……?」
一瞬、何かが聞こえたような気がした。
気のせいか? と思いながらも、確かめようと立ち止まり耳をすましてしてみる。
――そして、聞こえた。
「悲鳴?」
それは誰かの助けを求めるモノだった。
すると、その声が聞こえた方に向けて奏は駆け出した。
同西地区。長きに渡り使用されて放置された再開発指定区画。
ここは商業都市バン・フィが今の姿になる前の居住区画だった。だが、その姿は今は残っていない。耐久年数を越えて人が住まなくなり、それによって住人を失った建物の老朽化は加速した。
その為、いつ崩れてもおかしくはない建物が多く、それによって現在は立ち入りを禁止され人の姿はない。
だから、誰もいない筈なのだが、そこを駆け抜ける人の姿がある。
修道女の格好をしたマシューだった。
なぜ、息を弾ませてこんな所を走っているのかというと、話は数分前に遡る。
シスター・セイラに見送られて、何事もなく東地区の教会へと到着した。そこでお昼を頂いて、お使いを済ませたその帰り道。
メイン・ストリートを歩いていると、
「少し宜しいかな、シスター?」
「はい?」
後ろから声を掛けられて振り返ると、そこにはフードを頭から被った人物が立っていた。顔は見えないが、感じからして30代から40代だろう男性の声だった。
怖くなったマシューは半歩引いて、警戒しながらフードの男が動くのを待った。
「私と一緒に来ていただけないかな?」
表情は分からないが、不気味で威圧的な感じで腕を伸ばしてくる。だから、その手から本能的に身を逸らすと、周りに肩が当たるのも構わず逃げ出した。
「待て!」
すると、背後から声を張りながらフードの男が追いかけてきた。
人混みを縫うように走るマシューだったが、今のままでは追いつかれるのは時間の問題だった。
よく木を隠すなら森の中というが、それは同じような外見だから出来る手段だ。修道女と周囲とは浮く格好のマシューでは、隠れるにしても隠れきれていない。そればかりか、逆に進路が阻まれてしまう。
どうにかしなきゃ! と走りながら、この状況を打開できる”何か”を探した。そして、あるモノを発見した。
だが、それと同時にフードの男の手がすぐそこまで迫っていた。
頭のベールに手が触れようとした瞬間、急制動したマシューは左の裏路地へと入り込んだ。
「クッ!」
後一歩の所で捕まえ損ねたフードの男は、歯軋りをして遠くなる小さくなる背中を追った。
加速を続けながらマシューは後ろを振り返ると、フードの男は諦める気配はなかった。
そればかりか、
「逃がすな! 追え!」
怒鳴るような声と共に、一体どこに居たのか?
フードの男の背後から、似たような格好をしたモノ達が姿を現した。その数は一人、二人と増えていった。しかし、そればかりではなかった。
先回りしたのか? はたまた、仲間と連絡を取ったのか?
そのモノ達に逃げ道を塞がれ誘導されるように行き着いた先が、ここ再開発指定区画だった。
もう体力の限界に近づいていた。
自分がどこに向かっているのかも、すでに分からない。それでも、逃げるしかなかい。
「う……嘘」
フラフラになりながら右へ曲がった時、マシューは絶望に顔を染める。
見つめる先には、道のない袋小路だったからだ。
それでも諦めきれず来た道を戻ろうとするが、追いかけてきたモノ達がすでに立っていた。
「梃子摺らされたが、これでおしまいだ」
そして、フラッと姿を出すフードの男。
今度こそ逃げられない。
そう思ったマシューは硬く目を瞑った。
「ほう……何かと思って来てみたが、なかなか面白い事をやっているな」
どこからともなく、フードの男たちとは違う凛とした女性の声が聞こえてきた。
誰? と思いながらマシューは見てみると、彼らの背後に見知らぬ東方の国の衣を纏った若い女性が立っていた。
ゆっくりと振り返ったフードの男は長い間を持って告げた。
「……どなたかな?」
「何、拙者はただの通りすがりだ」
その女性は不適な笑みで答えた。
「この国では信仰深いと聞いてはいたが、まさか修道女を襲う輩が居るとは思ってもいなかったな」
信じられん。と言いたげに奏は肩を竦めると、フードの男の肩越しに見えるマシューを盗み見る。
先程の声は、あの者か。多分、そうなのだろう。
あの声から推測できる外見と一致している。それに大の大人が子供相手に集団で囲んでいるのだ。どちらがと考える必要はない。
「ふん。残念だがお嬢さん。信仰など私は過去へと置いて来た身でね。信じているのは自分自身さ」
「ふむ……なるほど。確かにそうであるな。国には拙者も色々なモノを置いて来た。だが……それでも"人間を辞める"事はしていないぞ?」
不愉快そうに眉を吊り上げて目を細める。
すると、今まで動じなかったフードの男が半歩引いて身構えた。それと同時に、周りのモノ達も奏を囲むように摺足で移動を始めた。そして、彼らのフードの下から鋭利な鉤爪が見える。
どうやら、気に障ったらしい。
「貴様、何者だ?」
「何者と聞かれても、お主が見ての通りの姿だが? それに……その言葉は拙者のモノであるから、勝手に持っていかれては困る」
「……殺す」
冷徹で残酷な響きの言葉に、
「果たして、このモノ達で拙者が倒せるかな?」
臆する事はなく軽く告げると、左手を腰に差した太刀――九字兼定の鯉口を掴み左足を引く。
緊迫する空気。
右から左へ視線を配らせていると、
「逝け!!」
フードの男の掛け声と共に周囲が動く。
初撃は奏の後方。横一文字に右の鉤爪が遠心力を利用して外側へ薙ぐ。だが、その凶刃は空を切った。そして、いつの間に抜かれたのか、上段に構えられた九字兼定が縦一線に白刃を光らせる。
一体、何が起こったのか。彼女に近づいてきていたモノ達は気付かなかった。しかし、遠くに居たフードの男や修道女は見ていた。
襲い掛かる瞬間、絶妙なタイミングだった。逆時計周りに円を描きながら左へと避けたのだ。まるで、背中にも目があるのではと錯覚させるほど鮮やかだった。
間合いを取って仕切り直しとばかりに周囲を囲まれる中、
「あまり手応えがないな。まぁ、いいか。……さぁ、次は誰が拙者の相手をしてくれるのだ?」
手元を確かめるように九字兼定を見下ろすが、止めて右手をぶら下げて挑発するようにフードの男を見る。
顔色なんて分かるわけもないが、あまり言い感じではないだろう。
だから、何も言われなくともモノ達は攻撃を再開した。
次々と襲い掛かる敵を、右へ左へと反らして防ぐ。
「ッ!」
――そして、隙あらば狙ってくる敵に対して、一撃の下に斬り捨てる。
相手の数が徐々に減っていく中、それでも敵は一向に引こうとしない。それでも、こちらが倒れていい理由にはならない。
そうして、最後の一人を倒した奏はフードの男が立っていた場所へ顔を向けた。
視線の先には誰の姿もなかった。そればかりか、斬り捨てたはずの死体もなくなっている。
「逃げられたか」
と全く奏は顔色を変えなかった。
それは、己が不可解と思ったものは、それ以上考えても仕方がないと思っているからだった。
九字兼定を一振りしてから鞘に収めると、その場に立ち尽くしているマシューへと近づいた。
「大丈夫か?」
優しく肩に手を乗せながら聞いた。
すると、緊張が切れたのか?
「は、はい……だいじょう」
です。と最後まで言えずに膝から崩れ落ちた。
危ないと反射的に奏はマシューを支えて顔を覗いてみると、どこか安堵した表情で気絶していた。
手の中で眠り続ける修道女に、これからどうしようかと奏は自問するのだった。
―●―●―●―●―●―●―
日もすっかり傾き、メイン・ストリートに植えられたガス灯の火が揺れる頃。
「ただいまー」
と声を掛けながらレーラが事務所に帰ってきた。
あれからリンクスの所でコーヒーをご馳走になって、昼食をマリアと一緒にした。その後、現場へ行く前に資料を読んでから行ってみると、赤い夕日が西へと沈みかけていた。そして、今に至るというわけだ。
明るい室内を見回すと誰もない。
そればかりか、いつもなら「おかえり」と返してくれる奏の声がなかった。
「奏? 居ないの?」
名前を呼んでみるが反応はない。
キッチンかな? と思い覗いてみるが、やはり誰も居ない。その代わりといっては何だが、夕飯の料理中だったのか湯気立つ大鍋があった。勿論、火は消してある。
これはどういう事なのか推理してみる。
レーラが帰ってきた時は、鍵は掛けられておらず電気も点いていた。何かあったのかとも考えられるが、あの奏をどうにか出来る人間は少ないと思う。それどころか、火を消している所が冷静だ。
たぶん、料理に使う材料がなくて直ぐそこまで買いに出かけたのだと思う。
……というか、それしか考えられない。
「全く、ちゃんとしてそうで以外に抜けてるんだから、奏は」
心配する素振りもなく、寝室へと向かう。
このまま待っていても仕方ないので、先にシャワーでも浴びてこようとレーラは思ったからだ。
薄暗い室内に入ると、壁に埋め込まれている電気のスイッチを入れる。
すると、数回点滅してからぼんやりと徐々に明るくなった。
入浴の準備をしようとタンスに近づくレーラだったが、見慣れているはずの寝室に違和感を覚えた。
部屋の真ん中で立ち止まると、反射的に右腰のリボルバーのグリップに手が伸びる。
いつでも抜いて撃てるようハンマーに親指を引っ掛けて、慎重に周囲へ視線を向ける。そして、それはすぐに見つけた。
普段レーラが使っているベッド。フカフカの掛け布団が大きく膨らんでいた。
何かの罠かと警戒しながら近づき覗き込むと、
「……誰、この娘?」
全く見覚えのない小さな修道女が眠っていた。
そのまま固まっていると、
「っ……んんっ……」
小さく唸り声を上げた。
そのままレーラは様子を見ていると、ゆっくりと小さな修道女は目を開いた。
小粒のエメラルドを思わせる瞳が左右に動かしていると、不意に視線と視線が合ってしまった。そして、そのぼやけていた視界の焦点があった瞬間。
「きゃ!!」
短い悲鳴を上げた小さな修道女は、跳ねるように上半身を起した。
何か言おうとレーラはしたが、どう言ったらいいか言葉が思い浮かばない。
小さな修道女は掛け布団を引き寄せて、怯えた表情でこちらを見上げている。
何とも言えない空気が流れる中、唐突に事務所と寝室を繋ぐドアが開いた。それにハッと振り返ると、小さな紙袋を抱えた奏の姿があった。
「やっぱり帰ってきていたか、レーラ殿」
「ちょっと、奏! これは一体どういう事よ!?」
声を上げながら詰め寄るレーラ。
それに奏のとった行動は、
「……お?」
全く聞かずにベッドの小さな修道女に近づいていった。
無視すんな! と怒るレーラを他所に、
「お主も、目が覚めたみたいで何よりだ」
良かった良かったと頷く奏だった。