37歳、体力づくりに太極拳を始めたら、教室にたぬきの精がいました
最近、階段がつらい。
三崎梓は、三階まで続く外階段の途中で立ち止まり、手すりに触れないようにしながら、こっそり息を整えた。
買い物袋が、両手に重い。
中身は、値引きの総菜と、牛乳と、ヨーグルトと、特売の卵。別に米俵を担いでいるわけではない。なのに、太ももの奥がじんわり重く、呼吸が少し浅くなる。
「……まずい」
小さく声に出した。
外階段の錆は、今日も赤茶けていた。雨上がりのせいで、いつもより濃い。触れば手のひらに粉がつくので、梓はできるだけ手すりを使わないようにしている。
だが、そろそろそんな意地を張っている場合ではないのかもしれない。
三十七歳。
非常勤。
独身。
安アパート暮らし。
前年に大きな婦人科手術を受けてから、体力の底が抜けたように疲れやすくなった。
それでも、なんとか日々は回っている。
仕事に行き、帰ってきて、洗濯をし、値引き総菜を食べ、眠る。病院代と家賃と光熱費と通信費を払い、通帳残高とにらめっこをする。
人生は、だいたい支払いと回復でできている。
だが最近、その回復の部分が明らかに足りない。
上海へ行った。
生まれて初めて、自分のためだけに海外旅行をした。
赤い漢服を着て、顔を一度白紙に戻すような化粧をしてもらい、夜の川を見た。
あの旅は、たしかに梓の中の何かを変えた。
けれど、帰ってきた梓の肺活量までは変えてくれなかった。
魔法にかかった女も、階段では息が切れる。
「……運動か」
言った瞬間、気が重くなった。
運動。
とても立派な言葉だ。
立派すぎて、今の梓とは相性が悪い。
部屋に戻り、買い物袋を床に置いたあと、梓はスマホを開いた。
検索窓に、ゆっくり文字を入れる。
大人 初心者 運動 体力づくり
出てきた候補を、ひとつずつ眺める。
ヨガ。
おしゃれだった。
おしゃれすぎた。
画面の中の女性たちは、細い腕で身体を支え、信じられない方向へ脚を伸ばしている。梓は、自分の股関節を思った。
たぶん、初日に痛める。
ピラティス。
これもおしゃれだった。
体幹という言葉が、すでに梓を置いていく。
ジム。
明るい照明、鏡、ランニングマシン、筋肉。考えただけで、受付の時点で帰りたくなる。
空手。
少林寺拳法。
護身術。
強そうだった。
強そうすぎた。
今の梓が行ったら、まず挨拶の声量で負ける気がした。
「もっと、こう……」
梓はベッドの端に座り、スマホを握ったまま考えた。
飛ばない。
跳ねない。
叫ばない。
床に転がらない。
若い人たちの中で、ひとりだけ息を切らして恥ずかしくならない。
おばあちゃんたちが、公園でゆっくり動いている健康によさそうなやつ。
朝のテレビで見たことがあるような、ないような。
腕を丸くして、ゆっくり動くやつ。
「……太極拳?」
検索した。
太極拳 初心者 T市中心
いくつかの教室が出てきた。
本格的な道場は、まだ怖い。
月謝制で、師範がいて、礼儀作法が厳しくて、入ったら最後、簡単にはやめられないような場所は、今の梓には重すぎた。
必要なのは、人生を変える修行ではない。
まずは、階段で息切れしない身体である。
できれば、カルチャーセンター系。
初心者歓迎。
女性講師。
見学可。
服装自由。
途中で合わないと思ったら、さっぱりやめられるところ。
検索条件が、だんだん婚活アプリのようになってきた。
「あ、あるじゃん」
画面に出てきた講座案内を見て、梓は少しだけ身を乗り出した。
入門。
二十四式。
女性講師。
カルチャーセンター。
見学、体験可。
二十四式。
数字がついている。
二十四なら、まだなんとかなる気がする。四十八式とか八十八式とか言われると、その時点で検索画面を閉じていた。
梓は、体験申し込みのページを開いた。
申し込むだけなら、まだ引き返せる。
体験だけなら、後腐れはない。
そう自分に言い聞かせながら、名前と連絡先を入力した。
送信ボタンを押す前に、少しだけ迷う。
本当に行くのか。
こんな自分が。
運動音痴で、体力がなくて、階段で息が切れて、買ったばかりの室内履きが太極拳に向いているかどうかも怪しい自分が。
でも、先日上海に行ったときも、最初はそうだった。
お金がない。
体力がない。
中国語がわからない。
海外旅行なんて無理。
そう思いながら、結局、行った。
なら、カルチャーセンターの三階くらい、行けるかもしれない。
「……送信」
梓はボタンを押した。
画面に、申し込み完了の文字が出た。
たいしたことではない。
ただの体験講座だ。
けれど、梓は少しだけ息を吐いた。
自分の身体のために、何かをひとつ予約した。
それだけで、ほんの少し偉い気がした。
体験当日。
梓は、運動用のTシャツと、昔買ったジャージを着て、カルチャーセンターへ向かった。
室内履きの入った袋が、手の中で少し揺れる。
買った靴は、思ったより走る気満々だった。
梓は走りたいわけではない。
ゆっくり動く健康なやつをやりたいだけである。
まあ、初回だ。
先生に聞けばいい。
向いていなければ、次回から考えればいい。
カルチャーセンターの建物は、ほどよく古く、ほどよく明るかった。駅ビルのように眩しすぎず、道場のように厳しすぎない。
このくらいの温度がありがたい。
受付で名前を伝えると、係の人が教室の場所を教えてくれた。
三階。
また階段だった。
エレベーターもあったが、梓は少し迷ってから階段を選んだ。
太極拳に来た人間が、最初からエレベーターに乗るのもどうなのか。
いや、無理はよくない。
でも、三階くらいは。
そんなことを考えながら上がると、やはり途中で少し息が切れた。
「……だから来たんだし」
自分に言い訳するように呟き、梓は三階の廊下に出た。
教室の扉は、半分開いていた。
中から、ゆっくりした音楽が聞こえる。
深い呼吸の気配。
床を踏む、静かな足音。
梓は入口で一度立ち止まり、室内をそっと覗いた。
年齢層は高めだった。
よかった。
若い人ばかりではない。
女性が多い。
先生らしき人も、穏やかな雰囲気の女性だった。
よかった。
帰らなくていい。
そう思った次の瞬間、梓は教室の隅で固まった。
たぬきがいた。
正確に言うと、たぬきのようなものが、人間の受講生たちに混じって、たいへん真面目に太極拳をしていた。
丸い背中。
短い手足。
ふさふさした尻尾。
頭の上には、小さな丸い耳がある。
けれど、その立ち姿は、驚くほど真面目だった。
先生の動きに合わせて、ゆっくりと片足を引く。
腕を上げる。
重心を移す。
腹のあたりが、すう、とふくらみ、ふう、としぼむ。
梓は、反射的に口元を押さえた。
「うっふ……」
笑ってはいけない。
笑ってはいけないのに、無理だった。
あまりにも真面目だった。
たぬきの精らしきものが、誰よりも丁寧に、太極拳をしている。
少し前から、梓にはこういう変なものが見えるようになった。
きっかけは、上海旅行だった。
非常勤の少ない給与と通帳残高をにらみ合わせ、航空券の値段に何度もため息をつき、それでも生まれて初めての海外旅行に出た。
行き先は、上海。
赤い漢服を着た。
顔を一度白紙に戻すような化粧をしてもらい、旧市街を歩き、夜の川を見た。
その夜、川辺で陸雲深という男に会った。
人間の男に見えた。
けれど、たぶん人間ではなかった。
彼は梓に、黒い名刺を渡した。
銀色の文字で、上海龍神公司、と書かれていた。
「お困りでしたら、ご連絡を」
困る予定などない、とその時の梓は思った。
だが雲深は、涼しい顔で言った。
「見鬼の目は、慣れるまで少々不便ですので」
不便。
たしかに不便だった。
帰国してから、梓の世界には、少しずつ変なものが混じるようになった。
電線の上に、足の長すぎる鳥のようなものが座っていた。
コンビニの自動ドアの横で、小さな影が割引シールを見つめていた。
近所の川沿いでは、濡れた髪の女が、水面に向かって延々と櫛を入れていた。
見ないふりをすれば、たいていのものは何もしなかった。
こちらから声をかけなければ、向こうもこちらをただ眺めるだけだった。
だから梓は、できるだけ騒がないことにしている。
大人の対応である。
しかし、太極拳教室のたぬきは難しかった。
あまりにも真面目だった。
真面目すぎて、笑いがこみ上げる。
「三崎さん、ですか?」
先生に声をかけられ、梓は慌てて姿勢を正した。
「はい。今日、体験で申し込んだ三崎です」
「どうぞ。無理せず、できる範囲で大丈夫ですよ」
「よろしくお願いします」
梓は深く頭を下げた。
たぬきの精も、なぜかこちらを見て、ぺこりと頭を下げた。
礼儀正しい。
やめてほしい。
笑ってしまう。
梓は空いている場所に立った。
先生が、最初の姿勢と呼吸を説明してくれる。
足を肩幅に開く。
膝をゆるめる。
肩の力を抜く。
腕をゆっくり上げる。
ゆっくり下ろす。
思ったより難しい。
ただ腕を上げ下げするだけなのに、肩に力が入る。膝が不安になる。呼吸が浅くなる。
太極拳は、おばあちゃんたちがゆっくり動いている健康なやつ、という雑な認識で来たが、実際には全然ごまかしがきかなかった。
ゆっくりだからこそ、雑に動くと自分でわかる。
梓は、真面目に先生の動きを見た。
すると視界の端で、たぬきの精もたいへん真面目に腕を上げていた。
短い腕が、ゆっくり上がる。
ふさふさした尻尾が、重心移動に合わせて、わずかに揺れる。
「うっ」
危ない。
声が漏れそうになった。
梓は唇を噛み、必死でこらえた。
笑ってはいけない。
笑ってはいけない。
だが、たぬきの精は真剣だった。
真剣というものは、ときどき、ふざけているより面白い。
休憩時間になると、梓は水を飲んだ。
息は少し上がっている。
汗もにじんでいる。
だが、嫌な疲れではなかった。
身体の奥に、久しぶりに血が回ったような感じがする。
来てよかったかもしれない。
そう思ったとき、横から低い声がした。
「あなた、見える方ですね」
梓は、ペットボトルを落としかけた。
たぬきの精が、すぐ隣にいた。
近くで見ると、ますますたぬきだった。
ただし、目はたいへん真剣である。
梓は周囲を見た。
先生は他の受講生と話している。人間の受講生たちは、たぬきの精に気づいていないようだった。
どう返せばいいのか。
見えません、と言うには、あまりにも目が合っている。
梓は小声で答えた。
「……たぶん」
「やはり」
たぬきの精は、深く頷いた。
「驚かせてしまい、申し訳ありません」
「いえ」
いえ、で合っているのか。
太極拳教室でたぬきに謝られる経験は、人生で初めてだった。
「こちらの教室には、長くお世話になっております」
「あ、そうなんですね」
「二十四式を、きちんと覚えたいのです」
真面目だ。
想像以上に真面目だ。
「山の仲間には、年寄りくさいと笑われました」
「そんなことは」
「しかし、膝と腰には、ゆっくりした運動がよいと聞きました」
「それは、たぶん、人間にもそうです」
「人ならざるものにも、有効でしょうか」
「そこは、ちょっとわからないです」
梓は正直に答えた。
たぬきの精は、また深く頷いた。
「正直なお方です」
褒められたのだろうか。
わからない。
「ただ、人間の教室に混じってよいものか、少し迷っておりました。見える方が来られたのは、何かのご縁かもしれません」
「私は今日が初回なので、判断はできませんけど」
「はい」
「でも、邪魔はしていないと思います」
むしろ、誰よりも真面目である。
その一言は、梓の胸の中にしまった。
言えばまた笑ってしまいそうだった。
「そうですか」
たぬきの精の丸い顔が、少しだけ明るくなった。
「それなら、来週も参ります」
「あ、はい」
「あなたも?」
まっすぐ聞かれて、梓は少し困った。
来週。
来週も来るのか。
今日だけ体験して、疲れたらやめるつもりだった。
後腐れなく。
さっぱりと。
そのためのカルチャーセンターだった。
けれど、梓は自分の膝と、さっきまで動かしていた腕を思った。
ゆっくりした動き。
深い呼吸。
すぐにはうまくできないけれど、終わったあと、身体の奥が少し温かい。
それから、誰よりも真面目に太極拳をするたぬきの精。
「……たぶん、来ます」
言ってから、自分で少し驚いた。
たぬきの精は、たいへん礼儀正しく頭を下げた。
「それは、心強い」
「心強いですか」
「見える方がいてくださると、こちらも姿勢を正せます」
「いや、私も初心者なので」
「共に励みましょう」
重い。
体験初日に、たぬきの精と共に励むことになってしまった。
梓は、笑いそうになりながら、なんとか頷いた。
「はい。できる範囲で」
休憩が終わり、先生が声をかける。
梓は立ち上がった。
たぬきの精も、すっと立った。
短い足で、きちんと肩幅に開く。
もう駄目だった。
梓は顔を伏せ、肩を震わせた。
「どうしました?」
先生が心配そうに聞く。
「いえ、すみません。ちょっと、呼吸が」
「無理しないでくださいね」
「はい」
呼吸は大事だ。
笑いをこらえるためにも。
講座が終わるころには、梓の身体はほどよく疲れていた。
だるい。
でも、悪くない。
先生に室内履きのことを聞くと、「最初はそれでも大丈夫ですよ。ただ、慣れてきたら、もう少し底が平らなものの方が動きやすいかもしれません」とやさしく言われた。
ありがたい。
初回から全否定されなかった。
それだけで救われる。
帰り際、たぬきの精が教室の端で、また梓に頭を下げた。
「来週も、よろしくお願いいたします」
なぜか非常にきちんとした挨拶だった。
梓も、反射的に頭を下げた。
「こちらこそ」
太極拳教室、初日。
どうやら受講生は、人間だけではないらしい。
建物を出ると、夕方の空が薄く明るかった。
梓はスマホケースの内側をそっと見た。
黒い名刺が入っている。
上海龍神公司。
陸雲深の名刺。
困ったときはこちらへ、と言われた。
けれど、これは困りごとなのだろうか。
少なくとも、少し楽しい。
梓はスマホケースを閉じ、駅へ向かって歩き出した。
階段で息は切れる。
体力もまだない。
太極拳も、たぶん全然できていない。
けれど、来週の予定がひとつできた。
それは、悪くなかった。
世界は、上海から帰ってきても、元通りにはならなかった。
錆びた階段も、非常勤の給料も、通帳残高も、そのままだ。
でも、少しだけ変なものが見える。
そして今日は、真面目なたぬきの精と一緒に、ゆっくり腕を上げた。
梓は思わず、また少し笑った。
「うっふ……」
今度は、こらえなかった。
この短編は単体で読める後日譚です。
梓が上海で何を見たのか、陸雲深とどう出会ったのかは、電子書籍『上海、龍神、37歳のわたし』で読めます。
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※この短編だけでもお楽しみいただけます。
※本編未読でも問題ありません。




