言葉を紡ぐ日々
拓也が文芸部に入ってから、放課後が楽しみになった。
毎日4時になると、私は心躍らせて部室に向かう。彼はいつも私より少し遅れて来るのだけれど、その数分間がもどかしくて仕方がない。
「お疲れさまです」
扉を開けて彼が現れると、部室の空気が一変する。まるで陽だまりが広がるように、全てが柔らかく輝いて見える。
「今日は何を書くんですか?」
「恋愛小説を書いてるの。でも、なかなかうまくいかなくて」
実際は、彼のことばかり考えてしまって、全然筆が進まなかった。主人公の女の子の気持ちを書こうとすると、自分の今の心境とかぶってしまう。
「恋愛小説...。桜井さんって、恋愛経験豊富なんですか?」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて否定する私を見て、彼はくすりと笑った。その笑い声がとても優しくて、私の心はますます彼に惹かれていく。
「僕は恋愛小説、苦手なんです」
「どうして?」
「現実味がないというか...永遠の愛とか、ずっと一緒にいようとか、そういう約束って、誰にもできないと思うから」
彼の横顔に、一瞬深い影が差した。なぜだか胸が痛くなる。
「でも、一瞬一瞬を大切にする恋愛なら素敵だと思います。今この瞬間の気持ちを、精一杯伝え合うような」
「今この瞬間...」
私は彼の言葉を反芻する。確かに未来のことなんて誰にもわからない。でも今、この部室で彼と過ごしている時間は、確実に私のものだ。
「桜井さんの原稿、読ませてもらってもいいですか?」
「え?でも、まだ全然だめで...」
「構いません」
彼が読んでいる間、私は心臓が止まりそうなほど緊張していた。自分の書いた恋愛小説を、好きになりかけている人に読まれるなんて。まるで心の中を覗かれているみたい。
「すごくいいですね。主人公の女の子の気持ちが痛いほど伝わってきます」
「本当?」
「ええ。特にこの部分」
彼が指さしたのは、主人公が男の子に恋をして、毎日が色づいて見えるようになったという描写だった。
「実体験みたいに生き生きしてます」
ドキッ。まさか気づかれた?
「そ、そんなことないよ。想像で書いただけ」
でも彼は意味深に微笑んでいた。
その日から、彼は自分の作品も見せてくれるようになった。彼の文章は繊細で美しくて、でもどこか切ない。まるで命の重さを知っているかのような深みがあった。
「佐藤くんって、なんでこんなに心に響く文章が書けるの?」
「僕は...時間の大切さを人より知ってるのかもしれません」
また、あの影のある表情。私は踏み込んで聞くことができなかった。でも、彼の書く文章を読むたび、この人ともっと深く知り合いたいという気持ちが募っていく。
五月の終わり頃、彼が珍しく体調を崩して学校を休んだ。
「風邪でしょうか?最近疲れやすそうでしたし」
心配で心配で、授業中も彼のことばかり考えていた。明日は来るかな。大丈夫かな。
翌日、彼が元気に登校してきた時は、本当にほっとした。
「心配しました」
「ありがとうございます。桜井さんに心配してもらえて、嬉しいです」
その言葉に、私の頬はりんごのように赤くなった。もう隠せない。私は彼を好きになっている。確実に、間違いなく。