感覚の器
【男と“口”】
夜更け、自室の空気が突然ざらついた。
テレビもパソコンも切っている。静かなはずの部屋の真ん中に、それは浮かんでいた。
──口。
唇だけが、にたりと笑って、空中にぽつんと漂っている。輪郭は曖昧で、肌色の中に異物のように歪んだ赤が滲む。
「……は?」
男は瞬きしながら一歩引いた。が、次の瞬間、口が勝手に喋り出す。
「うふふ、可愛いねぇ」
その声はどこか湿っていて、じわじわと耳の奥に残る。
ぞわっと鳥肌が立った。けれど、怖さと同じくらい奇妙な面白さが勝っていた。男は試しに話しかける。
「……おい、お前なんだ?」
口は応えない。ただにやにやと喋り続ける。
「俺のことは気にせず、シャワーでも浴びたら?」
「待って待って〜」
こっちの声がまるで届いていない。ただ喋るだけで、こちらの言葉には一切反応しない。
なるほど──こいつ、耳がないんだ。
そんな異様さにも慣れかけた頃だった。
口の動きが止まった。怯えたように震えはじめ、部屋の天井や壁をめちゃくちゃに飛び回る。
「落ち着けよぉ、冗談じゃないかぁ……!」
「やめてくれ!来ないでくれ!──」
口が突然、何かに打ち据えられたように「うっ!」と呻いたかと思うと、勢いよく空中から床へと叩きつけられた。
そして──
「ぎゃああああああああああっっっ!!!」
叫びは甲高く、どこか濁っていて、耳の奥に刺さるようだった。
口はしばらく痙攣していたが、やがて力尽きたようにピクリとも動かなくなった。
【女と“目”】
鏡台の前で髪を乾かしていたときだった。
ふと視線を感じて振り返る。そこには、なにもない──はずだった。
でも。
天井のあたりに、なにかが浮かんでいた。
丸く、大きな“目”。むき出しの眼球が、じっとこちらを見つめている。
「……うそでしょ……なに、あれ……」
白目の血管が網のように走っていて、瞳孔は細く収縮していた。瞬きもしないその視線が、肌に突き刺さるように不快だった。
彼女は慌てて部屋の隅へ逃げる。だが、目玉はゆっくりと──だが確実に、彼女を追ってくる。
「やだ……やだやだやだ……来ないで……!」
泣きそうな声を漏らしながらも、逃げ場のない部屋の中で、恐怖はじわじわと追いつめてくる。
そのとき──彼女の中で何かが切れた。
「──ふざけんな!」
恐怖が怒りに変わった。彼女はキッチンからフライパンを引っつかみ、目玉を追いかける。
まるでネズミを追いかける猫のように、今度は彼女が執拗に目を追い詰めていく。
「見てんじゃねえよ! どっか行け!!」
そしてついに、目玉を床に叩き落とす。
彼女は迷わずその上に足を振り下ろす。
ぐしゃりと潰れた音がした。
彼女はしばらくその場に立ち尽くし、肩で息をしていた。
【路地裏の“穴”】
酒がまわって、足取りがふらつく。
居酒屋での笑い声がまだ耳の奥に残っていた。帰り道の夜風が、頬に冷たかった。
コンビニを過ぎ、少し外れた裏通り。
ふと気配を感じて足を止める。誰かが、うずくまっているのが見えた。
──人だ。男だ。背中を丸め、苦しそうに息をしている。
「……だいじょうぶスか……?」
酔ったままの足で、心配になって近づいた。返事はない。
呻き声も、助けを呼ぶ声もない。ただ、肩が震えている。
「ちょっと、おい。どうし──」
その男が、こちらを振り向いた。
息が止まった。
顔が、
顔の中心が──おかしい。
右目だけが、虚ろにこちらを見つめていた。
だが、左目がない。目があったはずの部分がぽっかりと黒く、何かに“えぐり取られた”ように、闇が浮かんでいる。
唇も──下顎も──なかった。あるべき場所に、ぽっかりと黒い“穴”が広がっている。
光が吸い込まれるような、絶対的な暗さ。
それは単なる怪我や欠損ではなかった。存在そのものが、そこだけ削り取られているようだった。
「…………な、なんだよ、これ……」
思わず後ずさる。心臓がどくどくと早鐘を打ち、吐き気が込み上げてくる。
男の顔は、そのまま静かに──まるで哀しみでも湛えるように、こちらを見ていた。
叫ぶことも、見返すこともできない顔で。
その“穴”の中に、誰かの叫び声がこだました気がした。
──ぎゃああああああああああっっっ!!!
どこか遠くで響いたはずの、断末魔が、闇の底からにじみ出ていた。