1 この森はどこから現れたの?
会社からの帰り道、私は突然穴の中に落ちた――
微妙に田舎と栄えた所が混じり合った地方都市、そこが私の住んでいる街だ。最寄り駅から一人暮らしのアパートまでの道程も、普通の住宅街で特に変わったところもない。
少し残業をしたから空も暗くなっていて、微妙に田舎なので街灯もあまり多くない。だから当然穴になんて気が付かなかった。
いつもの道を歩いていただけなのに、急に足元がなくなったのよ。唐突な浮遊感に思わず叫び声を上げた。
「ヒィィィーーーッ!」
意外とかわいい悲鳴って出ないもんだね。そんなどうでもいい事を頭に思い浮かべた時、ドサッとお尻から着地した。
「いったぁ〜、なにこれ」
土? さっきまでアスファルトの道路を歩いていたのに、お尻の下には草が生えている。
立ち上がってお尻の土埃をパンパンと払い落とした。というか、こんな景色は見たことがない。
「ちょっ、この森はどこから現れたの?」
何度まばたきをしても見間違いではなく、なぜか森の中にいる。しかも、駅からの道は暗かったはずなのに、ここは昼間のようだ。神隠しにでもあったのかな。とりあえず私はカバンを拾って、落とした物がないかを確認した。
カバンの中のスマホも電源は入っているけど、やっぱり圏外か〜。森だもんね、なんとなくそんな気がしていた。それに日付と時間の表示がおかしい。全部『0』になっている……なんだこりゃ?
ガサガサッ
「誰っ!?」
草を踏む音がして、とっさに振り返った。するとそこには、灰色の大きな犬のような動物が立っているじゃないの。
「うそっ、犬? オオカミ? 日本にオオカミっていたっけ?」
オオカミにしても大きさがおかしい。身長百五十五センチの私より確実にデカい。
そのオオカミ(仮)が舌を出してダラダラとヨダレを垂らしている。あ、食われるなこりゃ。
「とりあえず逃げよ!」
私は森の中をやみくもに走り出した。元陸上部だから、それなりに走れる。だけど仕事帰りなのが災いした。ローヒールパンプスとパンツスーツだったのだ。スニーカーならもっと走れたのに!
「いーやー! たーすーけーてー!」
「ウオォーーン!」
オオカミ(仮)も、一声鳴いて走り出した。いたぶるようにわざと一定の距離を空けて追いかけてくる。く、くっそー! 元陸上部を舐めるなよ!
木の間をグネグネと曲がりながら走った。木の根を避けながら走るのって、結構脚にくる。就職して四年、最近はあまり走っていなかったからなぁ。足がもつれそ――
「伏せろーー!」
突然、野太い男の人の声が響いた。私は伏せた――というか転けた。
ズシャッ! っという音が背後から聞こえたかと思うと、『ギャイーン』という獣の鳴き声が響いた。えっ、なにが起こったの?
体は伏せたまま、恐る恐る後ろを振り返ると、大きくて真っ黒い背中が見えた。今度はクマ? いや違うな。ちゃんと服を着ているし、手に剣のような物を持っている。
「隊長ー! 大丈夫ですか!?」
「ああ、なんとか仕留めた」
ワラワラと揃いの制服のような服を着た人達が駆け寄ってきた。私は伏せたままボケーッとその人達を見ていると、大きな背中が振り返った。あ、やっぱりクマだわ。
「大丈夫か? 怪我は?」
それは、ワイルドなあごひげを生やした、厳つい顔の男性だった。体つきもゴツい。深いブルーの瞳に茶色の硬そうな髪。その見た目に反して、声は優しく感じられた。
「は、はい。ちょっと転けただけです」
男性の手を借りて立ち上がった。この人、手も大きいな。
「バウム隊長、魔石も採れましたー!」
「わかった」
この人、偉い人なのかな。隊長って呼ばれている。よく見ると制服もちょっと違う。みんな詰め襟の黒い軍服みたいな服だけど、隊長と呼ばれた人だけ上着の裾が膝のあたりまで長くなっている。
私はこの『隊長さん』に、助けてもらったお礼を言う。
「危ないところを助けてくださって、ありがとうございました」
「いや、無事で良かった。君はこんな森の中で何をしていたんだ? ここは魔物が出るから危ないぞ」
「魔物? あれ、オオカミじゃないんですか?」
さっきのオオカミ(仮)がいた所を見ると、シューっと煙が上がって姿が見えなくなっていた。
「わっ、消えた?」
「魔物は死ぬと魔石を残して消えるんだ。知らないのか?」
「えっと、はい。そもそもここはどこですか?」
「まさか、迷い人か!」
「たしかに迷ってるっちゃ迷ってますけど。家に帰る途中で穴に落ちちゃって、気付いたらこの森にいたんです」
周りにいた制服の人達がざわついた。
「君はどこから来た?」
「日本ですけど」
「ニホン……ここはブレンターノ王国だ。聞いたことがあるか?」
ヨーロッパのあたりにそんな国があったかな? 地理の授業で習った覚えはないな。
「いいえ、初耳です」
「やっぱり……君は迷い人だ」
「ええ、だから迷ってます」
「そうじゃなくて、『ここではない別の世界から飛ばされて来た人』という意味だ」
「ええーーー!?」
まさかの異世界転移ってやつ? なんで私が……トラックにもぶつかっていないのに。
普通に仕事をして、普通に家に帰っていただけだよ? 変な穴には落ちたけど。
「あの、家に帰る方法ってありますか?」
「残念ながら、一方通行みたいなんだ。元の世界に戻ったという事例はない」
「マジか……」
どうしよう、会社を無断欠勤することになるな。いや、戻れないんだからクビか。家族も、私が突然いなくなったら心配するだろうな。
「俺は王立騎士団第五隊長ベルノルト・バウムだ。君は?」
「江藤 莉子です」
「わかった。エトー、とりあえず俺が保護する。ここに居ては危険だ。一緒に王都の騎士団へ行こうか」
「お願い、します」
ベルノルト・バウムと名乗った騎士隊長さんは、他の騎士さん達に向かって言った。
「討伐要請のあったヴォルフは倒した。迷い人保護のため、予定より早いが騎士団本部へ帰還する」
「「「ハッ!」」」
騎士さん達に囲まれて、馬が待つ所まで歩いた。どの人も職業柄かガタイがいい。その中でも隊長さんは飛び抜けて逞しかった。
「エトー、俺の馬に乗ってくれ」
「私、馬に乗ったことがないんです」
「大丈夫だ。ここに捕まって」
隊長さんは私のお尻のあたりを支えると、ヒョイと馬に乗せてくれた。私の後ろから隊長さんが乗ってくる。うわ、近い。というか、ほぼバックハグ。隊長さんが私の体を包み込むように手綱を握っている。これなんか照れるわー。
「少し揺れるが、辛抱してくれ」
「は、はい」
森を抜けると、小さな集落があった。そこを馬で通り抜けると、遠くに城壁で囲まれた街のようなものが見えてきた。わ〜なんか映画みたい。
「エトー、あそこに見えるのが王都だ」
「おぉ〜、大きな街ですね」
「着いたらまず、君の市民権を取らなければな」
「迷い人って、どこかに魔王を倒しに行ったり、聖女として穢れを浄化したりしなくていいんですか?」
「なんだそりゃ? 魔王なんかいないぞ」
「そうですか、よかったです〜」
着いたばかりで、いきなり旅に出ろとか言われても困るもんね。なにかのゲームや小説の世界ではなさそうだ。
「身元引受人と一緒に、役所へ届け出るだけだ。迷い人は不可抗力で飛ばされて来ただけだから、わりとすぐに市民権が取れる」
「私、ここに知り合いなんていませんよ」
「大抵は最初に見つけた人間が身元引受人になるんだ。エトーの場合は俺だな」
「隊長さんが? それはどうも、重ね重ねご迷惑をおかけします」
「気にするな。人助けは騎士の仕事のひとつだ」
たとえ仕事でも、見ず知らずの異世界人の面倒を見るだなんて、良い人すぎない?
「こんな小さな女の子がひとりでいるなんて、放っておけんからな」
ん? もう女の子なんて歳でもないんですけどね。




