【短編版】「俺は運命の聖女と結婚する」と捨てられた令嬢ですが、その聖女とは私のことです
「ユーリア、お前との婚約を破棄する」
数多の貴族達が集まる舞踏会の場で、婚約者であるヴォイド様は私にそう告げた。
ヴォイド様の隣では、私の妹リリーナが彼に腕を絡め寄り添っている。
「俺は、お前に聖女の証があるから、仕方なく婚約してやっていたのに。お前は偽りの聖女であり、リリーナこそが真の聖女だったのだと、ようやく気付くことができた。今まで、よくも俺を騙してくれたな」
この国に生まれる、左手に花の紋章がある乙女には、聖女の力が宿ると言われている。
聖女は癒しの力を持ち、人々を救うものである――それが、古から言い継がれてきた伝承だ。
クリスタリム子爵家の長女である私は、生まれた時から左手に花の紋章があった。だから聖女だとして、3歳の時にゲルニア公爵家の嫡男である彼、ヴォイド様との婚約が決められた。
最初のうちは、私が子どもだから、まだ聖女の力を使えないのも仕方ないのだろうと、周囲の皆思っていたようだ。
だが時が経ち私が成長しても、私が皆の前で聖女の力を発現させることはなかった。6歳になる頃には「まだ聖女の力が使えないのか」と、次第に家族から責められるようになった。
聖女の力を使えるようになるため、という名目で、鞭で打たれたり、「力が発現するまで食事は抜き」と言われてひたすら飢える時間を続けられたり、過酷な日々を送ってきた。
一方で、一つ年下の妹リリーナは、聖女の証がないゆえに何の責任も負わず、ただ親から可愛がられ、甘やかされてきた。「お姉様が力を使えるようになるよう、私も協力しますわ」と私を鞭で打ったり、「お姉様には必要ないようですので私がいただきますね」と言って、やっと与えられた私の食事を横取りしたりすることも多々あった。
「俺の運命の相手は、リリーナだったのだ。ああ、運命の人がこんなに身近にいたというのに、気付くことができなかったなど……。それもこれも全部お前のせいだ、ユーリア」
私と同い年のヴォイド様は、10歳の時に「運命の人に出会った」と言い出した。
彼は他領での祭りに行って馬車で帰って来る際、森で馬車ごと魔物に襲われ、彼もその家族も御者も、皆瀕死の重体だった。
しかし何の奇跡か、皆が目を覚ました時には、全員魔物にやられた傷が治り、無事だったのだという。
魔物に襲われたのは夢だったのではないかと誰もが思ったが、馬車は修復しておらず破壊されたままで、それは襲撃が夢ではなかったという確かな証拠だった。
ヴォイド様はその際、とても優しく美しい声を聞いたのだという。自分を心配し、懸命に救おうとしてくれる声――清らかで尊い、「聖女」そのものの声。
死に際で意識が朦朧としており、その人の顔や姿などは一切覚えていなかったらしい。
だけどヴォイド様はそれによって、この世界には私のような無能ではない「真の聖女」がいるのだと信じ、「俺の命の恩人であり、運命の人」として探し回るようになった。
同時に、ヴォイド様はそれをきっかけに私に対し「この世には素晴らしい聖女もいるというのに、それに比べてお前はいまだに何の力も使えない無能だ」「お前のような役立たずが婚約者など、俺の顔が立たないだろう。俺に恥をかかせるな」と疎ましく接するようになったのだ。
ぐっと拳を握りしめ――ゴミを見るような目で私を見ている彼へ、視線を返す。
「あなたを救った『真の聖女』がリリーナだと……本気でおっしゃっているのですか?」
婚約者として、お互いの家族とは面識があり、昨日今日に会ったわけではない。ずっと昔から彼はリリーナのことを知っていたのに、今更になって真の聖女と思ったというのだろうか。
「全てお前が元凶だろう、ユーリア。お前がリリーナを虐げて、俺を助けた聖女であることをずっと口止めしていたのだと、リリーナから聞いたぞ」
「でしたら、それはリリーナの嘘です。私はリリーナを虐げるなどしておりません。むしろ、私の方がリリーナから非道な仕打ちを受けておりました。リリーナは昔から私のものばかり欲しがるのです。だから、私の婚約者であるあなたが欲しくて、そんな嘘を言ってあなたを誑かしたのでしょう」
(……そんな嘘で誑かされる方にも、問題があるけど)
私が真実を述べると、リリーナはヴォイドの胸に顔を埋め、くすんくすんと涙を流し始めた。
「お姉様、酷い……。こんなに大勢の方々の前で、私を嘘つき呼ばわりするなんて。そんなに私のことがお嫌いなのね……」
内面の黒さと裏腹に外見は可憐なリリーナが涙を浮かべると、まるで美しい悲劇のヒロインそのものだ。周囲の人々はその儚い魅力に見惚れ、たちまち私は、彼女を貶める悪女にされてしまう。
「ユーリア貴様、か弱いリリーナを泣かせるとは! 無能なうえに妹を虐げるなど、どこまで性根が歪んでいるのだ!」
「いいんです、ヴォイド様。私はお姉様の妹ですもの。お姉様の嫉妬も悪意も、受け止めて差し上げなくては……」
「リリーナ……君は本当に心優しい。そんな君が苦しんでいたのに、私は今まで救えなかったなんて……っ」
ヴォイドとリリーナは、熱い抱擁を交わす。完全に2人の世界だ。周りには私だけではなく、大勢の貴族達もいるというのに。
(これは……もう、何を言っても無駄そうだな)
自分達だけの世界に浸っている2人を見ていると、心がすっと冷えてゆく。婚約破棄は受け入れるから、一刻も早くこの場を離れたい。
(でも、その前に一つだけ……)
「ヴォイド様。あなたはリリーナが真の聖女だと言いますが、リリーナが癒やしの力を使っているところを見たのですか?」
「当然だろう。先日、俺が体調を崩して苦しんでいた際、悪夢にうなされていたら、急にふっと楽になってな。目を覚ましたらリリーナが傍にいてくれた。リリーナが俺を癒やしたのだ。それで俺は、リリーナが真の聖女だと確信した」
「そうですか。ではもう私のことは必要ないと、今後何かあっても二度と私に縋ることはないと、誓ってくださるのですね」
「はあ? 何を当たり前のことを言っている、今この場にいる貴族達全員を証人にして誓ってやろう。お前のような嘘つき聖女に縋ることなど、有り得ない!」
「――わかりました。その誓い、必ず守ってくださいね」
「はは。この俺が誓いを破ることがあったら、そのときは裸で領地を一周してやってもいいぞ」
(たった今婚約という誓いを破った後で、よくそうも自信満々に言えるものだな……)
いずれにせよ、言質はとった。後はもう――どうにでもなれ。私の知ったことではない。
「ではこれからは存分に、お二人で真実の愛とやらを育んでください。さようなら」
私は、「お前にはこれで充分」と親に渡された、リリーナより数段質素な、舞踏会用のドレスというより使用人の衣服のようなワンピースを翻し、彼らに背を向ける。
普段は「舞踏会なんていう煌びやかな場所に、お前は不釣り合い」と言われ参加することを許してもらえず、初めて許可が下りたと思ったらこれだ。おかげで舞踏会というものに嫌なイメージがついてしまった。
「っておい、ユーリア貴様! 血の繋がった妹に、新たな婚約の、祝いの言葉すらかけてやらないというのか!? 本当に何と冷酷な女なんだ、お前は!」
(……婚約者を奪われて、何をどう祝福しろというの)
祝ってもらえると思っている方が驚きだ。どこまで脳味噌がお花畑なのだろう。
「いいかユーリア、お前は今まで、真の聖女であるリリーナに口止めをし、自分が聖女であるかのように振る舞っていた大嘘つきだ。お前は大罪人なのだ、許されると思うなよ!」
――もういい、ここまで愚かな元婚約者なら、未練も何もない。心は完全に冷え切っており、もう彼に対する情は一欠片すら残っていない。
煌びやかなパーティー会場を出ると、ひやりとした夜風が通り過ぎていった。
◇ ◇ ◇
リリーナにはともかく、私に馬車など用意されているはずがない。徒歩でタウンハウスまで帰ると、出迎えたのは父と母からの侮蔑の表情だ。
父と母は、私が外から帰ってきても、いつも「おかえり」などと声をかけてくれることはない。ただ虫ケラのように私を一瞥するだけだ。だから私も特に何か告げることなく、自分の部屋に向かおうとしたのだけれど――
「ヴォイド様から婚約破棄されたんだろう」
何の温度もない、機械仕掛けのような声でお父様がそう言った。
「……知っていたのですか」
「少し前に、ヴォイド様から相談していただいていたのだ。婚約相手を、ユーリアからリリーナに変えさせてほしいと」
「お父様とお母様は、それを了承したのですね」
「当然だ。他家の令嬢への心変わりなら話は別だが、リリーナはうちの娘だからな。ヴォイド様のお相手がお前からリリーナになっても、我が家に損害はない。むしろ、無能なお前を嫁がせるなど、ゲルニア公爵家に申し訳がないと思っていたのだ」
申し訳がないというか、きっと私がヴォイドから離縁されることを心配していたのだと思う。なんとか結婚までこぎつけたところで、どうせ私のような娘はいつかヴォイドに捨てられるのではと心配していたはずだ。そうしたら、クリスタリム家はゲルニア公爵家の後ろ盾を失うことになる。だったら、美しくて離縁される心配もないリリーナに乗り換えてもらった方が、両親としても安心だったのだろう。
「ヴォイド様が心変わりした相手がリリーナだったからよかったものの、他家の令嬢に奪われていたら、クリスタリム家の名折れだった。想像しただけでぞっとする」
「本当に、リリーナがいてくれてよかったわ」
(……よかった、ですって?)
婚約破棄されたばかりの娘の前で、よくそんなふうに笑っていられるものだ。
いや、わかっていた。この人達にとって愛しい「娘」とはリリーナのことだけで、私のことは役に立たない屑でしかないのだ。
「だけど本当に、お前のことはどうしたらいいのでしょうね。偽の聖女で、次期公爵様からも捨てられた役立たず、もらってくれる殿方などいないでしょうし。はあ、まったく……」
「いつまでも家にいられても困るし、召使いか、娼婦としてどこかに売るくらいしか使い道がないな。同じ姉妹で、リリーナとこうも違うとは……はあ、嘆かわしい」
◇ ◇ ◇
両親によるいやみをたっぷりと聞かされた後、私はやっと自分の部屋に戻ってきた。ぼふりと、質素なベッドに倒れ込む。
部屋といっても、広々とした室内に豪奢なシャンデリアや天蓋付きのベッド、綺麗なドレスがたくさん仕舞われている衣装棚などを揃えているリリーナと違い、私の居場所はこの狭い屋根裏部屋だ。
子どもの頃から、家族によってここに追いやられていたので慣れてはいるが、あらためて考えると、同じ家族とは思えぬ扱いに自嘲の笑みがこぼれる。
(……疲れた)
舞踏会で一曲も踊らず帰ってきたというのに、身体が泥のように重い。婚約破棄、そして家族からの罵倒で、心が疲弊しきっている。
このまま目を閉じて眠りに落ち――いっそそのまま、二度と目が覚めなければいいのに。そんなことを考えてしまうほど、もう、何もかもどうでもいい。
人形のようにベッドに横たわったままでいると、ふと、コツンと窓を叩く音が聞こえた。
(何の音……?)
のそりと顔を上げると、窓の外に見覚えのある影を見つけた。
「え? あなた、もしかして……」
窓を開けると、外から入ってきたのは、掌サイズの黒竜。――ミニドラゴンである。
このミニドラゴンは先日、怪我をしていたところを私が助けたのだ。
「また、私に会いに来てくれたの? ……わあ、綺麗なお花」
ミニドラゴンさんは、口に一輪の薔薇をくわえていた。
花を貰うなんて、何年ぶりだろう。昔……本当に昔の子どもの頃、ヴォイドからもらった記憶もあるにはあるけれど、もう彼は変わり果ててしまった。切ない思い出に胸が軋む。
(でも、このドラゴンさんが会いに来てくれたことも、お花をくれたことも、嬉しい)
独りでは悲しみに押し潰されてしまいそうだったから、この子の訪れに感謝する。
そっと手に乗せると、ミニドラゴンさんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「……せっかく来てくれたのに、こんなに元気のないところを見せてしまってごめんなさい。でもね、今日ばかりはどうしても辛くて……聞いてくれる?」
他の誰にも話せないから、せめて少しでも気持ちを吐き出したかった。
ミニドラゴンは、当然だけど言葉を話せるわけではない。私の言うことなんて理解していないだろう。けれど私は、今日起きた出来事をぽつぽつと語った。
「ヴォイドとのことは親同士が決めたことで、私も、別に彼を愛していたわけじゃない。私は結婚相手と心から愛し合うことはできないのだって、近年はもう諦めていたけれど……それでも昔は、いつかきっと2人で幸せになれると、信じていた時期もあったのにね」
じわりと涙が浮かんでくるけれど、あんな人達のせいで涙をこぼしたくなどない。ぐっと唇を噛み締め、泣くのを耐えた。
「私はもう、どこにも居場所がない。……いっそこのまま消えてしまうのも、いいなって思うの」
(だって――本当は私が消えたら困るのは、皆の方なのだもの)
左手を天井に伸ばすと、花の紋章……聖女の証が目に入る。
私は間違いなく聖女であり、10年前にヴォイドとその家族達を魔獣の襲撃による瀕死から救ったのも私である。
私は力を使えないわけではない。むしろ子どもの頃から回復、解呪、浄化、解毒など、聖女の力を一通り使うことができた。だけど――
「能力開示」
そう唱えると、眼前に私の能力値を示した光の表が現れる。これも聖女の力の一環であり、普通の人にはこの「能力開示」を行うことはできない。
・ユーリア・クリスタリム
・Lv.100 大聖女
・HP 55,403
・MP 107,883
・特殊能力 聖女の力
・備考1
歴代の聖女の中で最大の力を保有する大聖女。
その代償として、制約がある。制約とは、
「聖女の力について、決して自分から口外してはならない」である。
大聖女の力は人間にとって誰もが欲するものであり、その力が知れ渡れば、争いを生むことになりかねないからだ。
聖女は人間に力を明かさず、人間から隠れて力を使わねばならない。
例外として、人間ではないもの相手であれば隠さなくとも可とする。
制約を破り自分から聖女の力について口外した際、力は消滅する。
・備考2
聖女が寿命以外の要因で命を落とした場合、それまで聖女の力によって行われた治癒・解呪・浄化・解毒などは全てなかったものとなる。
……そう。この「制約」こそが、私が今まで真の聖女であると名乗り出ることができなかった理由。
私は聖女として強大な力を持っているが、それを自分で言ったり、人前で使ったりしてはならない。 この力のことは、隠し通さなければならないのだ。でなければ、力を使えなくなってしまうから。
だから私は、今まで大勢の人達を助けてきたけれど感謝されたことなんてないし……それはこれからも、変わらないだろう。
◇ ◇ ◇
婚約破棄されてから数日後、私の家に、とある話が舞い込んだ。
「喜べ、ユーリア。無能なうえ婚約破棄されたなんて醜聞を持つお前が今後他家に嫁ぐことなど不可能だと思っていたのだがな。なんと、お前を嫁にと望んでくれる家があったのだ」
「そうですか」
あまりにも淡々とした返答に、お父様は一瞬むっとした様子だったけれど、私の反応を楽しむようにニヤニヤと笑いながら続けた。
「お前が嫁ぐ家は、オブシディア辺境伯のもとだ」
「そうですか」
(どうせ、そんなことだろうと思っていた)
オブシディア辺境伯領といえば、凶暴な魔獣の巣窟。
人間が生きてゆくにはあまりに過酷な環境である。そんな領地で代々育ってきたオブシディア家の人々もまた、恐ろしい魔女の血を引いている、呪われた一族だと噂されているのだ。今まで、オブシディア領に足を踏み入れた者が何人も行方不明になっているのだとかなんとか。
「なんだ、オブシディア家に嫁ぐことが怖くないのか。奴らは禍々しい、魔女の血を引くと言われている一族。恐ろしい、魔の眷属なのだ。お前を屋敷に閉じ込め、太らせてから食うつもりかもしれんぞ? まあお前のような無能、化け物の餌としてくらいしか役に立たんがな。ははっ」
(……化け物の餌、か)
私はその後すぐ、着の身着のまま馬車に詰め込まれ、ガタゴトと揺られ続けた。王都からオブシディア領までは、車輪に加速魔石のついた馬車でも数日かかるが、私は親から水も食糧も与えられていない。哀れに思った御者の人が水と少しばかりのパンを分けてくれ、領地に到着するまでそれで食いつなぐことになった。幼い頃からろくに食事を与えられないことはよくあったとはいえ、この辛さは慣れるものではない。
そうしてオブシディア辺境伯邸に到着した頃には、私は慣れない馬車旅と空腹でぐったりしていた。
屋敷から追い出された時そのままの、ツギハギだらけのワンピース。
化粧も何もしていない、栄養や睡眠不足で常に青白い顔に、骨のように痩せ細った身体。
自分でもはっきりと思うが、あまりにも酷すぎる姿だ。
しかも婚姻の持参金どころか、手土産一つ持っていない。非常識だとは思うのだが、持参金については、オブシディア家の方から、なしでいいと言ったらしい。
「……ユーリア・クリスタリムと申します。よろしくお願いいたします……旦那様」
もはや体力も気力も限界の中、これから旦那様となる人相手に、力のないお辞儀をした。すると――
「きゃ……!?」
ふわりと宙に浮く感覚。――私は、辺境伯様に抱き上げられていた。
(えっ、何? どういうこと?)
辺境伯様は、私を横抱きにしたまま屋敷の2階へと上がり、その中の一室へと入る。
そうして、私を天蓋付きの豪奢なベッドに横にした。
まさか嫁いできて早々に身体を求められるのだろうか、と身構えていたところで――ふっと、ひどく優しい声が降ってくる。
「今まで、辛かっただろう。……もう大丈夫だ」
ここに辿り着くまで、緊張や混乱でそれどころではなかったので、今初めて、ちゃんと辺境伯様の顔を見た。
(……すごく、綺麗な御方)
芸術品のような輪郭の中に、黒い宝石のような瞳、すっと通った鼻筋、形のいい唇が、これ以上はないという程絶妙な配置でおさまっている。
年齢は私より4つ年上の22歳と聞いていたが、彼と同世代の男性でも、これほど端正な容姿の御方は見たことがなかった。
漆黒の髪も、瞳も、深い闇の色なのに少しも恐ろしくない。むしろ、美しい夜空を映した湖面のように綺麗だ。魔女の血を引く、なんて噂通り――どこか人間離れした、魔性の美しさのようなものを感じる。
「ゆっくり身体を休めてくれ。食事は用意してあるが、食べられそうか?」
「え……? あ、はい……」
「なら、よかった。使用人、入っていいぞ」
彼の言葉で、部屋の外から使用人さんが、トレーに載せた食事を持ってきてくれた。
ミルクで柔らかく煮たパン粥だ。甘い香りがするから、砂糖も入っているのだろう。ここ数日ろくなものを食べていなかったから、そのいい香りだけで喉が鳴りそうになる。
「さ、口を開けてくれ」
「え……?」
これは、俗に言う「あーん」というものではないのだろうか。
口元にスプーンを差し出され、どうするべきか戸惑っていると、辺境伯様は真剣な瞳でじっと私を見た。
「どうした? パン粥は食べられないか? 別の料理にするか」
「い、いえ。いただきます……」
この状況では彼の手から食べさせてもらわないのも失礼かと思い、口を開いた。口の中にパン粥が入れられ、柔らかく優しい味わいがひろがってゆく。
「……どうだ、口に合うか?」
「はい……おいしいです」
「そうか、よかった……。他に食べられそうなら、果物も菓子もなんでも用意している。君の好きなものを言ってほしい」
「ありがとうございます。ひとまず、このパン粥で充分です……」
「そうか? もっと、どんどん食べてくれ」
辺境伯様は、次々と私の口元にスプーンを運ぶ。
(これは、もしかして……)
私は辺境伯様をじっと見つめ、ある考えに至る。
(もしかして、本当に太らせて食べるつもりなのかしら)
自分の家を追い出される際、父が言っていた言葉。
オブシディア家の人々は魔の眷属であり、私のことも、太らせて食べる気なのだと。
そうだ、でなければ嘘つき聖女であり婚約破棄された無能に対してこんな厚遇、有り得ない。優しく見せかけて、後から裏切ることで、私の絶望の顔を楽しむつもりなのだろう。これまでもリリーナの差し金で、一度私の味方のふりをしておいて、その後に私を突き落とす人達だって何人もいたし――
(でも、だったら好都合だわ。いっそこのまま、たくさんおいしいものを食べさせてもらって、太らせてもらって――最終的に、この御方に食べてもらおう)
私はもう、周囲に振り回される人生に疲れた。自分は楽になりたいし、私を虐げた人々に後悔させてやりたい。婚約者からも家族からもあれほど酷い言葉を投げかけられた私の心は、もう完全に壊れていた。
聖女である私がいなくなったら、困るのは皆の方なのだ。私が食べられてしまって、「真の聖女だったユーリアを家から追い出すような形で嫁がせた私達が悪かった!」と後悔すればいい。それが、私にできる最大の復讐なのだ。
そんなことを考えていると、辺境伯様と視線が重なった。すると彼は、「そうだ」と何かに気付いたように背筋を正す。
「自己紹介が遅れたな。俺はアートルム・オブシディア。この地を治める辺境伯だ。……これからは俺が、必ず君を幸せにすると誓う」
まるで、何かの楽器を奏でられているのではと錯覚してしまいそうになるほど美しい声色で語りかけられ――それは、胸を打つほど真摯に聞こえた。
しかし、これまで何度も他者に裏切られた私には通用しない。
(優しい微笑みで私を油断させて、太った頃に食べるつもりなのね……)
だけど、自分を食べるのがこんなに美しい人だというのは、少しだけ嬉しいかもしれない。私はかすかな笑みを浮かべ、お礼を告げた。
「ありがとう……ございます」
アートルム様は柔らかく目を細め、微笑を浮かべる。そのお顔は、ここが舞踏会であればどんな令嬢でも見惚れ、彼からダンスの誘いを待ち焦がれるのだろうというものだった。
「……君とこうして言葉を交わせることを、嬉しく思う。俺は君を妻に迎えることを、願っていた」
(今日初めて会ったのに……?)
やっぱりどう考えてもおかしいし、裏があるに違いない。
だけど――それからアートルム様は、本当に私によくしてくれた。
毎日、おいしくて栄養バランスも考えられた食事を、使用人さんが用意してくれて。1日3食どころか、たっぷりのジャムとクロテッドクリームが添えられたスコーンや、高価な砂糖がふんだんに使われたケーキを味わえるアフタヌーンティーまで出していただけるのだ。
食事だけでなく、他にも何不自由ない暮らしをさせてもらっていた。ここに来る前、私は家で使用人の代わりに毎日炊事や掃除などで忙しく、しかも無給だったため自由に使えるお金もなかったが――唯一の趣味として、図書館で本を借りて読んでいた。
このオブシディア邸での私の部屋には本棚が用意され、流行りの小説や往年の名作がずらりと揃えられている。おかげで気兼ねなく読書に没頭できるのが、とても嬉しかった。
更にそれだけではない。毎夜、花弁を浮かべた広いお風呂に入れるし、ふかふかのベッドで休んで、朝には使用人さんが優しく櫛で髪を整えてくれて……。本当に、至れり尽くせりだ。おかげで、痩せ細って骨のようだった身体にも徐々に肉が付き、肌や髪にも艶が出てきた。
「健康になってきたようだな。本当によかった」
「ありがとうございます」
(おいしそうになってきてよかった、って意味かな……)
「ほら、ユーリア。今日は他国から珍しい菓子を取り寄せたんだ。好きなだけ食べてくれ。とりあえず3つくらいでいいか?」
アートルム様と2人、花々に囲まれた庭でアフタヌーンティーを楽しんでいると、彼が手ずから私の皿に美しい砂糖菓子を取り分けてくれる。
「わあ、おいしそう……!」
「ユーリアは、甘い物が好きだろう? これもきっと気に入るだろうと思ってな」
私が砂糖菓子を食べるのを、アートルム様は紅茶を飲みながら見つめている。
「うまいか?」
「はい、あの……」
「どうした?」
「アートルム様から見て、私も『おいしそう』でしょうか?」
「……な!?」
私は今一般的な令嬢くらいの体型になったけれど、このくらいでそろそろ食べるつもりなのか、もっとぽっちゃりしてから食べるつもりなのか、知っておきたかった。残りの寿命がどのくらいなのかによって、本を最後まで読み切っておきたいとか、いろいろやりたいことも変わってくるし。
私の質問に、アートルム様は目元を赤くして動揺した。普段彼は、あまり取り乱すことなどないというのに。
(私を食べようとしている、という思惑を見透かされていたと知って、狼狽えているのかな)
だけどそもそも、私のような嘘つき聖女と呼ばれ婚約破棄された女を嫁に望んだ時点で、普通怪しむだろう。大丈夫、私はちゃんと、食べられてしまうことを受け入れている。ただ、食べられてしまうまであとどのくらいなのかを、純粋に知りたいだけだ。
「その……随分、大胆な質問をするんだな?」
「だって、心の準備をしておきたいですから。食べられちゃうんだと思うと、少しはドキドキしますが」
(そもそも、どうやって私を食べるつもりなんだろう? 料理するの? それともまさか踊り食い? どっちにしろ、痛いんだろうな……)
「そ、そうか。ドキドキ……してくれているのか」
「そりゃあ、しますね。でも……私のこと、おいしく召し上がっていただけたらいいなって思います」
(どうせ食べられるなら、まずいって思われるより、おいしいって思ってほしいしな)
私がそう言うと、アートルム様はゲホッと紅茶を吹き出しそうになった。
「あれ、大丈夫ですか? アートルム様」
「だ、大丈夫だ」
紅茶が喉の変なところに入ってしまったのか、アートルム様は顔が赤く、なんだかそわそわして落ち着きがない。
「あー、その……。君がそんな大胆な発言をすることに驚いたが……。君が俺との婚姻を前向きに考えてくれているということは、嬉しい」
(婚姻に前向き? ……私を太らせて食べようとしているということは、どこまでも隠して、とぼけておきたいのかしら)
優しい紳士なのだと期待を抱かせて、餌にする瞬間、一気に絶望に突き落とすのを楽しみたいタイプかもしれない。私の家族もそういう人達だった。まあ、そういうのがお好みだというのなら付き合って差し上げよう。
そう考えながら砂糖菓子をもぐもぐしていると、アートルム様は自分を落ち着けるようにこほんと軽い咳払いをした後、真剣な瞳を私に向けた。
「君がこうして俺のもとに来てくれたことを、本当に嬉しく思う。ユーリア……俺はこれからも、君を妻として、一生大切にする」
「――――」
口の中の砂糖菓子よりも、余程甘く優しい眼差し。
その中に、かすかな熱を帯びた真剣さが滲んでいる気がして……一瞬、時間が止まったように固まってしまった。
(……まるで、私が本当に婚約者みたい)
そんなわけ、ない。この人は、私を食べようと思っている人なのだ。
そう、思っていたい。
これ以上期待して絶望することには、もう、耐えられないから。
◇ ◇ ◇
その夜――オブシディア邸での私のベッドはとても寝心地がいいにもかかわらず、悪夢を見た。
「――ユーリア」
夢の中に出てきたのは、元婚約者であるヴォイドだ。
「ユーリア、どうした、まだ聖女の力を使うことができず落ち込んでいるのか? 大丈夫、そのうちちゃんと使えるようになるさ。だって君の左手には、こんなに美しい花の紋章がある。君が、確かに聖女だという証だろう?」
最後には、妹との不貞という最悪な形で私を捨てたヴォイドだけれど。彼は、最初から私に対し酷い扱いをしていたわけではない。――彼の私への態度が変わったのは、あの、魔物に襲撃されて以降だ。
「俺は真の愛に目覚めた! この世にはお前のような無能ではない、真の聖女様がいらっしゃるんだ。その御方が、俺の運命の相手だったのだ!」
――違う、それは私なの。聖女の力で、死にかけていたあなたを助けたのは、私なのに。
「ああ、なぜ俺には、お前みたいな婚約者がいるのだろう。俺を助けてくれた運命の相手は、俺に婚約者がいるからと身を引いてしまって、俺の前に姿を現してくれないのかもしれない。俺はなんて不幸なのだろう! 全てお前のせいだ、ユーリア!」
――違う、何もかも違う。私が聖女なのに。制約によって、私はそれを言うことができない。
――私は、間違っていたの? あの日、ヴォイドを助けなければよかったというの?
――聖女として人を救ったって、虚しいだけ。だって、私は誰からも愛されないのだから……
「……っ」
はっと目を覚ますと、ベッドの天蓋が目に入る。
(……また、あんな夢を見てしまったなんて)
ヴォイドと会わなくなってしばらく経つというのに、彼が私を責める声は、どろりと私の内側にこびりついて、じくじくと胸を痛ませる。
(ううん……。気にするのはやめよう。もうすぐ、私は食べてもらえる。そうして手遅れになった後、きっとヴォイドもお父様達も、自分がしてきたことを悔やむはずだわ……)
夢を見ているうちにこぼれていたらしい涙を拭っていると、ぱたた、と可愛らしい羽音がすることに気付く。音の方へ目をやると――
「ミニドラゴンさん!?」
生家にいた頃、私の部屋を訪ねてくれたミニドラゴンが、なんと今私の目の前にいる。
「すごい、どうしてここがわかったの……!? ドラゴンってすごく鼻がよくて、知ってる相手を見つけられるとか?」
自然と涙が消えて顔に笑みが浮かび、ミニドラゴンさんを撫でる。
「会いに来てくれて、嬉しい。でも……あなたに、お別れを言っておかないといけないわね。私、もうすぐあなたとも会えなくなってしまうから」
まるで私の言葉を理解しているかのように小首を傾げるミニドラゴンさんに、話を続ける。
「私ね、ここの辺境伯様に食べられてしまうの。どんなふうに食べるつもりなのかは、まだわからないけどね。むしゃむしゃと、頭から食べられてしまうのかしら……痛いだろうなあ。さすがに怖くてドキドキするわ」
「……!?」
ミニドラゴンさんは、すごくびっくりしているみたいに目を丸くする。
「それにしても、私みたいにやつれてガリガリだった娘にわざわざ甘いお菓子を与えて、太らせてから食べるなんて、不思議な辺境伯様よね。あれかしら、自分で育てた野菜の方がおいしい、みたいな感覚?」
「!?!?!?」
こぼれ落ちそうなほど目をまん丸にしているミニドラゴンさんに、更に語り続ける。
「もともと、婚約者に捨てられて、もうどうでもいいやって気持ちでここに来たの。オブシディア家の人は、私を太らせて食べる気なんだってお父様から聞いて、別にそれでいいと思っていたんだけど……。演技かもしれなくても、アートルム様はとても素敵な御方なの」
いつも私に向けてくれる、あの微笑みを思い出して――胸が締め付けられる。
「私ね、このお屋敷で毎日を過ごしているうちに……時折、アートルム様が本当に優しい人で、私のことを、ただ大切にしてくれているんじゃないかって、幻想を抱いてしまうときがあるの」
あの甘い眼差しが、優しくかけてくださる言葉が、偽りではなく真実であったなら。それは……どれほど幸福だろう。
「でも……そんなふうに、希望を持つべきではないわよね」
彼を信じ、その優しさに心から報いたいと思う。
だけど、私はこれまで人々の醜い面を見すぎてきてしまった。必死に救った人達だって、私を省みることなく、ただ自分勝手に聖女の力を享受した。聖女としてどれだけ人に尽くしたって、心を返してもらえることはなかった。
最も身近な人であった家族と婚約者に、あれほど酷く裏切られたのだ。もう、他者を信用することなどできない。
「また、人を信じて裏切られるのは……怖いもの」
ぽつりと呟いた言葉に、ミニドラゴンさんは、私を励ますように指先を撫でてくれた。
◇ ◇ ◇
ユーリアがオブシディア領に行った、1ヶ月後――クリスタリム家では、少しずつ異変が起き始めていた。
「クソッ! 今日も食事はこんなものしかないのか!」
ユーリアの父が、食卓に並べられた食事を見て頭を掻きむしる。
並んでいるのは、パン、焦げた肉、スープもどき、酸味の強い果実。
クリスタリム家は子爵家ながら使用人を雇っておらず、ずっとユーリア1人に家事を任せていた。父も母もリリーナも、幼い頃から貴族として、家事など下々の者がして当然と思っていたため、包丁を持ったこともないし薪オーブンを使ったこともない。
だから、ユーリアを追い出すように嫁がせてしまった今、クリスタリム家には家事ができる者がいないのだった。新しく使用人を雇ったのだが、父と母とリリーナとで、「料理の味つけをもっと私好みにして」「掃除はもっとキビキビ動いてやりなさい」「使用人の分際で仕事中に水を飲むな」などと逐一批判したため、「こんな待遇なら別の仕事の方が断然マシ」とすぐに辞めてしまった。
クリスタリム家の人間は、使用人など下賤な者なのでどう扱ってもいいものだと思っている。だから、それから何人もの使用人を雇ったのだが、全員1週間も持たずに辞めてしまった。そもそも「こんな大量の家事や雑用を、使用人1人で行うのはおかしいです。もっと人を増やしてください」と誰もが言ったものの、クリスタリム家の人間は聞く耳を持たなかった。
だって、ユーリアはずっとこの屋敷の家事を1人でやっていた。炊事も掃除も洗濯も、その他の雑用も全てだ。クリスタリム家の人々の基準はユーリアであり、だからこそ「ユーリアのような愚鈍な娘にできていたことが、なぜ普通の使用人にできないのだ?」と首を傾げるばかりである。
そんなこんなで何人も使用人を雇っては辞めてゆき、誰もクリスタリム家で働いてくれなくなった結果、家事を自分達でやらざるを得ない状況になってしまった。
しかし、ユーリアにできていたのだから簡単だろうと試しに料理をしようとしても、生まれてから一度も包丁を扱ったことのないクリスタリム家の人々では、すぐ指が傷だらけになってしまう。薪オーブンの使い方も火加減も難しくて、せっかくいい肉を買ってきても丸焦げにしてしまう。味付けは、高価な砂糖や胡椒をふんだんに使えば美味になるのだろう? と調味料をかけすぎた結果、塩辛すぎるものや甘すぎて気持ちの悪いものにしかならない。
ユーリアだったら。彼女は器用に包丁を使って果物の皮を剥くし、肉も野菜も食べやすく切ってくれる。ふわふわのオムレツや柔らかく野菜が煮込まれたスープ、鶏と香草のオーブン焼き、心地よい甘みのパイなどをすぐ作ってくれるのに。
洗濯だって、ユーリアがいた頃は、汚れた服を放っておけば綺麗にアイロンがけまでされてクローゼットに入れられていたのに。今では自分で洗濯板を使って洗わなければならない。1枚1枚ゴシゴシと洗うのは結構な重労働だし、おかげで手が荒れてしまう。
そうして、今までユーリアにやらせていた家事を家族内で押し付け合うことで、喧嘩の頻度がものすごく増えた。
「おいお前、女なんだから家事をやれよ! 家事は女の仕事だろう!」
「まあ、私はこの家の女主人よ!? 家事なんて、貴族の夫人がする仕事じゃないわ! 私は生まれたときから、刺繍用の針より重いものなんて持ったことがないんだから!」
「リリーナ、お前も女なら、少しは家事をやったらどうだ!」
「お父様、酷い……! 家事なんかやったら、私の手が荒れてしまいますわ。庶民のように汚らしい手をした女、ヴォイド様からも愛想をつかされてしまいます」
公爵であるヴォイドの名前を出されると、父も母も、ぐっと言葉を詰まらせるしかない。くすんくすんと泣き真似をするリリーナの前に、2人は何も言えず、そうこうしているうちに屋敷の呼び鈴が鳴る。
「あ、ヴォイド様ですわ! 今日は一緒にお茶するって約束していたの。お母様、お茶を淹れて私の部屋に持ってきてね!」
リリーナはそう言って、訪ねてきたヴォイドとともに自分の部屋へ入ってしまった。「刺繍の針以上に重いものなど持ったことがない」と自称していた母だが、仕方なくキッチンへ茶を淹れに行く。
「はあ……慣れない家事なんてしているせいかしら。最近、肩こりも腰痛も酷いのよね。それに、なんだか頭痛までするし……。今まで全然こんなことなかったのに。やっぱりユーリアがいなくなって、雑用を押し付けられる奴がいなくなったせいだわ。こんな使用人の真似事、私の仕事じゃないのに……」
あんな駄目娘でも少しは役に立っていたのかしら、とユーリアの母は己の行いを少しだけ悔いる。
――今まで彼女が腰痛も頭痛も感じず健康に生きてこられたのは、聖女の力のおかげであったことも知らずに。これからどんどん、健康も美貌も衰えてゆくことも知らずに。
一方で、ユーリアの元婚約者であるヴォイドも、ため息を吐いてリリーナに憂い顔を見せていた。
「なあ、リリーナ。俺、最近ずっと、体調が悪いんだ。君の聖女の力で、なんとかならないか?」
「まあ、おかしいですわね。私は愛するヴォイド様のために、毎日聖女として祈りを捧げていますのに」
「それじゃあ、どうして……」
「もしかして、ヴォイド様からの愛が足りないのかもしれません。愛の力がないから、聖女の力も発揮できないのかも……」
「そんな! 俺は命の恩人である君を、心から愛しているぞ、リリーナ!」
「でしたらその愛をもっと、形にして示してくださいな。ヴォイド様からの愛の証として、私、もっとドレスと宝石が欲しいですわ」
「ま、またドレスと宝石か? ついこの前、新しいものを贈ったばかりじゃないか。それで本当に、聖女の力が発揮できるというのか……?」
「まあ! 聖女である私の言葉を疑うのですか? ヴォイド様、ひどい……。私は、ヴォイド様を愛しているからこそ、あなたからも愛の証を見せてほしいだけですのに。くすん、くすん……」
リリーナはぽろぽろと偽りの涙をこぼす。ヴォイドは、都合が悪くなるとすぐに泣くリリーナに内心嘆息していたが、実際にため息を吐いたらもっと面倒なことになるだろうと思い、平謝りすることにした。
リリーナに苛立つことはあるが……それでも彼女はとびきり美しいので、この女を妻とすれば毎日抱けるのだと考えれば、耐えることができるのだ。
「すまない、リリーナ。わかった、次に会うときは、またドレスと宝石を贈ると約束するから」
「本当ですか! 絶対ですよ! そうですわ、私先日王女様が身に着けていたのと同じ宝石をあしらったドレスが欲しいですわ」
「お、王女様と同じ? それは、さすがに……」
「ヴォイド様は、私を愛しているのでしょう? 私はあなたの命の恩人なのですよ? 愛と感謝があるなら、そのくらいできるはずですわ」
「わ……わかった、わかったから。じゃあ次にプレゼントをしたら、俺の体調を治して……それから、そろそろ男女としての契りも交わそう。な? 結婚を誓っているのだから、当然だろう?」
ヴォイドはそう言ってリリーナの耳元で囁くと、たっぷり彼女の身体を撫で回した。まだ結婚前だからと一線を越えることは避けているが、あからさまにそれが不満そうな態度だ。
ゲルニア公爵邸へ戻ると、ヴォイドはさっそくリリーナへの新しいドレスを誂えるようにと、使用人に言いつけたのだが――
「僭越ですが、ヴォイド様。リリーナ様への愛の証もよろしいのですが……。いいかげんお金を使いすぎかと存じます。こうも頻繁に高価な贈り物をしてばかりでは、さすがにそろそろゲルニア家の資産が危ういかと」
「うるさいぞ! 使用人の分際で口出しをするな!」
運命の人とやっと結ばれることになり周りが見えなくなっているヴォイドは、傲慢な態度で周囲から見放されてゆく。
一方でリリーナも、クリスタリムの屋敷で一人、ため息を吐いていた。
(お姉様の婚約者だから、ヴォイド様を奪ってみたけど……なんだか、思っていたのと違うわ)
舞踏会での婚約破棄騒動から、リリーナは「姉の婚約者を寝取った女」と噂され、他の貴族達から距離を置かれるようになった。
ユーリアは聖女の証を持ちながら力を使えない(と思われている)し、リリーナはその美しさから、悲劇のヒロインぶれば周囲に同情してもらえるのが当たり前だった。実際、他者の顔だけしか見ていない愚か者であれば、あの婚約破棄の場でも、リリーナに「かわいそう」という感情を抱いていたが――
ほとんどの貴族達は、そこまで愚かではない。たとえ姉が偽りの聖女であろうが、それでもリリーナが婚約を結んでいた2人の仲に割って入ったことは間違いないのだ。
そもそも子爵令嬢であり美しいリリーナは、当然、本来婚約者がいた身である。彼女の婚約者は伯爵家の令息だったのだが、「ヴォイド様の方が家格が上だし顔がいいから!」という理由と、何より人のものが欲しくなる性格であるリリーナは、ヴォイドを選んで元婚約者を捨てた。
そのこともまた、貴族達の噂になった。リリーナ嬢は都合が悪くなると泣くことで悲劇のヒロインを装うが、平気で元婚約者を捨てる人間だ、と。
リリーナの元婚約者は、地味な顔立ちだが穏やかで心優しく、人々から信頼を得ている人物だからこそ、彼を慕う人間はリリーナが悪女であると確信していた。伯爵子息本人は、「リリーナが真に愛する人を結ばれた方がいいから」と素直に婚約解消を受け入れたが、実際はリリーナの我儘さに彼も嫌気がさしており、この婚約解消をどこかほっとしているのでは、という噂だ。
「はーあ……最近、夜会に行っても、全然味気ないのよね……。私はお姉様に虐げられていたっていうのに、皆同情してくれるどころか、なんだか引いてるような目で見てくるし……」
当然である。そもそもあの婚約破棄の際、リリーナが豪奢なドレスを纏っていたのに対し、初めて舞踏会に姿を見せたユーリアは、まるで使用人のように質素なドレス。おまけに身体も、栄養失調ではないかというほど痩せ細っていた。子爵家の令嬢だというのに、明らかに異常だ。
リリーナは「お姉様に虐げられている」演技をしていたが、どう見たって虐げられているのはユーリアの方だろう、とあの場にいた大勢がツッコミたかったのだ。しかし他者の修羅場に割って入る勇気のある者もおらず、触らぬ神に祟りなし、とばかりに皆目を逸らしていたが。
「なんなの? もっと皆、私に構いなさいよ……! 前は、『お姉様が酷いの』って言えば、皆『かわいそうに』って同情して、優しくしてくれたのに」
夜会でちやほやされることこそが、リリーナの生きがいだった。勉強も運動も嫌いなリリーナには、それしか楽しみがない。だが最近では夜会に行っても白い目で見られて、せっかくヴォイドから高価なドレスや宝石を贈ってもらっても、クローゼットの肥やしになってしまっている。しかし高価なプレゼントを貰うこと以外にストレス発散方法もないので、次々ヴォイドにねだってはいるが。
「げほっ、ごほ……」
不機嫌で頬をむくれさせていたリリーナが、突然咳込む。
「なんだか最近体調が悪いのよね。お肌の調子も悪いし……一体どういうこと? お姉様が家事をしなくなったせいかしら」
お姉様がいなくなってから、食事はまずいし、家の中は汚れているし、父や母に洗濯を押しつけられることもあるし……。生活の全てが不便だ。おまけに、ずっとなんだか具合が優れない。
何かがおかしい。どこかでボタンをかけ違えたかのように、妙な違和感がある。
ヴォイドも、リリーナも、父も母も全員がそう思うようになっていた。
――ユーリアがいたときは、こんなふうじゃなかったのに。
――ユーリアがいてくれたら。
――ユーリアだったら……。
今まで、ユーリアによって保たれていた幸福な暮らしが、瓦礫のように、音を立てて崩れてゆく。この違和感がいずれ徹底的な破滅を生むことすら――愚かな家族と元婚約者達は気付いていない。
真の聖女を虐げてきた愚か者達は、無惨な最後の瞬間まで、何も気付かず堕ちてゆくだけなのだ。
一方、オブシディア邸にて、ユーリアは――
◇ ◇ ◇
「……ユーリア、何をしているんだ?」
「その……お料理を、作ってみたんです」
「料理? この屋敷で家事は使用人がするから、君が働く必要はないんだぞ?」
「そうですけど……せっかくですから、アートルム様に食べてほしくて」
(どうやら私が食べられるのは、まだ当分先のようだし)
彼は私に甘いお菓子をくれ、太らせようとはしてくるものの、まだ私を食べようとする気配は全然ない。今よりもっと身体にお肉がついて、食べごたえがあるようになったらパクッといくつもりなのかもしれない。
それまでせいぜい贅沢な暮らしを満喫していようと考えていたのだけれど、いいかげん、ただお菓子を食べて小説を読む毎日も飽きてきた。生家では常に家事に追われていたから、なんでもかんでもやってもらう生活は正直、すごくありがたい一方で落ち着かないのだ。
ただの餌でしかない私に、ここまで優しくしてくれるのだから……私も少しくらい、何かお返しをしようかなと思ったのだ。
(アートルム様は人間だけじゃなく、普通の食事もおいしく召し上がるみたいだしね)
「俺に……?」
「はい。『カラアゲ』というんですが」
家族に、鶏を使った料理が食べたいけど香草焼きやシチューはもう飽きたと我儘を言われて、なんとか編み出した料理だ。鶏肉に塩や生姜で味付けし、粉をまぶして油で揚げた料理。
家族のために作ることは何度もあったけれど、お母様に監視されて自分で口にすることは許されなかったから、死ぬ前に食べておきたかった、というのも作った理由ではある。
だけど1人よりも誰かと一緒に食べた方がおいしく感じるので、アートルム様にも食べてもらおうと思ったのだ。
アートルム様が、建前とはいえ私を婚約者にしてくださらなかったら、一生、私は甘いお菓子を食べて好きな小説を読んでいいなんて贅沢な生活をすることはなかった。私みたいな「嘘つき聖女」もらってくれる人なんていなかっただろうし。
「そうか……すごくおいしそうだな。一緒に食べるとするか」
「はい。私も、アートルム様のために栄養をつけておきますから」
私が笑顔でそう言うと、アートルム様は若干顔を引きつらせた。
「……その、ユーリア。君に言っておくことがあるんだ」
「はい、なんでしょう?」
(急にあらたまって、どうしたんだろう。言っておくこと? 王道の『君を愛するつもりはない』とかかしら……でも、今更?)
きょとんと首を傾げていると、アートルム様は真剣な表情で告げた。
「俺は、君を食べるつもりはない」
「…………」
(またまたご冗談を。食べる以外の目的で、私を婚約者にする理由なんてないでしょう)
どうしてこんなことを言うんだろう? ……ああ、そうか。
「大丈夫ですよ。私は別に、食べられることを怖がってこのお屋敷から脱走したりしませんから」
「だから、食べたりしないと言っている」
「いつか食べられてしまうのだとしても、アートルム様からいただいたご恩は忘れません」
「食べたりしないと言っている」
「どうせならおいしく食べてもらえるよう、たっぷり栄養つけますね!」
「食べたりしないと言っている!」
「さ、カラアゲ食べましょう。もぐっ、ん、おいしい!」
「ふむ、確かにこれはおいしいな、とても斬新な料理だ。それに、カラアゲを食べる君もとても可愛い……が、俺の話を聞いてくれ」
「カラアゲは揚げたてのうちに食べるのが一番おいしいですからー」
もぐもぐもぐ。カラアゲおいしい。
私もアートルム様に、こんなふうにおいしく食べてほしい。あ、でも揚げられちゃうのは熱そうで嫌だなー。
◇ ◇ ◇
〇アートルム視点
「……はあ」
自室の机で1人、頭を抱える。
オブシディア家は魔女の血を引く一族だと噂されている。
それは――「正解」だ。
オブシディアの初代の女主人が魔女だったらしく、その血を引く俺もまた、人外の存在である。己の姿を自在に変え、強大な魔の力を使うことができる。だが――
「能力開示」
・アートルム・オブシディア
・Lv.100 魔の眷属(黒竜)
・HP 98,666
・MP 108,744
・特殊能力 魔の力
・備考1
姿を変え、自然を操り、自在に魔法を使える。
その代償として、制約がある。制約とは、
「魔の力について、決して自分から口外してはならない」である。
魔の力は人間にとって恐れられるものであり、その力が知れ渡れば、争いを生むことになりかねないからだ。
魔の眷属は邪悪でなく、人類の敵でもない。魔法の力は強大であるが、魔獣を駆除することは可であっても、人間を殺害するための力ではないのだ。そのため人間に力を明かさず、人間から隠れて力を使わねばならない。
制約を破り自分から魔の力について口外した際、力は消滅する。
・備考2
魔の力は、100年ほどに一度、空に八色の虹が架かる時に弱まる。その時だけは、魔力はほぼ封じられた状態となる。
俺は、この力について、誰にも口外することができない。
本当は――ユーリアに救ってもらったことについて、彼女に礼を言いたいのに。
先日、所用で王都を訪れていた際。突然、空に八色の虹が架かった。
100年に一度程度の頻度で起こるこの現象は、いまだにどういう原理で起きるのか解明されておらず、事前に予見することもできない。
本当に突然空に虹が架かり――俺は人型から、掌サイズのミニドラゴンの姿になってしまった。たまたまその瞬間、人通りの少ない路地を歩いていて周囲に人目がなかったからいいものの、誰かに見られていたら大きな騒ぎになっていただろう。
しかし、人型からミニドラゴンに変わる瞬間は見られなかったものの、路地からタウンハウスへ帰る最中、狩人に見つかってしまった。「珍しい魔獣だ! 素材を売れば金になるかもしれねえ!」と騒がれ、こちらは攻撃も何もしていないというのに矢で撃たれた。
ミニドラゴンの姿で、血を流しながらふらふらと飛んでいたところで――俺を見つけてくれたのが、ユーリアだ。
彼女は俺を恐れず、俺に癒しの力を使ってくれた。
だが、聖女であることよりも――俺の心を奪ったのは、ユーリアの優しさだ。
傷ついた俺に……人間ではない姿をした俺に、「もう大丈夫だよ」と声をかけ、温かな笑顔を向けてくれた。
俺は、彼女に恋に落ちた。だけどすぐに失恋することになった。
ユーリアには、正式に婚約が結ばれている相手がいると知ったからだ。
この恋心は諦めるしかないと思っていたのだが、せめて彼女に感謝を示したくて――先日、ミニドラゴンの姿で、一輪の花を持って彼女のタウンハウスを訪れた。そうして、彼女が婚約破棄されたことを知った。
俺は、ユーリアが家族や婚約者からそんなに酷い扱いを受けているのだと、そこで初めて知った。
ユーリアが悲しみに耐え、涙を堪えている姿を見て、なんとしてでも彼女をあの監獄のような家から救い出し、幸せにしたいと願った。
オブシディア家からクリスタリウム家に縁談を申し込むと、クリスタリウム家はすぐにユーリアを我が地へと送った。だが――
「どうして、俺がユーリアを食べるなんて勘違いしているんだ……っ!」
強引に進めてしまった縁談だからユーリアも戸惑っているかもしれないとは思っていたが、まさか俺がそのままの意味で、彼女を餌にすると思われていたとは予想外だった。
とはいえ、彼女のこれまでの人生は、周りからひどく虐げられてきたはずだ。簡単に他者を信用できるわけがないし、そう思ってしまうのは仕方ないのかもしれない。
(俺はユーリアが聖女だと知っている。俺は純粋な人間じゃないから、それを知ってもユーリアの力が消えることもない。だが……俺の方が、彼女に人外の存在だと知られるわけにはいかないしな……)
君が聖女だと知っている、とユーリアに伝えれば、彼女は「なぜ彼は私が聖女だと知っても問題ないのだろう? 人間じゃないってこと?」と、すぐ俺の正体に気付くだろう。そうしたら、微妙な線ではあるが、俺の魔の力が消えてしまいかねない。魔獣の多いこの地でユーリアを守って生きてゆくためには魔の力があった方がいい。この力を、失うわけにはいかないのだ。
(彼女に、真実を伝えることができないのはもどかしい。だが、俺は心からユーリアを愛している。……いつかこの想いが、ユーリアに届いてほしい)
婚約を結んだとはいえ、円満な夫婦生活は当分先そうだ。
だが、自分はユーリアのためならなんでもする。これまで辛い思いをしてきた分、溢れるほどの幸福を受け取ってほしい。必ず、世界で一番、彼女を幸せにしてみせる――
◇ ◇ ◇
〇ユーリア視点
ある日、私は庭の花を眺めながらお散歩をしていた。
オブシディア家の庭はとても広大で、クリスタリウムの庭にはなかった植物ばかりなので、見ていて楽しい。
(今日も食べられる気配はないし、穏やかな一日だな――)
「おい、ユーリア!」
(ん? この声は……)
「お前……この俺が毎日辛い思いをしているというのに、ずいぶん綺麗になりやがって幸せそうじゃないか」
「ヴォイド!?」
オブシディア邸の正門は閉じられているけれど、ヴォイドが門をガシャガシャと揺らし、私を怒鳴りつける。
「どうして、あなたがここに……」
「お前を問いただしに来たんだ! お前がいなくなってから、俺はずっと具合が悪いし、面倒なことや、嫌なことばかり起きるんだ! ユーリア。お前、婚約破棄の時に、私に縋るなとかおかしなことを言っていたじゃないか。もしかして、何か知っていたんじゃないのか? さては……」
(まさか、やっと私が聖女だってわかったのかしら……)
「お前が、リリーナの聖女の力を封じたんだろう!?」
「………………………………」
「そうだ、そうに違いない! お前、オブシディアの魔の力を頼って、リリーナと俺を呪ったんじゃないのか!?」
この期に及んでまだそんな盛大な勘違いをしているのか、と絶句する。
(やっと逃れられたと思ったのに……生きているかぎり、ずっとつきまとわれ続けるのかしら)
ああ……早く、アートルム様に食べられてしまいたい。
私はこんな世界で生きることに疲れたの、早く消えてしまいたい。
だって、生きていたっていいことなんてないでしょう――?
「ユーリア、大丈夫か!」
(――え)
絶望で瞳が虚ろになるのを感じていると、守るように抱き寄せられた。
「俺の婚約者に何の用だ?」
アートルム様が、私の身体を優しく包み込むようにしたまま、ヴォイドを睨みつける。
それは、私は今まで見たことがない、ぞっとするような冷気を秘めた眼差しだった。
ヴォイドはビクッと震えて身を縮こまらせるが、引き下がることはしない。
「貴殿が、こんな嘘つき聖女と婚約した哀れな辺境伯殿か。このような辺境に嫁いでくれる令嬢がいないから、仕方なくユーリアをもらったのかもしれないが。こいつはな、とんでもない悪女なのだ。婚約だけで、結婚はまだなのだろう? 悪いことは言わないから、この話は破談にすべきだぞ。これは、貴殿のためを思って忠告しているのだ」
ヴォイドはさも、「無知な辺境伯にわざわざ真実を教えてやっている、正しくて心優しい俺」とばかりにドヤ顔で言う。対極的に、アートルム様は心底ヴォイドに呆れているような渋面だった。
「……言いたいことは、それだけか」
氷よりも遥かに冷たい、極寒の声。周囲の空気の温度が下がったようにすら感じる。
「ユーリアは悪女などではない。誰より心が美しく、優しい女性だ。俺は断じて『仕方なくユーリアをもらった』なんてわけではない。俺は……ユーリアを、愛している」
えっ、と思わず息が止まりそうになる。
(これは……アートルム様の本心? それとも、演技?)
落ち着け、と自分を戒めるけれど、どうしてか胸の鼓動はうるさくなるばかりだ。
「ゲルニア公爵子息。これまでのユーリアに対する数え切れぬほどの無礼、誠心誠意謝罪しろ」
「謝罪? なぜ俺が? 詫びるのはユーリアの方だろう! ずっとリリーナを虐げていたのだから!」
「ユーリアが妹を虐げているところを、貴殿がその目で見たのか? ……そもそも、ここに来るまでのユーリアはひどく痩せ細り、不健康な状態だった。婚約者がそんな状態で、おかしいと思わないのか」
「そいつはひどい偏食で、リリーナがユーリアのために料理をしても、『こんなもの食えるか』と床に落としてしまっていたそうだ。そいつが悪い」
「貴族の令嬢が着るには相応しくない、質素なドレスを纏っていたこともか」
「そいつは非常識だから、好きで着ていただけだろう! ……だが……」
アートルム様に理路整然と詰め寄られて、ヴォイドの額にはかすかに汗が滲み始めていた。まるで、見たくないものを眼前に突きつけられているように。
「だが、確かに……ユーリアと違って、リリーナは俺に贅沢な品物をねだってばかりだし、それを指摘したり、自分に都合が悪くなったりするとすぐ泣くんだ。このままではゲルニア家の資産は底を尽きかねない。リリーナは心の清い令嬢で……こんなはずじゃ、なかった……。一体、どうなっているんだ……?」
――どうやらヴォイドも、何かがおかしいとは気付き始めているようだ。
だが自分が間違ったことを認めたら、自分が悪人となり、私に謝罪をしなければいけなくなるから、「気付きたくない」のだろう。不都合なことからは全て目を逸らして、悪いことは何もかも私に押し付けたいのだ。
「単にリリーナ嬢が本性を表し始めただけだろう。貴殿の愚かさが招いた結果だ」
「ぐ……っ。だ、だがユーリア! リリーナが悪女であるなら、俺に教えてくれればよかっただろう! そうしたら、俺はリリーナと婚約することもなかったのに!」
「リリーナの件でしたら、婚約破棄のあの場で、はっきりと申し上げましたが。周りの方々も聞いていたはずです」
ヴォイドは、ぐっと言葉に詰まる。
アートルム様は、私を護るようにぐっと抱き寄せたまま、ヴォイドを鋭く睨みつけた。
「もういい。謝罪する気がないのならば、これ以上幼稚な言い分でユーリアの耳を汚すな。貴様のような男……情けをかけてやる価値は微塵もないのだと、はっきりわかった」
「な、なんだその態度は! 貴様、俺を見下しているのか!? 貴様が治めているのなんざどうせ、こんな魔獣ばかり出ると噂の、物騒な辺境だろう!」
「そう……貴殿の言う通り、この地は凶暴な魔獣の巣窟だ。貴殿のような軟弱な輩が1人で足を踏み入れるなど、命を捨てたも同然のこと」
「え……?」
ざわりと不穏な気配がし、ヴォイドが振り返った――そのときには、もう遅かった。
「ぎゃああああああああああああああああああああ!!」
凶暴な魔獣の群れが、ヴォイドに咬みついている。
(……まあ確かに、もう私の加護もないヴォイドがここへ来たら、そうなるか)
私は聖女だからわかっていたのだが、ヴォイドは実は、「魔獣に襲われやすい体質」なのだ。その身から、魔獣が好む匂いを発してしまう特異体質。今まで、私がいたから無事でいられただけ。聖女である私は、魔獣が近寄れない結界を張ることができる。だから私の傍にさえいれば、彼は安全だったのだ。
離れている間も、私が彼に「これ、おいしいから飲んでね」と私特製の守護薬を渡すことで、彼は私の力に守られていた。守護薬は甘く作ってあるので、ヴォイドは私のことは好きじゃなくても、その味が気に入ったようでちゃんと飲んでくれていた。
だけど彼が10歳のときのあの事件の際は、彼は守護薬を飲み忘れていたらしい。だから他領から帰ってくる途中の森で、大量の魔獣に襲われたのだ。
その日、私はヴォイドと「俺が帰ってきたら久しぶりに会って、一緒にお茶でも飲もう」と約束していたのに、彼の帰りが遅いから心配して見に行ったら、彼も家族達も瀕死の状態で驚いた。必死で、癒しの力でヴォイド達の命を救ったのだ。
(今までヴォイドは、魔獣のいないゲルニア公爵邸で暮らしていたから、なんとかなっていたけど……)
このオブシディア領は、魔獣の発生源がある土地。こんなところにヴォイドが突っ立っているなんて、野獣の群れに餌を投げ込むようなものである。以前は私が定期的に渡したり贈ったりしていた守護薬も、もう尽きているだろうし。
「ひぎゃああああああああああああ!! 痛い痛い、痛いぃぃぃっ!!」
そんなわけでヴォイドは今、門を挟んだ私達の目の前で、無惨にも魔獣の群れの餌にされている。
「ユーリアぁぁぁっ! 頼む! 助けっ、助けてくれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
「――私に縋らない、と、婚約破棄の際におっしゃったではありませんか」
「裸で領地を一周でも、なんでもするからあああああああああ!」
(あ、約束ちゃんと覚えてたんだ。それはちょっと見てみたいかも)
「ユーリア……まさか、こんな愚か者を助けてやる気か? それはさすがに優しすぎると思うが」
「でも、約束を違えたら裸で領地を一周、とは確かに誓っていたので。それを拝んで差し上げるためなら、助けてあげてもいいかなと思ったのですが」
(あ……でも、アートルム様の前で聖女の力を使うわけにはいかないな)
ヴォイドは多分もうすぐ気を失うので、その後に聖女の力を使えばいい。だけど、アートルム様に私が聖女だとバレるわけにはいかない。
「えーと、アートルム様。少しだけ、お屋敷の中に戻っていてほしいといいますか……」
そんなことを言い出した私は明らかに怪しいだろうに、不思議とアートルム様は頷いてくれた。
「……わかった。この男をこのまま見捨てるのか、生かしておいてもっと無様な姿を拝んでやるか。それは、君が決めることだな。俺は先に屋敷の中へ戻っている。だが、何かあったらすぐに呼んでくれ」
彼は何も聞かず、言葉通り本当に屋敷の中に戻って行った。まるで私の事情を全てわかっているかのような態度に、こちらが驚いてしまう。
(まあ……今はともかく、ヴォイドを助けてやろう)
数多の魔獣の牙によってがぶがぶと、腕や足、男性としての大事な部分まで咬まれたヴォイドは、泡を吹いて失神している。私は聖女の力で結界を張り、魔獣を追い払ってから、彼の傷を治癒してやった。これで結界を張ったままヴォイドをここに転がしておけば、そのうち目を覚ますだろう。
ヴォイドが口先だけでなく本当に約束を守って領地で裸になるというのなら、領主としての尊厳は地に落ちる。領地の女性達や、彼が普段馬鹿にしている平民達からも笑われるだろう。それにそんな奇行、たちまち噂がひろまるはずだ。ゴシップ大好きな貴族達の間でも、すぐ話が回るだろう。プライドの高いヴォイドにとっては、死ぬより辛いかもしれない。
(それに……ヴォイドの体質が改善されるわけではないのだから、今命を助けてあげたところで、どうせまた同じことになる)
愚かなヴォイドは、今は助かったとしても、どうせまた自分の体質にも気付かず同じような目に遭うだろう。今、簡単に死なせてあげるよりも苦しむ羽目になるかもしれない。その際、妻であるリリーナも傍にいれば巻き込まれるだろう。
とはいえあのリリーナがおとなしくヴォイドと共倒れになるとは思えない。リリーナはヴォイドを犠牲にして自分だけ助かろうとするだろうし、それに激昂したヴォイドはリリーナを道連れにしようとするだろう。さぞや醜い地獄絵図になるのだろうな、と思う。
だけどもう、私の知ったことではない。真の聖女が傍にいたにもかかわらず、運命だのと抜かして相手を間違え、私を捨てたのはヴォイドの方なのだから。
生き地獄を味わわせてやるために傷だけ癒やしてやった後、私はゴミのように転がった彼に背を向け、オブシディアの屋敷の中へ戻った。
◇ ◇ ◇
屋敷の中に戻ると、アートルム様が温めたミルクをくれた。
「大変だったな。……君が今まで、あんな男に苦しめられてきたのかと思うと、腸が煮え返る。もっと早く……君と出会えていたらよかったのに」
アートルム様は、本気で今までの自分の人生を悔やむように眉根を寄せていた。
その表情を見ていると、やはり彼の私への優しさは嘘ではなく……本物なのかもしれない、と思ってしまう。
「あの……先程の、アートルム様のお言葉なのですが」
「俺の言葉?」
「私のことを、あ……愛してる、というのは……。ええと、ヴォイドを追い払うために、演技をしてくださった……のですよね?」
「違う。俺は、本心を告げたまでだ」
真剣に見つめられ、夜空のような瞳に、吸い込まれそうになる。
「君は勘違いをしているようだが……俺は、君が愛しいから、妻にしたいと願った」
彼はまっすぐに私を見つめたまま、語り出す。
「オブシディア家では人間を食べているという噂が一部で流れているのは、俺も知っていた。だが、それは誤解だ。……おそらく、この地でよく他領の人間が行方知れずになるから、そんな噂が流れるようになったのだろうが。行方知れずになるというのにも、理由がある」
形のいい唇から「理由」は紡がれ、私は彼の言葉に耳を傾けたままでいた。
「オブシディアは、魔獣の発生源である呪いの沼が点在しており、普通の人間が生きてゆくには厳しい土地であると有名だ。だから人生に絶望した人々が、魔獣に食べられてしまおうとしてこの地を訪れる。だが商人や冒険者でもないのにこの地を訪れる人間は珍しいから、街の人間の間ですぐ話が広まり、俺のもとへも報告が届く」
確かに。国外の商人などなら厳重な検査を受けた上で入国してくるだろうが、逆に同じこの国からオブシディアを訪れる人間は珍しいだろう。私はまだこのお屋敷の外に出たことはなく、オブシディアの街にも行ったことはないが、もしかして私のことも何らかの噂になっているかもしれない。
「そこで、直接そういった人間に話を聞くと、大抵『殺してほしい』と言うのでな……。その理由は、君のように親や配偶者に虐げられてきたというものがほとんどだ。だから、その者の家族が居場所を突き止められないよう、名などを変えることで使用人としたり、街で仕事を斡旋したりしていたんだ」
「っ……申し訳ありませんでした、アートルム様」
私は、深々と彼に頭を下げる。
「……!? やめろ、何をしているんだ、ユーリア。君がそんなことをする必要はない」
「私は……お父様から聞いた噂話だけで、あなたは私を食べるつもりなのだと思い込んでおりました。ヴォイドは、リリーナからの話だけで、私を悪女と決めつけましたが……。結局、私だって同罪なのです。あなたのご厚意を、裏があるだなんて疑っていたのですから」
「俺達はまだ会ったばかりだ、警戒心を持つのは当然だろう。自分でも、あまりにも突然結婚を申し込んでしまったと思っているくらいだ。君の事情とはわけが違う。……あの男は長年ずっと君の傍にいたにもかかわらず、君のことを何もわかっていなかったのだろう。あまつさえ身勝手に君を傷つけた。君が自分を責める必要はない」
アートルム様がそう言ってくださっても、私は簡単に自分を許すことはできない。
すると彼は、私の心を溶かすような熱い視線を向け、一歩距離を詰めた。
「俺は、君がとても優しい人だということを知っている。今まで、人知れず頑張ってきたことも。……君がここへ来てくれてまだ1ヶ月程度ではあるが、君は使用人にもいつも親切だ。それに俺は、君がおいしそうに食事をしたり、楽しそうに本を読んだりしているときの顔を見ると、とても温かな気持ちになれる。君は、俺に幸せをくれた。……俺には、君が必要なんだ」
「――っ」
彼の言葉が、あまりにも嬉しくて……胸の奥深くに沁みて。
ぽろりと、涙が零れてしまった。
「ユーリア!? 大丈夫か、俺は何か、おかしなことを言ってしまったか」
「ち、違います。その……嬉しくて……」
浮かんだ涙を拭いながら、しっかり彼と向き合う。
「アートルム様。本当に……私で、よろしいのですか」
「君がいい。君でなければ駄目なんだ、ユーリア。俺と、結婚してほしい」
「……嬉しいです。だけど私……あなたに、言えないことがあります」
これから彼のお役に立ってゆくためにも、聖女の力を失いたくはない。
だからどれだけ愛していても、私が聖女だと、自分から明かすことはできないのだ。私には、制約があるから。
こんなわけのわからないことを言う、秘密のある妻なんて嫌ではないかと不安だったのに……アートルム様はふわりと優しく微笑んでくれた。
「奇遇だな、俺も、君に明かしたくても、明かせないことがある。……だから俺達は、お似合いなんじゃないか?」
――胸が、ドキドキと音を立ている。それは恐怖とは全く違う、熱くてとろけてしまうような鼓動。
(でも、確かに……アートルム様も、不思議な御方ではある)
――どうして、私を好きになってくれたのか。ここに来てからの私を見て気に入ってくれたのはともかく、最初に婚約を申し込んでくれたのは、何がきっかけだったのだろう。
もしかして、本当は過去にどこかで会ったことがあるのだろうか? だとしたら、何故それを隠すのかは、わからないけれど……。
でも、いい。アートルム様にどんな隠し事があったとしても、構わないと思える。
婚約者からも、家族からも捨てられた私を、こんなにも温かく迎え入れてくれたのだから。
「私……もう、人生を諦めません。これから、もっと強い心を持ちます。あなたと、共に生きてゆきたいから……」
「そうか。俺は今の君も好きだが、君が変わりたいと願うのなら、俺もできるかぎりのことをしよう」
「ふふ……アートルム様は、本当にお優しい。私、どうしてあなたが、私のことを食べてしまうなんて思っていたのかしら」
「ふふ、確かにその誤解を知ったとき、俺も驚いたよ。……だが、まあ」
トン、と軽く肩を押され、壁際に追いやられる。
そうしてアートルム様が、私の顔の横に手をついた。
「『別の意味』でなら……君を食べてしまうかもしれないけどな」
「え……っ?」
お互いの顔の距離が、とても近く――彼は更に、私の方へと顔を寄せる。
そのまま、唇が触れ合いそうになって……胸の鼓動は、壊れてしまいそうなくらいだったけれど。
甘やかな息が微かに掠めただけで、そっと離れていった。
「……君が可愛すぎて、少し、急ぎすぎたな。この先はちゃんと、式を挙げてからにしよう」
アートルム様は冷静さを保とうとするように落ち着いた声で言ったけれど、微かにお耳が赤い。
きっと私の顔も、真っ赤に染まっているだろう。頬が熱くて、胸の奥が砂糖菓子のように甘く溶けてしまいそうで……こんな感情、今まで知らなかった。
その後――聖女である私がいなくなったせいか、王都に巨大で凶暴な魔獣が現れたそうだ。ヴォイドとリリーナ、私の家族達はタウンハウスに甚大な損害をこうむり、自身も一命こそとりとめたもののボロボロになったらしい。
結界を張ることも、癒しの力を使うこともできなかったリリーナは、偽りの聖女だとして断罪された。また、ヴォイドはあの婚約破棄の際に皆に「裸で領地を1周する」発言を聞かれていたこともあり、誓いを守らざるを得なくなって実行、皆の見世物となり失笑と軽蔑を向けられたらしい。
私の両親は、後継ぎも、公爵家の後ろ盾も、貴族達からの権威も何もかも失い、没落して貧しい日々を送っているそうだ。
一方私は、自分から口外こそしていないものの、私がいなくなった後、王都や生家の領地に不幸が多くなったこと、逆にオブシディア領が更なる繁栄をしていったことから、「やはりユーリアが真の聖女だったのでは」と皆だんだん思うようになったらしい。今ではオブシディア邸に、今まで謝罪や感謝の手紙がたくさん届くようになった。
何より、愛する夫と毎日笑顔を交わし合い――これまでにないほど、満ち足りた日々を送っている。
私達の幸せな日々は、これからもずっと、続いてゆくだろう。
読んでくださってありがとうございます!
ご好評につき連載版始めました!
連載版では、ユーリアの更なる幸せと、愚かな妹リリーナの転落の様子などが盛り盛りです!
よろしくお願いいたします~!