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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

李徴

作者: 鍋島五尺

 俺はずっと傲慢だった。幼い頃から他人に劣ることなど一度もなかった。どんなことでもやってみせ、大人たちを驚かせてみせた。俺にはなぜこんなにも容易なことが他の連中にはできないのか全くわからなかった。俺にとっては些細なことでも周りの人間にとってはそうでないことばかりだった。俺は初め、皆が俺をバカにするためにわざと難しいふりをしているのだとばかり思っていた。他の子供たちは皆白痴のふりをして言葉を話さないのだとばかり思っていた。だがそうだろう。考えてみてほしい。普通の、当たり前のことにさえ全身全霊で取り組んで、しかも達成できずにはあはあ言っているのだ。何かの冗談だと思うのが真っ当だろう。

 だがいつの日か、俺は連中が全力でやった結果がそれなのだと言うことに気がついた。それは父がきっかけだったと記憶している。彼は一編の詩を書くのに何刻も何晩も費やし、見るも無惨な駄作を作り上げた。そして誇らしげにそれを俺に読み上げて見せた。俺はまず、この詩を訂正してみよという問題を父が出したのだと思った。まさかあんなにも尽力して作り上げたものがこれだとは思わなかったからだ。俺への問題をせっせこ作っていたのだと考えれば合点がいく。だから俺は一句ずつそれらを訂正してみせた。刹那、父は俺の頬を思い切り殴り飛ばした。それで俺は気がついた。俺は今父の顔に泥を塗ったのだ。父の尊厳を蹴り飛ばしたのだと。今となってはその意味がよくわかる。丹精込めて書いた詩を我が子に一瞬で越えられては悔しくて怒りが湧くだろう。これまでも似たようなことは何度もあった。涙を浮かべながら鋭い目で俺を睨みつけるやつもいた。だが、俺にはその意味がようやくわかったのだ。


 それから、俺は努力をすることにした。正確には努力のようなものだが。何も努力をせずに結果を出し続けることは他人からの評価を大いに損なう結果につながることがわかったからだ。少なくとも俺はそのように見える素振りをすることに決めた。毎日朝から晩まで勉学に励んだ。気がつくと俺の部屋の提灯はボロボロになっていた。その頃には家にある書物という書物を全て読み終えてしまっていた。多くの書物は俺が幼いうちに経験した物事から知り得たことを発展させただけのものだった。はっきりいって退屈だった。しかし得るものはあった。それは文語的表現の数々だ。俺はあの時以来人前で行うことはなかったが、やはり詩を書くことが好きだった。俺の心中を何よりも表現し理解したのは詩だった。多種多様な書物を読み漁ることで俺は幅広い表現の手法を手に入れた。これは何よりの成果だったと思う。

 輪をかけて俺は博学になった。自らこのように評価することは恥ずかしいことだが、実際にそうであったことに変わりはない。同じような年頃の子供たちに友人は一人としていなかった。だがしかし子供は子供であって、俺も友人を不要と思っていたわけではない。一人部屋に閉じこもっているよりも自分の言葉を理解する誰かと論を交わす方が楽しいだろうとは思っていた。


 科挙に挑もうと思ったのはこの頃である。大変困難であるとは聞き及んでいたが、所詮属人にとってのことであって俺には容易いだろうと考えていた。かすかな期待もあった。もしかすると、俺の頭を悩ませるようなものであるかもしれない、そうしたら俺はきっと楽しむことができるだろうと思った。だが期待は裏切られた。なんとも簡単じゃあないか。虎榜に俺の名が書かれていると聞いた時は当然だと思い、同時に落第した誰よりも落胆した。

 江南尉に補せられてからも退屈な日々を過ごした。まったく面白くない。何も愉しくない。新たな知識もない、賢者もいない。そこにいるのは学のない農夫と兵士、獣のような囚人と獄卒、そして賢人気取りの間抜けな役人たちだけだった。俺はこの間抜け共と同等に見做され扱われることに辟易した。うんざりだった。誰も俺の言葉を理解しようとはせず、ただ酒を飲んで肉を食らい、猿のような鳴き声をあげるだけだった。品のない連中の言うことを聞き、馬鹿げた仕事をこなすだけ。何も進展などない。俺はこの職を辞すことを決めた。


 それからしばらくの間はなかなか心地の良い日々を過ごした。俺は故郷に戻り、妻子を除いて誰とも会うことはなかった。かつてそうしていたように喰らい部屋にこもり、詩を作ることに専念した。俺は自分の才能を信じていた。俺の作る詩はどうみても最上のものだった。詩を作ることこそ俺の才であって、その詩を持ってすれば俺は天下に名を轟かせることができると確信していた。それは何百年、何千年とだ。それでこそ人間の生きた意味があると言うものだ。

 だが俺には才能がなかった。いや、失ったのだと思う。昔はもっと良い詩が俺にも書けたのだ。しかし、今俺が作る詩はどれも平凡でつまらないものばかりだ。俺の詩には価値がなかった。誰も俺の詩を読むことはなく、名声が広まる気配も一向にない。詩が売れなければ金は入ってこない。金が入ってこなければ飯は食えない。どんな阿呆でも知っている問題だが、俺はこれに直面することになった。生活は日増しに苦しくなっていった。発想を得ようと近所の池まで散歩をした時、俺は驚愕した。俺の顔は汚らしい髭に包まれ、頬はこけ、骨が飛び出していた。まるで髑髏に眼球が嵌め込まれているようだった。


 俺は詩人として身を立てることを諦めた。食っていかなくては生きていけない。それは妻や子のためでもある。俺はもうあいつらにこんな暮らしを強いることが嫌になったのだ。幸い、俺の友人である袁傪から地方役人の職をもらうことができた。彼も変わり果てた俺に驚いていた。袁傪は江南で働いていた頃、唯一俺を理解した男だった。袁傪だけが俺を敬ってくれた。だから俺も李徴を敬って、ただ一人の友人とした。そんな男に今の俺の姿を見せることは屈辱の極みだった。

 俺を待つのはあの下賎な仕事だ。また俺は退屈と苦痛の中に放り込まれるのだろう。だがそれも仕方ないことだ。それに、もう諦めるべきなのだ。俺に詩の才能はなかった。元よりなかったのだ。

 俺の上司になった男は俺が江南にいた頃散々バカにしたやつだった。奴は愚鈍で平凡な奴だった。まるで頭蓋の中に泥でも詰まっているのだとばかり思っていたが、ここまで昇進していたとは。なんたる運命の悲劇だろう、俺はその男から命令を有り難く受けなければならないのだ。この俺が!なんとも落ちたものだ。唇を噛むと生暖かい血が滴った。


 何も面白いことなどなかった。何も。何を食っても味がしない。酒は俺の胃袋をするりと抜けて床にこぼれているようだ。皆が俺のことを後ろ指を差して笑っていた。連中にとってはさぞ面白いことだろう。あの威張り散らしていた秀才李徴がここまで落ちぶれている姿を見るのは。あの李徴を顎で使う日々は。

 春が来て、また冬が来た頃だった。俺は出張を命じられ、旅に出ることになった。その晩は汝水の街に泊まった。随分前から十分に眠れてはいなかった。夜になり、床に就くと頭の中を何かが駆け回り、悶々として眠れない。その晩も俺は半分目を開いたままその怪物と格闘していた。

 なぜ俺はこんなことをしているんだろう。思えば俺はこれまでの人生の中で、ほとんど全ての人間から理解されることがない。俺だけが言葉を話し、他の連中は言葉のような猿真似を発している。なんとも奇妙なのは連中が一応人の言葉を用いていると言うことだ。そうだ、ろくに言葉など使えることが悪いのだ。猿なのだから猿らしく、言葉を捨ててキーキーと鳴いていればいいものを。あくまで言葉を使うと言うのなら俺の言葉くらいわかるようになってもらわなくては困る。やはりいっそ、誰も言葉など使えなくなってしまえばいいのだ。どうせお互いに理解などできないのだから。今から国中全ての人間の喉笛を噛み切ってやろう。いや。違う。俺が言葉を捨ててしまえばいい。誰にも理解されることなどないのならば、言葉など無用の長物でしかない。ああ、願わくば人語を解さない獣になりたい。

 そう思うと、俺は自分が獣になったような衝動を感じた。心臓の鼓動が変わったのがわかった。獣。獣になるのだ俺は。宿になどいるべきではない。誰かが俺を呼んでいる。俺は床から飛び起き、部屋を、宿を飛び出し、そのまま暗闇の山の中へ駆け降りた。


 そこからのことはあまり覚えていない。気がつくと俺はその口に小さな男を加えていた。男の血がドバドバと吹き出している。男はもうぐったりとしており、動く気配はない。それにしても小さな男だ、身長は4尺もないんじゃないか。そうして男の顔を見ようとした時気がついた。俺の手は、これは人の手ではない。黄色い毛、縞柄、鋭い爪。これは、虎の手だ。俺は走って湖を目指した。入ったこともない森の中だというのに、俺は湖の場所を知っていた。走る、というのも4本の足だ。そのことに気が付いたのは随分経ってからだったが。

 俺は虎になっていた。俺はまず自死することを考えた。獣の身になってまで生きるつもりはない。このまま湖に入ってしまおうと思った。だが、その時目の前を一羽の兎が駆け抜けた。その途端、俺の中の人間性は姿を消し、俺は虎になった。そしてまた気がつくとあたりに兎の毛が散らばっており、俺の口の中には兎がいた。


 それから俺は虎と人間の真ん中で日々を暮らした。俺の中の人間性は一日に一度だけ顔を出す。その時は詩を思い出し、人間らしく振る舞ってみる。しかし幾らかするとまた俺は虎に戻り、獲物を狩るのだ。時には人も食った。それは虎として当然のことだったが、俺には苦しかった。いや、嘘だ。俺は自分が虎になることを嬉しく思った。人間として生きていくよりもこちらの方が俺にとっては幸福なことだった。

 日に日に人間としての俺を保てる時間は短くなっていった。今や数分といったところだろうか。そんな時、俺の縄張りのすぐ側にある道を旅人達が通っていくのを感じた。俺の中の虎はすぐに目を覚まし、彼らを襲った。俺はその時、信じられないものを見た。俺がいましがた攻撃を避けられたその旅人は袁傪だったのだ。


 俺は虎になるだろう。もしかしたら、人間の姿をしていた時から俺は虎だったのかもしれない。だとしたら俺はやっと自分の生きる野を見つけたのだ。これほど幸せなことがあるだろうか。俺は虎として生きていく。山の中で一人、命を奪って生きていく。俺の幸福は袁傪にさえわかるまい。誰にもわかるまい。

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