③
朝起きてキッチンに降りると、母の姿が見えなかった。和室を覗くと、まだ布団の中にいる。
「ゆうべからちょっと辛くて。かあさん今日は休むわ」
「ゆうべから、って、」
最近の母の様子から、思い当たるフシが多すぎた。
「起こしてくれればよかったのに。すぐ病院に行こう」「でも」「私、有給休暇とるから!」
ローン完済の軽自動車が火を吹いて、案の定、かかりつけ医から総合病院にまわされた。
診断がおりたのは、幾つもの検査を済ませたお昼過ぎだ。
「随分我慢してしまったね。この影ね、良性ではあるけれど大きくなり過ぎてるし、今後の癒着も心配だな。早めに取りましょうか」
優しげなドクターは、パソコンの予約画面を起動すると、
「ベッド空いてるから今日はこのまま入院で、執刀の上手い先生が……あ、よかった空いてた。はい、取れた」
「えっ、えっ、あの、」
「スムーズに予定が組めて幸先いいです。僕は普段は慎重派だけど、これはサクサク対処で行くよ。ね?」
唖然とする私たちを前に、柔らかい笑顔で言い切った。
キリリとしたナースが固まったままの母を病室に連れてゆき、私には入院案内のパンフレットが渡される。父の時の経験がある分、勝手がわかる所も複雑だ。
手続きの合間に隣県の姉にメッセージを入れたら、すぐに折り返しの電話が鳴った。
『手術だなんておおごとじゃない。お姉ちゃんも休みが取れ次第そっちに行くから、それまでちょっと踏ん張っててね!』
姉の話し声が体育館の中のように響くので、つられてこちらも大声になる。
母に姉の様子を伝えれば、
「あの子、お義母さん達にこっちゃんを預けて来るのかしら。またお義母さん達にご迷惑かけちゃうわ」
こっちゃんというのは姉夫婦の活発過ぎるひとり娘だ。
アレコレ考えると確かに心配だろうけれど、
「そういう気回し、今は必要なくない?」
先ずは自分を優先させてほしい。大きめに発声してしまい、母をしょんぼりさせてしまう。
「順番を間違えないで、お母さんは自分の身体のことだけに集中しようよ」「はい」
「お母さんのカイシャのひとにも、病気休暇が適用になるので安心して治療に専念してください、お大事になさってください、って言われたよ」
母は深いため息に沈む。
「前の検診では大丈夫って言われてたんだけどなあ」
「でも最近はかなり辛そうだったよ。ホントは無理してたんでしょ。潮時だったんじゃない?」
「そうだね、センセイもそんな感じの物言いだったものね」
二人で何とか落とし所を作り、今後の打ち合わせをした。
窓からは西日が差している。
「じゃあまた来るから、何かあったら連絡してね」
重々と念押しをしてから帰路に着いた。
田舎の帰宅渋滞にも巻き込まれ、自宅の駐車場に車を入れた途端、どーんと脱力してしまった。
一日中気を張っていたせいか、身体が、特に頭が疲労しているのが判る。無意識に歯も食いしばっていたらしく顔の筋肉も固まっているし、身体の水分も足りていない。
運転席に座ったままボンヤリしていたら、車内の温度が冷えだした。外も暗くなっている。
心底ダルい。何もかも全部サボりたい。けれどこういう時こそ律しないといけない。家事を溜め込むと後が大変だし、手術日の有給休暇も申請したい。明日の出社は絶対だ。
家に入りカーテンを閉めて電気をつけ、朝にし損ねた洗濯機を回す。二階に洗濯ルームを作っておいてよかった。母のシーツも外して洗い、布団には乾燥機も掛けた。
お腹の催促もきたので、冷凍してあった食パンに、残り物のカレーとチーズを乗せ、オーブントースターに入れた。
(お母さん、夕べは楽しそうだったのに)
田中さんからいただいた写真は、久しぶりに顔色を明るくしてくれたのに。
『そうそう、そうだった。お父さん、あの頃は城山公園で忙しそうだったね』
思い出しながら、ニコニコ話をしていたのに。
トースターのなかで焼けてゆくパンを見ながら、トマトジュースをひと口飲む。炭酸で割りたくなって、途中で大きなコップに移し替える。レモンもスライスして入れる。
写真の中とはいえ、久しぶりに見た父の姿に、母の気持ちが緩んだのかもしれない。疲れも表に出たのかもしれない。
(そうだよ、お母さんは今ちゃんと治しておけってコトなんだ。お父さんがメッセージをくれたんだ、きっと)
とにかく前向きに考えよう。カレーの香りが食欲を促してくれる。イイ加減な献立だけど、咀嚼していたら、だんだん美味しく感じてきた。パンチのあるご飯にしてよかった。
唐突に懐かしい味も頭をよぎった。カレー味から、幼い頃に父が買ってきてくれたお土産を思い出したのだ。時期的に城山公園に出向いていた頃じゃないだろうか、優しい辛さのカレーパン。
情報が残っていないかとネット検索したら、画面のトップに近隣地域のグルメブログが表示された。公園入り口の斜向かいにあった古いパン屋の紹介記事……更新日時は十数年前になっている。
その店の人気商品がくだんのカレーパンだった。そしてそこが閉店になったのは秋口。私が高二の、そう、球技大会の時期。
記憶が数珠繋ぎになって、どんどん思い出してくる。
クラスでお揃いティシャツを作ったり、鉢巻を縫ったり。体育館に響き渡るざわめき、校庭の砂埃、ひなたの反射。仲良しと一緒に校庭の隅で、お菓子をこっそり食べたことも。
そうだ、サクトから聞いたんだ。打ち上げに担任がクラス全員にパンの差し入れをしてくれて、その中にあったカレーパンを、私の隣でサクトが食べていて。父が入院した直後で、今日みたいな夕方で、風が冷たくなっていて。
「公園前のパン屋のカレーパン? あそこ、もうすぐ閉店するらしいぞ」
「そうなの!?」
「パン作ってる爺ちゃん、身体が辛くなって引退だって」
慌てて買いに走ったけど、同じく閉店の知らせを聞いた人たちで連日完売で、結局買えずに終わった事。
でもそんな話をしたことだって、サクトは覚えちゃいないだろう。同じ経験をしていても、見ている所や覚えている所なんて、人によって違うから。
夜の深まりは容赦がなくて、今夜は妙に心細い。
一瞬ウトウトしていたかもしれない。唐突に携帯がポコポコ鳴った。引き寄せてしまったらしく、サクトからだった。
『もう帰ってる?
ツカサ堂のおでんいる?
食べるなら今から届けるよ』
「わーーー!」
歓喜の声をあげる。ツカサ堂のおでんは、以前にもサクトが出張土産で買ってきてくれた。関東風のおつゆの中に数種類の練り物が入った、手軽で美味しいレトルト惣菜だ。
サクトの勤め先の本社工場は、この街から車で二時間以上はかかる海沿いの街にある。漁業が盛んだった名残で練り物が特産で、その中でもツカサ堂は一番の老舗だった。
また出張だったのかな。肌寒い夜になんて嬉しいお品物だろう。速攻でメッセージをポコポコ返す。
『サクトって神なの!?
めっちゃ寒いんよ!
めっちゃ食べたいよ!』
返事がポコポコ返ってくる。
『おう』
『じゃあ後で』
『家の前に着いたら
携帯鳴らすから、取りに出といで』
『寒いから入っていきなよ
良かったらお茶でも飲んでいきなよ』
勢いで打ってしまった。サクトを家に誘ったのは初めてだ。
(だって今無性に人恋しいから、ひと恋しいから、)
私は決して軽率ではない。自分に言い聞かせながらヤカンを火にかけていたら、直ぐにチャイムが鳴って驚いた。近距離からメッセージを飛ばしていたんだ。バタバタと玄関に向かう。
「車、そこに停めても大丈夫?」
指差す方を見れば、見慣れた白い国産車が家の前に綺麗に寄せてある。
「大丈夫だよ。どうぞ」
招き入れ、扉を閉めた途端、
「ところでヒサキ今ひとりなの? お母さん旅行?」
いきなり聞かれたので、あらためてサクトの顔を見上げた。玄関の中で見るサクトは、先日会った時と印象がかなり違う。ていうか、割と別人。今日はワイシャツの上に会社のユニフォームと間違われそうな紺の上着を羽織っているし、髪も随分短めにカットされて、あれあれ、そもそもこんなに背が高かったかな?
ドギマギしてマゴマゴな説明になってしまった。すんなり理解してくれたのは、馴染み同士の特権だ。
「お母さんのお医者さん、信頼出来そうで良かったな」
労りに心の奥がちょっと溶けた。
「そんな訳で、今ちょっと滅入ってたトコ」
「そうか。お疲れさん」
「おでんもありがとう。サクトこそ出張だったの?」
「実は今週から異動になってたんよ。営業事務所から本社工場に」
「異動?」
思いもよらない単語に固まっていたら、「あっ、左遷ってゆーなよ」と釘を刺された。
「左遷なの?」「ちげーよ」
「だよね。会社の中で一番エライのは本社工場だって、前に言ってたよね。昇進おめでと」
「昇進っていうか。普通に異動だけど」
サクトがウチのスリッパに履き替える。当然だけど初めて見る光景だ。でもあまり違和感がない。
「ただ、一部の友人知人に左遷って思われてて切ない」
心から面白くなさそうな声色に、あははと笑ってしまった。
「ひょっとしてそれでこの間は面白くなさげな顔してたの?」
「わかる? それもある」
また笑ってしまった。でもそのあとでちょっと笑えなくなった。
「そんな訳で、独身寮の空きを待って入寮予定なんよ。せっかく車買ったけど通勤に片道二時間はキツくて。向こうでも乗れるからいいんだけどさ」
お邪魔しますとリビングに入ってゆくサクトの背中を、ぼうっと見つめた。いま独身寮って言った。
「ん、なに?」
「いや、なんか、何かの業者さんがウチに来たみたい」
「この上着のせいかな。通勤用なんだけど」
「いやいや似合ってる。社会人って感じ」
「軽口をどーも。それよかヒサキんちのナカめっちゃ綺麗。新築みたいだ」
義兄が貼り替えてくれた壁紙が効力を発揮した。セルフリフォームの賜物だよと自慢しながら、お湯の沸くのを待った。
支度している間、サクトは私に「お参りさせてもらっていい?」と断ると、慣れた手付きで、父にお線香をあげてくれた。