濁流の夢に飲まれて
「グラウンドが広がっていて……!?」
薄暗くタバコが充満する酒場。
度数のキツイ酒を飲み交わす無精髭を生やした男。真っ赤なバックレスドレスを着用して男を見定める妖艶な女性。初老のバーテンダーが熱心にグラスを磨いている。
くたびれた薄水色のシャツとサスペンダー。
酒を片手に葉巻きを咥える出雲。
下戸で酒は一滴も飲めない。
普通の煙草も吸った事はない。
丸いテーブルを挟んだ向かいに座っている女性。
グラスワインを傾けながら、こちらを凝視している。
胸元からへそまでぱっくり開いて服装。
宝石が散りばめられたネックレス。
非常に『高い女性』だと一目でわかる。
「ここは……一体どこだ!?」
「予測、出雲黒兎が過去に観た映画のワンシーンを夢で観ていると推測。探偵が依頼人、あるいは同僚である私を酒場に呼び出している最中かと」
「君は……?」
「再度ご紹介させて頂きます。私の名前は雪解ボタン、マスター三寸木の立案で創造されたバーチャルAIで御座います」
【雪解 ボタン】 最終決定版
詳細:Virtual AI 通称:VA 型番:初期型
新雪の雪の様に白い長髪。
赤い瞳は血よりも妖艶な輝きをしている。
親やすさを重視してこの見た目に仕上げられた。
声は女性声優の声を編集した機械音声である。
対夢幻病の為に創られたAI。
現在の姿は通常時で姿形は可変可能である。
将来的には人間と大差ない会話が出来るが、制作されてから日が浅い彼女は融通が利かず事務的な会話しか出来ない。
「バーチャルAI? すまない、一体何が起きているのか私にはさっぱりなんだが。君がAIでここは映画のワンシーン?」
「バーチャルAIとは対夢幻病の為に創られた電子生命体です」
「た、対夢幻病ね。それで……何から聞けばいいのやら」
出雲はこの状況を飲み切れていない。
気が付けば突拍子も無い場所に座っている。目の前にはこの場所に似つかわしく無い、美少女アニメキャラクター。
夢でも観ている気分だった。
彼女の言葉通り夢なのでは。
妙にリアルで会話が成立する夢。
ならば何をどうするのが正解なのか。
培われたその場しのぎの会話が思い浮かばない。
「出雲黒兎が困惑状態。説明が必要だと判断」
雪解の目が緑色に変わり光を放つ。
放たれた光は空気中で広がる。
四角形に広がった光に映像が流れる。
「夢には四種類ある。濃縮され操作不能な奇天烈な夢。創造神となり自由自在に夢を操作できる夢。前者二つの性質を持つ夢。そして漆黒の夢」
雪解の説明を映像化したモノが流れている。
悪天候荒れ狂う大南原。
神が星の上で手を広げる。
その神が縄で縛られて海に投げ出される。
「今貴方が観ているのは三番目の濁夢。貴方が見る夢で有りながら、貴方の意識が有りながら、夢の構造を意識的に操作できない。濃縮された夢の一分一秒を感じながら、ただ濁流に飲まれるだけ」
「……つまりここは夢なのか?」
「ハイ」
出雲は頭を抱える。
理解出来ないのもそうだが、
現状さえ夢である可能性があるからだ。
考える事ができる。であるならば夢ではないのか。あるいはこの思考さえ、考えている風に観ている夢なのか。
「……ん? 私が直近で覚えている記憶は三寸木の地下室に入って会話をした所までだ。そこからの記憶が朧げなのだが、何故私は眠っているんだ? タクシーの中で眠っているのか?」
「解答、マスター三寸木の予定表に記述されていた出雲黒兎の協力。それが達成されない恐れがあった為、私が補助を行った」
「補助とは?」
「防衛システムの一つであるスタンガンを使用した気絶」
「……!! あの痺れ、お前が原因か!!」
口調が剥がれる。
今までは正体不明の相手という訳で装っていた。だが正体が三寸木の作った機械と分かった瞬間、化けの皮が剥がれた。
剥がれたのは口調だけでは無い。
立ち上がった拍子に椅子は後ろに倒れる。
グラスの手が当たって酒が溢れる。
テーブルから落ちるグラスを、出雲は手を伸ばして掴もうとした。しかし出雲の体はピクリとも動かない。反射神経云々ではなく、固まって動かない。
グラスが割れて破片が飛び散る。
だが音は聞こえてこない。
数秒割れた破片を凝視した後、瞬きをすると割れたグラスも、テーブルの酒も綺麗に無くなっていた。
完全に納得した。
ここが夢であるという事が。
「何処へ」
「現実に帰るんだ。早く起きて仕事に戻らないと大目玉をくらう。こんな場所で意味のない夢を見ている場合じゃっ!」
真っ直ぐ前を見て歩いていた。
しかし出雲の前方不注意で男にぶつかる。
相手は自分より大柄だった。
厄介ごとに巻き込まれたくないと顔を上げる。
「失礼した。私の不注意でぶつかって……しまい……!?」
男には顔がなかった。
顔がない男は入り口前のテーブル席に座って、同じテーブルに座る誰かと談笑を続けている。だがその談笑の内容も聞こえてこない。
ハッと思い周りを見渡す。
雪解以外の人物の顔が見当たらない。
ガヤガヤと音はなっているが、その内容を聴覚は正確に聞き取ってくれない。
「これが夢の中か。成程、意味不明だな。仮にも映画の世界を模した夢なら、脇役のキャストにも顔をつけて欲しいモノだが」
「夢の世界は大雑把に構築されている。ここがどんな場所なのかという認識さえできれば、細部は省略される。マスター三寸木曰く漫画と酷似しているとの事」
何十人と集まる場面を漫画で描く。
その時、一般庶民一人一人の顔を細部まで描く労力をする漫画家は少ない。彼らの顔を描いた所で、今後彼らにスポットライトが当たることは無いからだ。
「なるほど、勉強になったよ。つまり彼らは人の形をした置物なんだな。全く、謝って損した」
「ただし彼らにスポットが当たれば別です。彼らにスポットが当たる様な想像をすると彼らに顔と声が付く。例えば今の場面、映画のワンシーンならきっと」
出雲黒兎はこの場から去ろうとした。
出来るだけ迅速に性急に。
だが家路には着けそうにない。
不幸にもガラも悪い男とぶつかってしまった。
『おいオッサン。何人様の足を踏んで踏んでやがんだ!!?』
先程まで顔が無かった男に顔と声が付く。
胸ぐらを掴まれて、威圧される。
日々罵詈雑言を受ける立場にあるが、直接的な暴力は今まで受けたことが無い。
『おっと悪い悪い。人様の通り道にでかい枝があったもんだから、景気良く踏み砕いてやろうと思ったらまさか人の足とはね』
今の言葉は出雲の口から出た台詞だった。
らしくない。人を挑発する言葉がスラスラと出た。
そしてそれを認識しているにもかかわらず、訂正の言葉が出てこない。
『何だと、この野郎ッ!』
丸太の様に太い腕。
殴られればひとたまりもない。
拳が振るい切られる寸前、
二人の間に一発の弾道が通る。弾丸は男の鼻頭数ミリ先を通過して、バーの壁に着弾した。
射撃をしたのは雪解だった。
足に備え付け、ドレスで隠していた小型拳銃。
それを取り出して発砲した。
『鼻が高くなくてよかったはねブ男さん。友人から手を離して』
「……この様になります。予め申し上げさせてもらいますが、今の台詞は私の意思では御座いません。貴方が『こんな風になるだろうな』という思考の元で生み出された物語です」
男の顔がまた消える。
そしてまたその他大勢と同じ立ち位置に戻る。
出雲は服を払う。夢の中とはいえ、無意識の行動までは制限されない。
「私はそんな風に考えてはいなかった」
「難しい質問です。マスター三寸木の夢の研究は未だ発展途上。これからする説明は憶測にすぎません」
雪解の目から映像が投影される。
先程縄で縛られていた神。神は縄を解いたが、荒波に呑まれて体の自由が効いていない。
「濁夢を制御することは出来ない。濁夢は深層心理が観せている夢、上澄みの貴方では抗う術がない」
荒波の飲まれている神。
それを俯瞰して見ている別の神。
分かりやすく深層心理の四文字が縦に並んでいる。
「つまり深層心理が作る筋書きを俺達が勝手に作り替えられないという事か」
「その説明は正しい。次からはその様に説明します」
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片眼鏡と紳士帽子にタキシードの出雲。
つばの広い貴族帽子と白いドレスの雪解。
二人は今馬車の中にいる。
あの酒場から一歩も動いてはいない。
けれども気が付いた時には馬車の中にいた。
「コレは?」
「場面転換。先程の酒場での起承転結が終了して、深層心理が別のシーンの撮影を開始したと推察」
馬車の窓はカーテンで隠されている。
布切れ一枚だが、ピクリとも動かない。
「……分かった認めるよ。お前の存在もここは夢だってことも。何ならこの諸々が夢幻病の対抗手段なのも認める」
「ご理解頂けて幸いです」
雪解はニッコリと笑う。
その笑顔に温かさは感じられない。
「だから起こしてくれないか? 長い時間を夢で過ごしていたから、外では大騒ぎになっている筈だ。腐っても議員だからね、私は」
「了解しました」
瞼を二度開閉する。
その際にカメラを切るシャッター音が聞こえた。
「マスター三寸木に起床をお願いしました」
馬車が急に足を止める。
揺れる車内に乗車していた上流貴族である出雲は御者に対して苦言を呈す。
『何事だ!? まだ目的地に着いていないだろう! 大丈夫かい雪解』
馬車の振動で倒れ込んできた雪解。
が腕の中にはいるはずだった。
だが彼女の姿はそこにはない。
馬車のどこにも彼女の姿がなく、代わりに向かいの椅子に置いてあったのはオルゴールだけだった。
「雪解さん!? 何処に!」
「説明不足をご容赦下さい。私がここに滞在していると起床まで時間が掛かる為、説明と別れの挨拶を省かせて頂きました」
馬車の扉に突き刺さる斧。
隙間から垣間見えたのは襲撃者の姿だった。
黒い装束と黒いマスクで人相は不明。
『標的を発見』
「待て待て待て! この状況下で説明がないのはチョット!!?」
扉が破られた。
その刹那に仕事は成された。
出雲胸に向けられた刃物は心臓を的確に貫く。
「ぐふっ……夢と、分かっている、のに。何で、だ?」
出雲は死んでいない。
胸の痛みや込み上げる血溜まりも感じてはいない。
だが今の彼は夢の中の役者。本人の意思関係なく、彼は演技をさせられている。
だから苦しく感じる。
だから痛みを装う。
薄れゆく意識の中、出雲は目を閉じた。