隊長室へ
石造りの建物がアビーは苦手だ。
手で触れると冷たく、そしてざらりとした感触を持つ石の壁は、森育ちの彼女にとってはひどく嘘くさく感じてしまい、そして不慣れなもの。おまけに自身の足音が辺りにコツコツと響き、土の感触とは程遠いそれを感じながら目的地まで歩くしかなかった。
――私はやっていけるんだろうか。
これからの生活を考えながら、アビーは不安と緊張の中、華やかなヴェシン城の中を歩いていく。
この城はスレイプニル家の持つ城で、ラーン王国の中では国王に次いで広大な領地を持つ裕福な上級貴族のもの。城自体も大きいが、城下町も大きく活気にあふれた豊かなところ。アビーの住んでいた近隣にあるハードウィックの町とは大違いだ。
最初この城に来たときはこの大きさに圧倒され、そして城の人々の好奇の目に晒されることに不快感を覚えた。
――本当に、本当に大丈夫なんだろうか……?
簡単ではあるが騎士としての叙任式を終え、こうやって今日付けで正式にラーン竜騎士隊に入隊したことを、本来であれば喜ばしく思うはずなのだが、不安は拭い切れないままここまで来てしまった。一歩一歩と踏み出すたびに支給された騎士隊の制服の布地が擦れる音を立てるので、それがまた不安を煽った。
城の中は広いせいかほとんど人とすれ違うこともなく目的の部屋まで歩いていたが、少しずつその通路は狭くなり、日の差し込みが悪くなって薄暗い場所へと変わっていった。もしかすると間違って牢屋へと向かっているのかもしれないとアビーは思い、誰かに尋ねようとしたものの、運悪く近くに誰もおらず道を訊くことすらできない。とりあえず間違っていたとしてもまた引き返せばいい、と彼女は思いながら突き当りのところまで来ると、ちょうど木の扉が見えたのでその中にいる人間に道を訊けばいいと考え、ノックを三回する。
どうぞ、と男の低い声が聞こえたので、アビーは躊躇せず扉を開いた。すると、その拍子に蝶番がガタンと音を立てて外れ、扉は扉としての役割を果たさなくなった。
「あー、またか。まあいい、そのままでいいから入って来てくれ」
部屋の中の人物はこうなることをわかっていたようで、少し呆れたような口調で言い放ち、アビーに中へ入るよう促す。
「あの……、いいんですか? これ……って、あなたはジェイク・カー隊長! やはりここで間違っていなかったんですね」
「おはよう、アビー。いいんだよ、毎度のことだ。修理するのにも予算が回ってこないから、放っておくしかない」
はあ、と気の抜けた声で応えるしかできないアビー。扉ひとつ満足に直せないほどこの城が困窮しているとは到底思えないので、私がこれから入る騎士団は一体どれほどひどいものなのだろうかと、戸惑いの色を隠せないでいた。
「そう不安そうな顔をしないでくれ。この城はこぎれいな部分とそうでない部分の落差が激しいからな。仕方がないんだ」
人一倍体格のいいジェイクはやや長めのもみあげを撫で、それからアビーに近づく。
「はい……。しかし隊長、ここが本当に竜騎士隊の隊長室で間違っていないんでしょうか。あまりにもその……」
部屋の中は窓から陽の光が差し込んでいるのでよくわかったが、城の中とは思えないような粗末な作りだった。普通お城というものを想像すれば、装飾の凝った豪華な家具や調度品、ふかふかのじゅうたんや細工の細かいタペストリーなどが壁に書けてあったりするが、この部屋にはそれらが一切なく、安物の机と椅子、それから書類をしまうようなチェストが二つほどあるだけだった。
「いいんだよ、ここで。誰もが最初は目を疑うが、ここが誇り高きラーン竜騎士隊の隊長室だ。で、どうだ? 騎士になった気分は」
「はい、まだ自分でも信じられない状態です。平民出の私が騎士になるなんて……。それにこうやって城に出入りすることができることもまだ信じられません」
当たり前のことだが、城にはある程度の身分や関係者しか出入りできない。ましてや平民が出入りすることはもってのほかだ。今までは遠くから眺めるだけだったこの場所に何の問題もなしに入れることに、アビーは緊張していた。
「そうか、だがそう緊張するな。城の中心部でならそれなりの緊張感はいるが、ここはそんなに肩ひじ張らなくてもいい場所だ。もう少し気持ちを楽にしても俺は特に気にはせんよ」
「しかし隊長の目の前でいつも通りにするわけにはいかないので……。私はこのままの状態でいきます」
「ずいぶんと真面目なやつだな。まあ、真面目な人間が来てくれた方がこの隊も少しはまともになるのかもしれんな」
ジェイクはにっこりとアビーに笑顔で返し、うんうんとうなづきながら満足げな様子でいる。
「あの……なぜラーン竜騎士隊という名誉ある隊の隊長室なのに、こんなに粗末な部屋なんでしょうか」
素朴な疑問を投げかけてみる。
「それはだな……、名誉や誇りだけでは飯は食わせんということだ。昔ならまだしもここ五年ほどは竜騎士も俺とギデオン含め二人だけ。ようやくお前さんが入隊してくれて三人。戦に駆り出せる駒としては少なすぎるんだ。だからあてがわれる部屋もこうなるし、予算も減るということだ。騎士叙任式のとき感じただろう?略式とはいえかなり質素なものだったことを」
「そう、ですね……。そのギデオンという方もおられませんでしたし……」
「あいつがもうちょっと真面目にやってくれればせめて扉の修理くらいできるのかもしれんが、まあそれはそれとして……。そろそろ本題に入るか」
「いいんですか? 私だけで。全員集まってから話を始めた方が……」
まだ見ぬもう一人の隊員に対して、アビーは一体どんな人物だろうかと思いめぐらしながら言う。
「いいんだよ、あいつはいつ来るかわからないし、今日は来ないのかもしれない。そんなやつをいつまでも待っていても仕方がないだろう?だったらさっさとことを始めてしまった方が早い。で、だな。アビーにいろいろと細かい説明をしなければいかん、このラーン竜騎士隊のことをな……」
ジェイクはそう言い切り、ごほんと一つ咳をして話を始めようとすると。
「オレ抜きで話を進めようだなんて、ちょっとひどくありませんかね、隊長。こっちだって真面目にやってるんですよ?」
アビーの後ろから声が聞こえ、彼女が振り向くと見慣れぬ人物がご機嫌な様子で立っていた。




