第80話 パン職人の朝は早い
――パン職人の朝は早い。
「神山君、これもお願いするよ」
「了解しました」
俺はチェックの済んだパンを窯入れし、どんどん焼き上げていく。
パンの種類により、それぞれ焼き上がりまでにかかる時間は違うが、菓子パンや惣菜パンは大体5~7分くらいで焼き上がってくる。
その間も温度のチェックや次に焼くパンの準備などがあるため、中々に忙しない仕事である。
「おはよ……って、うわ、またいるし……。っていうか何? もしかして、ウチでバイトでも始めたの?」
一通りの作業が終わり一息入れていると、津田さんが起きて来たようだ。
「おはよう、津田さん。随分と早い起床だね。俺に関しては気にしないでくれ。まあ、研修みたいなものだよ」
時間的にはまだ6時前である。
そんな時間に俺が津田ベーカリーにいるのは、今言ったように研修が目的だ。
正確には、バストアップ効果を高めるための仕込みが目的なのだが、パン作りの研修というのも嘘ではない。
「……神山の方が早いじゃん。私は、食事の準備とかがあるから、いつも大体この位に起きるんだよ」
「ほほう、それは素晴らしい。実に良いことだと思うよ」
この世界には『早起きは三文の徳』という言葉があるが、実際やってみると確かにその通りだと実感させられる。
精神的だったり健康的な理由ももちろんだが、一番のメリットはやはり一日の始動が早まり、時間的余裕が生まれることだろう。
「……別に、早起きしても良いことなんて何もないと思うけど」
「そんなことはないぞ? 『早起きは三文の徳』、俺は今まさにそれを実体験している。元々は中国から伝わってきた言葉のようだが、これを言語化した者にはグッジョブと言わざるを得ない」
「実体験って……、パン作りのこと?」
「それももちろんある。だが、それは副産物に過ぎないよ。時間的な余裕、それが結果として今の状況に繋がっているのだからね。今こうして津田さんと話せていることも、俺にとってはメリットさ」
会話は、最も単純かつ効率の良い頭の体操だ。
眠気も飛ぶし、頭の回転も早くなる。
「わ、私と話せて、なんでメリットになるのよ?」
そんな俺の発言を変に捉えたのか、津田さんがやや頬を赤らめている。
ふむ、そんなつもりはなかったが、面白いのでからかってしまおう。
「当然だろう? パジャマ姿の女子高生と、こうして会話する機会など滅多にあるものじゃない。役得……、いや、眼福と言えば良いのかな?」
俺がそう答えると、津田さんはより一層顔を赤くして、体を腕で隠すようなポーズを取る。
「み、見るな! 変態!」
そう言って、津田さんは二階を駆け上がって行ってしまった。
その際にチラチラと素肌が見え隠れしていたのだが、もしやノーブラだったのか?
いや、パジャマなのだから当然と言えば当然か……
……これはもう少し、会話を引っ張っておけば良かったのかもしれない。
トントン
俺が不埒なことを考えていると、不意に肩を叩かれる。
叩いてきたのは、津田さんの母上である陽子さんだ。
「神山君、娘と仲良くしてくれるのは本当に嬉しいんだけど、お父さんの前では、もう少し控えてあげて? あの人も、結構複雑な気分なのよ?」
「はっ!?」
振り返ると、そこにはこちらに背を向けてプルプルと震えている津田さんの父上、悟さんの姿があった。
(ま、まさか、今のやり取りを見ていたのか……!?)
いや、見ていなかったとしても、聞いていただけで十分気まずい……
陽子さんと入れ替わりで休憩に入ったのだが、どうやらいつの間にか戻ってきていたらしい。
ざわ……、ざわ……
まさにそんな感じの擬音が聞こえてきそうな雰囲気だ。
ゴゴゴゴゴ……、じゃないだけまだマシかもしれないが……
「……神山君」
「はい!」
思わず背筋を伸ばして返事をしてしまう。
「こっちに来て、仕込みを手伝ってくれないかな?」
「はい! 喜んで!」
その後、俺と悟さんは一切会話をせず、黙々と仕込みに励んだ。
◇
「そいつは、確かに気まずいな……」
「だろう? いやぁ……、正直、あそこまで重い空気になるとは思わなかったよ」
あれは学会の連中に研究発表した時よりも、嫌な空気だった。
生きた心地がしない、というのとは違うが、妙に息苦しい空間である。
「それは、師匠の自業自得です」
「ですね! マスター、オヤジくさいですよ!」
弟子達からも批判の声が上がる。
しかし、俺はそもそも中身が本当にオヤジというか、ジジイと言っても過言ではない年齢なんだぞ?
むしろ、オヤジくさくて当然なのである。
「良くわからないのですが、なんで良助と津田さんのお父さんは、気まずい関係になったのですか?」
「気まずい雰囲気、な! 関係じゃないから!」
関係ってなんだよ!
何をやったら、人様の父上と気まずい関係になるんだ……
………………色々想像してしまったが、全部ありえん。
「それは、娘のパジャマ姿を見て喜んでる男を見たら……、ねぇ?」
「うーん……。でも、私のお父さんは別にそんなことは気にしなかったですけど……」
それはアレだ、俺自身、一重の両親とは仲が良かったし、一緒になって一重を褒めていたからだな。
そうだろう、そうだろうって、まるで俺は同士のような扱いを受けていた気がする。
そのくらい俺や俺の家族を信頼していたからこそ、一重の一人暮らしを認めさせることができたワケだ。
「むむ……、まさかそこまで外堀が埋まっているとは……」
いや麗美、お前は絶対何か勘違いしているぞ。
「ま、まあそれはともかくとして兄者、首尾は上手くいってるってことですよね?」
「あ、ああ、もちろんだ。個人差はあるだろうが、来週あたりから効果が出始めるだろうな」
効果とは、もちろんバストアップ効果のことである。
「ほ、本当ですか? 私には、まだ何も……」
「だから、個人差があると言っただろう? ……だがしかし、静子と麗美はそろそろ効果が出てもおかしくないハズだが……。静子、その、測ってみたりしてないのか?」
いくら俺でも、胸のサイズ測ってる? などと気軽には聞けない。
流石に気恥しくて、少し言葉を濁してしまった。
「いえ……、自分だけでは正確に測りにくいので……。麗美さん、測ってみましょうか?」
「そ、そうしましょうか……」
そんなこんなで、俺達男組は部室から追い出されてしまった。
「な、なんか、ドキドキしますね」
確かにそうなんだが、口にしないでくれ如月君。
折角意識しないようにしてるというのに……




