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樹海の愛

作者: マサヒロ

生きる意味を見失った青年に愛を教えてくれたのは、捨て犬達だった。

「樹海」


行き先は決まっていた。


左手に見えてくる談合坂サービスエリアは満車のサインが点灯していたが、もとより彼には利用するつもりは無い。誰にも知られず、誰とも顔を合わせたくはないからだ。彼が目指す場所は富士の樹海だった。中央高速を走る彼の心の中は誰も知る由がない。その若者の名は吉田マサルという、どこにでも居るような目立ないありふれた男だった。 


ありふれた世の中の、ありふれた男。名前はあって無いような人間。それが彼の姿だった。いや、姿さえも無いような人間だったのではないだろうか。


小さな会社、そこに属する人は数えられる程の僅かな人数だがほとんどの者は彼の名を覚えてはいない。彼の名前など覚える必要など無いし、そもそも彼がそこに居なくても誰も気にもしないだろう。彼は死ぬ前から亡霊だったのだ。しかも名前もない亡霊。たとえ彼が死んだとして社内報に訃報が記されたとしても、誰もその名がどのような意味を自分にもたらすのかを考えることもしないだろう。ただそう感じる者たちを責めることは酷なことだ。なぜならそれは彼自身が望むことでもあったからだ。


彼は社内で無能を演じていた。無能を演じることで自分の心を他人へ晒す危険を回避しているつもりだった。それは思いのほか効果的で、誰も彼に興味を持つ事が無い。彼は社内では人では無く、安いシュレッダのように用のなくなった紙を切り刻むだけの道具に思われていた。そんな彼が社の勤務を続けることが可能なのは、彼の親がこの会社の取引相手だったからに他ならない。


マサルの父親は地元で個人起業し、ある程度の成功を収めた人間だった。彼は自身の成り上がりにプライドを持っていた、いやプライドと言うよりも生きる証だった。オーナーとして贅沢の可能な人間だったが学歴だけが彼にとって最大のコンプレックスだった。そのコンプレックスを自身の恥と感じ、子供たちへ向けられる。マサルは三人の息子の末、つまり三男だったが、もの心が付き始めた頃より兄達との比較を父親から叱責されていた。


父親にとってマサルは自身のコンプレックスと重なり、親としての愛情は上の兄達に注がれてゆく。ただ、マサルはそれを幼少の頃より受け入れてしまい、戦うことを放棄する道を選んだ。彼には反抗期さえも無かった。無感情、無気力、そして無思考がマサルを護るヨロイだった。家庭内でさえ目立つ事はしないようにしていた。例えば食事の時間は必ず定刻に家族が揃うのを確認して席に着く。食事は残さずにきれいに食べる。もちろんお代わりもしない。聞かれたことには簡潔に答える。食事が済むと自室に戻る。トイレと風呂だけ部屋を出る。脱いだ服はたたむ。返事は必ずする。


学生時代だった頃、一番上の兄が高校の野球部の主将に選ばれた。父は大いに喜んで兄を褒めて、さすが自分の息子であると自慢げに言った。その時にチラリとマサルを一瞥したがその眼にマサルは恐怖を感じた。特に何も言われたりしてはいない、ただその目の考えている事は明白だった。父は喜び、家族で外食へ行こうと言う。私達5人家族は大型のワゴン車に乗り込んで焼肉屋へ向かう。焼肉屋は幹線道路沿いにあって夕食時は混雑するような人気店だったので外で待たされる。父は長兄や次男の兄達に何が食べたいかとか、好きな肉は何なのかとか聞いている。母はその側でニコニコ顔でその会話を聞いている。マサルは店の前の幹線道路を行き交う車の流れをぼんやりと眺めている。気がつくと彼の目の前に居た家族は店のドアを開けて店内へ入ろうとしていた。マサルは黙ってゆっくりとその後に付いて行った。マサルには辛い時間が過ぎて行く。感情を殺したハズの心が軋み出す。それを悟られないようにマサルは笑みを作り、いかにも美味しそうに肉を口に運んだ。肉を噛んで飲み込む。作り笑いをしながら。そして健気にも彼は時に「美味しい」と独り言のように小さく呟いた。誰も聞いてはいないのに。彼は肉は口の中で何度も繰り返し噛み締めた。何故なら、何かを口にしている事が自分にとって最も安全な時間だと認識していたからで、決して旨い訳ではない。肉を頬張りただもぐもぐと口を動かす事だけが、マサルにとってこの焼肉屋で家族の団欒というイベントに居る証なのだ。もっとも彼は、はなから参加を望んではいないが、車に乗って全員で行くと父親に宣言された以上、他に選択肢は無かった。


焼肉屋にいた90分間の間に、彼の顎と精神は他人の想像を超える程に疲労した。父は言った。こんなに美味しい焼肉を食ったのは久しぶりだと。兄は父に焼肉屋に連れて来てくれたお礼を言って、本当に満腹だと笑った。マサルは考えないようにしようと思っていたが、そのやり取りを見て思った。本来なら自分も喜ばしいと思わなくてはならないのだろう。しかし自分にとって、この時間はそうでは無く、肉をひたすらに噛み締めて、飲み込むだけの内容であった。自分はもう人として生きているに相応しくないのだろう。そう感じた。自分の気配を消し、感情を殺したのは確かに自分の意思でやった事だ。しかし、それは周りの家族への憎しみではなく言わば未熟なる自己保身術だった。ただ今日の自分の中の感情は何だろう。何も無く、何も感じず、ただ恐れによって周りを警戒し、肉を飲み込んでるだけの男。それは良い、それは自分でそうすると決めた事だから。ただ、


自分は家族の喜び事にさえ何も感じ無い。何も。まるで食べ残しにハエがたかるようしか感じない。彼等の食べている姿を見て、ハエに見える。もしかすると、自分は自分の心、感情さえもコントロール出来なくなってしまったのか。マサルはふと不安になった。ただ既にどうする事も出来ず、その後の学生時代も過ぎて行った。


賑やかそうな大学は嫌だった。進学を親達も考えて居なかったようで、おそらくマサルに対しては何も期待する事も無かったのだろう。その事は彼にとっては幸いだったのかも知れない。ともかく、進学を避けることが出来た。彼は決して頭脳が悪いのではなく、思考する事や、感じる事を避けているだけだろう。その証拠に、彼は支持された事に対して間違いや不足になる事はなかった。


父親にはマサルの進学は好都合だったと思われる。この一家の恥と言うか汚点とでも言った方がいい息子はさっさと就職して家から出て行く事を心の奥底では望んでいた。もちろんそれを自分から言う事は出来ないので、マサルが進学を望んではいない事を聞いて内心はほっとしていた。そして父は自分の会社の下請けにあたる小さな会社へマサルを引き取らせた。いろいろと父親には考えるところがあったのだろう事は想像に難くない。


その会社の中でマサルは何も期待されないように無能を演じていたのは先に述べた通りだ。彼にとっては平和な日々だったのかも知れない。何故なら自分の無能を誰もが信じ切って、さらに誰もが自分に関心を示さなくなっていたからだ。


そして昨晩を迎えた。とくだん何も無く終わった昨晩。家族は何も言わない。普通に夕食をとり、それぞれの部屋に帰って行った。珍しく一番最後にまでダイニングに残って居たのはマサルだった。実は昨日は彼の誕生日だったのだ。マサルは用意をしていたのだ。過去の誕生日には何かしらのお祝いやケーキを用意してくれてもいたので、その事へのお礼を言わなくてはならない。しかし、何も無かった。ひとりでダイニングテーブルの椅子に座って、周りを見る。いつもと全く同じだ。何もかもが同じで、流しのところにある洗剤の位置も形も同じだ。食器棚の中の食器も普段と何も変わらないし、棚の上に置かれているコーヒーメーカーも自分に向かって「御用は何でしょうか?」と言うようにその定位置に座っている。もしかすると、マサルは自分よりもこのコーヒーメーカーの方が家族にとってはかけがいのない者なのだろうかと思った。しんとする部屋の空気は、自分自身の気配さえも無い気がした。マサルその時、疑問が確信に変わった。


忘れているのだ。


家族は全員自分の誕生日を忘れているのだ。今日が自分の誕生日だと言う事を知る人間はこの世の中で自分だけなのだ。人には分からないかも知れないけれど、イジメられるよりも辛くて悲しい事もある。


ただ、それだけの事だ。


それほどの事ではなくて、それだけの事だ。マサルは暫くしてダイニングの椅子から立ち上がり、自分の部屋へ戻った。ベットに腰掛けて動けなくなった。このままこの部屋の中から自分が居なくなっても誰も関心が無いのかも知れない。普段は考えることさえ拒否しているハズの自分が何故か今夜の事を考えている。今まで、自分は誰かを傷付けたのだろうか?家族をそうしたのだろうか?会社の人達に嫌な思いをさせたりしたのか?自分は自分の知らないうちに他の人を悲しませていたのだろうか?俺は悪い人間なのだろうか?


生きる価値の無い人なのだろうか。


夜は容赦なく更けていった。その時間さえも自分にとっては、この世に存在する事が許されない、いや存在する意味が無い気がした。生きていても、死んでる気がした。


まだ暗い夜明け前、マサルは家をそっと出て車のドアを開けた。この車は勤めた給料で買った格安の中古車で昨日までは通勤に利用していたが、もうこの車を運転するのも最後だと思う。そう思いながら、最後のドライブをする為に高速に入り中央高速へ向かった。


富士の樹海は自殺者が多いと言う。迷い込むと簡単には出れなくなり、捜索も困難をきわめる事は知っている。樹海の中で死んでしまえばそう簡単には見つからず、そのうち骨にでもなってしまうだろう。腐るか、獣の餌になるのか。ネズミに喰われるのか。そんな事、考えている自分はどうしたのか?オマエはまだ生きる事に未練があるのか?おそらく怖いのかも知れない。死ぬ事への恐れだと感じた。


車は高速を下りて富士吉田市のホームセンターに向かう。ここでロープとナイフ、そしてそれを入れるサイズのリュックを購入した。本栖湖の近くの無料の駐車場で車を乗り捨てる。リュックを背負って森の中へゆっくりと歩きだすが、本栖湖のあたりには誰も居なかった。樹海の奥の方に行って、適当な木を探しその枝にロープをかけて首吊りをしたいと考えていた。ナイフはロープを適当に切る必要があるかも知れないし、また死に切れない時は首か心臓を刺せば死ねると思いながら。歩き始めて周りの樹木を見定めるが、なかなか枝振りのイメージがつかない。いざやろうとしてみると、案外見つからない。


疲れてしまい、木の根本で腰を下ろした。その時マサルの耳に何やら雑音が聞こえて来た。

森の中では風が枝を騒がせる音や鳥の鳴く音ぐらいしか今までは聞こえて来なかったが、なんだかその音とは違っていた。身を沈めて耳をたてた。遠くで何かが動いているが、それが何か分からない。木の陰に隠れて静かに顔を出して音のする方角をじっと見た。すると森の中を歩く人達が見える。ハンターのように見える。一瞬撃たれても構わないとも考えたが、それでは相手の人が不憫だと考え直す。誰だって人間を殺したくは無いだろう。マサルは身を潜めてやり過ごすことにした。気が付くと周りはすっかり闇の中だった。知らないうちに寝てしまったらしい。昨晩は一睡もしていないし、歩き回ったので寝てしまったのかとマサルは自分を責めた。何も見えない世界なので、少し歩ける明るさになるまで待つ事にする。このままじっとして餓死してもいい。そんな事を考えていると、再度彼方の闇から音が聞こえる。ガサガサという音だ。良く目を凝らすと少しずつ見えて来るのは、目が暗闇に慣れているからだろう。


暗いと言っても星は出ているようなので、多少は見えるようになって来た。だんだんと音が近くで聞こえるが、突然その音が大きく激しくなった。視線をそちらに向けた時、ぼんやりとその姿が見えた。イノシシがこちらへ向かって来た。とてつもなく大きい。自分はすぐに立ち上がって走り出した。さっきまで見えないと思っていた森の中を走っている自分に驚きながら走る。木を避けながら、荒れた地面を駆け降りたり登りながら走っている。無我夢中に逃げた。後から感じたのだか、獣に遭遇した人間が逃げるのは本能かも知れない。その時マサルは思い出した。熊は逃げては危険だと何かしらの本で読んだ事があったのを。イノシシで良かったと思っていた。生きたまま喰われるのかと思ったらゾッとする。死ぬ気で来たのだから食べられるのは構わないが、それは死んだ後にして欲しい。


少しだけ森の中を歩いて行く事にした。森を歩くのは難しいが、それも慣れて来ると変化があって良いものだと思う。どうしてそんな事を思うのかと自問した。何故こんな場所など楽しい?楽しいハズが無いし、大変だろう。森の中など歩いた経験も無いが。この感じは悪くない。


今まで平坦過ぎる道しか歩いて来なかったから、分からない。こんな場所など歩いたことが無い。歩き続けると、少しだけ開けた場所に出た。草は生えているが、低い草だけのようだ。周りを樹々に囲まれてとても美しく感じる。星の光を感じて空を見上げて見た。こんなに綺麗な所が世の中にあったのかと思うほどだった。ここで死にたいと思ったが、これほど美しい場所で死んではならないと思い直した。理由は分からない。ただ、そう思っていた。


静かな森の、新鮮な空気と引き締まった雰囲気。それを照らす大小の星々の多さは見飽きる事がない。これが地球の本当の姿なんだなと思った。自分が今まで見てきた世界は本当ではなくて、作り物のような気がする。あの世界、世の中は偽物、まぼろしのように実は儚くて一瞬だけの世界なのではないだろうか。そう思うと、そんな世界から逃げ出した事に嬉しさを感じる。自分は死ぬ前に、本当の地球と本物の生きる樹木、獣を知る事が出来たのだから。ここで死ぬ事にして良かったと思った。

その夜はずっと星を眺めて過ごした。


朝が来て次の日も樹海を彷徨い続けた。森の中には渓流もあり、そこで顔を洗った。水は苔蒸した岩の間を流れてゆく。清流の中を気持ち良さそうに泳ぐ魚が見えた。夜の星々も美しいが、この渓流に泳ぐ生き物達を眺めていると時間を忘れてしまう。なんて美しいのだろう。命を繋いで悠久を生きている姿はただ生きているだけで美しく感じる。


そこに居るとまた何かの音がして来た。上流の方に何かの気配を感じて木の背後に隠れた。もし熊が来ていたらどうするかと思うと鳥肌が立った。木の陰からそっと見ると1匹の犬が現れた。その大きな姿をしている。それは秋田犬だった。その秋田犬は周りを警戒するように見ていたが、クンクンと鼻を鳴らすとマサルの匂いに気がついたようでサッと姿を隠してしまった。その後、何度もその秋田犬が居るのを見る事になる。どうやらマサルの移動に合わせて着いて来ている気もする。樹海の中に犬が何故居るのか?野犬のような感じもしないが、まさか飼われている犬でもなさそうだ。とにかくマサルを襲って来る気配はしない。


小さな坂を見つけた。この坂上の木の枝にロープをかけて首に輪を回して飛び降りることにした。ナイフでロープを適当に切る。切り終わるとマサルはナイフを木の幹に刺した。ロープの端を幹に縛り付けて残りの部分のロープを上の枝に向かって投げた。ロープはうまく枝に掛からずに何度も失敗していた。数度目にようやく狙った場所にロープが掛かり、マサルはそれを引き下げようと手を伸ばしていた。その時、突然後ろで唸り声が聞こえマサルは振り返った。


そこには仁王立ちの熊の姿があったが、マサルは一本も動けなくなった。熊の左前脚が振り上げられ、マサルを切り裂こうとする。それを見てもマサルは動けない。この一撃で死ぬんだと覚悟した。


マサルは横から飛び込んできた大きな物に弾き飛ばされ、地面に叩きつけられた。そしてそれはマサルに覆い被さってもの凄いで吠えている。自分を弾き飛ばしたそれは熊の手ではなくあの秋田犬だった。熊は驚いているが、秋田犬をも襲おうとしていた。その瞬間、周りにたくさんの犬が現れ、中には熊の背に乗って熊の耳に噛み付く犬もいた。足元にも噛み付く素振りを見せて、熊を威嚇する犬達。熊は逃げて行った。あの大きな秋田犬はマサルを庇う様に覆い被さったまま熊が姿を消すまで吠え続けていた。


熊の姿が森の中に消えてしまうと犬達は一切に勝ち誇る様に遠吠えをあげた。その声が止むと秋田犬はマサルの顔を見てくれた。そしてマサルの顔を舌で舐めた。それを見た他の犬達も近寄って来て、皆でマサルの顔や手を舐めた。マサルは驚きながら上半身を起こして、秋田犬に手を出してみた。ありがとうと声に出してみる。その時気が付いたが、自分は涙を流していた。その日から犬達との生活が始まった。死ぬ為にここに来た事など、もうどうでもよくなってしまった。どうせ死ぬなら、この犬達の為に何かしらの事をしてからにしたいと思い始めた。


犬達は全部で7頭居るようだが、ほとんど全部の犬が以前は飼い犬だろうと思う。秋田犬や詳しくは分からないがポインターとかテリアとか、レトリバーなどなど。ピットブルも居た。映画で見た事がある犬達。熊の耳に噛み付いたのはピットブルかも知れない。優しい顔をしているが、凄い奴だ。


今まで犬達がマサルの周りを付けて一緒に移動して居たのは、もしかするとマサルを見守って居たのかも知れない。この犬達はおそらく飼い主から捨てられてしまったのだろう。育児放棄だ。面倒になって捨てるとか、引越しで犬がダメで捨てるとかそんな理由だと思う。中には酷い虐待を受けたりしたかも知れない。ただ犬達には何も罪は無い。捨てられる罪も無ければ、虐待を受ける罪も無い。ただ生きているだけで、罰を受けた犬達。捨てられてしまった犬達。マサルはこの犬達の親になろうと考え始めていた。何故なら、この子達は命を賭けてこんな自分を守ってくれたのだ。死ぬかも知れない危険な相手に立ち向かい、こんなどうしようもない自分を守ってくれたのだ。マサルはそう思っている自分が不思議に思えた。相手が犬だから。そう人間みたいに裏切らないから。


犬達は毎日の餌を探す事が命を繋ぐ全てだ。食べられる物は森の中では限られているが、贅沢を言ってる場合じゃない。野うさぎや鹿も獲った。魚も獲った。それは生きる為だからと言い聞かせて。日中は餌をひたすらに探して歩く。犬達は夜は寝る、マサルと一緒に固まってお互いを温めてあった。


ある日獲物を探して歩いていると、遠くで銃声が聞こえる。ハンター達だろう。鹿やイノシシ、もしかしたら熊を狙ってるのだと思う。ただ野犬の群れも狙われない保証は何処にも無い。マサルは犬達と一緒に音から遠ざかる。熊は音に敏感で、同時にこちらに来るかも知れないので警戒するようにした。


そんなある日、いつも一緒に居る犬達の姿が消えてしまった。必死になって探し回るがなかなか見つけられない。しばらくするとマサルのもとに秋田犬が現れるが、マサルの顔を見ると踵を返して戻って行く。マサルは森の中で見逃さないように追いかけてゆく。森は枯れ葉で埋まり、足元が不安定になっていた。坂では足を落ち葉で滑らして転びそうになる。なんとか追い付くとそこには他の犬達も待っていた。マサルが何事かとよく見ると、犬達の囲う中央に死骸があった。仲間の中で一番小さなテリアだった。その腹は食い千切られ内蔵が持ち去れていた。イタチかキツネだろう。よく見ると足が鉄製のワナに掛かっていた。これはおそらくイノシシ用のワナに違いない。頑丈な鉄の刃が死体に食い込んでいる。マサルがそれを見て茫然と立ちすくんだ。「あぁ、なんて事を」それ以上声が出て来ない。犬達もじっとして動けない。彼等も悲しいのだろうと、マサルは思った。


小さな子からワナを外す。マサルは両方の手に力を入れて思いっ切り広げた。そして開いたワナをそっとずらし、その子の死体を両手で持ち上げる。マサルの手は震えていた。恐ろしくて震えていたのでは無い、悲しくて悔しくて震えが抑えられなかった。あの星空が美しい広場に穴を掘り、その子を埋めてやった。痛かったか、でももう大丈夫だよ。もうここは天国の入り口だからね。それにお前は幸せだ。周りにこんなに悲しんでくれる仲間がたくさん居るんだから。お前は幸せだ。そう言いながら枝で作った墓標を立てると、秋田犬達が遠吠えをした。悲しそうに、寂しそうに。


冬が来た。

富士の冬は駆け足でやって来る。地面には霜が立ち。森に吹く風は肌に刺さるようだ。マサル達は寄り添って暖をとった。あっと言う間に雪が降って来る。地面は白くなり、樹々も凛として、ここはこの世なのかと思うほど美しい。マサルは獲物を探して雪の中を歩いていた。森の中を歩き回るがこの時期は獲物を獲るのは至難の業だ。だがひとつ幸いなのは熊も冬眠なので、出くわす心配少なくなる。突然足に激痛が走った。


イノシシ用のワナに嵌っていた。枯葉と雪に隠れて見えなかったのだ。マサルは唸りながら両手でワナを外すと、足の傷から血が吹き出した。雪を取ってそこに押さえつけた。見る見る白い雪が赤く染まって行く。近くの木に絡みついているシダを引き抜き、それを傷の上に縛り付けた。


その日から日に日にマサルは歩けなくなった。足の傷が化膿して腫れが酷い。寒くて、食べるものも無く、体力が保てない。犬達の自分の食べる物をマサルの前に置いた。犬は保存する為に地面を掘って貯める習性があるが、それをマサルの為に掘り出して来たのだ。半ば傷んでいる獲物を目の前にしてマサルは肩を震わせて泣いた。


ついにその日が来た。死にたいと思って入った樹海。死にきれずに今日まで来たが、それももう少しで終わる。マサルは犬達に、自分と付き合わせて悪かった。でも、もう心配はしなくていいんだよ。死ぬ為に来たんだから。でも、その前にお前達と会えて幸せだった。自分が死んだらどうか食べてくれないか。イタチに食われるのは嫌だから、お前達に食べて欲しい。他に食べる物なんて何も無いからね。そして、生きて欲しい。マサルは犬達に語りかけた。分かるかどうかは問題ではなく、きっと分かってくれるだろうと信じていた。


樹海の冬も終わる頃。


マサルは探索中の自衛隊に発見される。まだ雪の残る森のほこらの中に死体はあった。隊員達は集まって来た。そっと死体の周囲の雪をどかす。徐々に何か出て来る。全ての雪を除くと、死体の周りに数体の犬達の死骸があった。それはマサルの周りを温めるように寄り添っていた。


「隊長、見て下さい。これを、この犬達が仏をまるで守ってるようです。なんて優しい犬達なんだ。」隊員達はじっとそれを見ていたが、中には肩を震わせて涙を流す者もいた。


隊長は言った。

「とても幸せそうな顔をしていますね。この仏様は。」


皆が死体に手を合わせた。


隊長は隊員達に、この遺体を運び出す指示を出した。そして、周りの犬達の死骸も。


「犬達も丁寧に運んであげなさい」と言って隊長は空を見上げた。


樹海の空は、何事も無かったかのように晴れていた。


まるで

何事も無かったように。








ーーーーー終ーーーー

作マサヒロ






命はなくなった。愛に包まれて。

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