8.異世界の知識
8.異世界の知識
今朝も目覚めは悪くない。
昨日と同じように窓を開けると少し冷たい朝の空気が流れ込んで来る。
朝日がまぶしい光を放っていて、僕は目を細めた。
今日もいい天気だ。
街へ行くのに天気の心配はしなくていいだろう。
日に照らされた寝台の上には毛布が丸まっている。
毛布を広げて寝台に掛け直すと、僕は水差しから一口飲んだ。
眠りに入る直前に聞こえた声を思い出す。
『俺は賢治、君に召喚された・・・異世界の住人だ』
眠りの落ちる直前だったのに、あの声は良く覚えている。声が聞こえた時は夢を見ているのだと思った。
頭の中に呼びかけてくる声など、夢の中の出来事だと思って当然だ。
だが、今は現実だと理解している。
あの声が今でも頭に響いてくるからだ。
賢者。
遥かな昔にはそういう人々が存在したと言われている。
原初の魔法を操り、深淵の知識を得て奇跡を起こす人々。
その存在は歴史の中に埋もれ、現在では名乗る者はいない。
だが、声は賢者と名乗った。
『賢治。サトウケンジだ。君の心の中に召喚されている』
サトウケンジという響きは耳慣れないものだったが、言葉の意味は理解できた。
どうして心の中に召喚されたのかは賢者にもわからないとのことだ。
物語の中の賢者はどんな問いかけにも答えるものだが、この賢者は駆け出しなのだろうか。
賢者に「わからない」という言葉は似つかわしくない。
(賢者。貴方のいた世界でも空は青いのですか?)
窓の外を眺めながら、心の中で問いかけると賢者の反応がある。
響きには嬉しそうな感情が感じられた。
『俺の世界でも晴れていれば青い空が広がっていたよ。こんな季節の晴れた日は秋晴れって言うんだ』
アキバレという言葉はこちらの世界にはないが、意味はわかる。
こんな清々しい空には名前を付けたくなるのはどの世界でも同じなのだろう。
(空の色は見えるのですね)
『肉体はないが君の感覚を共有しているので君が視たもの聞いたもの、香りや味、触った感覚などはわかる』
考えていることや思っていることがすべて賢者に伝わるわけではなく、明確な伝えたいという意思な必要なようだ。
考えている事や感情のすべてが伝わってしまうようなら、すぐにでもこの得体の知れないモノを追い出したい。
ここ最近の心を騒がせるような出来事をいくつか思い出してしまい、僕は気恥ずかしさに赤面した。
(あなたの目的はなんですか)
『君の心の中に俺がいるのは事故だと思っている。君も不愉快だろうし、できれば君からは出て行きたい。どうやったら出て行けるのかがわからない。その手段を探したい』
(元の世界に帰りたいという事ですか?)
『元の世界に戻るのは難しいだろう。あっちの世界では俺の体はもう無いと思う。それに召喚することよりも元の世界に還すことの方が難しいと授業で言っていたぞ』
(そうでしたっけ)
『授業では召喚されたものを元の世界に戻すのは理論上不可能ではないが、現実としては不可能であると髭の教師が言っていた。元の世界で召喚の儀式を行う必要があるので、元の世界側に召喚士の技術が伝わっている必要があると。残念だが現代日本においてはその可能性はゼロだろう』
ゲンダイニホン。賢者は不思議な言葉を使った。
(その授業、かなり前だと思うんですが一体いつから僕の中にいるんですか)
『いつ、と言われると正確に日付は覚えていないんだが。君が試験勉強をしている頃にはいた』
試験勉強をしている頃からとなるとかなり以前だ。
交信の儀で聞いた絶叫のような、悲鳴のような声が賢者の声だったのだろうか。
だとしたら、賢者の世界とはつながれたことになる。
『この世界で生きていくのだとしても、自由になる肉体は欲しい』
(精神を別の肉体に移動させるというのは禁忌の術式です。禁忌なので調べる事も難しいです。貴方の事を説明しても信じてもらえないでしょうし)
他人の肉体を奪うという事は、元の意識を殺すのと同じだ。
精神がない、例えば人形のような物に精神を移すことはできるかも知れないけれど。
その場合自由に動く肉体という条件は満たせないだろう。
『動きもしない人形に閉じ込められるぐらいならこの状態の方がマシだな』
賢者の言う通りだろう。
動けない人形にずっと閉じ込められるなんて、想像しただけでゾッとする。
『君には迷惑をかけるが、いい方法が見つかるまでは一緒にいさせてもらうしかないな。できれば魔力を使えないものか試したいんだが、魔力の使い方を教えてくれないか?』
(賢者なのに魔力の使い方も知らないんですか?)
賢者というのは嘘なのではないだろうか。
5歳の子供でも魔力を使い始める子はいる。
田舎だとなかなかそういう機会もないのだけれど、王都では小さなころから教育を受けている子も珍しくはない。
(ただ念じて魔力を外に出すだけですよ。魔力に力と方向と与えるには術式が必要になりますけど)
『俺の世界には魔法はなかったのでやり方がわからないんだ』
僕には魔法がない世界は想像できなかった。
魔法なしでどうやって世界が成り立つのだろう。
部屋を照らす灯りですら魔法の力が働いているというのに。
そんな世界の住人なら賢者と言っても大した知識はないのかもしれない。
(幼い子に魔力の使い方を教えるやり方があるにはありますが。夜、教えます)
5歳児がやるような事を周囲の目がある場所でやったら頭を疑われそうなので、自室でこっそりやるしかない。
賢者との話は尽きないが、朝食の時間だった。
自室の扉をでると、廊下でちょうどゼルスと鉢合わせたので一緒に食堂に行くことにする。
こいつはゼルス、僕の友達です、と心の中で賢者に紹介しておくのは忘れない。
盛況な食堂にはすでにミリアとマルティナの二人が向かい合わせで食事中だった。
途中で一緒になったゼナさんと3人でそこに合流する。
生野菜とパン、根野菜がはいったスープの質素な献立だ。
『パンが固い。野菜にも塩しかかかってない』
食べ始めた途端、賢者がやたらと文句をつけてくる。
今までは声が聞こえなかったが、ずっと文句を言い続けていたのだろうか。
(どこで食べてもこんなものですよ)
「ゼルス。貴族の朝食ってどんなものなんだい?」
唐突な僕のの問いかけに、ゼルスとゼナさんがきょとんとした顔をした。
マルティナは興味をありげな顔で二人を見ている。
「どうした急に・・・そうだな。朝食はあまり凝った料理は出ない。ここで食べているものとそうは変わらん」
「素材は良いものを使ってますが、それほど変わらないですね。魚料理が多いぐらいでしょうか」
「野菜に何かかけたりするかい?」
「いや。塩をかけるぐらいだが」
不思議そうな顔でゼルスとゼナさんが僕を見ている。
野菜に何かかける、など貴族社会でもあまり聞かない。
『これがこの世界の及第点の食事か。もう少し食事を改善したいところだ』
(及第点、というか良いほうだと思いますよ。村にいたころは朝は麦粥だけでしたし)
実際、学び舎で出されている食事は悪いものではない。
王都と田舎の食糧事情の差を差し引いても良心的な値段で良心的な食事が出ていると思う。
「食事に不満があるの?」
マルティナが足りないのなら自分の分を、と言ってスープの器を差し出そうとしている。
「いや、大丈夫。変なことを言ってごめん。ちょっと貴族の生活に興味があっただけなんだ」
実は心の中のヤツがうるさくて、とはとても言えない。
賢者は僕と会話ができるようになったのが嬉しいのか、様々な質問をしてくる。
貴族の朝食の事など僕にはわからないので、聞いてみただけだ。
「なんだ、アスウェルは貴族になりたいのか。窮屈なだけでつまらんぞ。俺は今の生活の方がよっぽど気に入っている」
ゼルスの実家であるクライン家は代々騎士団長を務めているような名家なんですよ、と賢者に伝えるとやっと納得したらしく、先ほどの及第点発言だった。
「え~アスウェル、貴族になりたいの~?でも貴族ってどうやってなるの~?」
ミリアが不思議そうにゼルスに聞いた。
貴族とは生まれながらに貴族であり、新しい貴族になるためには王宮へ上がって功績を重ねる必要がある。
そうやって王に認められた時、初めて爵位を得る事が出来て貴族になることができるのだ。
「さすがに貴族は目指してないよ。王宮なんて上がれるわけがない」
そもそも王宮を目指すのなら召喚士ではなく、魔法士を目指していただろう。
『魔法士というのは召喚士とは違うのか?』
(僕ら召喚士は術式を通して精霊を召喚して使役する事に魔力を使います。魔法士は精霊などを介さず、術式を使って直接現象を引き起こします)
『魔法にもいろいろあるという事かな。ゲームでいうところの職、クラスってことか』
(ゲーム、というのはわかりませんが)
魔法士の場合、王都内壁の内側にある王立魔法学院に通う事になる。
生徒の大半が貴族の子弟で、平民が魔法学院に通う事はない。
ごく一部例外があるようだけれど、入ってからかなり苦労するそうだ。
平民で魔力が強い者は他には錬金術士や付与術士を目指すことが多いが、そもそも平民は訓練校に入らない事も多い。
そういった術士の元に弟子入りして腕を磨いていくのだ。
平民で魔力強い者は、独自に使い方を覚える者もいる。
一般的な生活をする上では魔力を高度に利用する術式を必要としないし、平民ではたとえ魔力が強くても親の跡を継いで農民や職人になる者の方が数は多い。
そもそも自分の魔力が強いかどうかを知らない人もいる。
「卒業したら村へ帰るつもりだしね。村で精霊を使って農地を広げたりするのが精々だと思うよ。村で魔法士を雇うと高いんだよ」
それでマルティナと一緒に学び舎に来たようなものだ。
召喚士が二人もいれば、力仕事はかなり効率が良くなる。
村の生活も楽になるだろう。
その程度のささやかな未来を夢見て、僕はここへ来ていた。
「だいたいそうだよね~。ミリアも卒業したら~お父さんの仕事をお手伝いするんだ~」
ミリアの家は港の商人をやっていると聞いたことがある。
あの調子で商人の交渉事ができるようには思えないので、精霊を使った肉体労働要因だろうか。
召喚士を雇うよりは安上がりなのかもしれない。
「ゼルスは~どうするの~?」
ミリアが悪気のない口調でゼルスに疑問をぶつけている。
「ン。どうなるのかわからないな。ま、貴族のドラ息子だから、何とでもなるさ・・・アスウェルとマルティナは今日は街へ行くと言っていたな」
話の流れを断ち切るように、ゼルスが言う。
肯定の意思表示を僕がすると、ゼルスはすまないがと前置きして収穫祭で使う材料のいくつかを調達して欲しい、と言ってきた。
材料はほとんどベント爺さんのところで調達できそうなものばかりだったので僕は快諾する。
どうせベント爺さんの所には行くのだしついでの買い物なら別に苦労はない。
「じゃ、そろそろ行ってくるよ」
全員が食事を終えていたので、自然と解散する流れになった。
今日はメディシア先生には休みを伝えてあるので、マルティナと街まで出かける予定しかない。
玄関ホールで待ち合わせ、とマルティナに告げて、僕は着替える為に自室へと戻った。
◆
学び舎を出ると、すぐに南門までの街道に出る。
王都へとつながる街道でしっかりと石畳で整備されていて雨の日でもぬかるむような事はない。
街道の道幅は広く取られており、馬車が4台すれ違っても問題ない広さだ。
歩行者が道の端を歩けるよう歩道が設けられており、多くの人が行き交っている。
歩道を歩いている人も多いが、今日は馬車の数も多かった。
普段の倍以上の数が王都に吸い込まれるように連なっている。
収穫祭を前に、王都に運び込まれる物資は多く、門の衛兵が忙しそうに馬車の荷物を確認していた。
学び舎から南門までは歩くと鐘1つほどかかるが、乗り合いの馬車も運行していて生徒たちは銅貨5枚で利用できる。
今日はマルティナが歩いていきたい、と言うので晴れた青空の下を二人で南門に向けて歩いていた。
『大きな都だな。ここからでも城壁の高さが分かる。これぞファンタジーだ』
賢者は相変わらずファンタジーという良くわからない言葉を使う。
(ランデルセン王国の王都ですからね。見えているのは第三城壁で、その内側にも城壁がありますよ)
街道沿いには集落や農地が広がっており、城壁の外だからと言って無人の荒野というわけでもない。
現在では第三城壁より外側に生活圏が広がっている為、いずれ第四城壁が建設されるのだという。
『さっきから見てると、馬車は止められてるけど、歩きの人はそのまま入っていくな』
(旅装束でもない限り衛兵に止められることはないですよ)
マルティナも可愛らしい薄緑の上下でいかにも町娘といった雰囲気だ。
僕の言葉通り、門をくぐるときは特に何もなかった。
第三城壁の南門から第二城壁まで道が伸びていて、大きな通りになっている。
第二城壁までは結構な距離があり、それだけで王都全体の大きさがかなり大きなものであることを感じさせる。
『この世界にはエルフとかドワーフとか人以外の種族はいないのか?』
(エルフとかドワーフとはなんでしょうか)
『耳が長い森の妖精的なのとか、背の低い髭面のヤツとか。人以外の種族』
(賢者の世界にはそういった種族が居るのですか?こちらの世界には人以外というのはいないです)
『俺の世界にもいないんだけど、剣と魔法のファンタジーにはつきものなんだ。生のエルフを見てみたかった』
通りを歩いてだけなのに、頭の中で賢者がアレはなんだコレは何だとうるさい。
王都のような街は珍しいようだ。
物語の中でも賢者は森の奥に隠遁していることが多いが、彼もそうなのだろうか。
いったいどんな田舎に住んでいたのだろう。
「アスウェル、一休みしない?」
学び舎から南門まで休みなしで歩いてきたので、僕も少し疲れていた。
どの店に入ろうか、と僕が考えていると、マルティナは通りにある店を指差す。
真新しい看板が出ていた。最近開店した店だろう。
有無を言わせず僕の腕を引いてマルティナが店に入る。
それなりに繁盛しているようで、店内には何組かの男女が席についていた。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員が駆け寄ってきて、席へ通してくれる。
清潔な制服と可愛い店員。
簡単な料理と飲み物を提供してくれる店のようで、店内は明るく清潔感が溢れていた。
「ミリアに教えてもらったんだけど、ここ、とっても評判が良いんだって」
マルティナはいろいろと迷った挙句、季節の果物と香草茶を選び、僕はごく普通のお茶を頼んだ。
『こないだからお茶はよく見るんだが、この世界には珈琲はないのか?豆を焙煎して作る、真っ黒くて苦い飲み物なんだが』
賢者が言うには珈琲派で以前珈琲作りにハマってしまい、自宅にはコーヒーミルも買ってあるとの事だ。
まぁ、コーヒーミルが何なのかは良くわからないんだけれど。
(コーヒーという名前は聞いたことがないですが、黒い飲み物というのはゼルスから聞いたことがあります。貴族の嗜好品だから僕は飲んだことないですけど)
久しぶりに珈琲を味わいたかったな、と賢者が言う。
『貴族の嗜好品ではあるがこの世界に珈琲が存在するのなら今後、巡り合う機会はあるかもしれないな』
マルティナと2人で店内の装飾について話していると、店員がお茶を運んで来た。
僕に出されたお茶は琥珀色をしており、メディシア先生の部屋で淹れたものと大差ない。
薄黄色い香草茶に続いてマルティナの前に運ばれてきた皿の上には薄く焼いたパンに数種類の果実を乗せ、蜂蜜をかけてあるものが乗っている。
思ったより豪勢な皿に僕は驚いたが、マルティナの様子を見る限り、どうやら最初からこういうものが来るのを知っていたようだ。
「さてはマルティナ、最初からソレが目当てだったんだろ」
「えへへ。ミリアが美味しかったっていうから。このお店に来たかったの」
幸せそうに果実を口に運ぶマルティナ。
僕はそれを眺めながらゆっくりお茶を飲む。
『お茶に砂糖を入れたりはしないのか?』
(お茶に砂糖を入れる事はしないですね。だいたい僕らじゃ砂糖なんて買えないです。もしかして賢者はすごいお金持ちですか?)
『いや。別にお金持ちじゃないけど・・・そういえば戦国時代ごろは砂糖が高級品だったと何かの漫画で読んだ気がするな。庶民が砂糖を買えない時代にはお茶に砂糖をいれる風習も当然ないか』
「アスウェルも食べる?」
あーん、と言いながらマルティナが差し出してくる。
食べると口の中には蜂蜜の甘さと林檎の味が広がった。
『この味。林檎だな』
(賢者の世界にも同じ果物があるんですね。今の時期に収穫できる代表的な果物です。こうやって生で食べる事もありますし。焼いたり煮たりして食べる事もあります)
『林檎はともかく、蜂蜜が甘いな。俺が知ってるのより味が濃い気がする』
「・・・美味しい?」
マルティナに頷いて林檎を飲み込む。
すぐにお茶を飲んで口の中に広がった蜂蜜を流し込んだ。
(実は僕も蜂蜜、そんなに好きじゃないんですよね。もう少し控えめな甘さなら良いんですけど)
『俺も同じだな。どこの世界でも、女子は甘いものが好きってことかなぁ』
満足そうに残りの果実を口に運んでいるマルティナを見ながら、僕はそうですね、と応じる。
『マティナちゃんは甘党か』
そんなどうでもいい賢者の言葉が僕の頭の中に響いた。