5.2回目の儀式
5.2回目の儀式
「なんとか倒したね・・・」
動かなくなったボアホーンを見下ろしながら、僕は大きく息を吐き出した。
「危なかったな。やけに狂暴だった」
"大地の精霊"が崩れ落ちる寸前だった。
ボーマンの召喚がもう少し遅ければ、どうなっていたかわからない。
「ボアホーンに限らず野生の獣は本来臆病ですから、よっぽどの事がないと襲ってきたりはしないのですが・・・」
ゼナさんが足をかけて剣を引っ張っているが、深く突き刺さった剣はなかなか抜けないようだ。
難儀しているゼナさんにゼルスが貸してみろ、と言って交代する。
「こんな場所でボアホーンを見たのは初めてだよ。僕らが行けるような場所には出てこないはずなんだけどな」
改めて見ると、かなりの大物だ。
胴体だけでボーマンぐらいの大きさがある。
長く太い双角は壮年期の雄であることを示していた。
「ねぇ、このボアホーンどうするの?」
人生初の精霊を使った戦闘と、獲物を仕留めた事の両方がマルティナを興奮させている。
持って帰って食べようよ、という顔をしていた。
ボアホーンの肉は少し硬いが焼いたり煮たりして食卓に上がる機会は多い。
高価という程でもなく、マルティナの働いている店でもちょっと奮発すれば口にすることができた。
この季節はよく脂がのっていて美味しい。
「持って帰ると言っても、こんな大きいの運べないよ。放置するしかないんじゃないかな」
「え~もったいないよ~」
「といっても、解体の仕方なんかわからないし・・・」
解体する技術もなければ道具もない。
ちょっと森にキノコ採りに行く程度の軽い気持ちだったのが思ってもみない大物を仕留めてしまった。
「運ぶだけなら"大地の精霊"にやらせるぞ」
やっと剣を引き抜いたゼルスが精霊に指示すると"大地の精霊"はボアホーンの胴体を抱えて、肩に担ぎ上げた。
かなりの重さがあるはずだが、さすがは力仕事が得意な精霊だ。そのままゆっくりと歩き始める。
ボアホーンの口から赤い血が流れだしていた。
「僕は期待しないでね。まだ契約したばかりなんだ」
ボーマンは精霊を戻している。
顔色が良くない。
契約したばかりで精霊を使役したので魔力をかなり消耗したようだ。
魔力の事だけでなく、召喚に熟練しないと長時間使役すること自体が難しい。
「森の入り口ぐらいまでなら俺の精霊でなんとかなるだろう。いざとなったら俺が担ぐさ」
ゼルスがおどけた顔をして腕をまくり上げた。
さすがのゼルスでもこの巨体は運べないだろう。
もしゼルスの精霊が力尽きたら学び舎から台車を引っ張ってきた方が早いと思う。
「ゼルス様がそのようなことをしてはいけません。お父様が知ったらなんて言われるか・・・」
「獲物を運ぶのは下男の仕事だが、ここには下男はいないからな」
貴族が狩りをする時、仕留めた獲物を運ぶのは下男の仕事だそうだ。
ゼルスも何度か狩りに同行していて、何人もの下男が大きな獲物の足に棒を通して運んでいたと言っている。
かなりの重労働だったはずだけど、僕やボーマンに片方を担がせるつもりだろうか。
身長差があるので大変だと思うんだ。
「運ぶなら早いほうが良いと思う。キノコ採りはまたにして、今日は帰ろう」
僕がそう言うと、みんなにも異存はなかったようで荷物をまとめ始める。
想像もしていなかった大立ち回りに、僕は興奮を抑えきれず、森の出口までずっとしゃべり続けていた。
「ちょうど冬支度が始まってて良かったな。ついでだから潰してやるよ」
森の入り口まで戻ったところでゼルスの魔力が限界になった。
精霊が送還されると、巨大なボアホーンの死体をどうするか途方に暮れてしまう。
ゼルスが抱えようとしたが、さすがに持ち上がらない。
台車を持ってこようかと思ったけれど、そもそもその台車の上に持ち上げられそうになかった。
僕たちが困っているところにちょうど村人が通りかかり、村の猟師を呼んできてくれたのだ。
何人かの猟師が手際よくボアホーンの足に棒を括り付けると、掛け声をかけて一息に持ち上げる。
僕たちも棒を支えようとしたがかえって邪魔になると言われて引き下がった。
「ありがとうございます。助かります」
「しかし、でっけぇボアホーンだな。この大きさは俺らでも仕留めるのは大変だぞ」
「さすが、魔法使いの卵だなぁ」
学び舎の近くにある村では生徒たちの評判は悪くない。
この辺りをうろついている村人以外の若いのは学び舎の生徒だ。
魔法使いの卵と一括りにされたけど、僕たちは魔法士見習いではなく、召喚士見習いだ。
もっとも厳密な区分は一般の人たちにはあまり意味がないので一括りにされがちだけど。
村の猟師たちは剣でできた傷口を見て、どうやって仕留めたのか聞きたがった。
猟師たちがボアホーンを狩るときは罠を使って動きを封じた後、弓や槍で遠巻きにして止めをさすとので、剣でできた傷は珍しいそうだ。
とどめを刺したのがゼナさんだったと聞いて、皆驚いている。
「森の浅い場所に居たんです。いきなり襲われて、僕らも危なかったんですよ」
「今の時期にゃぁ森の奥で餌を探してるはずなんだが、ボアホーンのハグレは珍しいな。群れが割れたのかも知れねぇ」
「ハグレ?群れからはぐれたってことですか?」
「なんかの理由で住む場所を失うと、ハグレになんだよ。住処を追われて餌も食えなくなるから、腹が減って狂暴になる。ボアホーンのハグレは気を付けないと角でズドンとやられると怪我じゃすまねぇんだ」
森の生態系の中でもボアホーンは上位に位置するので滅多なことではハグレは生まれないそうだ。
群れのリーダーの交代劇を群れが割れると表現するが、その場合、追い出された側がハグレになることがあるらしい。
普通は死ぬまで戦うからハグレになることも少ないんだがな、と老猟師が教えてくれた。
「そうなんですね・・・僕たちは運が良かったみたいだ」
「まだハグレがいるかもしれねぇ。ボウズたちもしばらくは森には入らんほうがええぞ。俺らがしばらく見回りしとくが、危険だからな」
採取もしばらく休むとなると少し懐が寂しく感じるけれど、もうあんな目にはあいたくないので、僕はしばらく森に入るのを控えようと思う。
「え~。ミリアもっとキノコが欲しかったのになぁ~」
ミリアは襲われた時の恐怖を忘れてしまったのか、間延びした声で言う。
ずいぶんと危機感がない。
「キノコが欲しいなら、ボアホーンの肉と引き換えにわけてやってもええぞ」
ミリアの声に猟師が応える。
冬支度を進めている時期なので肉はいくらあっても足りないのだそうだ。
「そのほうが良いよ。しばらく森には入らないほうが良いし、こんなにあっても食べきれない」
食べきれない、という僕の言葉にマルティナがそうかなぁという顔をする。
「・・・食べきれないかはともかく。ボアホーンの角や毛皮も引き取ってもらえますか?」
角や毛皮も使い道がある。
普段から狩りをしている猟師たちは処理の仕方も手慣れたものだろう。
素人の僕たちが貰ったところで手に余るのは見えていた。
「いいだろう。こっちもそのほうが助かるよ。解体にはまだ時間かかるから、あっちでお茶でも飲んでな」
老猟師が解体小屋の近くにある休憩所を指す。
冬支度が佳境なのだろう、解体小屋では多くの人が働いていてちょっとしたお祭りのような騒ぎだった。
「ありがとうございます。お言葉に甘えます」
僕たちが休憩所の椅子に座りこむと、小さな男の子がお茶を持ってきてくれる。
素朴な味だったが、温かさが疲れた体を癒してくれた。
「ゼルスは凄いね。あんなに長く召喚していられるなんて」
ボーマンは戦闘をさせただけで魔力の限界を感じていたので、森の入り口まで精霊を召喚し続けたゼルスを信じられない思いで見ていた。
「慣れると鐘一つぐらいは召喚できるようになる。なにか作業をさせると今日ぐらいが限界だけどな。訓練次第だ」
「訓練と称してむやみに召喚すると、精霊に嫌われますよ」
ゼナさんの言う通り、召喚士と精霊の関係は完全な従属関係ではないので精霊が命令に従わない事もある。
例えるなら店主と従業員という感じだろうか。
魔力という代償を渡すので、無償というわけではないが関係が悪ければ手を抜いたり辞めたりするだろう。
普段から良い関係を保っておけば、面倒な頼み事も一生懸命やってくれる。
用もないのに呼び出されたら、やる気はなくなる。
「ボーマン君も土の精霊なんだね。他の精霊とは契約してないの?」
マルティナはまだ"清水の精霊"としか契約していない。
呼び出しの訓練もゼルスほど熱心にはやっていないので、召喚できる時間もゼルスの半分ほどだそうだ。
召喚士の訓練を始める場合、最初は一つの精霊との繋がりを深くした方が良いという説と浅く広く繋がりを作ったほうが良いという説と2つの考え方がある。
その為、複数の精霊と契約する者も珍しくはない。
どのみち卒業までには4大属性すべてと契約をするので、時期が過ぎると差はなくなるのだが。
「僕はまだ"大地の精霊"を使役するので精いっぱいだからね。とても無理かな」
「ミリアは風と火と契約したいんだぁ~」
交信の儀が終わっていない身としてはなんとなく肩身が狭い。
盛り上がる4人に嫉妬交じりの感情を感じながら、僕は冷えてきたお茶を呷った。
「そういえばゼナさんは契約とかしないんですか?」
ゼナさんは生徒の中でも異質な存在だった。
常に剣を佩いているし、ゼルスの傍から離れようとしない。
まとっている雰囲気も召喚士見習いというよりは剣士のそれで、本人も明らかに生徒とは一線を画しているように見えるのに、学び舎の扱いは生徒と同じだった。
「私はゼルス様の従者ですからね。勉強はさせてもらってますが召喚士になるつもりはないので交信の儀式も行ってません」
貴族の子弟が召喚士を目指すことは少ないので、学び舎では前例がないが、魔法士を育てる魔法学院ではよくあることだという。
従者として学院に入る者は座学試験は受けるが実技は免除されている。
試験結果が悪いと退学させられるのは一般の生徒と同じだが、従者に選ばれる時点でそれなりに才能がある者が務めるので、そういう不名誉な事は起きないそうだ。
「私の剣術と召喚術を組み合わせる事も考えてみましたが、剣術で戦っているときに悠長に召喚の詠唱をしている暇はないですし、細かい指示をしてる余裕はないですからね。今はまだ剣術の腕を磨きたいと思っています」
「確かにゼナさんの一撃は凄いと思いました。訓練していないとできないですよね」
ただ震えているしかできなかった自分が今更ながら恥ずかしかった。
ゼナさんを含め皆、目標に向かって頑張っている。
同じ場所で足踏みをしている自分に焦りしか浮かんでこない。
3日後の交信の儀は必ず成功させたかった。
「ボウズども、解体が終わったぞ」
解体小屋での作業が終わると、老猟師が声をかけてくれた。
大きなボアホーンだったモノはいくつかの肉塊に切り分けられている。
桃色の断面を見ると、それはもう食材にしか見えなかった。
形が変わるだけで受ける印象がこんなにも異なることに不思議な感じがする。
「腿肉と腹の肉は持っていけ。一番良いとこだ。嬢ちゃん、腹減ってるなら塩振って焼いてやるか?」
笑いながら猟師が言う。
マルティナが食い入るように肉を見つめていた。
よだれを垂らしそうな顔をしていて、食欲旺盛さは見ているだけでわかる。
「みんな食べたい・・・よね?」
皆の顔を見て同意を求める。
決して自分だけが食べたいわけではない、というのが拠り所のようだ。
「ミリアも~食べたい~」
「腹は減ってるし良いんじゃないか」
「すいません。人数分焼いてもらえますか」
よっしゃよっしゃ、と笑いながら猟師たちは準備を始める。
肉塊を適量切り分けて塩を振り、焼くだけだ。
遠火で焼くので少し時間はかかるが、どうせこの後は学び舎へ帰るだけなので問題ない。
焼いている間にたくさんのキノコを入れた籠が3つ運ばれてきた。ケシータはないが、森の奥で採れるキノコが数種類入っている。
「これと交換でいいか?」
「こんなにいいんですか?」
「角も毛皮ももらっちまうんで、これぐらいは持ってってくれ」
自分たちではこんなに多くのキノコは集められなかっただろう。
ミリアが満足そうに籠の中を見ている。
これだけあれば収穫祭で使うには十分だろう。
このキノコは収穫祭で出すミリアの串焼き屋で提供される予定だった。
串焼きの為に野菜や肉も調達しなければならないが、キノコはこれだけあれば十分だ。
マルティナも今日の目的が思わぬ形で果たされたので、嬉しそうにしている。
しばらくキノコの種類や美味しい食べ方を猟師たちと話しながら、肉が焼けるのを待つ。
肉の焼ける良い匂いがしてくると、マルティナは我慢できなくなったのか、焚火の近くまで寄って行った。
「嬢ちゃん、ちょっと待ってな。あとはこの香料をかけたら終わりだからよ」
若い猟師が乾燥した香料を振りかけた。
森の中を歩いているときに見つけた草を取っておいて、乾かして使うそうだ。
猟師各々で作るものなので、一人一人特徴がある。
旨い香料を作れると自慢になるので、どの草を使うかや調合の割合は秘密らしい。
「よし、できたぞ。熱いから気をつけろ」
若い猟師は肉を切り分けた物を皿にいれて持ってきてくれた。
「おいしぃ~」
焼きあがった肉にかぶりついたマルティナは頬を膨らませながら幸せそうな声を上げる。
ミリアやボーマンも大きな口を開けてかぶりついている。
僕は熱さに警戒しながら小さく噛み切って食べた。
じわりと油の甘さが口に広がる。
表面に振られた塩と香料がしつこさを消すと、肉のうまみが立ち上がってくる。
美味い。
二口めは大きめにかぶりついた。
ゼルスとゼナさんはどうやって食べるものかと思案していたが、4人の食べ方を見てそれに倣う事にしたようだ。
先にゼルスが大きな口でかぶりつく。豪快に噛み千切っていた。
ゼナさんもはしたないですね、と言いながら一口目を口にした。
2人とも味には満足しているようで、あっという間に食べ終わってしまう。
その後も食後のお茶を楽しんだり、子供たちがお菓子をくれたりしたので、結局、5の鐘が鳴るころまで長居してしまった。
僕たちが猟師に礼を言うと、むしろこっちがありがたいから気にするな、と言ってくれた。
気の良い人たちだ。
ミリアがキノコの詰まった籠を抱えて満足な表情を浮かべるのを見て、僕たちは帰路についた。
お土産は大量のキノコと、肉の塊だった。
ボアホーンを仕留めてから3日後。
僕は2度目の交信の儀に挑んていた。
以前来た時と変わらない白い世界には前回出現した無数の扉がすでに浮かんでいる。
(最初からのやり直しじゃないんだな)
時間制限がある以上、悠長にはしていられないので前回からの続きができるのはありがたい事だ。
ただ、前回開いた鉄の扉は見当たらなかった。
無数にある扉の一つがそうなのかもしれないが、とても探し当てることはできそうにない。
仕方なく、僕は手近にある扉の一つを選んだ。
その扉は木製の小さな扉で意匠の施されていない質素なものだった。
小さな輪っか状の引手は錆びて赤茶けていて、年代を感じさせる。
引手を手に取って力いっぱい引くと、扉は軋んだ音を立てるが、途中で何かに引っかかったように開かなくなってしまった。
僕はさらに力いっぱい引手を引くが、どうしてもそれ以上は開かない。
どういうことなのか、と悪態をつきながら、僕は扉を叩いたり蹴ったりしてみたが、何の変化もない。
仕方なく開かない扉を諦めて、他の扉に挑戦することにした。どうやら、無数の扉の中には開かない"外れ"の扉があるようだ。
"当たり"か"外れ"か外見からは見当がつかないので片っ端から開けていくしかない。
この無数の扉を見境なしに開けていくとして、いったいどれだけの時間がかかるのか。
僕の心には焦りと失望の感情が渦巻いていた。
(メディシア先生も、マルティナもこんなこと言ってなかったじゃないか!)
明らかに八つ当たりの怒りだけど、その怒りを扉へぶつけるように乱暴に扉に手をかけていく。
鉄の扉を開けたときのように、何か変化がないか扉に手をかけるたびに祈るような気持ちになる。
結果として、僕が開こうとした扉は全部で12枚。
それらすべてが完全に動かないか、動いても途中で止まってしまうものだった。
僕が泣きそうな気持で13枚目の扉に手をかけようとした時。
唐突に意識が途切れた。
「どうだった?」
「近いって」
覗き込むマルティナの髪先が鼻先に掛かりくすぐったい。
前回と同じく、鐘2つほど時間がかかったようで、窓から差し込む日差しは傾いていた。
「・・・また駄目だった」
僕の口調から、前回の時よりも状況が悪かったのを感じ取ったんだろう、マルティナは口ごもってしまう。
そもそも召喚士としての素質がなければ交信の儀で扉は見つけられない。
扉が見えているという事は素質はあると思うけど、もしかすると才能がないのかもしれない。
できの悪い生徒は3年の冬まで交信の儀を続ける事もあるし、平均的な生徒でも何度か儀式を繰り返すことは珍しくないから、まだあきらめるには早いだろう。
それでも落胆の色は隠せなかった。
マルティナはすでに契約も終え、使役の訓練を始めている。森での一件で彼女に召喚士としての実力が身についていたのを実感していた。
そんな自分が何を言っても嫌味に聞こえてしまうと思っているのか、マルティナにはバツが悪そうにしていた。
僕は黙ったまま交信の間を出て、メディシア先生の元まで向かう。
その道のりはいつもの何倍にも感じられた。
(なんか喋らないと)
マルティナが悪いわけではないし、補助者として付き合ってくれていることに感謝することこそあれ、険悪になる必要はない。
「そういえば、マルティナは水の精霊以外契約、進んでる?」
僕は重い沈黙に耐えかねてことさら明るい声で聞いた。
「なかなか応えてもらえないわ。"清水の乙女"は素直に契約してくれたんだけどね。"大地の精霊"と契約しようと思ってるんだけど・・・」
「交信を無事に終えても先は長いね」
最初に契約するならどの精霊がいいかな、などと努めて軽い口調ではなしているうちに、メディシア先生のいる教員室へたどり着いた。
「失礼します」
相変わらず雑多な部屋だ。
前回来た時にそこに乗っていた魔術道具は雑に机の下へ押し込まれ、試験で使った金属の板と筆が机の上を占拠していた。
「アスウェル君。今日はどうだったかな?」
メディシア先生は何かの実験中なのだろうか。壷の中の液体をかき混ぜるのに熱心で壷から視線を外そうともしない。
「残念ですが今日もダメでした」
「そうか。念のため試しの冠をするけど、手が離せないから少し待ってて」
液体をぐるぐるとかき混ぜながら、これは手を止めると固まってしまうんだ、とメディシア先生は申し訳なさそうに言った。
「それは何を作ってるんですか?」
真っ黒い液体からは甘い良い香りがした。
興味津々な顔つきでマルティナはメディシア先生の手元を見つめている。
「これは食品用の香料だよ。いろんな花から抽出した成分を溶かしているんだ。美味しくはないが・・・舐めてみるかい?」
メディシア先生が悪戯をする子供のような顔つきになっているのを見て、僕は遠慮しますとだけ言って椅子に座り直した。
マルティナは餌を前にした犬のような顔になって、はい、と元気な返事をする。
メディシア先生が木のさじを使って壷から少しだけ黒い液体をすくうと、マルティナに舐めさせた。
「・・・にがぁい」
甘い香りからは想像できない味だったようでマルティナが酷い顔になっている。
口に入れた瞬間、舌を刺すような苦みが広がったそうだ。
「甘い香りがするからといって甘いとは限らないのさ。一つ勉強になったね」
くすくす笑いながら、メディシア先生は小瓶に入った油を混ぜて蓋を閉じる。
作業は終了のようだった。
それでは試しの冠だね、と重なった魔術道具から器用に冠を取り出して、メディシア先生がこちらに向き直る。
「今日もダメだったということだけど、以前とは何か違ったかい?」
「前回開けた扉は見当たらなかったので、別の扉を開こうとしたんですが、開きませんでした。他にも扉があるのでいくつか試しましたが、全部開きません。10枚以上は開けようとしたんですが」
「ふーん。あまり聞かないケースだね。どうにかできそうかい?」
「扉はたくさんあるので、片っ端から開けていこうと思います。ただ、全部開けようとすると時間が足りないです。もっと長く儀式を続けるか、時間の流れを遅くするような事ってできないですか?」
変化のない冠を外しながら、メディシア先生は眉を寄せた。
儀式の時間を延ばすことは可能だが、危険が伴う。
下手をするとあの世界から戻ってこれなくなる可能性があるとの事だ。
最近は研究が進み安全なやり方が確立されているが、かなり昔にはそういった事故の事が頻繁に記録に残っていて、何人も犠牲者がでているらしい。
儀式の際に流れる時間の調整については皆目見当がつかなかった。
「儀式を長時間続けるのは危ないから絶対ダメ。時間の調節については少し調べてみるよ。扉が開かないというのは君の魔力不足という可能性も考えられるんだけど、アスウェル君の魔力量は小さくないはずだから問題ないはずなんだけどな」
魔力量が不足していると精霊界との扉が開かないという事はあるが、学び舎の生徒たちは入学の時に魔力量を測定していて基準値を満たしているはずだ。
「ま、一応確認しておこうか」
魔力を測定する専用の魔術道具は食事に使う大皿のような形をしている。
そこに少し水を張ってから、魔力を流し込むと水の表面がさざ波の様に揺れ始める。
魔力量に応じて水の動きが変わるのだが、僕がやるとさざ波はさらに大きくなり、次第に大皿から水が溢れるようになった。
こういう状態であれば、魔力量には問題ない。
水がこぼれるほど動かない場合でも訓練次第で魔力量を増やすことができる。
「魔力量は問題ないね」
入学の時よりも水は大きく波打っているように見えた。
魔力の問題ではない事に安堵する。ほっと息をついた
「次は10日後が空いているが、そこでいいかな?」
予約掲示板を見ると、日付の隣に生徒たちの名前が浮かび上がっている。
最初に見た時よりも人数は減っているが、それでもまだ交信の儀を終えていない生徒はたくさんいるようだ。
僕はは自分と同じく、交信を終えていない生徒がいる事に妙な安心感を覚えた。
「10日後でお願いします。今日はこれで失礼します」
まだ口の中を気にしているマルティナを促して、僕は扉を開ける。
次の3回目の儀式では必ず成功したい、そう思いながら僕は教員室を後にした。