2.学び舎の日々
2.学び舎の日々
「・・・暑い」
今年の夏は例年よりも暑くなるでしょう、とニュース番組で言っている。
毎年毎年、去年よりも暑くなりますと続けていたらそのうち人が住めなくなるんじゃないだろうか。
俺が住んでいる家賃六万五千円のワンルームマンションは三階建ての三階に位置している。
築20年のマンションはお世辞にも綺麗とは言えないボロマンションだ。
ここのところの暑さは異常で最上階はエアコンをフル稼働しても暑さが抑えきれない。
扇風機を回してエアコンを最低温度に設定しても、天井からの熱で部屋は異常な熱気だった。
「あーだめだー。コンビニでもいくかー」
だらしない恰好でだらしない声をあげる。
年齢32歳。独身。
夏休み中の引きこもりサラリーマン。
恋人募集中。
俺の名前は佐藤賢治。
平凡な生活を送りながら緩い日常を過ごしている夢も希望も人並みの男だ。
俺が務めている会社はブラックとホワイトの中間ぐらいの待遇だ。
仕事はそれなりに忙しかったが、目いっぱいの残業が必要というわけでもない。
有休も取れるし、夏休みもある。
今の会社の待遇に文句はない。
10日という長期の夏休みを貰えるのは大変結構な事だ。
問題があるとすれば俺の方。
休みを貰っても特にやることがない。
取り貯めたドラマやアニメも見終わってしまったし、スマホゲームは無料の間は良いが課金してまでやる気がしない。
小説も何冊か買い込んでいたが、全部読んでしまった。
今日は朝からダラダラとスマホを弄りながら時間が過ぎて気づけば午後2時。
日中で最も暑い時間帯に突入してしまった。
部屋の温度が上がり、エアコンが悲鳴を上げるように唸っているが、それでも部屋の中にはいられないほど熱気が増している。
「エアコンが利いている場所に行こう・・・」
窓の外の日差しを見ると外に出るのが嫌になる。
だが、このまま部屋にいたところでこれ以上の快適は求められない。
今度引っ越しするときは最上階だけはやめよう、と夏が来るたびに思う。
この部屋で夏を過ごすのはもう6回目になろうとしていた。
外出するのに寝ぐせのついた頭で行くわけにもいかないので、簡単にシャワーを済ませる。
夏の間、温水・水の切り替えを水の方に倒しているのに、シャワーからは温い水が吐き出される。
ガス代が掛からないから良いといえば良いが、微妙な気持ちになる。
ボロマンションめ。
頭と体を洗って、髭まで剃って風呂を出た。
筋肉隆々という体つきではないが、別に太ってもいない。
痩せているかというとそうでもなく、年齢並みに衰えてきたな、という感想があるばかりだ。
友人たちの中にはジム通いを始めている者もいるが、俺はなんだか腰が引けていた。
筋トレはいいぞ、という友人に曖昧な返事をするぐらいが関の山だ。
たまに駅の階段を上がるときに息切れする事に衰えを実感している。
外出の準備を終えると、俺はエアコンの電源を切った。
エアコン、お前もちょっと休んどけ。
引っ越してきたときに買ったものだからもう6年目。
毎年、夏は酷使している。
生意気にオートロックなどというものが装備されていて、鍵を忘れて外に出ると大変なことになる。
俺はポケットの中に財布と鍵とスマホが収まっているのを指先で確かめた。
「・・・暑っついなぁ」
マンションの外では頭上から降り注ぐ日差しが痛いほど肌を刺して来る。
外気に触れた瞬間、汗が流れ出しTシャツを濡らす。
風呂に入ったばかりなのに。
反射する日差し、陽炎の立つアスファルト。
猛暑だとか酷暑だとか名前はどうでもいいけれど、とにかく暑かった。
この暑さを何とかしてくれる奴がいたらノーベル賞でもなんでもくれてやる。
目の前の信号が青から赤に変わったので、俺は横断歩道の手前で歩みを止めた。
日陰を求めて周囲を見渡すが、天頂高く輝いている太陽の下には、俺が涼を取れるような日陰は存在しなかった。
目的のコンビニは横断歩道を渡ったらすぐだ。
環境問題に喧嘩を売るレベルの温度でエアコンが掛かっているので、少しは快適に過ごせるだろう。
店内で食事ができるカウンターがあるので、そこでアイスでも食べて一息ついてから、もう少し先にあるファミレスまで足を延ばそう。
頭上の太陽から容赦なく光が降り注ぎ、俺はその暑さにぼーっとしていたと思う。
俺と同じく暑さのせいかはわからないが、トラックの運転手は信号の変化に少し反応が遅れた。
信号待ちしていた自家用車の運転手は、急ぎの用があったのだろう。
信号が青に変わった瞬間にアクセルを踏んだ。
目の前の信号が青になったので俺は周囲を確認せずに横断歩道へ足を踏み入れた。
どれが欠けても多分、こんなことにはならなかったと思う。
タイヤと道路がこすれる音。
金属と金属がぶつかる音。
クラクションの音はどちらの車が鳴らしたものだっただろう。
体の奥に響くような不快な音は、肉が潰れる音だろうか。
それは俺にしか聞こえない。
トラックが進路をふさいだ乗用車を避けるためにハンドルを切ったのは反射的な行動だったに違いない。
そこにはぼーっとしながら横断歩道を歩く俺がいた。
そこにトラックが突っ込んで来たのは決して俺を狙っていたとかではなく、俺の不幸だったのだろう。
暑さのために人通りは少なく、被害者が自分しかいないのは不幸中の幸いというやつだっただろうか。
悲鳴を上げたような気がする。
声を出しているように思うのに、俺の耳には届かない。
もしかしたら叫び声をあげていると思ったのはのは妄想だったのかも。
不思議と痛みは感じない。
自分の体がどうなっているのか良くわからない。
本当なら痛みで気絶してもおかしくはないのに、不思議と意識ははっきりとしていた。
実感がない感覚の中で、俺は不思議な光景を目にする。
死に際に見る妄想、幻影の類なのか。
目の前、トラックの荷台あたりに古めかしい鉄の扉が浮かんでいる。
それはゆっくりと開いていた。
天国への扉というには無骨すぎる。
死神でも迎えに来るのかと思った。
死神と言えば、大鎌を持った骸骨だろう。
だが、扉の向こうに覗いた顔は高校生ぐらいの少年の顔だった。
灰色の髪、紫色の瞳。
少年は当惑したような表情をしている。
ショック死してもおかしくない状態で、まだ俺の意識ははっきりとしていた。
体が引っ張られるような感覚がある。
否、体が引っ張られているのではなく。
意識が、引き剥がされている。
体が動くはずがない。なのに視界は扉に向かって近づいていく。
急速に扉へ吸い寄せられ、扉の向こう側へ強い力で吸い込まれた後。
不意に俺の意識は途切れた。
◆
朝。
交信の儀を行った翌日。
一日の始まりを告げる鐘の音が遠くで響いているのを僕は聞いた。
昨夜遅くまで試験勉強をしていたせいだろう、まだ寝足りない。
それでも眠い目をこすりながら、寝台から立ち上がった。
欠伸をしながら窓を開ける。
真っ暗だった部屋に光が差し込んだ。
今日も天気は悪くないようだ。
空気が少し冷たく感じる。
日に日に寒さへと向かっているような気がした。
ついこの前までは夏の暑い日差しに嫌気がさしていたのに、もう懐かしい気がする。
差し込んでくる日差しが柔らかい。
寝起きのぼんやりした頭のまま、顔を洗って、部屋着から制服に着替えて髪を整える。
そうしているうちに僕の頭は完全に覚醒していた。
夜の勉強の名残で机の上にはメモを取った木切れや羊皮紙が散乱している。
食事に行く前に、授業の準備をしておかなくてはと散らかっている机の上から今日の授業で使う物をまとめ、
机の引き出しにしまってある巻物を何本か取り出して鞄の中に放り込んだ。
この生活を始めてもう2年になるので朝の準備に戸惑うことはない。
一通りの準備を終えてから、僕は朝食を摂る為に食堂へ向かう。
自室を出ると、廊下には食堂へ向かう生徒たちが溢れていた。
昨日の夜の静けさが嘘のようだ。
学び舎の生徒たちは大抵食堂で朝食をとるので、朝の短い時間に人が集中する。
食堂は毎朝盛況だ。支払いの手間がかからないように、朝の献立は一つきりで銀貨1枚固定だ。
僕は設置された木箱の中に銀貨を放り込むと人の流れに乗るようにしてそのまま食堂へ入っていく。
いつもの朝の光景だった。
「マルティナ、おはよう」
今朝はパンにチーズと炒り卵、野菜をのせた簡易な物が提供されている。
いつもの席に硬いパンに悪戦苦闘しているマルティナがいた。
隣の席が空いているのでそのまま座る。
マルティナはパンにかじりついたままコクンと会釈した。
「アスウェル。ありがふぉ」
マルティナがパンを喉に詰まらせて苦しそうだったので、僕は自分の分の飲み物を差し出した。
すかさず口を付けるマルティナ。
果汁を薄めたもので朝食には必ず付いている。
「大丈夫かい。飲み物はどうしたの」
マルティナにも自分の分があるはずだ。不思議に思いながら僕は聞いた。
「先に飲んじゃった」
考えなしに飲み物を先に飲んでしまって、水分足でパンに挑戦するなんて。
マルティナは本気で食べきれると思ったのだろうか。
マルティナは勉強はできるが、こと食事に関しては間の抜けたところがある。
僕は苦笑しながら食事を始めた。
硬いパンを食べていると顎が疲れてくる。
口の中の水分も奪われていくようだ。
マルティナに僕の分の飲み物を渡してしまったので、喉に詰まらせないようにゆっくりと咀嚼しながら食べる。
「眠そうだけど、昨日遅くまで勉強してた?」
僕の飲み物で一命を取り留めたマルティナは、まだ中身が残っているコップを返しながら顔を覗き込むように言う。
近いよ、と言いながら僕は肯定の表情をした。
「試験日までまだ日があるんだから今から無理していたらもたないわよ」
心配そうにマルティナが言う。
成績優秀なマルティナは頭の出来が違うんだよな、と思う。
小さなころからそうだった。
マルティナは何でもできて覚えも早い。
僕は何をやるにしても時間がかかった。
姉弟の様に扱われてきたが、そのことに忸怩たる思いを抱いているのも事実だった。
せめてマルティナの隣に並べるぐらいにはなりたい。
「そうも言ってられないさ。マルティナみたいに成績優秀じゃないからね」
ほんの少し、言葉に棘があった。
マルティナには悪気もないし、本当に心配してくれているのもわかっている。
幼いころから一緒だったし、彼女の好意も知っている。
だからこそ、マルティナと同じ程度にはなりたかった。
簡素な朝食を終え、僕は苛立った心のささくれを捨て去るように、勢いをつけて席を立つ。
「それじゃ、また教室で」
作った笑顔は自然に見えただろうか。
僕はできるだけ優しい声をだしたつもりだった。
少し不満そうなマルティナが、また教室でと言うのを聞いて、心の中に罪悪感が沸き上がる。
授業開始までの忙しさに罪悪感を紛らせるように、僕は急いでいる様子を装ってそのまま食堂を出た。
◆
『異世界ものってホントにトラックに引かれるのがお約束なんだな』
目が覚めた時、俺は自分の意志では肉体を動かせなかった。
今でも彼の体を動かすことはできないし、俺の思考が彼に届くことはない。
オカルト的な表現をすると憑依しているというのが適切だろうか。
彼の肉体を通して、五感のフィードバックはある。
ただ、それが自分の意志で動作していない分、違和感はあった。
他人がやっているVRゲームを見せられているような気分。
主体的に行動できないというのは思ったよりもストレスだった。
流行りの異世界モノなら、死んだ後にチートスキルを貰えて人生やり直しとなるのだが、残念ながら俺がこうなってしまった時には特別な事は何もなかった。
他人に憑依している時点で平常状態ではないので、もしかしたらこれがチートスキルに当たるのかもしれない。
『転生っていうのもちょっと違うか』
賢治としての記憶はある。
あの事故の事も思い出すことはできる。
肉体がなく、意識だけというのは幽霊になったような気分だった。
意識が覚醒した時は交通事故の影響で体を動かせないのかと思ったほどだ。
だが、自分では動かせないが誰かが体を動かしている、という事にすぐ気が付く。
次に気が付いたのは声が出せない事だった。
聴覚は自分のもののように感じていたが、声が出せないことと体が自由にならない事からこれも借物ではないかと思う。
見えるし聞こえる、触覚も味覚もあるがすべて彼からの借物。
俺ができたのは情報整理だけだった。
憑依しているのはアスウェルという少年。
ここは学校に当たる施設のようだという事。
マルティナという少女の存在。
俺の事はアスウェルは気が付いていない事。
アスウェルの感覚を共有している事。
今わかっているのはこれぐらいだ。
正直なところ、現代日本ではない、というぐらいでこの世界がどういう世界なのかもまだわからない。
俺はアスウェルの視界に移る教室を観察する。
アスウェルたちの教室には30人の生徒が机を並べていた。
広めの教室にいくつかの長机があり、生徒たちが座っている。
俺は通っていた大学の講義風景をを思い出していた。
今、教壇では初老の紳士が教本を片手に講義を続けている。
「・・・その為、精霊と契約場合、術者の魔力を使用して精霊の霊体を維持することが必要なのである。さて、こ
の場合に必要となる魔力量だが・・・」
ガスパール教授の講義はひどく退屈なものだった。
内容はともかく、語り口調が眠気を誘う。
現在も生徒の大半が襲ってくる眠気と戦っていた。
開け放った窓から流れてくる秋の空気には夏の残り香が含まれていて、昼間の温い空気がより一層眠気を誘う。
『精霊召喚に魔力。ファンタジーな世界観だな』
教室でガスパール教授の言葉を一番熱心に聞いてるのは間違いなく俺だろう。
誰もその存在を感知していないのが悲しいところだが。
聴覚で捕らえた言葉は明らかに日本語とは異なっているのに、不思議と言葉の意味は理解できた。
アスウェルの聴覚を通しているからだろうか。
理屈はわからないものの、これはありがたい。
『精霊に供給する術者の魔力が強ければ大きな力を発揮できる。ただし精霊の強さによって受容できる魔力量に限界があるので下級精霊に大量の魔力を注いでも意味はない。また、召喚している間は継続的に魔力を消費する。契約料として支払う魔力は一般的に下級精霊には魔晶石一つ分の魔力を定期的に供給することが望ましい、か』
魔晶石一つ分というのもどれぐらいの量なのかさっぱりだが、生徒たちが無反応なので非常識な量ではないのだろう。
契約と召喚というのは、契約というのはいつでも精霊を召喚できるように霊体として捕えている状態。
召喚というのはそこから取り出す行為、という事のようだ。
精霊と聞いて、どんな姿をしているのだろうと想像してしまうが、姿についての講義は特にない。
「質問。定期的とはどの程度でしょうか。また中級精霊の場合はどの程度が適正でしょうか?」
眠気に支配されつつある教室に良く響く声で大柄の良い男が質問した。
金髪を短く刈り込んだ偉丈夫で筋肉がやたらと発展している。
授業を聞いている限り、魔法使いの学校のようだが、その筋肉は必要なのだろうか。
「およそ7日ごとに与えるのが適正とされている。中級精霊については3日で魔晶石5つ分が適正だ」
立派なカイゼル髭から想像できる通りの紳士然とした口調でガスパール教授は静かに答えた。
7日ごとに魔晶石1つの下級精霊に対して、3日で5つとなると10倍以上の負担になるわけだが、下級精霊と中級精霊の性能差はそれほどに大きいのだろうか。
教授の答えに得心して大柄の男が着席すると、ガスパール教授は授業を再開する。
男の声で一瞬だけ覚醒した生徒たちも、また睡眠欲との戦いに興じていった。
『長い授業だった』
長い午前中の授業が終わったのは昼の鐘が鳴った時だった。
激しい眠気との戦いが終わり、生徒たちは牢獄から解放されたような、清々しい顔をしている。
今日はこれで授業が終わりのようで、生徒たちはこれから個別の予定をこなすようだ。
「アスウェル、森にはいついくの?」
赤い髪を揺らしながらマルティナがアスウェルの下に駆け寄ってくる。
アスウェルの視線は胸に留まった後、顔に移動した。
俺にはそんなアスウェルの青少年らしい視線の移動が微笑ましい。
控えめに言ってもマルティナの容姿は可愛いという評価は得られるだろう。
どうやら、アスウェルとマルティナは2人で森へ行く約束をしていたようだ。
「昼ご飯を食堂で買ってから行こう」
マルティナはその答えに満足したらしい。
それじゃ、着替えてくるねと言って教室を出ていく。
森に入るときには怪我防止の為、厚手の作業着に着替えるとの事だった。
玄関ホールで、というアスウェルの言葉にはーいと答える声が可愛らしかった。
「森に採取か?ペールの葉が余ったら売ってくれないか?」
授業で質問をしていた大柄の男がが声をかけてくる。
アスウェルとは仲が良いようで、気安い雰囲気があった。
その隣には黒髪をした美人が寄り添うように立っている。
アスウェルたちよりも少し年上だろうか。
マルティナよりも胸部の発達が控えめなので、スレンダー美女というカテゴリーだろう。
金髪とどういう関係なのか気になる。
「ペールの葉だね。今日は森の東側に行くから採ってくるよ。どれぐらい必要?」
「そうだな、5枚ほどあれば助かる。そろそろ眠気覚ましが切れそうなんでな」
スレンダー美女がやれやれ、という表情になった。
眠気覚ましと言ったが変な薬だと俺にも影響がありそうで警戒する必要がある。
戦後の日本でも覚醒剤に類する薬物が合法だった時代があって、そういうのを常用している人は良い顔をされなかっただろう。
スレンダー美女の態度はそういうニュアンスを含んでいるように見えた。
「ゼルスは午後はどうするんだ?」
「家に呼び出しされていてな、街へ戻らないといかん。今日は泊まりだ」
「なにかあったの?」
「どうせ説教だ。召喚士になるのがよほど気に入らないらしい」
「お父様はゼルス様を心配されているのです。そのように言うものではありませんよ」
「クライン家は騎士の名門だからな。ま、これ貴族の義務と思って行ってくるさ」
『貴族。ますますファンタジーだな』
金髪男はゼルスと言うらしい。
確かに雰囲気や物言いがアスウェルとは異なっているように思えた。
俺は本物の貴族を見たことはないので、本当のところはわからないが。
スレンダー美女がゼルスを窘めたところから、彼女はゼルスのお付きなのではないかと思えた。
そう考えると彼女が腰にぶら下げている長剣にも納得できる。
護衛も兼ねているのだろう。
教室の生徒で剣を佩いている者はいなかったので彼女は特殊な立場なのだと思われる。
「それじゃ、僕も準備してくるよ」
「おう、ペールよろしくな」
ゼルスの声にアスウェルはわかったよ、と言いながら教室を出て行った。
◆
学び舎を囲むように広がっている森では錬金術に使う素材を採取していい事になっている。
適度に間引きを行うことは森にとっても良い事だそうだ。
夏の終わりから秋にかけてはペールの葉、ミカンの実、ザルの木の皮などの植物系素材とレゾ鹿の角や耳長ウサギの毛が手に入る。
マルティナの作業着は厚手の布でできた長袖とズボンの上下で、装飾などは施されておらず地味な灰色一色だった。
森の中にはひんやりとした空気が流れていてとても心地いい。
僕は爽やかな森の空気に心洗われるような思いだった。
「ミカンの実、たくさんあるわ」
少し開けた場所に背の低い木があり、黄色の果実をぶら下げていた。
僕とマルティナは手ごろな大きさに育っている果実を選んで収穫していく。
「おいしぃー」
薬用には実ではなく皮を使うので、マルティナは収穫と同時に実を口にしている。僕も収穫した実を口に運んでいた。
少し酸っぱい。
中に種があるので僕は地面に種を吐き出す。
マルティナは種まで食べる派なのか、吐き出している様子がない。
「ミカンはこれで十分だから、ペールの葉を取りに行こう」
僕の布袋に詰まった皮の量は十分だった。
これは乾かして使う。
熱を下げたりする効果がある薬の材料だ。
マルティナの持つ袋にも大量の皮が詰め込まれている。
食べてるばかりだと思ったのに、いつのまにあんなに採ったんだろう。
ミカンが生えている場所からペールが生えている場所まで歩く。
森の中を散策するように歩くのは好きだ。
マルティナも森の空気を吸い込んで気持ちよさそうに歩いている。
ペールは細い茎にいくつかの葉がついている。ナイフのような細長い形をした葉を、できるだけ上の方の柔らかいものを選んで採取する。
葉が茎から切り離されると、周囲に爽やかな香りが充満した。
「ペールなんて眠気覚ましぐらいにしか使わないのに」
「ゼレスに頼まれてるんだよ」
マルティナはペールを採取する僕を見ているだけだ。
ペールはあまり人気のない素材で、確かに眠気覚ましにするぐらいしか使い道がない。
ペールの香りのせいか、マルティナは不満げな表情をしていた。
ペールの葉を20枚ほど採取して、僕は袋に入れていく。
「マルティナは眠気覚ましいらないの?」
「スースーするし、塗ると痛いし。嫌いなのよね。変な匂いだし」
磨り潰して軟膏にする。
眠たいときに首筋などに塗ると冷たい刺激で目が覚める。
瞼に塗ったりするととんでもない刺激に涙が止まらなくなって勉強どころではなくなるので注意が必要だ。
僕は一回やって、二度と瞼には塗らないと心に決めている。
「この先にザルの木の皮があるんだ。僕はベント爺さんに頼まれているから取りに行くけどマルティナも必要?」
「ザルの木の皮は私も欲しいかな」
ザルの木はゴツゴツした樹皮をしている。
その樹皮を僕はナイフでそぎ落とし採取袋に落とし込んんだ。
これも薬の材料になる。マルティナも器用に樹皮を剥いでいた。
木の皮を採った後も森での採取は続き、雑草のような草を採ったり、草の根を掘ったりする。
労働としては大変な部類なので素材を買い取ってもらうといい金になる。
効率的にお金を稼ぐには何を採取するかという知識も必要で、マルティナは素材を説明する僕を感心した目で見ている。
薬に関してはマルティナに負けていないというのは少し嬉しい。
魔術道具に使ったり、薬に使ったりと用途は様々だけど、この森にある素材を僕は知っている。
「この根っこは熱が出た時の解熱剤になるんだよ。2晩水に浸してから、乾かして粉にするんだ。根っこのままだと銅貨5枚ぐらいでしか売れないけど、粉にしたら10倍で買い取ってくれるんだ」
「アスウェルはまるで錬金術士見習いみたいね」
僕は採取したものを加工することもしている。
それは本来、錬金術士の領分だけど。
「これだけ森に入ってたら嫌でも覚えるさ。森に自生している薬草は数が多いんだ。質もいいから買取もしてくれるし。なんで皆が森に来ないのかわからないよ」
普通の生徒は森の入り口近くで2、3種類の薬草を集めるのが精々で、錬金術士見習いでもないのに本格的に採取をする生徒は珍しい。
知り合いだと僕以外にはボーマンぐらいかな。
僕はこの季節だと3日に1回は森に入り込んでいる。
今日のようにマルティナが付いてくるのは珍しい。
「今日はこんなところかな。鹿の角なんかがあると良いんだけどね」
「鹿なんてそんなに簡単には捕れないわよ」
「別に狩りをしなくても、地面に落ちてることだってあるよ。耳長ウサギの毛も同じだけど」
鹿が死んだときに肉や内臓は獣、鳥、昆虫などが持ち去ってしまうので、数日もすればきれいに骨だけになる。
その後、骨や角は時間をかけて風化していくけれど、それを人が見つければ労なく角を手に入れることができる。
滅多にあることじゃないけど、幸運が味方してくれれば何日か夕食に贅沢をする程度の金を手に入れる事ができた。
「さて、お腹も減ったしこの奥に泉があるから、そこで食事にしよう」
森に入ってからかなり経つ。
お腹は減ってきていた。
僕がそうなのだからマルティナもお腹が空いているだろう。
小さな泉の周囲には座るのにうってつけの切り株がある。
ここは僕のとっておきの場所だった。
もっとも、僕しか知らないという事でもない。
ここで人に会ったことはないけれど、焚火をした跡があるし普段から使っている人がいると思う。
「素敵な場所ね。綺麗な泉」
僕は切り株に腰かけて、買ってきたパンを取り出した。
肉や野菜をパンで挟んだものだ。
朝食と似たような物だけれど持ち運びを考えるとこういうものになる。
マルティナがパンを受け取って食べ始めた。
僕は腰にぶら下げていた皮の水筒を外し、マルティナが喉を詰まらせる前に渡せるように準備する。
水筒に入っているのはミカンを絞ったものだ。
朝と同じく、硬いパンと格闘していたマルティナが苦しそうにしだしたので水筒を差し出した。
「ありがふぉ」
マルティナがぐっと水筒を呷って水分を補給する。
どうやら一命を取り留めたようだ。 僕もパンを食べ始める。
十分に咀嚼しないといけないのでしばらく無言になる。
食事を終えた僕はマルティナとしばらく他愛もない話をした。
学生らしく試験の事や友達の事、男子と女子の部屋の違いなんかで盛り上がる。
僕たちのいる学び舎は召喚士を育てる学校だ。4年制の学校で僕たちは2年の途中にいる。
学び舎には寮があって、生徒はみんな寮に住んでいる。
先生たちは自宅から通ったり、寮の一室を使っていたりといろいろだ。
4年制だけど、飛び級もある。本当に才能のある人は1年足らずで卒業してしまう事もあったと聞いている。
マルティナは成績優秀だが飛び級となるほどではなく、ここ10年での飛び級制度の利用実績は1人だけらしい。
ゼルスが中級精霊の使役に成功したら、久しぶりの飛び級生になるかもと噂されている。
マルティナと僕は同じ村の出身で、学び舎の生活に慣れてしまった今では村の生活が懐かしい。
2人とも学び舎に入ってから生活が様変わりした。
学び舎は授業料は無料だけど生活にかかる費用は別で必要になる。
食事代や衣服などにかかる費用は仕送りしてもらうか自分で稼ぐ必要があり、授業の内容よりも金銭の工面に苦労が多い。
学び舎の南側は森が広がっていて僕のように採取で稼ぐこともできるし、北側は王都なのでそっちで働く生徒も多い。
マルティナは街の食堂で働いている。
「そろそろ帰ろう」
十分に休息したので、僕たちは帰ることにする。
マルティナが不満そうな顔をしているけれど、今日はこれから採取した素材を乾燥させたり潰したりしないといけないし、夜は試験勉強に当てなければいけない。
学生生活は忙しい。
「また、来ようね」
とびきりの笑顔をするマルティナ。
本当は僕もまだ一緒にいたかった。
「もちろん、一緒に来よう」
僕はそう言って学び舎までの道を歩き始めた。