481.知らない神
「ん……」
目が覚めると知らない天井……に変な網目があってその網目が蠢くのが見えた。錯覚じゃなくて実際にのたうつように動き回ってる。目覚めは最悪の気分だ。
起き上がると眠ってしまったソファからは動いていないようでまだ老人はテーブルに向かっていた。
「起きたようだね。もう少しだけ待っていてくれるかな?キリのいい所まで進めてしまうから」
「ん、分かった」
返事をすると天井から網目が落ちてきてスイの目の前にお茶を出した。普通に怖かったし何ならちょっと涙目になりかけた。目の前にうねうね動く黒い線状の何かがいきなり天井から落ちてきたら誰だって怖くなると思う。
湯呑みに入ったお茶を網目が器用に持って渡してきているのだが物凄く受け取りたくない。けど受け取らずにいたら湯呑みを持っていない網目が飲まないの?とでも言わんばかりに?マークを作る。いや器用だなこいつ。
恐る恐る受け取ると網目はぺこりとお辞儀?のような事をしてからそのまま天井にまた張り付いた。秘書みたいなものなのかな……。近くに置いておきたくはないけどパッと見ただの網目の模様だから護衛とかにも使えそう。近くに置いておきたくはないが。大事なことなので二回言った。
「それはフォッフルアールスという魔物紛いじゃよ。今のスイには扱いきれんじゃろうしやめておくと良い」
湯呑みのお茶を一口飲んでいると老人が声を掛けてきた。やはり神の一柱なのか当然のように心を読んできた。あ、お茶美味しい。
「エラが育てておる茶葉なんじゃよ。下界には無い故ここで位しか飲めんかものう。欲しければ少しなら分けられるとは思うがどうする?」
「欲しい。けど使い切ったら悲しくなりそう」
「そうじゃのう。儂もエラの茶をもう飲めんとなると悲しくなるじゃろうなぁ」
老人は心底嘆くようにそう言うとペンを置いた。どうやらキリのいい所まで終わったようだ。老人が少し腰を撫でながら振り返ってスイの方を見る。老人は今は皺が少し目立つが若い頃は相当な浮名を流せただろうなと思える程度には顔立ちが整っていた。
「時にスイよ、儂は君に問いたい事があったんじゃ」
「心を読めるなら問う必要なんて無いと思うけど」
「まあそうじゃの。しかし儂は君の口から聞きたいんじゃ」
老人はそう言うと問い掛ける。だけどその問い掛けの内容が分からない。例えるなら唐突に水の中に入ったかのような感覚で何かを言われているのは分かるのに何を言われているのかは分からないようなそんな感覚だ。けどその問い掛けに対して少しも悩むことなく答えた自分が居た。まるで別の自分が現れて答えたかのような。
「そうか。ならば儂は君の事を信じるとしよう」
「……???」
「おや?あぁ……大丈夫じゃよ。疲れたじゃろうし今は眠るといい」
その言葉通り先程寝て起きたばかりだというのにとんでもなく身体が重たく感じる。良く分からないままに老人に促されて寝室まで運ばれる。老人の腕は枯れ木のような見た目の癖に力強くスイの身体を軽々と持ち上げていた。
「起きたらまた話をするとしよう。おやすみ、運命の子よ」
その言葉を聞いた瞬間に私の意識はぷっつりと切れた。
澱んでいる、何かが溜まりどろどろになった暗闇を掻き分ける。タールのように絡み付く暗闇を振り払いながら歩く。足が縺れて暗闇の中に沈む。
腕があった。暗闇から捕まえてきて奈落へと沈めようとする。
脚があった。背中を蹴ってより深くに叩きつけようとしている。
目があった。私を見て嘲笑っている。嘲笑し侮蔑し軽蔑し死を望んでいる。
口があった。沈み切った私の身体を喰いぐちゃぐちゃにしようとする。
それらはひたすらに私の死を、私の滅びを求めていた。消えて無くなることを望まれていた。
だから私はそれに従い下に下に潜っていった。
下に下に最下層に着いて上を見上げる。
遥か深い底に、深淵の中に私は居た。
そこには何も無かった。何も無かったのだ。
だから私は
「死ね」
魔法の言葉を唱えた。
「…………」
変な夢を見た。ただ妙なリアリティがあった……気がする。
正直良く分からない。良く分からないけれどきっと大事なことだ。だから忘れないようにしないといけない。すぐに適当な紙に今の夢の内容を書く。紙は良く見たら地球でパパ達と過ごしていた時に手に入れたらしい特売のチラシだった。なんでこんなもの指輪の中に入れたのか覚えてないけれどまあいいか。多分無意識のうちに入れてるだけだし。
「…………深淵」
妙に頭の中に残ったのがそのフレーズだ。深淵という言葉に何があるのかは分からないのが妙に気になる。何故気になるのかも分からないから小骨がずっと詰まっているような嫌な感じだ。
「……まあいいか」
気にしても仕方ない……と思う。分からないけど。書き終えた後はそのまま指輪に入れようとして止まる。少し考えてチラシを力に任せて小さく折り畳んでいってボタン付きのポケットの中に入れた。
「起きたかい?」
そこまでしたら老人が寝室の外で声を掛けてきた。なので寝室のベッドから降りて部屋の外に出る。老人は優しげな笑顔でスイを見る。
「腹は減っておらんか?」
「減ってる」
あの馬鹿みたいに長い時間を結界内で過ごさせられていたから指輪の中から料理を出せなくて減ってはいないけれど出てからは食べる機会が無くて食べていない。体感時間で言うならそうでもなくても肉体的には数千年、下手をしたら数万年単位で食べていないのだ。食べなくても大丈夫とは言っても意識すれば幾らでもお腹は減るのだ。
「では用意するとしよう。食べ終えたら少し話があるから儂が最初に居た部屋に来ておくれ」
「ん」
頷くと頭を撫でられた。老人はそうしてからテーブルを撫でるとテーブルの中から何か出てきた。亜空間とでもいう場所に繋がっていたらしく次々と料理が所狭しと並べられる。
正直座りたくないのだけどテーブルの上に置かれている以上ここで食べろということだろうと思う。意を決して座ると何も起きない。強いて言うなら座った場所の目の前に水の入ったコップとカトラリーが急に出てきたくらいだ。いや十分起きてる。
とりあえずカトラリーの使い方を知らないのだがどう使えばいいのだろうか。ナイフやフォークが並んでいるけど順序やら何やらがあったと思うのだが流石にそんなもの調べたこともないので分からない。スイは今でこそ魔王の娘という貴族どころか王族?ではあるのだが前世は少し裕福なだけの一般家庭娘である。カトラリーなんて使う事は殆ど無かった。家ではお箸とスプーンとフォークで外食に行っても精々がファミレスである。そんなに礼儀に煩い場所なんて大して行ったことがない。
少し困っていたらカトラリーがにゅっと出てきた霊体の手に回収されてお箸が置かれた。無駄に気が利くと思ったと同時にこのテーブルももしかしたら心が読めるのかと戦慄していたらテーブルから出ている霊体の手がグッと指を立てた。心読めているらしいです。
私はとりあえず下手な笑いを浮かべてから無心で料理を食べることにした。美味しかった筈なのに何故か空虚な感じになったのはどうしてなのだろうか……。
スイ「……………………」
テーブル「グッ……!!」
スイ「……………………」




