135.スイ暴走事件
頭がふわふわする。そっと自分を緩く抱きしめる腕に身を任せてこの穏やかさに瞼を閉じる。外で何かが起きているのは分かるけれどもテレビの中の出来事のようにまるで現実感がない。私を抱きしめるこの腕は何なのだろうか。とても愛しくとても悲しいこの腕は一体何なのだろう。だけど分かる事はきっとこの瞬間にしかこの腕の温もりは感じられない。
もう少しだけこの愛しさに、この腕の温もりに身を委ねても良いだろうか。涙が浮かぶ。何故だろうか。分からない、分からないけれどもただただ私は涙を流しながらこの腕を愛しく思いながら撫でる。二度と会えないこの温もりを忘れないようにいつまでもいつまでも撫で続ける。涙が……止まらない。
「こんの!良い加減に目を醒まして欲しいです!」
イルゥの放った魔力をただ纏めて放つだけの攻撃を目の前のスイは容易く弾き飛ばす。ただの魔力の塊と言ってしまえばそうだがそこに込められた魔力量は現在の人族が三人は魔力枯渇で動けなくなる程の膨大な魔力だ。当然本来のスイならば避けるか対抗策として何かしらの魔法を放つようなものだ。しかし衝動に塗り潰されたことによって無意識の制限が解き放たれたのかスイは悪戯な笑みを浮かべて余裕の表情を見せる。
「あっは、私は目を醒してるよ?変なことを言うねイルゥは」
「魔力拘束術・イクラムの鎖!」
スイに空中から出現した幾重もの鎖が襲い掛かるがスイは紙一重で避け拳や蹴りで砕いていく。それを見て即座に自身が使える魔法を組み合わせて即興で魔法を作り上げては迎撃されるのを見て苦々しい顔をグルムスは浮かべる。
「最高の力を持った素体を作り上げたのは良いですがスペック高過ぎましたね。暴走した時に止められない」
「後悔しても遅いですなグルムス殿。肉体強化・ルグランの鎧!いきますぞ姫様!」
「おいで♪デイモス♪」
通常の状態でも高身長で筋肉が多かったデイモスが魔法を唱えた瞬間一瞬にして増大して身長は三メートルを超え鋼のような肉体へと変貌する。それに対してスイは自然体でまるで受け入れるかのように手を広げる。デイモスは瞬時に肉薄するとそんなスイに対して丸太のような腕で殴り掛かる。
「あっは、おもーい」
その腕を抱き締めるように受け止めきったスイにデイモスは驚愕の表情を浮かべる。しかしすぐに気を引き締めると腕を引っ張ろうとして動かない自身の腕に蹈鞴を踏みかける。
「逃げないで♪いっぱい血ちょーだい」
スイが牙を突き立てようとして突然現れた氷塊に額を撃ち抜かれて仰反る。
「大丈夫かしらデイモス」
「助かりました奥方様。いやはや思った以上に厄介ですな」
額を撃ち抜かれたスイは少し額をさすりながら起き上がる。その表情はとても不満そうで内にある膨大な魔力が今にも嵐のように渦巻いている。それを見て四人は表情を強張らせる。
「これでこの子素因完成してないのよねぇ。実際魔王の暴走なんて今まで無かったから分かってなかったけど前に行われた暴走状態の魔族は通常の数倍の力を持つって検証本当だったのかしらね」
そう幾ら化け物スペックの持ち主であるスイとはいえ通常ならこの四人を相手に出来るわけが無いのだ。同じ魔王であるローレアに魔王でこそないがその側近として助力していた強力な魔族であるグルムスとデイモス、素因数こそ少ないが強力な概念素因に魔力保管のための器官を持つため高位の魔族と殆ど変わらないイルゥ。それに対してそもそもこの世界に発生して一年にも満たない正しく生まれたてのスイでは天と地程の差がある。なのに今はそのスイに圧倒されている。
「ん〜、このままだと面白くないなあ。美味しそうなのが四人居るけど飲めないならつまらないし……下ので我慢する?」
そうスイは言うと眼下に広がる学園を見つめる。その瞬間を逃すものかとグルムスとデイモスが攻撃を仕掛ける。グルムスは再度拘束術式と自身が使える属性攻撃魔法をあらん限り放ちそれに紛れるようにデイモスが強力無比な一撃を放つ。避けることは不可能、不可避の攻撃を相手にスイは悪意のある笑みを浮かべる。
「混沌」
その一言は凶悪な一撃。デイモスは咄嗟に下がるが殴り掛かった右腕が巻き込まれて消滅する。周りを囲んでいた強力な魔法群も一瞬にして消滅する。あまりに呆気なく消滅した事に四人は驚く。何故ならウラノリアが使った混沌は基本的に手から出すものだ。このように全身から出して周囲を一瞬で無力化するものではない。
「あれ〜?もう少し引き付けたらいけたかなぁ?タイミングが難しいね〜あはは、次はもっと綺麗に消してあげるね♪」
嗜虐的な笑みを浮かべてスイは歩み寄る。四人は一定の範囲から囲むように展開する。額からは冷や汗が出ていて近付く意思をねじ伏せられる。混沌は魔族にとって強力すぎる攻撃だ。問答無用に消し飛ばすその一撃は不用意に近付けば命を失う事は間違いない。
「混沌って全身から出す事が出来たのです?そんなの聞いてないのです」
「安心しなさい。私達も知らなかったから。出したら身体が壊れる可能性があるからってあの人はしなかったもの」
「だったら何でお姉ちゃんは壊れてないのです?」
「混沌を完全に制御下にしているというだけでしょう。出来る様に作ったのは私達ですがこんなにも早く出来るとは思っていなかったですね。どうしましょうか」
「厄介過ぎるのです。あれじゃあ近付けないのです」
四人がそう話している最中にスイはニコニコ笑顔で見つめてくる。それは強者の余裕だ。誰が何をしてきても正面から打ち破れるという驕り。それ故かその接近に気付けなかった。
「スイ!」
突如として響き渡ったその声にスイは後ろを振り返る。その瞬間に起こったのは額に硬い何かがぶつかる感触。一瞬ふらついた瞬間に全身を抱き留められる。
抱き留めたのはスイの奴隷であるアルフだ。良く見ると眼下にはアルフを魔法で飛ばしたと思われるステラと魔力の残滓的に全員の姿を隠していたディーンが居た。少し離れたところにフェリノがいるため恐らく遠く離れたスイ達のもとへと急いで運んで来たのだろう。
「アルフ、邪魔」
スイは即座に拘束を解こうとするがアルフの力は尋常じゃないほど強い。しかも魔闘術を使ってるのかびくともしない。魔法を使おうとした瞬間咄嗟に放ったグルムスの拘束術によって魔力の動きが阻害される。弾こうと思えば弾けるが時間が掛かる。スイは苛つきを隠さずにアルフを見る。アルフはそれに怯む事なくスイを見つめ返す。
「スイ、血が飲みたいなら俺のをやる。だから元のスイに戻れ」
そう力強くアルフは言うと抱き締めた小さな身体の前に首を曝け出すように差し出す。不格好な状況ではあるが現在は空の上な為どうしようもない。アルフは落とされないように必死にしがみ付くしかないのだ。
差し出されたその首筋にスイは喉を鳴らす。そして徐に口を近付けると舌で少し舐めるようにしてから噛み付く。痛みは無いのかアルフは少しの不快感にのみ顔を顰める。
「はぁ……んっ…ぷぁ……ちゅっ……」
アルフの首筋に夢中でひたすら貪り続けるスイに四人は警戒を解かない。何故なら未だ衝動は治まってはいないからだ。そもそもスイが暴走する原因となったあの部屋はグルムス達によるものだ。彼処には魔王ウラノリアの力や集めてきた素因を纏めた物が存在する。
それを何故封印したのかは簡単だ。魔族というのは素因を受け入れることによって強くなるが急激な力の上昇はその者の人格そのものを打ち壊しかねない危険性があるからだ。それに気付いた当時ウラノリア達は大陸の果てであった場所に封印した。しかしそこに国家が作られた。このままでは万が一人族が触れた場合その者が亡くなるどころか暴走させて国家そのものが消滅しかねない。
そのため受け入れるための器があるスイにそれを吸収させる事でその消滅を回避することにしたのだ。ついでにスイ自身が強くなるのでヴェルデニアとの戦いの際にも有利になると判断したのだが想定以上に纏めた力が強かったのかそれとも発生してからまだ一年も経っていないため自我や意思が弱かったのか力に飲み込まれて暴走してしまったのだ。
力に飲み込まれての暴走は衝動とは微妙に違う。血を飲めば鎮静化するはずの吸血鬼であっても飲んだだけでは一切治まらない。つまり今飲んでいても衝動は治まらず気を失うか衝動の原因となった力を取り除くしか方法は無い。
しかし今は攻撃出来ない。無闇に攻撃してアルフに当たれば間違いなく死ぬ。例え死なずとも攻撃したという事実でスイは激怒する事だろう。そうなれば今度こそ学園も巻き込むような戦いとなる。
「んぷっ……はぁ…はぁ……ごちそうさま♪」
スイがそうしている最中にアルフの首筋から口を離す。小さな口から淫靡に垂れる唾液を見てアルフは貧血気味になりながらも赤面する。しかしその直後血を吸われたせいか力が抜けてスイを抱きしめる形から覆い被さるようにぐったりする。
「アルフぅ……恥ずかしいから離れてぇ……」
それに対してのスイの反応に四人は固まる。まるで恋する乙女のように顔を赤らめながらもしかし嫌がっているようには見えない。動きこそ離そうとしているが振り落とそうとまではせずむしろ落ちないように支えている。それを見たイルゥは咄嗟に声を張る。
「お姉ちゃん!今ならアルフ兄に色んなこと出来るですよ!チャンスなのです!」
その言葉を聞いた瞬間スイはアルフの顔を見てゆっくりと赤面していく。
「あっ……あぅ…わた、わたしそんな……ふにゅう」
何を想像したのかふらつくとスイは目を回して気を失う。しかししっかり魔法でゆっくり落ちるようにしている辺り流石と言わざるを得ない。こうしてスイ暴走事件は何とも言えない変な終わり方を迎えたのであった。ただこれを見てイルゥを除く三人は微妙な表情を浮かべたのをスイ本人が知らないのは良かっただろう。
スイ「う〜ん、それは恥ずかしいよぉ……」




