酒場の老詩人
シェイファラルの背に乗って飛び立ってから数時、日がだいぶ傾き始めた頃になって、ようやく町の影が見えてきた。
「埃と汗で酷いことになってるし、喉もカラカラ」
少しほっとした声でエイシャが呟く。
「もう少し我慢なさってください。町の手前で降りますから、そこから少し歩くことになります」
「わかったわ」
エイシャは少しだけ考えて、たしかに、町の真上に竜が現れたら大事件だろうと思いつく。警備兵や、町に滞在する冒険者たちまでが出張ってくる大騒ぎになるのは間違いない。
大騒ぎはちょっと見てみたいけれど、矢を射かけられたりするのは困るわね、と、お尻に矢が掠めて慌てるシェイファラルを想像し、くすくす笑う。
自分の背で楽しそうに笑うエイシャをちらりと振り返って、シェイファラルは軽く首を傾げた。
町まで四半時も歩けば良いだろうという場所にシェイファラルは着地し、エイシャを背から降ろす。
「痛っ!」
「どうしましたか?」
地面に立つなりしゃがみこんでしまったエイシャに、人型になったシェイファラルが慌てて駆け寄った。
「……ああ、急に歩きすぎたせいだわ。マメがつぶれたみたい」
あまり歩くことに向いてない靴をぽいと脱いでみると、エイシャの足はマメだらけになっていて、そのうちの幾つかからは血も滲んでいた。
「シェイファラルの背でゆっくりさせてもらってたから、気がつかなかったわ」
見事にマメだらけな自分の足に、思わずふふ、と笑ってしまうエイシャを、シェイファラルはやはり微妙な表情で見つめた。今のは笑うようなところだっただろうか、そんな表情だ。この姫様は少し変わっているようだ。
「──では、背負っていきますから、どうぞ」
エイシャは、自分に背を向けてしゃがむシェイファラルに、「でも」と躊躇してしまう。いかに“仕えます”と誓わせたからって、こうも自分ばかりが楽をしていいのだろうか。
「その足で歩かせるなんてできませんし、そもそも歩くのは無理でしょう? 大人しく背負われてください」
振り仰いできっぱりと告げるシェイファラルに、はあ、と溜息を吐いて、「じゃあ、よろしくお願いするわ」と、諦めて背にしがみついた。
「傷治しの魔法薬があればよかったのですけど……」
「そんな贅沢は言えないわ。さすがのわたしでも、魔法薬は高価だって知ってるし、今持ってるものを換金したお金で当面をなんとかしなきゃって考えてるところだもの」
「それはそうですが、結構な傷になってしまってましたし、これではしばらく町から動けないでしょう」
「そうねえ、シェイファラル……って、ちょっと長いわね。
……んー、シェイでいいかしら」
「どうか、エイシャ様のお好きなように」
「じゃあ、シェイ。あなた、生活の仕方、知ってる?」
「……はい? 生活の仕方、とは?」
「わたし、ずっと宮で暮らしていたから、何も知らないの。ええと、お金が必要ってことはわかるわ。だから、わたしが今持ってる装身具をお金に変えればいいっていうのはわかるんだけど、それからどうしたらいいのかしら。おうちは? それに……服をきれいにしたり食事を用意したりも、自分でやらなきゃいけないのよね?」
シェイファラルは軽く瞠目した。
「エイシャ様は、国に戻られないんですか?」
「え? だって、わたし、賊をけしかけられて死んだことになってるのよ。のこのこ戻ろうなんてしたら、今度こそ間違いなく、確実に殺されちゃうわ」
「そうなのですか?」
「わたし、もともと宮の中では厄介者扱いだったの。母上は身分が低いのにとても美しいからって側室に召された方で、一の妃や二の妃にものすごく嫌われてたわ。もちろん、母上によく似てる娘のわたしもよ」
ふう、と溜息を吐いて宮のことを思い出す。
「父上が、また空気を読まずに母上べったりだったから余計よ。おかげで気の休まる暇なんてなかったわ。毎日毎日、毒と刺客の心配をしながら暮らさなきゃいけないのよ」
「それは、ずいぶんと、大変だったのですね」
「幸い、母上はもう亡くなられてしまったし、一の妃も二の妃もわたしが死んだって言われて戻らなかったら、ほっといてくれると思うの。父上には悪いけど、このままわたしは死んだんだって諦めてほしいわ。
……だって、ひとりならともかく、お前がいるんだもの。お前が仕えてくれるなら、わたし、市井に出てもなんとかなるんじゃないかしらって思ったのよ」
楽しみだったの、と背中で笑うエイシャにすこし呆れて、けれどシェイファラルはくすりと笑った。
「では、なんとかしないといけませんね」
「話を戻すわね。それで、これから町で暮らさなきゃいけないとおもうんだけど、お前、どうすればいいか、わかる?」
「……当面は宿屋で暮らせばいいと思いますが……たしかに、私もさほどそういうことに詳しいわけではないので……」
「そうよね。お前は竜だもの、人間の事情なんて知らないわよね……」
困ったわ、どこで習えばいいのかしら、物語にこんなこと語られてなかったわ、と、エイシャは考え込んでしまう。
背負われたまま、物語はこういう普通のことは全然教えてくれないから困るとぶつくさ文句を言うエイシャに、シェイファラルはまた笑ってしまった。
わからなくても、それなりになんとかなるんじゃないだろうかと思えて。
町の門をくぐるころには、もうあと四半時もすれば日は完全に沈むだろうというくらいに太陽が低くなっていた。
門の警備兵に宿屋の場所を聞き、すぐにそこへと向かう。
「すごく、たくさん、ひとがいたわ。それに、とってもにぎやかだった!」
用意された部屋にようやく落ち着いて、エイシャは少し興奮していた。
輿入れ先へと向かう旅で泊まっていた宿に比べればはるかに格下の、旅の商人や冒険者などの平民が使うような宿だ。ひと部屋しか取れなかったため、あまり広くない部屋に寝台をふたつ並べて、申し訳程度の小さなテーブルとちょっとした物入れがあるくらいか。
水を張ったタライを抱えてシェイファラルが戻ってくると、エイシャは「まるで物語みたいだわ」と無邪気に喜んで、窓の外を眺めていた。
「エイシャ様、足の手当てを先に済ませましょう」
「あら、そうだったわね」
エイシャを椅子に座らせて、足元にタライを置くと、シェイファラルは濡らした布でそっと足を清め始めた。さすがに布が当たると痛んで、ついぴくりと引いてしまう。
「すみません、痛みますか」
「ええと、大丈夫よ」
心配そうに見上げられて、エイシャはにこりと笑い返す。そう、この程度で根をあげたら、物語のような旅なんてできないのだ。
ちゃぷちゃぷと傷になった場所をきれいに洗うと、シェイファラルは宿の主人から分けてもらったという薬を丁寧に塗って、最後に布を巻いた。
「埃も落としたいけれど、着替えがなかったわね」
「宿の主人に聞きましたが、まだ開いている店もあるようなので、何か用意してまいります」
「まあ、そうなの? じゃあお願いするわ。お金……は、これでなんとかなるかしらね」
エイシャは耳飾りをふたつ外してシェイファラルに渡す。質の良い紅玉があしらわれているから、それなりの金額にはなるはずだ。服のひとつかふたつくらいならたぶん買えるだろう。
「十分以上だと思いますよ。それでは、しばらく私は留守にしますから、部屋と窓にしっかりと鍵をかけておいてください。くれぐれも、外には出ないよう、お願いします」
「ええ、大丈夫よ」
シェイファラルが外へ行ってすぐ、外を眺めるわけにもいかず、何をして時間を潰そうかと考えていると……部屋の外から、酒場の喧騒に混じって楽器を奏でる音が聞こえてくることに気づいた。
ぽろりぽろりと、この音は竪琴か……いや、リュートだろうか。歌声のような、朗々と吟じる声も聞こえるが、内容までははっきりしない。
「もしかして、詩人がいるの?」
たしかに、こんなにたくさんのひとが集まる場所なら、詩人がいてもおかしくない。
「どうしよう、聞きたいわ。でも、外に出るなって言われたし……ああでも、聞きたいわ」
扉の前をうろうろしながら、どうしようと考える。扉に耳を押し当ててもよく聞こえないし……。
「……建物から出るわけじゃないもの。外には出てないわよね」
うん、と頷いてエイシャは扉を開けた。
宿の地階の酒場は盛況なようで、たくさんのひとで賑わっていた。人間や、もちろん人間以外の種族も大勢いるようだ。
猫人や竜人なんてほとんど見たことのないエイシャは、目を丸くして思わず「まあ」と声をあげた。
それから、きょろきょろと見回して、ぽろりぽろりとずっと聞こえてくる音楽の主を探す。
酒場の奥まった片隅の小さなテーブルに、艶やかに磨き上げたリュートを爪弾く老詩人が、ゆったりと座っていた。
「こんばんは、詩人様」
「これは美しいお嬢さん。何かご用が?」
エイシャが近づき、ぺこりと会釈をすると、その老詩人は柔和に微笑み、挨拶を返した。
リュートの上で弦を弾く彼の指先はごつごつしてとても無骨なものに見えるのに、その動きはとても滑らかで驚くくらい繊細だ。
傍らに杖があるところを見ると、足を悪くしているのだろうか。
「ええと……さっき、何か物語を奏でていたでしょう? どんなものなのか、知りたいと思ったの」
「先ほど……というと、“聖騎士イヴァルの物語”でしょうか」
「ええとね……
“実り枯れ果てし大地を嘆くものがひとり
腐敗を呼び込む悪の王討つべしと
神よりの使命と聖剣ウォルサマーを携え
果て無き地平を目指す”
っていう一節が聞こえたわ」
老詩人は驚いたように目を瞠り、「これは驚いた」と呟いた。
エイシャはきょとんと首を傾げ、それから「あっ」と声をあげ、赤面してしまう。
「あの、ごめんなさい。本職のかたの前で、わたしの歌なんて……しかも聞き齧りで真似っこなんて、お耳汚しだったわ」
「いえいえ、お嬢さん。あまりに綺麗な声で驚いてしまっただけですよ。
それで、お嬢さんが言うのはたしかに“聖騎士イヴァルの物語”ですね」
にこにこと笑いながら歌声よりも少し嗄れた声で答え、老詩人は頷いた。
「まあ、それじゃやっぱり、わたしがまだ聞いたことのない物語だわ!」
ぱあっと顔を輝かせて、エイシャは手を叩く。
「ああ、でもどうしましょう。対価に払える手持ちがないの。詩人様はいつまでここにいらっしゃるのかしら。
明日、わたしがお金を作ってくるまで、ここに滞在していてくれる? しばらくこの町に留まっていらっしゃる予定ならいいのだけど」
興奮したエイシャのようすに呆気に取られていた老詩人は、けれど、すぐにくつくつと笑い始めた。
「落ち着いてくださいお嬢さん。私は見ての通りもう年寄りですし足も悪いので、旅に出るのはやめたんですよ。
いつでもここにいるので、安心してください」
「まあ、そうだったのね。詩人様には悪いけれど、わたし、ちょっと嬉しいわ」
嬉しそうににっこりと笑うエイシャに、老詩人も釣られて笑う。
「慌てないで、ゆっくりお話を聞いたり歌をお願いしたりできるってことだもの。わたし、がんばって毎日聞きにくるわ」
「それはそれは、楽しみにしていますよ、お嬢さん」