生きていてくれたから
トルスティが病に倒れたのは、あの惨劇からすぐだった。
もともとそこまで身体の丈夫な子供ではなかった。けれど、歳が上がるにつれて寝込むこともなくなり、皆が安心していたのに。
やはり、両親と祖父母……家族を一度に、しかもあんな状況で亡くしたことが心に重くのしかかってしまったのだろう。
高価な薬も司祭の神術もたいした効果を上げず、トルスティはどんどん弱り、痩せ細っていった。
「大叔父上、すみません」
「何を謝っている。すまないことなんてないのだから、養生しなさい」
ぜいぜいと荒く浅い呼吸の中、幼さの残る声で、小さく縮こまるように呟くトルスティの姿が痛々しく、アーロンには正視できなかった。
いったいなぜこんなことになってしまったのか。
その疑問はいつもアーロンの心に澱のように沈んでいる。
自分がやり方を間違えさえしなければ、ウルリカも兄王も、皆、今も生きてここにいたのではないかと思えて。
『お前のせいではない』
囁きは今も聞こえる。
『お前が間違えたのではない。周りが間違いだらけだったのだ』
けれど、トルスティはそれからひと月と保たず、アケロン河を渡って神の国へと旅立ってしまった。
「結論。この離宮は使ってないどころか、ここ何年か誰も入ってないで決定。
……それに」
舞い上がる埃にげほっとむせ込んでから、オスモはたった今見つけてしまったものを前にぶつぶつと呟いた。はぁっと溜息を吐いて、「クラウス連れて来ればよかったな」とさらに独りごちる。
目の前に置かれた大きなベッドは、おそらく、当時はきちんと整っていたのだろう。今ではやっぱり埃が降り積もり、あちこちに虫食いやしみができていて……。
「俺、司祭じゃないから、適当でごめんな。あとでちゃんと正式なのやってやるから、今はこれで勘弁してくれ」
小さく顔を歪ませて、腰の物入れから取り出した聖水瓶からぽたぽたと清めの聖水をふりかける。死者を前にしたクラウスがいつもする清めの祈りを、見よう見まねで捧げる。
「あなたの魂が神の国にて安からんことを……トルスティ殿下」
ベッドに寝かせられたまま朽ち果てた少し小さい白い骨を前に、やっぱり貧乏くじだったな、と、オスモはまた溜息を吐いた。
この寝室の調度や、身につけた夜着の質から見て、これがトルスティで間違いないだろうなと考えながら。
アーロンが“吟遊詩人エイシャ”の噂を聞いたのは、いつだったろうか。
皆いなくなり、ぼんやりと日々が過ぎるに任せるようになって、それなりの時が経ったころか。
国政は既にそのほとんどを文官たちに任せていた。国境の守りや町の警備は武官の仕事で、これもほぼすべて任せきりだ。
アーロンは、どうしても国王の御印が必要だと言われたものにのみ、機械的に印を押すようになっていた。
宰相や側仕えも、最初はもっと政に目を向けるようにと口を出していたが、そのうち何も言わなくなっていった。
アーロンにとって、国のことなどどうでもいいものになっていたのだ。
「“吟遊詩人エイシャ”……」
“エイシャ”という名には聞き覚えがあった。
今、ゆっくりと評判が上がっている美しい女吟遊詩人の名前も“エイシャ”なのだと聞いて、興味が湧いた。
夜を映したような射干玉の長い黒髪に鈴を鳴らすような美しい声。年の頃は20を過ぎたあたり。所作はまるで高貴な貴婦人のように優美で雅やか、淡い紫の目はまるで日の落ちた空の色で、その微笑みは美の女神もかくやという……。
エイシャという名前。
年の頃も同じ。
髪も目の色も、自分の知る者と同じだった。
だから、まさかと考えた。
すぐに人を使って“吟遊詩人エイシャ”のことを調べた。
何かの間違いではないのかと、何度も何度も人をやった。
とうとう絵姿を手に入れて、ようやく確信を持った。
エイシャは、ウルリカで間違いない。
ウルリカは死んでいなかったのか。
喜びのあまり、どうにかなってしまいそうだった。
『なら、今度こそ確実に、手に入れなくてはならないな』
また、囁きが聞こえた。
確信に欠ける、とエイシャは考えて溜息を吐いた。いくつかの候補までは絞れた。けれど、これだという決定的なところが足りない。まだ何かが必要なのだ。
『無駄だよ』
嘲るような囁きが、エイシャの耳に届く。
ぐ、と唇を噛み、エイシャは、無駄じゃないわ、と呟く。
「絶対に無駄じゃないのよ。覚悟しておくことね、悪魔」
夜明けにはまだ少し早い頃、ようやくオスモが戻ってきた。
少し埃にまみれて、少し気落ちした様子で。
「……駄目だったよ」
「駄目というのは?」
「殿下は、既に河を渡った後だった」
アルヴィーンが息を呑む。クラウスは聖句を呟き、エリクは黙って肩を竦める。
「たぶん、何年も前だと思うよ。原因はわからない。なんせ骨だったしね。
大きな傷はなかったし、夜着を着せて寝かせられたままだったから病気かなんかだと思うけど……だからクラウス、あとで落ち着いたら行ってあげて」
「わかった」
頷くクラウスに、アルヴィーンは溜息を吐く。
「歌姫殿に、どう伝えたら」
「……言い方は悪いですが、これで後方の憂いはなくなったということですよ」
咎めるようなアルヴィーンの視線にエリクはもう一度肩を竦めて、「だから、言い方は悪いがと断ったでしょう?」と鼻を鳴らした。
「私たちの心配がひとつ減ったということです。殿下と歌姫には申し訳ないですが」
あまり申し訳なさそうでもないエリクの顔を眺め、アルヴィーンは再度溜息を吐いた。
「ともかく、それでは竜殿のところに向かおうか」
「え、1時くらいは仮眠取らせて欲しいんだけど。俺、夜通し働いてきたんだよ?」
「私たちも夜通し待っていたから、大丈夫だ」
「何それ、ぜんぜん大丈夫じゃないよ!」
抗議の声を上げるオスモに、アルヴィーンははいはいと手を振って立ち上がる。
「歌姫の状態も不安だし、悪魔が潜む可能性も高いなら、急いだ方がいい。後手後手に回ってしまっては仕方ないからな」
「あー、はいはい。そうなると思ってたんだよね」
オスモがぼやきながらもすぐに部屋から必要な荷物を持ち出すのを待って、アルヴィーンたちはシェイファラルの待つ森へと向かった。
暗い森の中、じっとエイシャの身体を抱き締めて、シェイファラルは待っていた。
本当は今すぐにでも城へと向かい、アーロンを探し出してエイシャを取り戻したい。そのためなら何でもするのに。アーロンを引き裂けばエイシャが戻るなら、喜んでやってのけよう。
キリキリと歯を軋ませながら、聖騎士たちがやって来るのをじっと待った。
「竜殿!」
アルヴィーンの呼ぶ声に、シェイファラルはぱっと顔を上げる。
「歌姫殿は?」
「変わりない」
答えるシェイファラルに頷き、クラウスもエイシャを覗き込む。目の様子や顔色をさっと見てとり、「体調は大丈夫そうだね」と呟いた。
「では、段取りですが」
エリクが進み出る。
「竜殿は青銅竜とお見受けしますが、なら、“変身”は可能ですね。小さな獣に身を変えることは?」
「できる」
「では、竜殿は何か小さな生き物に姿を変えて、歌姫の服の中にでも潜んでいてください。そこが最も王に近づける場所でしょう。
ああ、あまり小さすぎてもいけません。近づいた王から魔道具を奪ってもらわねばなりませんから」
神妙に頷くシェイファラルに、エリクはふうと溜息を吐く。
「王の持ち物のどれが魔道具か、あらかじめわかればよかったのですが……ま、しかたがありません。ここからは出たとこ勝負です」
魔術師の最後の言葉に、シェイファラルは驚いたように目を瞠る。そんな竜の表情に、オスモが笑いだした。
「竜殿驚いた? エリクは頭いい魔術師のくせに、結構いい加減なんだ。でも、いつものことだからなんとかなるよ。俺たちいつもこの調子で、なんとかやってきたんだから」
こほん、とエリクはひとつ咳払いをする。
「ともかく、あらかじめ魔術感知の呪文をかけていきますから、王の持つ何が魔道具かわかったらすぐに教えます。竜殿は、それを奪い取って壊し、歌姫とともに退避してください」
「わかった。だが、それでお前たちも城を出ることはできるのか?」
シェイファラルが訝しむように首を傾げると、エリクはやっぱり肩を竦める。
「……あの城には、どうやら悪魔がいます。それを放置して出てしまうことは、我らがリーダーが首を縦に振らないでしょう。
だから、我々は悪魔をどうにかするまでは残りますよ」
「悪魔だと?」
目を眇めるシェイファラルに、エリクとアルヴィーンは首肯する。
「私たちの想定では、悪魔を倒せばある程度の解決が図れるのではと読んでいます。もちろん、希望的観測ですが。
とはいえ、アルヴィーンが“邪なるものの感知”の力で警戒もしますが、どこにどのように潜んでいるかがわかりません。どんな妨害をしてくるかもわかりません」
「どうやって悪魔を引きずり出すつもりだ」
「なので、もう本当に出たとこ勝負ですね」
これが人の顔だったら、眉間にくっきりとした皺が3本くらい寄ってるのではないかというくらいに、シェイファラルは目を細める。
半ば諦めたようにまた肩を竦めるエリクに、明ける空と太陽に向かって今日の祈りを捧げるアルヴィーンとクラウス、少し眠たげに欠伸をするオスモを順番に見やって、「では、私も残らねばなるまい」とシェイファラルは告げた。
「え、竜殿なんで?!」
オスモがぽかんと口を開けたまま、シェイファラルを見つめる。
「簡単だ。聖騎士の悪魔討伐を見逃したなどと知れたら、どれほどエイシャに嘆かれるかわからないからな」
ぶふっとオスモが噴き出した。エリクも呆れた顔でシェイファラルをじっと眺める。
「……うちのリーダーも無茶だし大概だけど、歌姫もさすがだね」
「あの海辺の町に留まり、ヒューマノイドと赤竜の相手をしただけあるということですか」
「ま、竜殿と歌姫がいてくれるなら、これほど心強いことはないね。頼りにしてるよ」
オスモがぽんぽんとシェイファラルの前脚を叩く。
夜はすっかり明けきって、青い空が広がっていた。
あとひとつ、何かがわかれば、この悪魔の名がわかるのに。
エイシャはひたすらに考える。何度も何度も英雄ウェイセルの堕落の物語を反芻し、何かを見落としていないか、何か他の解釈はないかと考えながら。
『無駄だ、諦めろ』
声は無情に囁く。嘲りを含んで。





