私の幸いたる
「おねえさんは、ひとり?」
「……ひとりだと、何かあるのかしら」
「だって、おねえさんみたいなひとは、普通、お供とか護衛とかをたくさん連れて歩くものでしょう?」
少年はにこにこと微笑みながら首を傾げる。
濃い金の髪を揺らしてこちらをじっと見る、彼の翠にきらめく目からは強い好奇心が伺えた。
「いったい、なんでひとりなのかなって思って」
「お前こそ、こんなところで何をしているの?」
相変わらずにこにこと、無邪気に見える笑顔の少年に、わたしは尋ねた。
「ええとね……なんて説明したらいいのかな……おしおき、が一番近いかな」
「……おしおき?」
宮で吟遊詩人の語った物語を思い出す。乱暴が過ぎて、神に閉じ込められた悪魔の話……。
「そう、おしおき」
少年は、少し困ったような表情を浮かべる。何か躊躇するような、思案するような。
いったい、彼は何を考えているのだろうか。
「……おねえさん、ものは相談なんだけれど」
じっと観察するように彼を見つめ続けるわたしに向かって、おずおずと、意を決したように少年は口を開いた。
「相談の、内容を聞いてからによるわ」
じっと少年を見据えたまま、わたしは答える。
物語なら、捕らえられた悪魔は訪れたものを騙し、どうにかして自由を得ようとするのだ。自由を得たとたんに騙された人間を喰らって、解放された悪魔はまた世界に災いをもたらすようになる……というのが定番の流れなのだ。
「おねえさん、僕の主人になってくれないかな」
「……あるじ?」
けれど、彼の言葉はわたしの予想とは全く違うものだった。
「あるじって、お前の? 主人に?」
ぽかんとしたまま確認すると、少年はまたにこにこと微笑みながら、うんと頷く。
「ええと……ここで反省した後、最初に現れた良き者の従者となること、っていうのが、僕に課された罰なんだ」
「……わたしが断ったら、どうなるの?」
「……長に許してもらえるまで、もしくは次の良き者が現れるまで、ここに閉じ込められたままかな」
「閉じ込められた、まま……」
思わずもう一度ぐるりと部屋の中を見回す。殺風景なくらい何もなく……食料や水すらも、寝床すらも見当たらない、暗くて埃っぽい部屋で……。
また、じゃり、という音が聞こえてそちらに目を向ける。時折聞こえる、この金属がこすれあうような重たい音は、何なんだろう……と目を眇めて、ふと目に入ったのは。
「お前、枷を付けられているの?」
少年の足首には大きな枷と太い鎖が繋がれていた。
恥ずかしそうに、繋がれた方の足首を後ろへと隠そうとする少年に、思わず近寄ってしまう。
「こんなに太い鎖で繋ぐなんて……傷になってるじゃないの」
足枷が擦れて、足首には結構な傷ができていた。このまま放っておいたら傷が崩れてひどいことになってしまうのではないだろうか。
「どうしたら、これを外せるの? 鍵はどこにあるの」
尋ねるわたしに、少年はやっぱり困ったように首を傾げる。
「おねえさんが僕の主人になってくれたら、教えてあげられるんだ」
「でも、主人なんて……わたし、何も持ってないのよ。お前どころか、自分を養うこともできないの」
「大丈夫。おねえさんが僕の主人となることに、意味があるんだ」
だからどうか主人になってくれと、どことなく必死な色を浮かべて、彼はどうにかわたしを主人にしようと言葉を尽くす。
「……わかったわ。でも、枷がなくなったからって、わたしたちここから無事に町へ行けるとは限らないって、ちゃんと覚えていてね」
「ありがとうおねえさん!」
満面の笑顔とともに、少年は鎖を引きずって近寄ると、おもむろにわたしの足元に跪いた。戸惑うわたしを前に、恭しく跪いたまま、誓いらしき言葉を述べる。
「我が幸いたるあなたに、末長く、我が生命と我が力を尽くしお仕えいたします」
打って変わってとても真摯な声で誓う彼に、わたしも背を伸ばし、相対した。彼の頭に手をかざし、誓いを受け入れるための言葉を返す。
「……お前の生命と力の限り、お前がわたしに仕えることを許します」
パキンと何かが壊れる音とともに、ふと、頭に閃くものがあった。なぜかはわからないけれど、この頭に閃いたこの音の羅列、これが……。
「お前に与える新たな名、“シェイファラル”にかけて、その誓いを果たしなさい」
跪いたまま、感極まったように頷き、わたしの足へと誓いの口付けを落とす彼を見つめる。
これで本当に良かったのだろうかという思いは、未だ拭えない。
なのに、彼は喜びに満ちた顔をわたしに向け、微笑むのだ。
じっとわたしを見て……不意に、彼の輪郭が歪んだ。
あ、と声を出す間も無く溶けるように彼の輪郭が溶け崩れ、変わっていく。
「えっ?」
わたしの目の前で、少年……シェイファラルの身長がみるみる伸びて、見上げるほどになっていった。さっきまでどう見ても12か13にしか見えなかった男の子は、一瞬のうちに10年も20年も歳をとったように、成人した逞しい男性へと変化してしまった。
「……どう、して?」
シェイファラルはまた笑ってわたしの手を取り、その甲に口付ける。
「あなたが私の主人となったので、本来の歳に戻りました」
「そんなの、聞いてないわ」
「話すことは、許されておりませんでしたから」
「いったい、何年分の歳をとったの?」
「そうですね、ここに閉じ込められて以来ですから……ざっと400年ほどでしょうか」
400年?
目を丸くしたまま絶句するわたしを見下ろして、やっぱりシェイファラルは笑っている。
「主人、そろそろ主人の名前を聞かせてもらえませんか?」
「え、その、エイシャよ」
良い名ですねと呟いて、シェイファラルはわたしの手を取る。
「ではエイシャ様、町に行きましょうか。ここにはろくなものがありませんから」
「でも、荒野を越える用意なんて、何もないわ」
「お任せください」
「お金も……持ってる装身具だけじゃ、どれくらいになるか」
「それも、どうにかしましょう」
そうやって言葉を交わしながら階段を昇ると、すぐに外へと出た。
降りるときはあんなに長いと感じたのに、階段は昇るとずっと短くて、あっけないものだった。
頭上に広がる雲ひとつない青い空を見上げて、わたしはなんだか途方に暮れてしまいそうだと考える。
「では、エイシャ様」
シェイファラルへ向こうとしたところにいきなりの突風が吹いた。驚いて目を瞑るわたしの耳に、ばさりと何かが広がり風を切る音が飛び込んでくる。
いったい何がおきたのか、そろそろと目を開ければ、さっきまでシェイファラルの立っていた場所には一頭の大きな竜がいた。
濃金からほんのり緑がかった色へと変わる青銅色の鱗に、翠玉の目の竜が。
「青銅竜、だったの」
「はい」
大きく裂けた口の端をわずかにあげて目を笑むように細めて、その竜は姿勢を低くして首を下げた。
「どうぞ、背にお乗りください。ほんの一時もかからずに、あなたを町へお連れします」
「たしかに、これなら町まで何の心配もいらないわね」
わたしもくすりと笑って、下げられた首を手掛かりにどうにかシェイファラルの背によじ登った。
首の付け根あたりに落ち着いて、棘のようにでっぱったところにしっかりと捕まり、しがみつく。
「それでは、行きましょうか」
シェイファラルは、その大きな翼をばさりと力強く羽ばたかせ、ふわりと浮き上がった。
ばさり、ばさりと羽ばたいて、空へと飛び立った。
空の向こう、荒野の果てに地平線が見えて、わたしは、ああ、本当の世界はこんなに広いのね、と考えていた。