ただひとりだけ
時制が行ったり来たりします。
聖騎士アルヴィーンが門に着いた時、城内の騒ぎは最高潮に達していた。
「姫が竜に!」
「姫を助けろ!」
その声に、アルヴィーンは思わず空を仰ぐ。ばさりというはばたきとともに、大きな青銅色の竜が空へと駆け昇っていくところだった。
アルヴィーンは慌てて走り出す。
「我が神の名において、来い!」
走りながら指笛を鳴らして愛騎を呼ぶと、たちまち白い鷲獅子が現れた。
「あの竜を追うんだ」
その背に飛び乗るや否や、鷲獅子はすぐに宙を舞い上がり、飛び去る竜を全力で追う。
「竜殿! 竜殿!!」
アルヴィーンの必死の呼び掛けが届かないのか、シェイファラルは止まる気配がない。竜の翼は強く、鷲獅子では追いつくこともできない。見失わないようにするのがやっとだろう。
それにしても、竜殿はいったいどこへと考え始めたころに、ようやく小さな森に降り立つのを見届け、後に続く。
降りた先は森の中の小さな泉のほとりで、歌姫を抱えた竜が湧き上がる怒りにか悲しみにか、大きく身体を震わせていた。
「……竜殿、いったい何が」
「エイシャを盗られた。エイシャを抜殻にされた」
「抜殻?」
シェイファラルの言葉にアルヴィーンは目を眇め、抱えられたままのエイシャをじっと見つめる。目は開いているが表情はなく、ぐったりともたれかかったまま身動きひとつない、歌姫の身体を。
アルヴィーンは“邪なるものの感知”の奇跡を願って神に祈りを捧げる……が、何の反応もない。
「何かの邪悪な術によるものではなさそうですが……私の仲間の魔術師なら、何かわかるでしょう。どうか落ち着いてください、竜殿」
エイシャの顔をひたすらじっと見つめて、シェイファラルは目を閉じる。「エイシャ」といちどだけ呼んで、大きく息を吐き出す。
「ここへ魔術師を連れて来ます。
……どうか早まらず、ともに歌姫を助ける方法を考えましょう」
シェイファラルは目を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。
「──わかった」
すぐにアルヴィーンは町へととって返す。
シェイファラルは、身の内に荒れ狂う嵐のような感情を遣り過ごそうとしてか、じっと目を閉じたままだった。
かつて、白木蓮の宮と呼ばれた離宮には、エイシャの母であるアマリアが住んでいた。
かろうじて下級貴族にひっかかる程度の身分であったが、その美しさが王の目に止まり、側室として召し上げられた姫だ。
王はたいそうアマリアを気に入って、何かと贅沢な品々を贈り、足繁くアマリアの元へと通っていた。
面白くないのは、世継ぎを産んだ妃たちだ。この国では世継ぎとなる男を産んだ姫は、3人までが妃として認められる。
王の妃は現在2人。もしアマリアが男を産めば、3人目の妃は彼女となるだろう。
もしそうなれば、王太子である長子アウリスの地位も怪しい。幸い、先だって産まれたのは姫だったが、これほど王が通いつめていれば王子の誕生は時間の問題と思われた。
一の妃は考える。
二の妃も考える。
やはり、さっさと退場してもらわないことには。それに、ろくな後ろ盾も持たない側室など、たやすいだろう。
幾度にも渡って毒や刺客が送り込まれ、白木蓮の宮では次々と使用人が死んでいった。よほどの強運に恵まれてか、肝心のアマリアはのうのうと生きながらえていたが、娘であるウルリカが10になるころにようやく仕留めることができた。
──アマリアの死んだ次の日、アーロンはすぐにウルリカを見舞った。
「叔父上、母が、母が……」
そう言ってはらはらと涙を零すウルリカ・エイシャ・ストーミアンは、未だ10という幼さであるにも関わらず、母によく似た美貌の娘で……。
「ウルリカ、大丈夫だ。兄上も私もいるよ」
泣きじゃくるウルリカを、アーロンはしっかりと抱き締める。
「困ったことがあったら、私に言うんだ。なんでもしよう」
顔を埋め、泣きながら頷くウルリカの頭を撫でて、背を叩く。
アマリアを殺したのは、恐らく一の妃か二の妃か……兄上が彼女らを顧みない結果がこれだ、とアーロンは腹立たしく思う。
お陰で麗しきアマリアが死に、まだ幼いウルリカ姫が悲しみにくれている。
自分の妃くらいどうともできず、何が王か。
アーロンはウルリカを慰めながら、じっとりと本館の方角へと目をやる。
この王宮内にウルリカの味方となるものはいない。なら、自分が……それに、あと6年。ウルリカの成人を待って彼女を娶ればよいのではないか。
「ここ、どこなの」
自分の周りに張り巡らされた、まるで紅玉のように紅く透明な壁をぺたぺたと探りながら、エイシャは呟いた。
アーロンが迫り来たあの瞬間、何もわからなくなって目の前が暗くなって、気がついたらここに閉じ込められていた。
周囲のことはぼんやりとしか見えないが、近くの話し声はどうにか聞こえるようだ。シェイファラルが怒りの咆哮を上げたのもかすかに聞こえた。
時折大きな手に包まれるように暗くなるのは……自分のいるここは、とても小さな場所で、おそらくアーロンの手に握り込まれてしまうからだろう。
そこまで考えて、エイシャは蒼白になった。
なら、ここは……ここは……。
「“魂の檻”、なの?」
狂える魔術師が完成させたという魔道具。
相手の魂を捉えて閉じ込める魔術の檻。
中から出ることは決して叶わない。
エイシャは震える手で、どん、と壁を叩く。だが、もちろん壁はびくともしない。
このまま、魂を囚われたまま長い時間を過ごせば、身体はどうなってしまうのだったか。
たとえきちんと世話をされていても、魂の抜けた身体がそうそう長く保つとは思えなかった。なら、早くここを出なければ。でもどうすれば。
「シェイ……シェイファラル、助けて……」
もう何度も自分にウルリカを降嫁させるよう、兄王に願い出た。だが、何度当たっても兄王の返事は「否」だ。
明らかに兄王はウルリカに固執している。成長とともに日に日にアマリアに似るウルリカを、アマリアの代わりのようにも考えているのだろうか。
そう思い至ってぞっとする。まさか……兄王は、自分の娘を?
一の妃と二の妃も同じように考えたのか。
白木蓮の宮へと送られる毒と刺客は、再び数を増していた。
アーロンはどうにか手を回し、信頼できる護衛と毒味の数を増やしてウルリカの身を守ろうとした。
声が聞こえたのは、そんな時分か。
奇しくも、兄王の妃たちがウルリカの輿入れを決めた頃だろう。
なぜ自分では駄目で、遠方の第二王子なら構わないのか。
キリキリと臓物が捻くれるような怒りと焦燥で言葉を失う自分の耳に、声が聞こえた。
『なら、奪い取ればいい』
そう囁かれて頷いた。
密かに人を集め、町の郊外に屋敷を用意した。
場所は荒野の中間あたりで、とも決めた。
そこなら邪魔は入らない。
ウルリカ以外、すべて殺してしまえばよいのだ。ウルリカを連れ戻し、屋敷へと隠し、自分ひとりのものとすればいい。
「たしかに、抜け殻です」
アルヴィーンの連れてきた魔術師エリクは、ざっとエイシャを調べただけで断言した。
「恐らくは、禁術に近い魔術である“魂の捕獲”を使われたのではないかと……あ、いや、待ってください。これは相当に高度な魔術ですし、使える者も限られています。おまけに、精々がもって数時という魔術ですから……」
「つまり、どういうことだ?」
いつもながらの少し回りくどい説明を始めようとするエリクに、アルヴィーンは眉を顰める。
「魔術ではなく、魔道具かもしれません」
「魔道具だと?」
ぐるる、という唸り声混じりにシェイファラルが繰り返す。
「はい。“魂の檻”と呼ばれる、一見すると宝飾品のようにしか見えない魔道具です。対象をその宝石に映し、“鍵となる言葉”を唱えるだけでその魂を奪い封じ込めてしまうという代物です」
「そんなものを、エイシャに使ったのか」
怒りのこもった声を上げる竜をちらりと一瞥し、エリクは続ける。
「他人の魂を捉えるというのは、いわゆる外法とされます。
ですが、そういう外法の需要はないわけではありません。そういった邪具を専門に作る魔術師も、少なくない数、存在します。
王はどういう伝手を使ってか、そういう魔術師から邪具を手に入れたのだと考えるほうが自然ですね」
やれやれというように、エリクは溜息を吐く。こういう外法に手を出すものがいるから、魔術師を胡散臭く思うものがいるのだとでも言いたげだ。
「歌姫殿を助けるには、どうすればいい?」
「その邪具を見つけ出し、壊せばいいのですよ。そうすれば、内に閉じ込められていた魂は解放され、勝手に身体に戻ります」
それから、ああ、と何か思い出したように声を上げる。
「アルヴィーン、彼女の身体に“邪なるものからの護り”を掛けておいてください。空っぽの身体は悪しきものに目をつけられやすい。
何かが入り込む前に、竜殿が身体を取り返せたのは僥倖でしたね」
それはたしかに不幸中の幸いだ、とシェイファラルは胸を撫で下ろす。このうえ、エイシャの身体に何かよからぬものが入っていたらと考えるとぞっとする。
「……では、その歌姫の魂を捉えた邪具を探し出し、取り返さねばならないということだな。どうやって探すかが問題か」
考え込むアルヴィーンに、エリクは「それなら簡単ですよ」と言ってのける。
「おそらく王が肌身離さず持ち歩いているはずですから」
「なぜそう思う?」
シェイファラルに尋ねられ、エリクは肩を竦めた。
「王は歌姫に執着があるのでしょう? なら、手放すわけがありません。どこかに仕舞い込んでやきもきするくらいなら、安心のために身に付けて常に持ち歩くはずです」
「では、どうやって王に近づくか、か」
「アルヴィーン、それこそどうにでもなりますよ。王に竜退治を申し出てきましょう」
「お前とアマリアは通じていたのだろう!」
「……兄上、あなたは」
アーロンは驚きに瞠目する。
どういう経緯で話題がアマリアとウルリカのことに及んだのかは、もう覚えていない。
だが、アーロンには故人を懐かしむ以上の意図はなかった。
それに、アマリアに惹かれていたことも、たしかに否定できない。だが、神に誓って不埒なことなど何もなかったと言える。
……ウルリカについてだけは、自分が欲をかかなければ、よけいなことをしなければという思いに、今でも胸が引き攣れるように痛むのだが。
「あの頃お前は、アマリアの次はウルリカを、とでも考えていたのだろう、アーロン」
アーロンはぎゅっと口元を引き結ぶ。
兄王が自分とアマリアを疑っていたなどとは露ほども考えていなかった。宮を訪ねる時はひとりではなかったし、さすがにその程度の気遣いはしていたのだ。
……まさか、だから、兄王はウルリカの降嫁を頑なに許そうとしなかったのか?
それとも、だから兄王はウルリカに固執していた?
「兄上、まさか、あなたはウルリカを……娘を……?」
「それはお前ではないのか、アーロン」
「──そんなばかな、私は決してそのような!」
「わかるものか。お前がどのような目でアマリアを見ていたのか知っているのだぞ、アーロン。そのうえウルリカまでを……」
蒼白になったアーロンを、王はギラギラと睨め付ける。
「もうたくさんだ。わかったなら、早くここを出て行け」
アーロンは何かを言おうとして口を開き、けれど、何の言葉も見つからず……ただ、ぎりりと血がにじむほどに唇を噛み締めるだけに留めて一礼し、国王の御前を辞去した。
『殺してしまえばいい。疑わしきものはすべて罰してしまうのだ。きっと側室だけにはとどまらない。妃たちも同じだ。王子たちもお前の種とは限らないのだぞ』
王の耳元に、何かが囁く声がする。
ことが起こったのは、その日の晩餐だった。
さすがに昼間の出来事を気まずく感じてはいたが、かといって晩餐に出なければ兄王の疑いを肯定するような気がして、しかたなく出席したのだ。
思い返してみれば、この日の兄王は最初からどこかおかしかった。
どこか上の空で、アーロンや妃たちがまるで目に入っていないようにも感じられた。
だが、昼間の話が後を引いていることが原因にも思えて、アーロンにはあまり強いことが言えなかった。
その結果が、あの惨劇だ。
なぜあんなことになってしまったのか。
『お前のせいではない』
自分にできることはなかったのか。
『お前にできることなど何ひとつ無かった』
そもそもの原因は、自分の手出しでウルリカを死なせてしまったことではないのか。
『あれは、お前を疑った兄が原因だ』
アーロンの耳に、何かが囁く。





