あなたのために
煌めく炎のような鮮やかな赤い鱗の雌竜は、ヒューマノイドたちから“死の炎”と呼ばれていた。
100年に届くかどうかという年齢で、竜としてはまだまだ若い部類ではあったが、その傲慢さと貪欲さは他の赤竜の追随を許さないほどに強かった。
ディダローガがヒューマノイド率いる邪竜の司祭に従い、進軍に付き合うようになってもう数ヶ月になる。そのうちのもう半月ほどを、この場所にとどまったままだった。
いったいなぜこうも足留めを食らい続けているのか。
イライラしながら適当な二本足を捕まえて確認すると、ここに来て忌々しい青銅色の竜に進軍を邪魔されるようになったのだといった。
たかが青銅竜ごときの抵抗だとは。
ディダローガはイライラのあまり、その二本足を引きちぎってしまう。
最初からさっさと自分を使っておけば良かったのだ。青銅竜程度の相手なら、一瞬で引き裂いてみせようではないか。
邪竜に仕える司祭が何を考えているのかは知らないが、おとなしくしていろと言うばかりの奴にそう進言すれば、まだ不要だとすげなくあしらわれてしまった。
もう我慢の限界だ。邪竜の加護篤き者だと大人しくしていれば、どこまで図に乗るのかと。どこまで自分を軽んじるのかと。
ならば、実力をもって、このディダローガが無視できない偉大なる竜だと認めさせてみせようではないか。
この町を焼き尽くし、人間どもをたらふく喰らい、ここを偉大なるディダローガの巣のひとつと定めてやってもいい。
そこまですれば、愚かな二本足であるあの司祭も、このディダローガが奴の仕える邪竜の次に敬うべき、尊い存在であるのだと気付くだろう。
そうしてディダローガはここへと現れた。思い切り炎の息を吐き掛け焼き払う瞬間の爽快感は、何者にも変えがたい。
地を這う小さな虫けらどもが恐怖に怯え、逃げ惑う姿を眺めるのも非常に気分がいい。
ディダローガはひさしぶりの満足感を味わっていた。
見ろ。この程度の町ひとつ落とすなど、偉大なるディダローガ1頭でも十分だ。やはり、二本足どもなどいかに数を揃えたところで役立たずばかりではないか。
もう一度エイシャの身体を抱き締めて、それからシェイファラルは数歩前へ進むと空を見上げた。
悠々と舞い飛ぶ赤い竜を睨みつけ、咆哮をあげる。
たちまちシェイファラルの輪郭が崩れ、1頭の青銅色の竜に変わった。濃金から暗い青緑へと色の変わる鱗に覆われた身体を伸ばし、大きく翼を広げると、ばさりと力強く羽ばたいた。
それからもう一度竜の咆哮をあげ、空を翔け上がる。
「シェイ!」
「エイシャ様、どうか歌を」
翠玉の目をちらりとエイシャに向けて、それからシェイファラルは空を舞う。赤い竜目掛けて突進し、咆哮とともに雷の息を吹き掛ける。そのまま体当たりを仕掛けて、町の上空から赤竜を弾き飛ばす。
地上では、突如現れ赤竜を追いやった善き青銅竜に驚き、けれど力強いその姿に勇気づけられて気炎を上げた。
エイシャはすぐに走る。
少しでもシェイファラルに近い場所へと、城壁へと向かう。
階段を駆け上がり胸壁へと登る。空中でもつれ合う2頭の竜の姿を確認してリュートを構える。大きく息を吸い、力の限り音を奏でる。詩人の魔法を使い、シェイファラルのもとまで歌よ届けと声を張り上げる。
シェイファラルが雷を吐き、赤竜ディダローガの翼を撃つ。ディダローガも負けじと炎を吐き、シェイファラルの鱗を焼く。
空中をすれ違いざまに尾でしたたかに身体を打ち、翼を牙で引き裂こうと首を伸ばす。
何度も何度もぶつかり合い、割れた鱗が地上にパラパラと降り注ぐ。咆哮とともに吹き掛けた息に、焦げた肉の臭いがあたりに漂う。
年齢はシェイファラルのほうが上でも、体格も力もディダローガとはほぼ一緒だ。いや、もしかしたらディダローガのほうが優っているかもしれない。
だが……シェイファラルが翼を大きくはためかせた。エイシャの声が届いた今、全身に力が漲っている。
エイシャの歌の後押しを得て、シェイファラルの動きは鋭く力強く変わった。
動きの変わったシェイファラルに、ディダローガはわずかに目を見開いた。
なぜだ、なぜ偉大なるディダローガがこんな青銅竜1匹に手こずっている?
ディダローガは苛立たしげに咆哮をあげる。何かがおかしい。何だ。何が奴に力を与えているのだ。
ふと、歌声が耳に入った。
魔法の力のこもった歌だった。
つまり、この歌声の主が、忌々しい青銅竜に力を与えているのか。
ディダローガは歌声のもとを探り……胸壁で声を張り上げるエイシャを見つけ、睨みつけた。
「お前か! 忌々しい二本足め、踏み潰してくれる!」
ディダローガはもう一度咆哮をあげる。ひ弱な下等生物のくせに、この自分に楯突くとは本当に忌々しい。
本当に、何もかもが忌々しい。
今すぐあの蛆虫を引き裂き、身の程を知らせてやろう。この青銅竜の目の前で、ひと飲みに食らってやろう。
首を巡らせたディダローガが何に目を付けたかに気付き、シェイファラルは怒りの咆哮をあげた。
思い通りになどさせるものか。
この護り竜である自分の目の前でエイシャに手を出そうなどとは、生まれてきたことを後悔させてやる。
シェイファラルはディダローガの肩口に噛み付いた。そのまま雷の息を思い切り吐き出す。
ディダローガは避けることもできず、雷の直撃を受けて痛みに身を捩る。
苦し紛れに炎の息をシェイファラルへと吐き掛け、彼の鱗を焦がす。
シェイファラルの身体が黒く煤けていく。
ばさばさと激しく翼をはためかせるものの、失速し、バランスを失った2頭はもつれ合ったまま大地に落ちた。
ずん、という地響きと、争う音がひびく。暴れる2頭の竜により舞い上がった土埃に隠されて、いったい何が起こっているのかがよく見えない。
誰もが近づけず、おそるおそるようすを窺うのみだ。
そうやって躊躇するうちにだんだんと音や振動は弱まっていき、程なくしてどちらかの竜の力無い断末魔が響いた。
ばたばたと竜の尾が地面を叩く音が聞こえなくなっていく。
もつれあって落ちたシェイファラルの姿を見て、エイシャは居てもたってもいられずに、転がり落ちるように胸壁を走り降りた。
「シェイ!」
さっきまで暴れていた2頭の竜はすっかりおとなしくなり、舞い上がった土埃が風に吹かれて薄れていく。
ゆっくりと首をもたげ、近づくエイシャを見たのは……。
「……シェイ!」
青銅色の竜が、翠玉の目を煌めかせ、咆哮をあげた。周囲で呆然と動きを止めたヒューマノイドに息を浴びせ、横たわっていた身体を起こす。
ぴくりとも動かなくなった赤竜ディダローガの首を咥え上げ、シェイファラルは力任せに放り投げた。
そこへ、宙を駆けて鷲獅子が現れた。背に白銀の鎧を纏う聖騎士を乗せた鷲獅子が。
鎧を覆うサーコートに描かれた紋章は、彼が騎士と正義の神の教会に仕える聖騎士であることを示している。
その、高く掲げた右手には……。
「ヒューマノイドどもよ聞け! これはお前たちを率いていた人間の首だ!」
声が響き渡り、ざわ、とヒューマノイドの間に動揺が走る。
「お前たちの負けだ! それでも戦うというなら、私とこの竜がともに相手となろう……死にたいものは、かかってくるがいい!」
輝く剣を振り上げる聖騎士の姿と竜の咆哮に、ヒューマノイド軍の心はぽっきりと折れた。
最初に逃げ出したのは、いちばん弱い小鬼だった。それから豚鼻。次は人喰鬼。
城壁を出て殺到する兵たちは、そうやって次々と逃げ出すヒューマノイドが二度と戻ってこないように、弓を射掛け、追討する。
「シェイ。無事? 身体は動くの?」
必死に走り寄り、目にいっぱいの涙をためて縋りつくエイシャに、シェイファラルは笑むように目を細めてみせた。
「はい、なんとか」
人型に姿を変え、どうにかきちんと座ってそっと息を吐く。満身創痍と言っていいだろう。あちこちが痛み、怪我を負っていない場所などないくらいだ。
ぼろぼろのシェイファラルの身体を少しでも楽にしようと、エイシャは傷治しの魔法薬を探そうと、腰につけた鞄に震える手を入れる。
そのエイシャの横に、鷲獅子に乗った聖騎士が降り立った。
「歌姫殿の護衛騎士……あなたが、竜殿だったのか」
目を瞠り驚いた顔でエイシャとシェイファラルを順番に眺め、それから聖騎士はシェイファラルの傷の上に手をかざす。
彼の神への祈りが紡ぎ出されるとともに、シェイファラルの焼け焦げ、裂けた皮膚がきれいに治っていく。
「戦いは我々の勝ちだ。私は使命を果たすことができたし、歌姫殿と竜殿のおかげで赤竜は討たれ、町は救われた」
聖騎士は晴れ晴れとした顔で笑い、立ち上がるシェイファラルに手を貸した。
戦いがようやく落ち着いたのは、さらに2日経ったころだろうか。
ヒューマノイドの軍が散り、もう安全だという噂が流れて、それから何日もかけて逃げた者たちも戻ってきた。
「シェイ、あなたが無事で、ほんとうによかった」
まだそこかしこに残った戦いの爪痕を見やりながら、エイシャは、目を伏せてほうと息を吐く。
シェイファラルはそんなエイシャに眉尻を下げる。
「あなたこそ、まさかあれほど目立つ場所にまで出てきていたなんて、肝を冷やしました」
「だって……」
エイシャはシェイファラルをじっと見上げ、それからしっかりと抱き締める。
「だって、シェイファラル」
腕を伸ばし、シェイファラルの頭を引き寄せ、囁くような声で続ける。
「わたしの声が、絶対にあなたのところへ届く場所にいたかったの。
……わたし、あなたが好きよ。愛してるわ、シェイファラル。
あなたがあの赤竜と落ちて、気が気じゃなかった。心臓が止まるかと思った。あなたの無事ばかりを神々に祈ったわ」
そう告げて口付けるエイシャに、シェイファラルは小さく瞠目し……縋り付くエイシャをしっかりと抱き寄せて口付けを返す。
「……私もです、エイシャ。私も、あなたを愛しています。私が戦ったのは町のためなんかじゃない、ここに残ると決めた、あなたのためだ」
わずかに唇を離してそう囁くと、シェイファラルはもう一度エイシャに口付けた。
歌姫エイシャと彼女の恋人である騎士シェイファラルの名前が人々に知られるようになったのは、この海を見下ろす町での事件がきっかけだったと言われている。





