4.私達の写真
お母さんが手にしていた写真を放り捨てる。
「何、今の?」
お母さんの手から離れた写真は、どこかの男にネックレスを着けてもらっているお母さんの画から、今のお母さんが写った状態に戻っていた。
思ったとおりだ。ネックレスを写したら、そのネックレスに対する一番の記憶、つまりはそれを誰かから贈られた時の記憶が写し出されるはずだった。
そしてネックレスをお母さんにプレゼントした人というのは、当然お母さんにとって特別な人……。
「今の誰?」
私は冷たく問いかける。
「いや、今のは……」
「私、分かってたよ。お母さんは時々いつも以上におめかしをして会社に行く。その、最近になって着け始めたネックレスをハンドバッグの中にしまってね。そしてそんな日は必ず帰りが遅くなるの。今朝ネックレスに気付いたから、私は学校に行くのをやめたんだ」
「学校は関係ないでしょ……」
「行く気になれるわけないよ。お母さんが何をしてるかって考えたらさ。そりゃあ、お母さんだって、たまには羽を伸ばしたい日だってあると思う。ずっと仕事と子供の世話ばかりじゃ疲れる一方だもんね。でもさ、ものには限度ってものがあるんだよ」
「話を聞いてよ……」
「これって裏切りだよね!」
ずっと我慢していたのに大声を張り上げてしまった。胸の内から湧き出る思いを止められない。
「う、裏切りって何よ?」
「裏切りじゃない! お父さんを裏切って、他の男なんかと付き合ったりしてさ!」
「お父さんは……あなたのお父さんは、もう亡くなってるの。五年も前に」
「五年前も昨日も変わらないよ! お父さんはずっとお父さんだ! 裏切るなんて、私は許さない!」
立ち上がって強くテーブルを叩く。
お母さんは慌てたように、何故か髪を整えている。
「でも五年なのよ。いい加減、私達も前へ進まないといけないの」
「そんなわけない! お父さんが知ったら悲しむよ! お父さんが帰ってきた時どうするの!」
「もう帰ってこないのよ!」
お母さんも立ち上がっていた。私の両肩に手を置いて言い聞かせてくる。
「もうお父さんは帰ってこないの。残された私達は、私達の道を歩かないといけないの」
「触らないで!」
苛立つ私はお母さんの手をはね除けた。
「分かってよ……私は今のまま一人で歩いていけないの。誰かと支え合う必要があるのよ」
「一人? 私がいるじゃない! お父さんだっているじゃない!」
私は涙にまみれて前もよく見えなくなっていた。
「それだけじゃ駄目なの。あの人は私達と一緒に歩いてくれる。知鳥にももうすぐ紹介するつもりでいたけど……」
「イヤだよ、そんな人! 赤の他人なんて、なんで紹介されないといけないの! お父さんがなんて言うか!」
「お父さんは忘れなさい!」
「はあ?」
信じられないことをお母さんの口から聞いてしまった。信じられない……。
「ごめんなさい。今のは違うの……」
お母さんがうつむく。ただ勢いに任せて言っただけ? それとも今のが本音?
「お母さんは忘れたかもしれないけど、そうかもしれないけど! 私の中ではまだお父さんは生きている! ほら、お父さんは生きてるんだ!」
私は涙を拭うと、もう一つ持っていた私が写った写真をお母さんに突き出す。そこには私をなだめるお父さんが写っている。
「政弘さん……」
「そうだよ、お父さんだよ! お母さんはもう、忘れたかもしれないけどねっ!」
「違うのよ!」
お母さんが私の手から写真を奪い取った。
「私だって政弘さんを忘れたことはない! 忘れるわけないでしょ!」
お母さんが手に持つ写真は、いつの間にか画が変わっていた。そこには赤ん坊が写っている。私?
その私を抱えているのは……若いお父さん。そして若いお母さんも横から私を覗き込んでいた。
「私達?」
私にはその写真の意味がとっさに理解できない。
「あれ? さっきと違う? これ、何なの?」
お母さんも首を傾げる。
「この写真はね。その人の一番の思い出が写るの」
そう、そのはずだ……。
「ええ、生まれたてのあなたを、お父さんとお母さんはこうしてかわいがってたの。一番の幸せよ」
「お父さんも写ってる。お母さんの一番の記憶にはお父さんも?」
「当たり前じゃない。お父さんを忘れるなんてできない。お父さんはいつでも私達と一緒よ」
お母さんが私に微笑みかけてくる。
そうなの? お母さんもお父さんを忘れてなんていない?
「知鳥は難しい赤ちゃんでね。毎日毎日よく泣いてたわ。あやしてもあやしても、夜中もずっと泣くの。本当に困ったわ」
少し肩をすくめるお母さん。そういう話は前にも聞いたことがある。私には随分手こずらされたと、お父さんは笑って言うのだ。
「お父さんはそんなあなたを夜中もずっと抱いて揺らしてあげた。そうするとようやく知鳥は寝息を立てるの。明日も仕事があるし早く寝ないと、って言ってもお父さんは知鳥を抱き続けたわ。その横顔は、本当に幸せそうだった。今でもすぐに思い出すことができるわ」
「でもさっき……」
「ごめんなさい、言いすぎたわ。ただ……後ろだけを見ていたら駄目なの。前を見て、歩いていかないといけないの」
お母さんが私の肩を揺する。その手からお母さんの体温を感じる。
「前を見て歩くの? お父さんは置いてけぼりになっちゃわない?」
「お父さんは、後ろからずっと私達を見守ってくれている。それを頼りに、前へ進むの」
「イヤだよ。私はお父さんを置いていけない……」
私はうなだれしまう。
「今すぐでなくてもいい。でも、あなたにも前を向いて欲しいの」
「お母さんはもう前を向いてしまって、新しい男の人を見付けたんだ?」
「ええ……あなたにはショックかもしれないけど、私は見付けたの。これから、一緒に歩いてくれる人を」
「そうなんだ……」
私はお母さんの手を取ると自分の頬に当てる。温かく、柔らかい手。この細い手で、お父さんとの間に生まれた私を今まで育ててくれた。お母さんはお父さんを裏切ってなんていない。今でもお父さんを大事に想っている。それだけは、よく分かった。
「ごめんなさい、こんなことになって。もっと前から話し合っておくべきだったわ」
「うん……私もごめん。お母さんに酷いこと言った」
私はお母さんの手をぎゅっと握る。
お母さんはいつまでも私の頭を撫でてくれた。
その夜、私は夢を見る。
夢にはお父さんが出てきた。そして私も。
八才の私はずぶ濡れで、大口を開けて泣き喚いている。それをやはりずぶ濡れのお父さんが、どうにか泣き止ませようと必死になってなだめていた。
そんな惨状を、十四才の私が上から覗き込んで見ている。実に申し訳ない。私を怒鳴りつけてやろうと声を出しかけたところで肩に手を置かれた。お父さんだ。
お父さんは微笑みながら声をかけてきた。
「あれはあれで、後から愉快な思い出になるんだよ」
「そうなの?」
「そうだよ。あの時はどうしようかと思ったよって、お母さんと笑い合ったもんだよ」
「それはそれで恥ずかしいよね」
聞いただけで顔が赤くなる。
「迷惑かけられているうちが幸せなんだ。今はもう、無理だからね……」
お父さんの表情が急に曇った。
「行かないで! お父さん!」
遠ざかっていくお父さんを追いかける。でもどんどん距離が離れていく。
「さようなら、さようなら、さようなら」
お父さんが私を見送るみたいに手を振る。お父さんの方が遠ざかっているのに。
違う。離れていってるのは私の方?
私は離れたくないんだよ? でも時の流れが私を押し流し、お父さんとの距離はどんどん大きくなってしまう。
「さようなら、さようなら、さようなら」
お父さんが遠くなる。でも、お父さんは決して消えてしまわない。ずっとずっと、見つめてくれている……。
翌日学校から帰ると、私は借りていたカメラを持って『宝蔵寺記憶写真館』に向かった。
そこは私の家の最寄り駅から二駅行った先の駅の脇にあるマンションで、正直言って、小汚い。
動きのぎこちないエレベーターで三階まで行き、ヒビの入った窓やら壁やらを眺めながら歩いていくと、一番奥の扉に『宝蔵寺記憶写真館』という左上端の欠けた看板が貼り付けてあった。
インターホンを押しても応答がない。電車が通り、建物が揺れる。どうしたものかと思っていると、急に横の部屋の扉が開いた。
「あ、悪い悪い、家で寝てたよ」
タンクトップの若子さんだ。
若子さんは『宝蔵寺記憶写真館』の事務所の隣に住んでいた。それが楽でいいらしい。
やっとこさ通された事務所は、やはり小汚かった。リビングを応接室にしているようだが、今座っているソファも含めて部屋全体が埃っぽい。壁際の棚に収まりきらない物品を詰めたらしい段ボール箱が床に転がっている。
カメラはごちゃごちゃの棚の中にしまわれた。大事な商売道具なのに、あんなんで大丈夫なのかな? まぁいいか。
「で? 首尾はどうだった?」
紫のタンクトップにベージュの短パンの若子さんが、ペットボトルのお茶をそのまま持ってきた。そして私と向かい合ったソファに身を沈めると、サンダルを脱いでムカつくくらいきれいで長い素足をテーブルの上に投げ出す。
「んー、まぁねぇ」
「あ、まだ教えてくれないんだ?」
どうしようか。でも、昨日より私の気分はずっと晴れている。自分の中で凝り固まっていたものが幾分か溶け出たのだ。いいかな、この人になら。
「まぁ、その、納得しきれてませんけど、ちょっとだけ理解しました」
「なんだそりゃ?」
「お母さんが浮気したって、ずっと思ってたんだよね」
「浮気か……、なるほど、それは言いづらいよね」
「でもね、お父さんって五年前に亡くなってるんだよ」
「じゃあ、浮気じゃないよ」
「だよねぇ。そうなるんだよねぇ、世間的には」
「ああ、納得できないんだ、思春期の少女は」
「そういう言い方はどうかな?」
それこそ納得できなくて首を傾げてしまう。
「お母さんっていってもまだ若いんだろうし、恋のひとつやふたつくらいしてもいいじゃん、別に」
両手を頭の後ろにやってそんなことを言う。
「なんか、他人事みたいだよね」
「そりゃあ、赤の他人だもの」
「そりゃそうか……」
親身になって話を聞いてくれると思ったらこれですよ。
「恋は置いといてもさ、誰か隣にいて欲しいってわけでしょ?」
「そんなことを言ってた」
「一人だとお母さんもいろいろ大変だろうしねぇ」
「いや、私がいるでしょ?」
ここはちゃんと主張しておきたいところだ。
「何言ってんだよ、むしろお荷物じゃん」
「はっきり言うよね」
口を尖らせてしまう。
「はっきり言うのが友達なのさ」
「友達? さっき赤の他人って言ったじゃない」
「友達ってのは赤の他人だよ、当然。赤の他人だから、何でもずけずけ言えるのさ。いいもんだよ? 友達ってのは」
「そういうもんですかねぇ」
私には今までそんな友達はいなかった。せいぜい一緒に遊ぶ程度。
「やっぱりキミはまだまだお子様ってことだよねぇ。せいぜいお荷物にならないよう頑張ることだ。そしてお母さんの幸せもちゃんと考えてあげる」
「お母さんの幸せ?」
「そうさ。お父さんのことはお父さんのこととして、新しくできた一緒にいたい人と寄り添って生きてく。それがお母さんの幸せ」
「私だけじゃ幸せじゃないんだ?」
その辺りがまだ納得できない。
「愛する我が子の知鳥ちゃんが側にいるだけでも幸せかもしんないけどさ、愛する男の人と一緒に生きてくってのは、また違った女の幸せなんだよ」
「女の幸せ……」
「母親であると同時に女でもあるからね、キミのお母さんも」
「ずばっと言っちゃうよね」
なんだか生々しい。お父さん以外の男の人と一緒にいるのがお母さんの女としての幸せだなんて、あんまり聞きたくない話だ。
「友達だからね。お母さんが言いにくいことでもずばずば言っちゃう」
「はぁ……」
若子さんが伸びをして立ち上がる。そして私の側に立つと、頭を軽く叩いてきた。
「知鳥ちゃんと、お母さんと、その恋人さんと、三人で支え合って生きていけばいいんだよ」
三人か……。お母さんはお父さんを忘れていない。その上で新しく一緒に歩きたいと思える人を見付けた。そしてその人と生きていくのがお母さんの幸せ。どんな人なのだろうか。一度くらいは会ってみないと、何も分からないのかもしれない……。
「じゃあ、とりあえず相手の男の人と会ってみるよ」
「そうしてみなよ」
「どれほどの男か、じっくり見極めてやる。どう足掻いても、お父さんより格好いいなんてあり得ないけどね」
にやっと若子さんに笑いかける。
「このファザコンめ」
頭にチョップを食らわせてきた。
「ファザコン上等だよ」
胸を張ってやる。
「まだ亡くなったの認められないとか?」
「認めたくないけどね。でも分かってる」
お父さんはもう戻ってこない。本当はとっくの昔に分かってる。私は全部を受け入れられていないけど、それでも少しずつ顔を上げていこうと思うんだ。夢で会ったお父さんは、どんなに遠く離れてもずっと見てくれていたんだから。
「それならいいさ。じゃあ、まずはここの掃除してもらおうかな」
「え? 何の話?」
「いや、あんな貴重なカメラ、タダで貸すわけないじゃん。これから知鳥ちゃんには助手やってもらうから」
「はあ? 聞いてないんだけど、そんな話!」
「今初めて言ったんだから、初耳に決まってるよ」
「せっかくいい人だと思ったのにっ!」
「世の中そんなに甘くないってことさ。キミはまだまだ知らないといけないことが多いねぇ」
そう言うと、口を目一杯横に広げた意地悪な顔をこっちに向けてきた。
畜生め。




