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3.お母さんの写真

 しばらく話をした後、ようやく若子さんが解放してくれる。


「じゃあな、明日は学校サボっちゃ駄目だよ」

「うん、分かってる」


 最初は怖い人だと思ったのに、よく話してみるとただの面倒な人だった。人ってのはよく分からないもんだ。手を振り合って別れる。

 そして一人で家を目指していると、下校途中の同じ制服を着た中学生を見付けてしまう。

 しまった、もう学校は終わった時間なのか。クラスメイトと出くわしたらどうしたらいいんだ?

 できるだけ通学路から外れた道を歩いていく。私の住むマンションは新興住宅街の中に立っていた。若子さんと出くわした住宅街と隣り合った町だ。大分遠くまで離れたつもりだったのに、結局隣の町までしか歩けていなかった。なんだか愕然としてしまう。

 マンションは同じような建物がいくつも並んでいる。さて、もう少しだ。時折制服姿の人影が見えるので、そのつど用心深く死角に入る。

 なんでここまで苦労しないといけないんだろう。これが学校をサボるということなのか? 私は今まで学校をこんな形でサボったことがないのでよく分からない。

 私の住む棟にたどり着き、そのまま階段を四階目指して上がっていく。

 と、上から誰か降りてきた。


「あ、瀬戸さんじゃん、どうしたの?」


 五階に住んでる吉岡さんだ。私とは同じクラス。実にマズい。


「瀬戸さん、風邪じゃなかったっけ?」


 階段の踊り場で向かい合うハメになってしまった。活発な彼女は元々苦手なのに。


「大分よくなったから、ちょっと外に出てみたんだ」

「制服で?」

「もしかしたら、学校に顔を出すかもって思って。実際には行かなかったけど」


 こうやって嘘をつくと、その都度胸が苦しくなる。吐き気もしてくる。

 嘘なんてつきたくない。でもこうして話をしていると、次から次に嘘をつかないといけなくなる。


「ていうか、サボりでしょ?」

「え?」


 顔から血の気が引いたのが分かる。


「いや、サボりでしょ? 今帰ってきたとこじゃないの?」

「なんでそう思うの?」

「なんとなく。見た目元気そうだし、なんか、歩き疲れたってかんじがするよ?」


 元気なのか疲れてるのかどっちだよ。でも、歩き疲れているのはその通りだ。実に鋭かった。


「ちょっと、歩いただけで、疲れちゃった……かも?」


 言葉がたどたどしくなってきた。


「ふーん。あ、お弁当箱ぶら下げてるね」


 しまった。

 あーもー、いいや。


「そう、その通り。学校サボりました。ずっと外にいて、お弁当も公園で食べました。そして今帰りです」

「やっぱりだ」


 言ってスッキリした。やっぱり嘘はつきなれていない。


「先生に言う?」


 ちょっと情けを請うような言い方をしてしまった。


「ううん、言わない。学校サボりたくなる日ってあるよね。今日なんかいい天気だし」

「ホント?」


 ありがたい。今まで苦手意識を持っていてゴメン、吉岡さん。


「なんかサボったの理由あるの?」

「……まぁ、いろいろと」


 苦手意識は少なくなったものの、いきなり秘密は打ち明けられない。


「いじめられてたり?」


 心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「そんなんじゃないよ。あ、でも、理由は言えないんだけど」

「言えない理由があるんだ?」

「まぁね」

「ふーん、なんか、カッコいい!」

「え? そうかな?」


 私には私なりの苦悩とかあるんだけど。


「ま、程ほどにね。あ、時間ヤバいや、じゃあね」


 手をひらひらと振りながら、下へと下りていった。

 どうやら助かったようだ。今までロクに話をしたことがない人なのに、こんなタイミングであれこれ話すことになろうとは。人生よく分からないことが起こる。




 ようやく自分の家の中に入る。中には誰もいない。学校をサボったのがバレて、お母さんが家に帰ってきてるかとも思ったが、それは心配のしすぎだったようだ。

 ずっと電源を落としていた携帯をオンにしても、留守電もメッセージも入っていなかった。ひと安心のはずだが、なぜだか落胆した。お母さんに心配してもらいたかったとでも言うのだろうか?

 まずは毎日そうしてるように仏壇へ参る。

 そこにはいつも優しい笑みを浮かべるお父さんの遺影があった。

 お父さん……。

 私が九才の時、お父さんは仕事中の事故で亡くなった。あっという間の出来事だったらしい。

 あの辺りの記憶は今もってほとんどない。ただ、お父さんの眠る、顔を見れなくしてある棺桶にすがり付いて泣いていたのだけを憶えている。

 お母さんは元々働いていたのだが、お父さんが亡くなってからはいっそう忙しく働くようになった。あまりにも忙しそうにしていて、その姿をなんだか怖く感じてしまった時期が私にはある。

 今なら分かった。お母さんは悲しみを多忙の中に埋もれさせようとしたのだ。そうしないと悲しみの中に自分が沈み込んでしまう。

 最近はお母さんにも余裕が出てきて、よく笑い声を聞くようになった。

 一方の私はどうだろう?

 さっき若子さんに撮ってもらった写真を、自分の学習カバンから取りだしてみる。

 そこには大口を開けて泣き喚く八才の私の肩を抱いて、困り切りながらどうにか笑顔を取り繕って励ましてくれているお父さんが写っていた。

 その優しい顔。

 写真の上に水滴が落ちた。若子さんの前ではどうにか堪えきった涙が、次から次へとあふれ出る。

 私はまだ信じられない。ある日家の扉が開いて、お父さんが帰ってくるような気がしていた。

 もう五年も経っているのだしそんなことはあり得ないと思いながらも、そうやって諦めてしまうことはお父さんに対する裏切りのような気がしてしまう。

 私だけでもお父さんの生還を望んでいないと、お父さんは本当に帰ってこれなくなるんじゃないか。お父さんは帰ってくるに違いない。だって私達は遺体を見ていないのだ。

 会いたい……会いたい……お父さんに会いたい……。




 しばらく泣いた後、どうにか落ち着いた私は立ち上がって自分の部屋に入った。そして部屋着のTシャツとスウェットパンツに着替え、後ろにひとつ下げた三つ編みを解く。次に洗濯物の取り込みと掃除。料理はお母さんがするが、掃除、洗濯は私の担当だ。

 今日のお母さんは帰りが遅いので、夕飯はもうできているものを温めて一人で食べることになっている。お母さんは外で食べてくるのだそうだ。

 夕飯を終え、お風呂に入り、アメリカのテレビドラマの録画を見ていると、お母さんがようやく帰ってきた。


「ただいまー」


 ちょっと声のトーンが高い。案の定、飲んできたようだ。


「水でも飲む?」

「うん、お願い。相変わらずいい子ね」


 リビングに入ってきたお母さんに水の入ったコップを渡す。近付いたら酔った大人の匂いがした。

 さてどうするか。撮るなら服を着替える前にしないと。

 覚悟を決めた私は、あらかじめテーブルの上に用意しておいたカメラを手にしてお母さんの前に立つ。


「何それ?」

「撮るよ、母さん」


 フラッシュが光り、パシャリと音がした。


「きゃっ! 何するの、知鳥」


 光をまともに浴びたお母さんが目をしばたたく。


「写真だよ、写真。カメラ借りたの」

「イヤな子ねぇ、こんなとこ撮らなくてもいいでしょ?」

「ごめんごめん」


 できるだけ軽く言いながら、カメラから出てきた写真を見る。借りた時に若子さんから教えてもらったとおり、外付けのフラッシュを焚いたらうまく撮れた。ちゃんと胸元まではっきり写っている。これでカメラの用は済んだし、部屋の隅に置いたカバンの中にしまっておく。これから何が起こるか分からないのだ。


「まぁいいわ。私、着替えてくるし」

「その前にちょっと話があるんだけど」

「何? 後じゃ駄目?」

「今話したいの。そこ座ってよ」


 と、食卓のイスを勧める。


「変なの」


 お母さんが座ったのを確認した上で、写真を手に私も席に着く。


「今日も一日ご苦労様」


 まずはそう言って頭を下げる。


「えぇえぇ、今日も一日疲れたわ」


 軽くため息。


「お母さんがそうやって働いてくれているから、私も安心して学校に通えるんだよね」

「そうよ。だからあなたは勉強を頑張りなさいよ」

「そしていい大学に行く」

「別にいい大学でなくてもいいわ。好きな進路を選べばいいの。何の遠慮もなしにね」

「ありがたいよ」

「その為に私は頑張ってるんだから」


 ちょっとわざとらしく胸を張るお母さん。本当にありがたいと思う。でも私は言わないといけない。


「あのさ、今日私、学校サボったの」

「ええ?」


 水を飲もうとしたお母さんが手を止めて目を丸くした。


「なんでよ。今日は普通に家を出たじゃない」

「その後携帯で学校に電話して、休むって言ったの。そのままぶらぶらほっつき歩いた」

「やめてよ、そんなの。なんでなの? 理由は?」


 テーブルに肘をついたお母さんが、額を手のひらに当てた。


「さぁね、まぁ、いろいろとね」

「勘弁してよ、この大事な時に」

「大事って何かあるの?」

「お母さんにもいろいろとあるの。仕事以外にもね」


 深くため息をつく。眉間に寄った皺が、彼女の年齢を感じさせる。


「大変なんだ」

「大変なの。知鳥、今まで真面目ないい子だったよね? 家事も手伝ってくれるし。私も大分助けられてきた」

「うん、私なりに頑張ったよ」

「なのにあなたは全部を台無しにした。今日のその、気まぐれでね。私の信頼を打ち崩したの」


 疲れた様子で首を振った。


「気まぐれじゃないよ。ちゃんと理由はあるんだから」

「だったら言ってよ。二人だけの親子じゃない」

「二人だけじゃないよ」

「え?」

「お母さんにとっては二人だけかもしれないけど、私には違うんだよ」

「どういう意味?」


 私は微笑みを浮かべたまま答えない。


「どういう意味?」


 お母さんが苛立ったようにもう一度聞く。


「お母さんは変わったよ」


 ため息混じりにそう言う。


「どこが、どう?」

「分からなきゃ、それでもいいよ」


 私は軽く首を振る。


「さっきから何言ってるの?」


 肘をテーブルに付いたまま、頭をかきむしった。セットした髪が乱れてしまう。


「あのさ、お母さんの大事って、私見当が付くよ」

「そうなの?」


 お母さんが急に気まずそうになってイスに座り直した。


「お母さん、そのネックレスきれいだよ」


 私はネックレスに視線を向ける。


「あ、ありがとう。結構いいものなのよ」


 そう言って、金にダイヤモンドがはめられたネックレスを弄った。


「だろうね。あ、この写真。ちょっと手で持ってくれるかな?」


 お母さんにさっき撮った写真を見せる。


「これ? 私の写真?」。

「そう。そしたら全部、分かると思うんだ」

「何なのかさっぱりよ。持てばいいの? これ胸元ばっかりで、顔は切れてしまってるのね」


 お母さんが写真を手に取った。


「これはネックレスを写したんだよ。よく写ってるでしょ? 誰かに買ってもらったの?」

「ええっと……それはね……」


 すると、写真のお母さんの像が揺らいで変わった。

 今とは違う赤い服を着たお母さん。同じ金のネックレスをしている。いいや、ネックレスを着けてもらうところだ。

 着けようとお母さんの後ろから手を回しているのは、お父さんとは違う、知らない男の人だ……。


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