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ヒーローミマン

作者: 朱雀新吾

 昔、少年だった事がある者なら誰しも憧れる存在。それはヒーロー。

 テレビ番組で、漫画で、そして現実で、少年はヒーローを目撃する。

 弱きを助け、悪を討つ、その姿に胸を熱くする。

 いつか、自分もあんな、強くて恰好良いヒーローになりたい、羨望の眼差しでその背中を見つめる。

 福岡県の糸島市に住むとある少年、波多江純一も当然の如くヒーローに憧れていた。近所の友達と空き地や公園で、無邪気にヒーローごっこをして遊んだものだ。

 彼の住んでいる町は、漫画の様なガキ大将も存在せず、ヒーローごっこの配役は毎回じゃんけんで決めるという平等なルールだったので、誰にでもヒーローになれるチャンスがあった。だが、どれだけ経っても、彼がヒーローになる事はなかった。答えは簡単である。じゃんけんで友達に一度も勝てなかったのだ。

 皆が気を使って彼にヒーロー役を譲ってくれると何度も言ってきたが、子供ながらのプライド、同情でヒーローになるのは嫌で、その有難い申し出を頑なに断った。

 今振り返ると、それはその後の彼の未来を暗示していたのかもしれない。


――彼、すなわち、俺であるが。


 現在、大人になり、三十歳になった俺はというと、ヒーローに関わる仕事をしている。

 社会的に定められた言葉で、的確に言うのであればヒーローサポート業務員。通称「タイムアタッカー」

 それは自分自身が決して主役でなく脇役で、成すべき事が使命でなく仕事であるという事実を揺るぎないものにする為の制約。

 だが、言うまでもなくサポートも大事な役割の一つである。ヒーローは一人の人間の存在だけで成り立つものではない。業務も部署によって様々。特殊スーツや特殊アーマー等の俗に言う「強化ユニット」、更にヒーローの移動手段であるバイク等のマシンを開発、整備する研究員やメカニック。位置情報や、敵の情報を無線で伝え戦闘行為をサポートするオペレーター。ヒーロー自身の健康面や身体強化を管理するトレーナー、他にも様々な、それこそ数えきれない人間がヒーローに関わっている。

 俺もそんな中の一人であると言えるのだ。

 俺の役目はと言うと、簡潔に述べるなら、怪人と戦う事だ。

 ヒーローではないが、戦う。

 ヒーローより先に、戦う。

 ヒーローが来るまで、戦う。

 どこの誰よりも早く戦うのが「タイムアタッカー」としての俺の業務である。

 そして、その日も俺は、業務の真っ最中であった。


 目の前では怪人が暴れていた。大きなトカゲを模した、それこそ特撮番組、あるいはホラー映画等で見るような、異形。黒と緑が混ざり合った禍々しくも不気味でリアルな配色に爬虫類独特のヌメヌメした質感。ナイフの様に鋭く尖った両手足の爪。ギラギラと血走ったその眼には知性の欠片も感じられない。それは五年前、初めて日本に発生した時から何も変わっていない。目的も発生源も分からぬまま、日本人はこの怪人との戦いを強いられるようになったのだ。

 トカゲ怪人はつい五分程前、糸島市立加布里小学校近辺のマンホールの中から出現する所を近所の主婦に発見された。通報を受けた糸島市役所の特務室に連絡が入り、直ぐに俺の携帯が鳴った。

 丁度その時俺はコンビニで昼食を買って家に帰る途中だった。俺の家はというと、加布里にある。加布里小は母校である。

 現場もすぐ近くなので、そのままコンビニ袋を掲げて自転車で駆けつける事となった。そもそも特務室から連絡があった場合、どんな状況だろうと現場に駆けつけなくてはならない。それが絶対遵守の契約内容だった。それを守らなくては俺の存在意義は塵と消えてなくなる。

 広い唐津街道を通って信号に引っかかっても面倒くさい。俺は何の迷いもなく直角で路地へとハンドルを切った。両足に力を込め、ペダルを漕ぐ。

 左右には慣れ親しんだ風景が流れていく。今では何棟かマンションが立ち、古きと新しきが絶妙なバランスで並んでいるのだが、海の匂いと広がる田園、大きな山並の風景は変わらない。糸島市が誇る自然は損なわれてはいない。全速力、立ち漕ぎで飛ばす。子供の頃よく遊んだ公園を横切る。さっきまで誰かいたのだろうか、三台あるブランコの端の一つが揺れていた。最近は殆どこの公園に立ち寄らない。そんな事実にふと気が付くが、次の瞬間にはその景色は過ぎ去っていた。

 

 俺が現場に到着した時、周囲には既に人だかりが出来ていた。

 遠巻きに眺めている見物人達のその視線の先には幾つかの商店が並んでいる。その中の一軒の八百屋の様子が明らかにおかしい事に俺は気が付いた。奥からドカグシャと、物が壊れ、野菜の潰れる音が聞こえるのだ。それは明らかに人間ではない何者かが暴れている理性のない音である。トカゲ怪人が八百屋を荒らしているのだろう、と俺は予感した。

 店内に無残に野菜が散乱しているのが見える。トカゲ怪人とは言っても、実際に人ではなく、野生動物とも全く違う。その証拠に野菜は一口も食べられてはいない。怪人と呼ばれている異形の生物は食欲を満たす為でもなく、腹が立っているわけでもなく、人類を滅ぼす目的でもなく、理由なき本能のままに、暴れる。殺す。殺された人間は意味もなく死ぬ。それが現在の八百屋の有様にも該当する。意味もなく、ズタボロに散らかされているだけ。怪人が何かを体内に摂取している、つまりは食べたり飲んだりする姿は一度も観測されていない。

 見ると、八百屋の店主の中年男性が人だかりより少し近い位置で何も出来ずにただ立ち尽くしていた。下手にヤツに手を出していないようでひとまず俺は安心した。それだけが心配だったのだ。短気がたまに傷だが、涙もろくて実はお人よしで、波多江家でも御用達の八百屋の店主が意味もなく死ぬのだけは我慢出来なかった。

 怪人が発生した場合、とにかく「触れない、近づかない、挑発しない」というのは今では小学校でも「知らない人には決してついて行かない」という事と同じ機会で教わる必須項目だ。殆どの地区の人間が、怪人に出くわしたらとにかく一目散に逃げるという一択を実行している。

 俺は見物人から少し離れた場所の電柱で自転車を降り、鍵をかける。前輪は備えつきの、後輪は自転車屋で購入したチェーンキーだ。そうして、人をかき分け八百屋の店先まで出る。

 八百屋の店主が直ぐに俺を見つけて、泣きそうな声で話しかけてきた。

「純ちゃん、遅いよ」

「ごめん、おっちゃん」

 馴染みの店主に片手を上げてそれだけ言うと、俺はジーパンの尻ポケットに手を入れる。そして慣れ親しんだ布の感触を、すぐに掴み取る。

「装着」

 小さな声で言ってみるが、周りの誰も何の反応もない、そもそも恥ずかしくて、聞こえる様には言っていない。

 そして俺はポケットから取り出した布、それは肘まである茶色の手袋、を両手に嵌める。一切模様も、飾りも付いてない、一見して何の変哲もない茶色い手袋。まさに有閑マダムが日焼け防止の為に着ける様な手袋。

 先に左手を肘まで完全に装着し、続いて右手を手首まで入れ、手袋の端を口に咥え、すうと右手を斜めに伸ばし、通す。その間、わずか5秒。

 Tシャツにジーパン姿の青年が、有閑マダムの手袋を着けて立っている様子が道に立つカーブミラーに映し出される。俺は自分のその姿をなるだけ見ない様に心掛けた。


――これで、完了。


 二、三度両手を叩き、左手に着けてあるが、今は茶色の布に遮られ目視出来ない状態の時計の、感触で覚えた位置にあるボタンを押す。ピッという小さな電子音が鳴る。これでストップウォッチが作動した。

 そして俺は八百屋の中へと駆けていった。背中を向けているトカゲ怪人の一メートル程まで近づく。とにかくこれ以上の商品と店の被害を大きくするわけにはいかない。

「おい。そこから離れろ」

 言葉が通じた例はないが、一応は声を掛けてみる。

 それと同時にトカゲ怪人を後ろから羽交い絞めにする。

「グオオオオオオオオオオオ」

 俺の行動を拒絶する様に大きな雄たけびをあげる怪人。この反応には既に慣れっこなので、特に怯まない。大きく息を吸い込み腰を低く構え、「はっ!」と気合を入れ、怪人を力任せに引っ張る。岩石の様に硬くて重いその体躯をずるずると店内から店先に引きずり出す。

 とりあえず場所を移動し、被害の拡大を阻止する目的である。

 するとトカゲ怪人が俺を振り返り、睨み付けて来る。先程説明した通り、こいつらに感情があるのかどうか、目的意識があるのかどうかはまだ解明されていないが、一応、自分の行動を阻害されたという感覚はあるらしい。邪魔をした俺に標的を定めたようだ。こうやって、怪人のターゲットを自分に据える所から俺の任務は始まるのだが、この瞬間は何度味わっても背筋がゾッとする。ターゲットにされるというのは、自分の命の危険を背負う、生と死が隣り合わせの絶望感なのだ。ワクワクも生き甲斐も感じない。誰かを守っているという意識すらない。ただ、死に対する純粋な恐怖のみに俺の感情は埋め尽くされる。生きるか死ぬかの状況に陥れば誰でもそうなる筈だ。

 俺を睨みながら、のっそりとトカゲ怪人が一歩進み、サッと手を払うジェスチャーをする。俺の体とその腕の軌道とは、三十センチは空いているのだが、それでも結構な風圧が俺を襲い、俺は目を瞑る。

 だがこれにも怯んでいられない。大振りの一手が繰り出されたその隙を逃さずに次の瞬間、俺は怪人の懐に入り込み、人間でいうみぞおちの辺りに渾身の右ブローを叩き込む。当然、ダメージは一切無く、怪人の表情は変わらないが、元々痛みを与える事が目的ではない。少しでも怪人を人のいない場所に追いやる為である。相手には質量がある為、ダメージは与えられなくてもパンチの重さは通じる。その証拠に俺のパンチによって怪人の体は僅か一メートル程後ろに下がっていた。だがこれを一般人が真似をしようとしてはいけない。怪人の体重はおおよそ200キロはあるので、普通の人間には持ち上げる事は愚か、パンチで押し退げる事も叶わないだろう。

 俺にこの行動を可能とさせるのは、唯一の装備、茶色の手袋の「身に着けると1、5倍の腕力を発揮出来る」効果のお蔭だ。それでも、なんとか怪人をぎりぎり動かす事が出来る程度である。

 だから、さっきから偉そうに御託を並べている俺にも、出来る事は限られているのだ。というか、今取った行動が、俺の出来る全てだ。被害を抑える為に、怪人を動かす。引きつける。欲を出してそれ以上をやろうとすると、あっという間に意味なく命を失う。

 それ程決定的な力の差が俺と目の前の怪人にはある。俺が殴った程度ではダメージを与えられない。どれだけ頑張っても俺が怪人を倒す事は絶対に不可能なのだ。倒すか倒されるかの戦いではない。俺が死ぬか、死なないか、だけの戦い。そんな救いのない死闘に誰が興味を持てるというのか。

 ふと八百屋をみると、おっちゃんが店内の様子を見て悲鳴を上げている。商品の被害は甚大だろう。ゴメンおっちゃん。これ以上早くは駆けつけられなかったのだが、それでも胸が痛む。しかし、今は眼前の敵だ。

「まったく……暴れるならせめて食べろよな」

 八百屋「いと」の野菜は無農薬新鮮で美味しく、波多江家でもご用達であった。

「グオオオオオオオオオオオ」

 だが当然意味は通じる事なく、怪人は俺の言葉を無視して、烈火の勢いで襲い掛かってくる。

 俺は慌てず、怪人の懐に入り込み、何度かパンチを叩き込み、後ろに下がらせる。それだけで集中力と体力は全開で、緊張は限界である。だが、それだけ頑張って五分程かけて2、3メートル怪人を下げても、一度怪人が深く踏み込んで腕を振ってきたら、俺は我が身の安全の為に後退せざるを得ない。すると折角稼いだ距離も無駄になる。だが、命には代えられない。その爪はかすっただけで軽く肉を裂き、慎重に対応していても既に俺の体は傷だらけだ。

 隣を電車が走っていく。福岡と佐賀を結ぶ、JR筑肥線である。怪人に不意に線路に出られても大変なので、当然そちらにも気を使う。

 逃がしてはいけない。足止め、が俺の任務なのだ。

 そして更に厄介なのが、相手の感情で行動が読めないという点。自分に怪人の目標を変える事は出来るが、相手が目の前にいるというだけで、実際は目の前の人物に対して怒っているわけではないようなのだ。動物相手、実際のトカゲであっても、怒りの感情はあるし、ならばその傾向は分かるというもの。だがこの怪人は感情が見えない為に、次の行動が読めない。突然、全力で襲い掛かってくる事もあれば、突然、別方向に走り出す事もあるのだ。

 体をぶつけあっても心と心の対話が出来ない。追い詰めた、だとか、こっちの攻撃で疲れたか?弱ったか?等の駆け引きの土俵にあがる事自体が間違っている。自分と同じ感覚を持っている相手と思ってはいけない。それが怪人と対峙する際の大前提の心構えだ。

 そういうわけで、何の前触れも予感もなく、トカゲ怪人は突然全速力で俺に襲い掛かってきた。ドタドタと地面が揺れる。

 観測されている情報ではトカゲ怪人の全速力は最高で時速70キロ。時速70キロの自動車にぶつかられてはひとたまりもない。直ぐに体をかわして回避したい気持ちだが、そういう訳にはいかない事情があった。しかし、この突進を生身で喰らったらそれこそたまったもんじゃない。唯一の俺の武器であり防具。茶色い手袋を着用した腕で受け止めなくては。俺は心を決め、腕をクロスにして腰をぐっと落として踏ん張る。次の瞬間、物凄い衝撃が腕を通して全身に飛び込んできた。

 たまらず俺は吹っ飛ばされる。2メートルは宙を飛び、後ろ背になんとか足を地面に着く。そのままの勢いで後ろ回りに5メートル程転がる。ようやく止まった場所が、八百屋から道を挟んでの反対側。人だかりの最前列だった。

「何やってんだよ」

 若い男の声が後ろから聞こえる。隣からは舌打ちが聞こえ「税金泥棒」「ダセえな……」という声も上がる。

 俺が怪人の攻撃を避けていたら彼らはそのまま突進され、死んでいたのだが、そんな事はお構いなしに俺を責め立てる。

 まあ、いつもの事だ。

 何の変わりもない。

 これが俺の仕事場だった。


 後ろを振り返っている暇などない。仕事を果たさなくては。

 俺はそのまま地面を思い切り蹴りながらトカゲ怪人に突進していく。時速70キロの足元にも及ばないが、お返しだ。走りながら右手首を左手で掴み、体の正面で輪を作る。そのまま右肩を突き出し、全体重をかけたタックルをトカゲ怪人に叩き込んだ。当然、トカゲ人間は吹っ飛びもしないし、転がりもしないが、ザザーと2、3メートル後退させる事に成功した。

 しかし、このまま動き回られたら面倒だ。逃げ出されても俺の責任となる。

 そう考えた俺は自らトカゲ怪人に飛び掛かる。トカゲの両腕に自分の両腕を差し出し、掌を合わせて組み合う。直ぐに両手に力を込めるが、まあビクともしない。力の差は分かっていた事である。逆に向こうが今にでも何かのきまぐれで本域の力を出しでもした場合、俺の手首は粉砕するだろう。判断を誤ったかと思われるだろうが、こいつを足止めするにはこうする他ない。それに茶色い手袋をしている俺の腕で不可能であるのなら、俺に出来る他のどんな策でも無効である。俺の他の部分はなんら特殊ではないのだから、選択肢事態は少なくて済む。そこに関しては変に達観している。

「グオオオオオオオオオオオ」

「……ぐ、おお」

 血走った眼が更に近く、俺を射抜く。ぎりぎりと力比べが続く。

 このまま時間が過ぎるのを待つか……大丈夫か。そう思った時だった。

 トカゲ怪人が大きく口を開けたのだ。

――マズイ。全身に……悪寒が走る。

 直ぐに手を離して距離を取らなければ。そんな逃げ出したい気持ちを抱えて、それでも俺は両腕に全ての力を込めて、トカゲ怪人を中心にその周りを180度回転する。怪人と俺の位置が入れ替わる。そして、俺の背後に民家の塀しかなくなったのを確認すると、俺は首を必死に横に倒す。

 まさに次の瞬間、俺の顔があった場所にドロドロの液体の水鉄砲が襲う。延長線上の塀は酸性の唾液によって瞬く間に溶けて崩壊していく。

「グオオオオオオオオ」

 爪は物理的に痛いだけだが(とは言っても気を失いそうな程には痛い)、この口から放たれる液体はもう一段上で洒落にならない。飛距離は大体5メートル。見物人に当たったら大変な事になる。今は背中に塀があったから、位置を入れ替える事で助かったが、見物人が俺達を取り囲んでいたなら、それも茶色い手袋で受けなければならなかっただろう。一応、特殊繊維で作られている装備故、すぐに溶解はしないだろう、そう願っているが、怖くて試した事はない。

 一般市民の安全が最優先。俺の安全はその次に考えなくてはならない。先程の突進も、他の地域への逃走を防ぐという意味もあったが、あのまま突っ込まれたら見物人達へと一直線だったので、仕方なく身体で受け止めたのだ。文句を言われようが、舌打ちをされようが、身体を張って、命を顧みずに守らなくてならない対象。それが国民の税金から、月に八万という給与を頂いている俺の役目。俺は国民に八万で命を売ったというわけだ。

 九死に一生を得た俺だが、全く一安心ではなかった。酸の唾液を避ける為に無理に体勢を変えた所為で、押さえつけてくるトカゲ怪人の体重を支えきれなくなる。上からの圧力と重みで、立っていられなくなり、思わず片膝をつく。

「ぐ……おおおおお」

「グオオオオオオオオオ」

 両腕に渾身の力を込め押し返そうとするが、体重と腕力が加わった怪人に適う筈もない。手を解いて横に転がって離脱するしかないと分かっているが、しっかりと両手を握られている為、それも叶わない。

 当然だが、誰も助けに来てくれない。無理もない。来ても無駄だからだ。普通の人間で太刀打ち出来る相手ではないのだ。じゃあ、何で俺はそんな化け物とほぼ生身で戦っているのか。毎回毎回、死にそうな目に合いながら、何をやっているんだ。自分自身でもよく分からない。誰かから聞かれたら、何も考えずに「仕事だから」と答えるようにしている。生活の為という理由は、思考を止めてくれる楽な言葉だった。

 俺が連絡を受けてどれくらいだろうか。もう来てもいい頃なのだが。茶色に覆われた腕時計を見る。来なければ簡単な話だ。俺は死ぬのだ。

 場違いな程に冷静な思考を抱えながらピンチは進む。トカゲの口から唾液がダラダラ零れ落ち、スニーカーの先がシュウシュウ音を立て、溶け始める。大分立ち回りで体力も消耗しているようだ。握っている手にも力が入らない。

 どうやらダメのようだ。ああ、これで終わりだ。俺は……死ぬ。

 その時、俺の左手からピーピー、ピーピーという連続した電子音が鳴り響いた。時間か……。そう思った次の瞬間、声が聞こえた。


「待て!」


 俺の視界いっぱいに映るトカゲ怪人の肩に何者かの手が置かれる。銀色の手甲のついた、眩い程に鮮やかな赤いグローブ。その手が肩を握り締めるのが見える。俺の両腕に、身体に乗っていた信じられない程の重さが嘘の様になくなる。

 トカゲ怪人はそのまま片手で俺から引き剥がされる。当然、自分の行動を邪魔する新たな人物をターゲットに替え、怪人はすぐさま襲い掛かる。

 銀色に漆黒のラインが縁取られた肩当てを掴み、そのまま体重をかける。が、相手はビクともせずに立っている。

「グオオオオオオ!!」

 口を開き、酸の唾液を吐きかけるが、完全に防護されたマスクとアーマーの前ではものともせず、その光沢は一切損なわれない。

 来たか……。どうやら俺は助かったらしい。

 トカゲ怪人は自分の攻撃が効いていない事にも何の疑問も感じない。そのままその人物の肩を押さえつけ、噛んだり、頭突きを繰り返す。

 そしてしばらく微動だにしなかった彼が、本当に軽くといった風に、両肩を上げると、怪人の両手が跳ね上がる。

 がら空きになった腹に即座に拳が叩き込まれる。

「グオオオオオオオオオ」

 怪人は口から酸の涎を垂らしながら、3メートル程後ずさる。その声色に、初めて苦しそうな響きが加わる。

「待ってました!!!!」

「イトシマン!!!」

 見物人から次々と歓声が上がる。

 俺のぼんやりした頭、霞む視界に眩く映るメタリックボディ。煌くマスク、風にたなびく黒マント。

 颯爽と、ヒーローの登場だった。


「イトシマン!!」

「よ、日本一!!」

 見物人達から歓声が上がる。

「皆さん、遅れてスイマセン」

 周りを見渡し、そう言うと、イトシマンは俺の元へと駆けて来る。

「波多江さん。ありがとうございました。後は私に任せてください」

「ああ………頼んだ」

 それだけ言って、俺は弱々しく片手を上げる。


 だが、まだ仕事は終わっていない。


 イトシマンは怪人に無防備に背中を向けると見物人に向き直り、手を空に翳して、良く通る澄んだ声を放つ。


「愛しい町を守る為、愛しい人を救う為、糸島市にイトシマンは現れる……。糸島の素晴らしき大地が産みし、絶対無敵、完全なる守護神、超新星イトシマン!」

 力強くポーズを決める。マスクの頭部にある「糸」のシンボルが光る。沸き起こる盛大な拍手と歓声。カメラのフラッシュも次々に光る。


 その時、俺はというと、最後の力を振り絞りトカゲ怪人を羽交い絞めにしていた。

「ポーズの邪魔をさせてはいけない」。これも契約書に記された業務内容である。

 当然、俺とトカゲ怪人の暑苦しい舞台裏など誰も見ていない。皆の関心はイトシマンにだけ向けられていた。


 歓声とフラッシュが途切れるのを待ってからイトシマンはキッと怪人を睨む。同時に俺は簡単に振り払われる。

「トカゲ怪人!お前の好きにはさせないぞ!この町の平和は私が守ってみせる」

 その台詞を聞きながら俺はジーパンのポケットをまさぐり、自転車の鍵を探す。服も破け、靴も解け、生傷も目立ち、体中、あらゆる所が痛いが、慣れたものだった。二つの鍵を取り出し、開錠する。

 さあ、俺の仕事はこれで終わりだ。携帯を取り出し、特務室に連絡を入れる。「イトシマン到着。波多江、業務終了です」と言うと「了解」という素っ気ない二文字の返事があり、電話は一方的に切られた。

 自転車に乗り込み、現場を後にする。

 背中からはまだ、歓声が響いていた。


「それから数分の肉弾戦があり、怪人を追い込み、その動きは緩慢になりました。そしていよいよイトシマンは必殺の『糸島半島パンチ』を構えます。ダメージの蓄積で動きの鈍い怪人はその攻撃を避けられるわけがありません。しっかりと命中します。そうして、怪人は断末魔の叫びをあげ、蒸発し、今日も糸島市の平和は守られました。戦いを終えたイトシマンの周りは毎度の事ながら、礼を述べ、活躍を称賛する人々、サインを求めるファンによって大混雑を極めました。危うく店を全壊されてしまう所だった八百屋の御店主も店先から頭を下げていました。ありがとうイトシマン。これからも私達、糸島市民の為に戦って下さい。それでは続いてのニュースです。先日、糸島市動物園で生まれたカバの子供のレオナルド=ディカプリオ君に対して、アメリカ合衆国から正式な抗議文が発表されました。これを受け糸島市長は……」


 部屋に横たわり、テレビから流れる地域ニュースで俺はあの後の詳細を知った。

 大の字で仰向けになり、眼を瞑っている。骨折はしていなかったが、全身が怪我と疲労と筋肉痛で、しばらく起き上がれそうにない。机の上に置いてあるコンビニ袋。その中にあるコンビニ弁当も手つかずだ。

 あれから帰りに特務室かかりつけの病院に寄り、治療を受けて、そのまま自転車で家へと帰った。二階の自室へ入ると、畳の上に崩れる様に倒れこみ、いつのまにか眠っていた。

 起きた頃には外はすっかり暗くなっていて、丁度手の届く場所にあったテレビのリモコンを掴み、電源を入れ、ニュースを聞いた。

 そこにはイトシマンを称賛する声。そこに「波多江純一」という名前は、一切登場しなかった。

「純一、ご飯よ。早く降りてきなさい」

 テレビを消そうとしたその時、母親の声が階下から聞こてきた。

「ああ」

 俺は身体を起こそうとするが、あちこち痛くて、動けない。正直現場から帰って来れたのは、意地みたいなものだった。

「純一、あんた大丈夫?」

 母親が階段を上がってくる。見ると、盆に夕ご飯を載せて持ってきていた。

「ああ」

 俺は仰向けのまま母親に答える。

「メシ、そこに置いといて」

 母親はしゃがんで、床に盆を置く。

「仕事だったの?また怪我したみたいね」

「これぐらい、慣れっこさ。平気だよ」

 俺は精一杯の意地を振り絞り、軽い口調で言う。だが、体を起こす事は出来なかった。

「あんな危険で、その癖、お給金も安い仕事なんて、早くやめてよね、お願いだから。お母さん本当に心配なのよ。もうすぐ三十なんだし」

「大丈夫だよ」

 仕事を始めた五年前からほぼ毎日言われているその言葉。そしてほぼ毎日返すこの言葉。

「……」

「メシ、ありがと」

「……全く、お父さんも死ぬ前に余計な物を残していってくれたわね」

 しばらく寝転がった俺を呆れた表情で見つめると、最後はいつもの様に、父親に文句を言いながら立ち上がる。

「ヒーローでもない、時間稼ぎに命をかけるなんて……」

 それだけ言って、ドタドタと音を立てながら母親は下りていった。


 時間稼ぎ。その通りである。それが俺の使命……いや、業務である。


 今から5年前の2009年1月、日本に突如怪人が姿を現した。海から川から、山から土から、何の因果関係の元、何の目的で生まれたのかは未だに解明されていない。

 当然、日本はパニックとなった。

 政府は急遽、特務機関を立ち上げ、全国から様々な分野の有識人が集められ、それぞれの見地から対策が練られた。

 初期の頃は自衛隊のミサイル兵器が何度か使用された例があるが、近隣の被害の甚大が問題となり、自衛隊の出動が国会で断念された。自衛費に予算が細くなっていた、というのが理由の一つだ。簡単に言うと、結局どこが金を出すのか、誰が責任を取るのかという話で官僚がもめたのだ。そして2009年3月に国民の反対を押し切り、新・地方自治法が生まれた。全ては自治体各々で予算のやりくりから責任から取って下さいねと、国防を丸投げしたのだ。


 だが、一応のテンプレートを国は示した。国家の研究成果を地方自治体に開示したのだ。

 それこそが、機械工学の権威達が作り出したパワーユニットである。

 同年4月26日、この日本に、ヒーローが誕生した。


 俺の住む糸島市の担当ヒーローの一人が、昼間に俺を助けたイトシマンである。

 赤と白銀と漆黒の配色でコーティングされた、眼に眩いメタリックボディのヒーロー。

 配色やデザインは装着者ないし、その地区の研究員の手によってある程度装飾出来るようになっている。

 それぞれ個性があるが、彼らがどこからどう見ても、ヒーローである事だけは確かである。

 それに、見た目だけではない。能力も素晴らしいものだ。

 ここではイトシマンのカスタム装備を例に挙げる。伸縮性に優れ、特定の電気信号を送ることにより、装着した者の身体能力を10倍に高める特殊繊維が編みこまれた、赤色の強化スーツ。その上にはメタリックな白銀に赤と黒のラインが入ったアーマー。これは最大10トンの衝撃にも耐えられる装甲である。

 特別製の赤いグローブ。装着者の意識とリンクして、最大で普段の10倍のパワーが発揮される。銀色の手甲部分には特殊合金が入っていて攻防ともに優れている代物だ。ブーツにも同様の仕組みが組み込まれている。

 漆黒のマントは耐熱、耐寒、防火、防酸とあらゆる機能に溢れ、更には見た目の格好良さにも貢献している。

 そしてヒーローの極めつけはその正体を隠す為のマスク。勿論意図はそれだけではなく、お洒落なサングラスの様な形を象ったゴーグル部分には強化ガラスが使用されており、銃弾もものともしない。頭頂部には大剣を彷彿とさせる角飾りが備わっており、額に光る「糸」のエンブレムはイトシマンの象徴となっており、担当エンジニアのセンスが窺われる。

 腕のみを茶色い手袋でしか保護されていない顔丸出しの俺と比べて、全身の百パーセントが覆い尽くされ、そのどの部分を取っても、太刀打ち出来ない存在感である。

 というよりか、あの怪物と人間が戦うには、それぐらいの装備がなくてはならないという事なのだが。

 そもそもが俺のしゃしゃり出る余地など、無いように思われるが、そこに、問題があるのだ。

 完全無欠、非の打ち所がないように思われるヒーローにも、たった一つだけ難点があった。

 致命的な、弱点だと俺は思うのだが。


 それは時間である。


 装着者が特務室に入り、装備完了するまでにかかる、時間。

 今説明したパワーユニットの人智を超えた力は、スーツやアーマーを着るだけで力が増えるものではない。先述した様に、特殊な電気信号を送り、装着者の意識と装備をリンクさせて初めて実用出来るものである。循環、装着者との順応。最低でも30分はかかるのだった。


 これが俗に言う「魔の30分」である。


 パワーユニットが施行されてまもなく、俺は親父に声を掛けられた。

 大学を卒業したが、在学中に何故か就職活動をする気が起きず、結局定職につかず、アルバイト等をして自堕落な生活を送って、二年が経った頃の事である。

 親父に言われ、階下へと降り、ちゃぶ台の前に腰掛ける。

 その時の親父はいつになく真面目な顔をしていた、それが印象的でよく覚えている。

 俺の親父は、大学の繊維工学の博士であった。日本の異常事態に、あらゆる分野の権威が国から召集をかけられているという噂は聞いていたが、父親には関係ないだろうと思っていた。

 それでもだ、その真剣な雰囲気から、俺はひょっとしたら、万に一つの可能性で、親父に発明品を与えられ「純一、今日からお前はヒーローとなり、この町の平和を守るのだ。それがお前の使命だ」と言われるのではないかと、少しでも期待していなかったと言われたら嘘になる。

 だが、当然、親父が俺に新開発の最強の装備を託したり、改造手術を施す事はなかった。いや、少し語弊があった。新開発の装備は渡されたのだった。

 親父は俺に荘厳な仕草で、茶色い布をちゃぶ台の上に置いたのだ。

「なんだよこれ?」

 当然俺は質問した。

「私が開発した特殊繊維で作られた手袋だ。これを装着すると、普段の1、5倍の力が出せる」

「……1、5倍」

 それは普通に考えれば凄い発明なのだが、その中途半端な数字に俺の反応も鈍くならざるを得なかった。俺は直に布を手に取って触れてみたが、どこからどう見てもそこらへんにある日焼け防止の手袋にしか見えない。そして、親父は続けて俺にこう宣言したのだ。

「知っての通り、パワーユニットのヒーローは変身に30分かかる。それまで怪人を足止めして、一般人に被害が及ばない様にする。純一、それがお前の使命だ」

 そうして俺は父親の高校の同級生が特務室長であるというコネで糸島市特務室に非常勤として所属する事になり、準公務員として月八万の給与を貰い、時間稼ぎの任務に就く事となった。

 ちなみにパワーユニットのスーツに使用されている特殊繊維。これは親父の開発したものとは全く関係ない。

 そもそも親父は怪人が発生した時、国から声が一切かからなかった。

 その頃から、酒の量が増えたのは確かだった。

 俺はこう思っている。親父は自分が国から召集を受けなかった腹いせに、自分の開発した手袋と息子を、特務室に送り込んだのではないかと。そして彼の人生の殆どを費やして作った発明品が「茶色い手袋」なのだから、国の判断は決して間違っていない、とも。

「なあに、これからもっとこの繊維を改良して、お前の装備を充実してやる。登場までに時間がかかる欠陥品のヒーローが来る前に敵を殲滅。お前はその立役者。奴等と取って替わる日もすぐだ。はっはっはっは!」

 そう意気込んでいた親父もその後直ぐにすい臓癌が発覚して、翌年に亡くなった。

 後継の研究者を育てていなかった親父の特殊繊維研究はその瞬間に締結し、五年経った今も俺の装備は改良されず、怪人と俺の歴然の実力差の元、毎回今日の様な死闘が行われている。五年という歳月は、何の為に戦うのかという、俺の中の目的意識を宙に浮かべるには十分な程の時間だった。

 

――波多江純一、30歳。特務室所属の準公務員。業務は、時間稼ぎ。

 

 その一行で、今の俺について十分、語る事が出来る。


 次の日、役所の横にある特務室に出向き給与を受け取りにいった。塀を溶かした事等でオペレーターに小言を言われるのが嫌なので、経理室だけに寄り、すぐに帰る。

 パワーユニット計画とは関係ない装備で戦う俺には、整備室や研究室は全く関係ないエリアである。整備室の前を通った際、ドア窓から若い男が俺に笑いかけていたが、知らない顔だったので無視した。そのままそそくさと逃げるように特務室を後にする。


 毎月変わらない給与袋の中身を見て溜息をつきながら家までの道を歩く。

 実家暮らしだからまだいいが、三十も近いこの年で月給八万はやはりきつい。家に幾らか入れたらそれでおしまいだ。準公務員だから、やろうと思えばバイトも出来る、だが、長続きはしない。突然呼び出されてバイト先を抜け出せば、クビになって当然だからだ。

 実働が30分で、更には怪人が現れない可能性もあり、実際月に一度しか怪人が現れなかった事もある。それで良い給金を貰おうなんて、確かにムシの良い話ではあるが、出動の度に心身ともにボロボロ、死を予感した事も一度や二度ではない。それなのに天秤にかけた受け皿に八万しか乗ってないという事実がなによりつらい。

 ヒーローの様に、敵が出ない時には地域のイベントや防犯訓練等に出る様な事もない。まあ、手袋嵌めた顔丸出しの男など、俺が主催者でも絶対に呼びたくない。

 やりがいを感じる事もない。元々親父に言われ、惰性で続けているだけの仕事だ。ヒーローに憧れる年でもないし、別に俺でなくてはならない理由もない。


 そもそもヒーローには適正があり、DNAと強化ユニットが適合しなくては。俺が本当の意味でヒーローになる日は訪れないのだった。


 もう辞めてしまおうか、最近では気が付けばそんな事ばかり考えてしまう。

 

 閑静な住宅街を自転車を押して歩く。その日は平日の午後で、道を歩いている人間もそういなかった。真っ当な社会人は会社で働いているのだ。そんな事を考えていると、前方から小さな男の子と母親の親子連れが手を繋いで歩いてきていた。

 ある程度の距離まで近付くと、何かに気が付いたように黄色い帽子と幼稚園の制服を着た男の子が俺の顔を無遠慮にまじまじと見つめてきた。……イヤな予感がする。そして、すれ違う直前、スッと手を伸ばすと俺を指差し、こう言った。

「へんなてぶくろのおじさんだー」

 これに驚いたのが一緒にいた母親だ。20代後半から30代あたり、大体俺と変わらないと思われるその女性は、慌てて子供の口を押さえ、止めに入る。

「こら、翔ちゃん。おやめなさい。どうもすいません」

 母親は俺に頭を下げる、だが男の子は母親の手を振り解いて尚も執拗に俺に話しかけてくる。

「ねえなんでいつも茶色い手袋しかしてないの?びんぼうなの?お顔みせてもいいの?」 

 俺は困ってしまった。これには、何と答えていいのか分からない。そもそも、元々子供は苦手なのだ。

「こら翔ちゃん、この人はイトシマンのお友達なのよ」

「ぼくね、イトシマン大好き!だってかっこういいんだもん」

 イトシマンの名前が出た途端花が咲くように笑顔になった男の子は、溌剌に口を開く。――だってかっこういいんだもん――純粋な言葉が俺の胸を無邪気に刺す。

「ねえおじちゃん、イトシマンとともだちなんでしょう?サインもらえないかな。ぼくサインほしいんだ」

 これにも俺は困ったように首を振るしかない。イトシマンとはプライベートでは一度も喋った事がない。そもそも装着者の正体も知らないのだ。

「こら翔ちゃん、失礼でしょ。本当にすいません。言って聞かせますので」

 翔ちゃんという男の子をめっと怒る母親に、俺は曖昧な、愛想笑いなのか苦笑いなのか自分でも分からない微笑みを返す事しか出来ない。

「でもこのおじちゃん、一回もかったことないよ。いっつもいっつもイトシマンに助けてもらってばっかりだもん」

「違うのよ。この人はイトシマンが来るまで、頑張って怪人を足止めしてくれているんじゃない……」 

 必死で俺をフォローする母親。とうとう居た堪れなくなり、片手をかざして言葉を遮る。

「いいんですよ」

「え?」

 俺は頬を持ち上げ笑顔を作る。うまく笑顔になっているのか分からないが。

「その子の言う通りですよ。俺は負けてばかりなんですから」

 この子は何も、これっぽっちも間違った事を言ってない。

「ごめんな僕、おじちゃん、いつも負けてばっかりで」

 俺はしゃがみこんで、翔ちゃんの目を見た。曇りの無い、綺麗な瞳だった。

「……あのね、もっと、おかねためて、いっぱいぶきとか、よろいとかかったらいいとおもうよ。あと、お顔は布か何かでかくしたりとか」

 子供にまで気を使われる始末。もう笑うしかない。

「ああ、ありがとうな」

 俺はそう言うと、翔ちゃんの頭にぽんと手を置き、立ち上がった。

 母親は何度も俺に頭を下げながら、河原の方に歩いていった。翔ちゃんは俺が見えなくなるまで手を振っていたが、俺は呆然と二人を見送るしかなかった。

 俺の心は、心境はというと、ただただ空虚だった。

 あの子は俺を馬鹿にしているんじゃない。本当に、ただ純粋に俺という存在が不思議なのだ。まともな装備もなく、勝てる見込みもなく、それでも戦う大人に、首を傾げているだけなのだ。あの子は嘘を言っていない。あの瞳に俺はそう映っている、真実の俺をあの子の瞳を通して垣間見ただけだ。ただそれだけの話だ。腹を立てる理由がない。

 分かっている。十分理解している。

 それなのに、俺はしばらくその場を動く事が出来なかった。


 気が付けばポケットの中で携帯が鳴っていた。着信は特務室。

 近隣の泉川から突如怪人が出現したそうだ。

 二日連続とは、珍しい。俺は、昨日の疲れが残った軋む体で自転車にまたがると、現場へ向かった。ひょっとすると先程の親子連れが襲われているかもしれない。


 河原へと続く道で、悲鳴を上げながら逃げ出すカップルとすれ違う。どうやら近いようだ。

 予想通り、そこから一分もしない河川敷に怪人はいた。

 長い触手をムチの様にしならせ、水面や地面を叩いている。周りに一切人がいないのを見てようやく息を吐く。どうやら俺はあの親子を見送ってから随分と長い時間ぼんやりとしていたようだ。

 周囲に人がいないのは幸いだったが、それでも俺の気の重さは変わらなかった。川から出現という時点で嫌な予感がしていたのだ。遠目で見ても分かった。触手を持った怪人、河川敷にいたのはイカ怪人だったのだ。

 巨大なイカに足が生えた怪人。攻撃手段は十ある長い触手のみなのだが、俺はこの怪人が一等苦手だ。いや、得意な怪人がいるのかと言われれば返答に困るのだが、苦手な中でも一番苦手、という意味だ。長い触手はどんなパターンで動くか分からず、その鋭さと破壊力はムチの非ではない。当たり所によっては絶命、良くても気絶は免れない。

 何度か対面した事はあるが、とにかく間合いの取り方が異様に難しい相手である。

 それでも、戦わない訳にはいかない。

「装着」

 ポケットから手袋を取りだし、腕に通す。手袋越しにストップウォッチを作動させる。

 手のひらを2、3度叩いてから、俺は怪人に向かって構える。

 とにかく集中して触手の動きを肌で感じる。懐に入るわけにもいかないし、かといってある程度の注意はこちらに引いておきたい。つかず離れず、微妙な駆け引きをしなくては。

 試しに送り足で二、三歩間合いを詰めてみる。

 次の瞬間、足元に走る一本の触手。これは、俺の左足を狙っている。

 だが、近づく為に出した足が右足で助かった。左足は下がっている状態だし、直ぐに無理なく動かす事が出来る。左足を後ろに下げながら反時計周りに回転してその場を迅速に移動する。俺のいた場所の地面がザンと抉れる。そして移動した場所に、他よりも太い触手、イカ怪人にとって右手にあたる部位、が今度は俺の胴体を狙って飛んでくる。左足を斜め前に送り、体重移動でそれもかわす。見物人がいなくて助かった。十本の触手相手ではいちいち後ろにまで気をまわしていられない。

 さあ、なんとかコイツの足止めをしたいのだが、それにはまず現在のお互いの位置関係が好ましくない。怪人が川に近い場所にいるのだ。これでは次の瞬間にでも川に飛び込まれたらことだ。かといって逆も怖いのだが。俺の逃げ場がなくなるから。

 だが、そうも言ってられない事は分かっている。とにかく、位置を入れ替えなくては。案として浮かんだのは、触手を手袋で掴んで遠心力で入れ替わる。トカゲの時にやった方法と要領は変わらない。だが当然、トカゲ程簡単にはいかない。トカゲと俺の腕の本数は同じだったが、イカは俺の五倍の腕を持つのだ。俺の腕を掻い潜られて無装備の部分を狙われたら一巻の終わりだ。こいつとの戦闘では、とにかく回避に集中しておきたいというのが本音だが、実際、それだけで済む筈もない。

 とにかく、掴んでやる。

 俺は腰を落とし、触手を待つ。

 だが次の瞬間にはイカ怪人は川に飛び込んでいた。

「あ、待て!」

 しまったと思った時には遅かった。更に、声を掛けた時には既に怪人は川の中に消えていた。

 そう、ヤツらにはこれがあるのだ。相手の目論見や話の展開としてのお約束等、関係ない。ヤツらはただ、何も考えずに好きなようにでも嫌いなようにでもなく、動くだけだ。我儘盛りの子供よりも質が悪い。

 注意を引きつけ、決して他の人間には手を出させず、決してその場から逃がさず、三十分を稼ぐ。それのどれだけ困難な事か。

 だが、俺がどれだけ言葉を並べようが、今目の前にある事実は、俺が怪人を途中で逃したという事。それ以上でもそれ以下でもなかった。


 直ぐに特務室に連絡を入れ、ヒーロー出動の取り止めを告げると、オペレーターからはっきりと文句を言われた。パワーユニットは途中まで装着準備するだけでもかなりのコストと電気を喰う。それこそ俺の給与の何倍もの値段だ。中断すると、全てが無駄になる。無駄にさせない為、俺がいる。業務を全う出来なかったのだから、文句を言われても仕方がない。

 どれだけキャリアを積んでも月に一度はこういう事があった。


 とぼとぼと自転車を押して帰り道を歩いていると気が付けば駅前に来ていた。空はもうすぐ日が暮れる。周りには帰宅途中のサラリーマン達が行き交っていた。左手に巻いた腕時計がピーピーと鳴った。三十分の合図だ。俺は無言でアラーム機能を解除した。

「波多江?波多江じゃないか」

 そこへ突然、誰かが俺に話しかけてきた。スーツを着ている男。暗がりにいるのでよく見えないので、近づいてみる。

「あれ、髙田か?」

「よ」

 立っていたのは高校の同級生だった。

 糸島市はさほど大きくない町だから、地元で知り合いとすれ違う事もある。だが、誰かに声を掛けられたのは随分と久しぶりな気がする。今の仕事を始めて、人通りは俯いて歩く様になっていたからだ。


 それから俺は髙田に誘われて、二人で居酒屋に行くことになった。

 店は俺の行きつけの、ガード下にあるこじんまりとした店だ。いつ行っても何故か客が少なくて俺は気に入っている。

 俺が先に入ると、馴染みの大将が無言で目配せをする。俺の定位置、奥のテーブルが空いているという合図だ。片手を上げて礼を告げ、奥の席に座る。

「それにしても、本当に久しぶりだな。高校卒業以来か」

「ああ……そうだな」

「ほぼ10年ぶりだもんな。まあ波多江は大学が地元じゃなかったから、四年間は仕方なかったわけだけど。こっちでもサッカー部で集まってんだぜ。後で連絡先教えろよ。お前も来いよ」

「ありがとう」

 相変わらずの面倒見の良さだ。

 髙田は三年生の時、サッカー部の主将を務めていた。一応俺も部員だった。あまり上手くなくて、レギュラーにはなれなかったが。それでも当時の事がさほど悪い思い出でもないのは、間違いなく目の前の男のおかげだった。

「お互い変わったな。波多江はたくましくなった」

「そうかな?」

 俺は苦笑する。確かに、体が資本ではあるが。

「髙田は変わらないな」

「なんだよそれは。いつまでも子供のままって事か」

 照れると直ぐに顔が赤くなる。爽やかな笑顔も穏やかな雰囲気も、あの頃のままだ。

「ええと、波多江は随分前にこっちに帰って来てたんだよな。会いそうで会わないもんだな」

「まあ、働いている時間帯が違えばな」

「ああ、お前は常に出動待ち、だもんな」

 なるほど、と髙田が笑う。その笑顔に皮肉は浮かんでない。皮肉が浮かんでいないか窺う自身の卑屈さに嫌気がさした。

 注文したビールが運ばれてくる。グラスを重ね、乾杯をする。俺はジョッキを傾ける。疲れた体に冷えたビールが染み込む。夜になると怪人の出現率はゼロになるので、飲酒は許可されていた。

「髙田は今は、ITだっけ?」

 風の噂で聞いた事があった。というか、いつも母親がどこかから持ってくる情報だ。髙田は大学を卒業した後に入社した一般企業を二年で退社して、今の会社に入ったらしい。

「ああ」と髙田は肯定する。

「凄いなITって、俺には全然分からないけど。ただ、凄いって感じ」

 俺の全く要領を得ない率直な感想に苦笑いしながらも、髙田は首を横に振る。

「そうでもないって。安月給でさ、散々残業してやっと人並みの給料ってとこだよ」

 俺は月八万だ、と言ったら髙田はどんな反応を返すだろうか。冗談だと思って笑うだろうか。気まずくなって謝るだろうか。そして俺はどちらにしても傷つくのだろうか。

 イトシマン等、実際のヒーローが野球選手ばりに給与を貰っているのは確かだ。それと勘違いして俺に対しても「税金泥棒」等という言葉が飛ぶ。金は貰えず野次が飛ぶ構図の出来上がりだ。

「でも実績で報酬や昇進も変わってくるからな。やりがいはあるけどな。お前もそうなんじゃないのか?」

「ああ、どうだろうな。そうかもしれないな」

――怪人を倒す事が出来ればな。俺はそんな言葉を飲み込む。実際、怪人を倒す事が出来れば、待遇も変わってくるに違いない。だが、そんな事が不可能なのはこの五年で俺が一番、痛い程に理解している。

「特務室はしっかりしてるからな。待遇も手厚そうだし、本当、正義の組織って感じだよな」

 俺以外の人間には本当、保険から手当から特別報酬から、しっかりとした組織である事は確かだ。親父が無理矢理コネでねじ込んだ様なものだから、俺への風当りが強いのだ。給与にしてもそうだし、正体にしてもそうだ。ヒーロー達の正体は国をあげての極秘事項とされるが、俺の正体はバレまくりだ。まあ、顔丸出しで言うのもなんだが。嫌ならあの翔ちゃんという男の子が言う様に布でも巻いていればいいのだ。

「でもお前は本当に偉いよ。平和の為に悪と闘ってさ」

「いや、俺のはただの時間稼ぎだよ。髙田も知ってるだろう?」

 とうとう、捨て鉢に言うと、ビールを飲み干し、おかわりを注文すると、俺は黙り込む。

「……」

 何も喋らずにビールを飲む俺に、気を遣った様に髙田が言う。

「でも俺は嫌いじゃないぜ。お前の親父さんが残してくれたっていうあの手袋。レトロな感じがしてさ……」

「……さあ、どうだろうな?」

 分かっているのだ。髙田は本当に良いヤツなのだ。陰で俺の事を馬鹿にしたり、笑っている同級生がいる事を知っている。それでも、地元の仲間としっかり繋がっていて、否定的な意見も聞いているだろう髙田は決して嘘じゃなく、本気で俺に言葉をかけてくれているのだ。昼間に出会った男の子と同じだ。実際俺は今日、髙田から声を掛けてもらえて、嬉しかった。

「色々あると思うけどさ。頑張れよ、ヒーロー」

――髙田、お前こそ高校時代の俺のヒーローだったんだよ。二人で酒を飲めて、楽しかったよ。

 俺はそう言いたかったが、口に出ない。全てはヒーローでもなんでもない俺の立場の所為だ。違う、結局は俺のちんけなプライドの所為だ。全ての問題は友の言葉すら素直に受けとめられない俺自身にあるのだ。

「出ようか」

 これ以上酔いが回る前にお開きだ。こんなに良いヤツに、愚痴や悪態をつきたくはない。

 そこまで落ちぶれたら、終わりだと思っていた。

 会計は割勘で払った。これも底の浅い意地だった。

「今日はありがとな。またな」

「あ、波多江」

 すぐに帰ろうとする俺の背中に髙田が声をかける。

「お前さ、今度高校の同窓会あるんだけど、参加するか?」

「同窓会。そんなのがあるのか」

 家に葉書が来ていて知っていた。そこで初めて聞いた様な素振りをしたのは、何でだ。

「安達も来るってさ。覚えてるか?」

「安達?」

「ほら、図書委員してた」

「ああ、安達か……」

 聞き返さなくても勿論覚えていた。覚えていない素振りをしたのは、何でだ。

 俺が高校三年間ずっと好きだった女子だ。

「まあ、考えておいてくれよ」

「……ああ」

「頑張れよ、波多江。俺、応援しているからな」

「……ああ」

 

 髙田と別れた後、俺は決心した。

 もう少し頑張ってみるか。

 髙田みたいに俺の事を分かってくれる人間もいる。それはあからさまに役立たずといった顔をする者もいるが、それだけではない。

 努力が認められて、五年間一度も変動しなかった給与が昇給する可能性もある。

 前向きに、今度はもう少し堂々と髙田の前でビールを飲もう。卑屈になっている場合ではない。その為の努力をするべきなのだ。

 そして、それまでに俺に自信がついていたら、同窓会にも参加しよう。

 今日、髙田に会えて良かった。


 駅前に行くと、自転車が盗まれていた。


 その瞬間、俺の中で五年間を費やし蓄積し、膨らんでいた何かが、弾けた。

「……やってられっか!俺はもうやめた。もうやめたぞ!」

 俺はポケットから携帯を取り出すと、川に向かって放り投げる。

 ちゃぽんと音がして、辺りは静まり返る。

 馬鹿野郎。ふざけやがってどいつもこいつも。人を馬鹿にしやがって。誰のお陰で生きていられると思ってんだ。誰のお陰でヒーロー様が活躍出来ていると思ってんだ。それなのに、遅刻ヒーローばかりがちやほやされやがって。世の中間違っている。何で俺ばかりこんな目に合わなくちゃいけないんだ。ふざけんな。人を舐めるのもいい加減にしろ。

 俺は近くにあった薬局の看板を蹴飛ばす。通行人が避けるように歩いていく。

――もう限界だ。終わりにしよう。

 親父から言われ、この仕事を始めた時、俺にも何か出来ると思っていた。怪人を倒したり、誰かに感謝されたり、歓声を受けたり。そんな皆に手を振る。

 こんな俺でも、ヒーローになれると思っていたのだ。

 何て浅はかだったのか。何て愚かだったのか。

 俺みたいなもんに、人を救える訳がないじゃないか。

「こんなもの……」

 後ろポケットから手袋を出し、ぎゅっと掴み、携帯を投げ捨てた川を見つめる。

 本当に、何で茶色の手袋なんだ。全く、格好良くない。もう少しお洒落に気を遣ってくれ。もっとあるだろう。ビリジアンとかエメラルドグリーンとか。そして、何で顔丸出しなんだ。根本から間違っているだろう、なあ親父。こんなもんを一生をかけて発明しやがって、揚句にあっさり逝っちまいやがって。あの世で見てるんだろう?俺の活躍を。あんたが心血を注いだ発明品は世間の笑いものだよ。俺がヒーロー?馬鹿馬鹿しい。でも俺だって、ほんの少しの間でも、そうなれると思っていたんだからな、全くめでたい。子が子なら親も親だ。本当に、傑作だ。

 泥だらけになって、血まみれになって、ボロボロになって、いつ死んでもおかしくない状況。

 なのに誰からも感謝されない。

 人気者になれない。

 目立たない。いや、変に目立つ。

 ヒーローになんて、なれなかった。

 なれる筈がなかったのだ。

 選ばれた者にしか、その称号は与えられないのだ。

 努力したって無駄なのだ。

「こんなもの……」

 俺は手袋を掴んだ腕を振り上げる。

 川と手を交互に眺める。

「………………くそ!!」

 地面に叩き付けた。親父の形見を、捨てる事は出来なかった。

 結局が中途半端。俺の性格を見事に反映していた。

 そのままブツブツと悪態をつきながら歩き、河原で吐いた。完全な悪酔いだった。もうどうにでもなれと、そのままそこに寝転んだ。そのまま死んでも構いはしなかったが、春だったので、死にはしなかった所まで、俺らしい。


 そして夢を見た。

 子供の頃、親父に肩車をされている夢だった。大人の頭の更に上の景色は、世界が自分のものになったかの様な気持ちだった。何でも出来そうな気がして、どんな夢も叶いそうな気がして、自分が特別である事を確信した。なんとも平和で幸せな夢だった。

 

 河原で朝を迎え、目が覚めた時、涙を流している自分に驚いた。夢と現実、とはよく言ったものだ。すっかり草臭くなった服の袖で涙を拭い、体を起こす。

――もう、仕事を辞めよう。

 俺はそう決心した。

 とは言っても特務室との連絡手段である携帯を川へ投げ捨てたのだ。黙っていてもクビになるだろう。三十近くの人間がする仕事の辞め方ではないが、どっちにしても辞めるのならその方が面倒くさくなくていいかもしれない、等と考えた。

 すると、お腹が鳴った。

 食べたものを吐いたからだろう、空腹感も遅れてやってきた。

 とりあえずコンビニでパンでも買って帰ろうかと河原から立ち上がったその時、大きな悲鳴が聞こえてきた。

「きゃああああ!!!」というその声を聞いた瞬間、俺の身体は無意識に反応し、駆け出していた。


――おい、何やってんだよ。

 頭の中の冷静な俺が、走っている俺に自問自答する。

――もうやめるんじゃなかったのかよ。

 走っている俺は、答えず走る。

――お前に何が出来るんだよ。

 俺にも分からない。だが、俺の脚は止まらない。


 河原を川沿いに走った橋の下に、イカ怪人はいた。多分、昨日俺が取り逃がしたヤツだ。

 怪人の正面には親子連れがいた。偶然にも、それは昨日俺と話した、あの親子だった。

「逃げ……」

 逃げろ!!

 叫ぼうとして、俺は止まった。


――そこで目にした光景を、俺は一生忘れないだろう。


 そこには、腰を抜かして一歩も動けない母親。

 その前に立ち、母親を守る様に大きく手を広げ、怪人を睨みつけている小さな男の子。

 確か、翔ちゃんという名前の……ヒーローに憧れる、少年。


 その姿を見た瞬間、俺の心臓は鷲掴みにされた様に痛んだ。

 何を考えてたんだ俺?

 馬鹿だ俺は……。

 そんなんじゃないだろう。

 そんなんじゃないだろうが、ヒーローって。

 恰好良くない?

 自分が目立たない?

 給料が安い?

 何言ってんだ俺?

 どこまで間抜けなんだ。

 何でこんな簡単な事すら、忘れてしまっていたんだ。

 今の俺には、そもそもヒーローを語る資格すらなかったんだ。

 俺はどう思ったんだ。

 何に憧れたんだ。

 地位か。

 名誉か。

 金か。

 

 おい波多江純一。今、目の前の光景を見てもお前はまだそれを言えるのか。


 恰好悪かろうが、力がなかろうが、

――「守りたい」気持ちがあるかだろう。


 それさえあれば誰だって―――


 じりじりと追い詰められる親子。イカ怪人の攻撃射程内に入る。次の瞬間、触手がもの凄いスピードで発射される。

 それでも、翔ちゃんは母親の前に立ち塞がる。母親も震える体で後ろから翔ちゃんの体を抱きしめる。二人に、イカ怪人の触手が命中する―――

 寸前で、茶色の手袋がそれを鷲掴みにした。

 それが、疑問を投げかけても足を止めず、走り続けた俺の、愚かな俺の、ようやく辿り着いた答えだった。

「ちったあやるもんじゃねえかよこいつも。なあ、親父」


「もう大丈夫だ」

 俺は触手を掴んだまま、背中に向かって喋る。

「直ぐにイトシマンが来てくれるからな」

 そして、確か、翔ちゃんという名の男の子を振り返り、俺は笑って見せる。

「それまでママを守ってやるんだ。いいな」

 少年はしっかりと俺の目を見つめ、大きく頷いた。座り込んでいる母親に手を差し出す。

「ママ、いこう」

「翔ちゃん……」

 二人が寄り添う様に俺の背中から遠ざかっていくのを目の端で確認する。

「一般人の安全を確保」

 誰ともなしに呟く。さあ、この次の俺の成すべきことは?決まっている……時間稼ぎの、業務の時間だ。

「さあ、行くぜ!イカ野郎」

 そうして俺は掴んだ触手を両手に持ち、思いきり引っ張るのだった。


 そこからはいつもと変わらない。泥にまみれ、傷まみれ、命の危険も幾つか感じながら、タイマーの鳴る30分を耐えて忍んだ。特別な事は何一つない。いつもと同じ。イトシマンが来た時にはやはり危機一髪で、心底助かったと思った。

 まったくもって相も変わらず締まらないが、それでも、業務遂行だ。

 連日の疲労もあって、俺は河原に寝転んではあはあと息を吐いていた。

 怪人の断末魔が聞こえる。イトシマンの勝利だ。

 いつの間にか出来ていた人だかりから、大きな歓声が上がった。

 羨ましい、と思う自分がいた。そこに、妬ましいという気持ちが少し減っている事に気が付き、微笑する。

 さて、ぼちぼち体も休めた所だし、帰るか。

 俺は手袋を外すと、ジーパンの尻ポケットに入れ、立ち上がった。

 すると俺の前に、母親と少年が手を繋いで立っていた。

 母親が俺に深々と頭を下げる。

「本当にありがとうございました。何とお礼を言ったらよいか」

 その言葉に俺は苦笑して首を横に振る。

「いえ、礼を言うのはこちらの方です」

「はあ……」

 不思議そうな顔をする母親。

 見ると、少年は俺に背中を向けていた。ひょっとして照れているのか。……ああ、違う、早くイトシマンの元へ行きたいんだな。そう俺は結論付けた。

「ああ、俺はいいから、早くイトシマンの所へ行ってきな」

 だが、母親は首を横に振り、何故か申し訳なさそうに、口を開く。

「すいません……お疲れの所。実はこの子が、どうしてもあなたのサインが欲しいって聞かなくて」

「え……」

 思ってもみなかった言葉に俺は驚いて自分の顔を指差す。すると少年は、背中を俺に向けたまま首だけで振り向き、大きく頷いた。

「しょうちゃんへって書いてください!!」

 マジックを母親から借り、シャツの背中に生まれて初めてのサインを書く。

 少年が背中を向けてくれていて助かった。

 良い大人が子供に泣き顔を見られるわけにはいかない。

 俺は滲む視界でなんとか翔ちゃんの背中に「波多江純一」と、書いた。


 サインを書き終えた俺の所に、イトシマンが歩み寄ってくる。

「波多江さん」

「イトシマン……」

 少年の母親と同じく、イトシマンは俺に向かって深々と頭を下げる。

「どうもありがとうございました」

「おい、よせよ」

 俺はどうしていいのか分からない。

「私が戦い始めると姿を消されるので、ずっとお礼を言う機会を窺っていたんです」

 メタリックボディの我が町の英雄は、更に嬉々として話を続ける。

「いやあ、でも流石ですね波多江さん。『ライトニングアロー』の通り名は伊達じゃありませんね」

「あ、そんな名前で呼ばれていたの?俺」

 おいおい。何だその恥ずかしい名前は。

 まったくもって初耳である。

「ヒーローの中では有名ですよ。糸島市にいる波多江純一という人は、装着準備も装備との順応時間もなく、人々のピンチに矢の様に駆けつける事が出来るって……」

 だから「ライトニングアロー」、そう呼ばれているんです、とイトシマンは、嬉しそうに語る。

「…………」

「そのおかげでこの町のヒーローは安心してパワーユニットを装着する事が出来るんです」

「イトシマン、そのおじちゃんと仲良しなの?」

 翔ちゃんが顔を上げてそう聞くと、イトシマンは大げさな身振りで首を振る。

「仲良しなんてもんじゃないよ。波多江さんがいないと、私なんて、ただの役立たずだよ。それぐらい世話になっている人だよ」

 まったく。こいつは……滅茶苦茶良いヤツじゃないか。

 俺は結局この5年間、何も見ていなかったというわけだ。

「お父上の波多江博士だって有名なんだ。研究チームでないのに単身で装備を開発した天才科学者……」

「もういい」

 俺はイトシマンの言葉を遮る。

「え?」

「もう十分だ。イトシマン。あの……こちらこそ、これからも宜しくな」

「はい!」

 そして俺は河原を歩き出す。家まで徒歩で帰らなければならない。自転車がないのだから仕方がない。なるだけ、背筋を伸ばしたつもりだった。何故なら――ずっと背中に小さな視線を感じていたから。


 まったくこの仕事も大変だ。

 泥だらけになって、血まみれになって、ボロボロになって、いつ死んでもおかしくない状況。

 なのに誰からも感謝されない――わけでもない。

 人気者になれない――わけでもなさそうだ。

 目立たない。いや、変に目立つ。それは確かだ。

 そんな俺は、ヒーローになんて、なれない。

 なれる筈がない。

 選ばれた者にしか、その称号は与えられないのだ。

 努力したって無駄なのだ。


 だが、それでもヒーローに憧れて何が悪い。無駄な努力をして、何が悪い。



 ヒーロー未満、波多江純一。



 俺は、昔少年だった事がある。それ以上にヒーローに憧れる理由が必要なのか。


 帰り道、空は雲一つない、快晴だった。


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