責任転嫁
今となっては昔の話。
ある日ある時ある国で、ある少年が道を歩いていただけの子供をナイフで刺して殺してしまった。
それはその国の人々にとって考えられないほどの大事件だった。残酷で不可解で受け入れがたい出来事だった。少年はその場で逮捕され、事件は瞬く間に全国に広まった。
そして大人たちは頭を抱えた。
「一体なぜこの平和な国でこのような残酷な事件が起こってしまったのだろう?」
ある人が言った。
「この少年は病気なのだ。なぜなら、まともな精神の持ち主がこのような行動を起こすはずがないのだから」
「なるほど、それはもっともだ」
「病気ならば仕方ない。この少年に罪は無い」
かくして少年の罪は問われぬこととなり、専門の病院で治療が行われる運びとなった。
そしてまた大人たちは次の問題に行き着くことになる。
「しかし少年が悪くないとすると、一体誰が悪いのだろう?」
少年の供述から、彼が幼い頃に道路で見かけた、車に轢かれた猫の死体に衝撃を受けていたことが明らかになった。
そこで大人たちはこう思った。猫の死体という残酷な映像が幼少期の少年の精神に影響を与え、それが現在の少年の歪みのもととなったのであろう、と。
動物を車で轢き殺すことは悪いことであり、運転手は良く注意していれば猫を避けることができたはずである。車と言う危険な乗り物を操縦していると言う自覚に欠けていたために結果としてこのような不幸な事件に繋がってしまったのであろう。
「なんと無責任な運転手だろう。よし、その運転手を罰しよう」
また別の供述から、彼が猟奇的な内容の小説を好んで読んでいたことが明らかになった。
そこで大人たちはこう思った。その小説の残酷な描写の数々が少年の精神に影響を与え、それが現在の少年の歪みのもととなったのであろう、と。
猟奇的な小説を書くことは悪いことであり、作家はよく注意していれば青少年に悪影響を与えるような表現を省くことが出来たはずである。子供を含む多くの人間の目にとまる小説を出版しているという自覚に欠けていたために結果としてこのような不幸な事件に繋がってしまったのであろう。
「なんと無責任な作家だろう。よし、その作家を罰しよう」
少年のカウンセリングは続き、今度は彼が中学生の頃に、同級生の女子生徒に思いやりに欠ける言葉で交際を断られ、ひどく落ち込んだという事実が明らかになった。
そこで大人たちはこう思った。その失恋の苦痛と女子生徒への憎悪が少年の精神に影響を与え、それが現在の少年の歪みのもととなったのであろう、と。
人を傷つけることは悪いことであり、女子生徒はよく注意していれば少年の気持ちを真摯に受け止めた上でゆるやかに交際を断ることが出来たはずである。配慮を怠れば些細な言葉から他人を傷つけてしまうことがあるという自覚に欠けていたために結果としてこのような不幸な事件に繋がってしまったのであろう。
「なんと無責任な女子生徒だろう。よし、その女子生徒を罰しよう」
また別の日の供述では、彼が高校生に入ってからの担任の教師が酷く暴力的であり、少年がミスを犯したりルールを破ったりするとすぐに暴力を振るった上、威圧的な言葉で脅迫してきたという事実が明らかになった。
そこで大人たちはこう思った。その体罰による苦痛と恐怖が少年の精神に影響を与え、それが現在の少年の歪みのもととなったのであろう、と。
教師が生徒に暴力を振るうことは悪いことであり、担任教師はよく注意していればそのような手段に頼らずに生徒を矯正することが出来たはずである。教育者と言う責任ある立場の人間として最低限必要な自覚に欠けていたために結果としてこのような不幸な事件に繋がってしまったのであろう。
「なんと無責任な教師だろう。よし、その教師を罰しよう」
しかし、犯人の少年はこう言った。
「みなさん、本当に悪いのは僕の両親です。お父さんとお母さんが僕を十分愛してくれなかったために僕はこのような歪んだ人間になってしまったのです。両親が僕を上手く導いていてくれればこのようなことにはなりませんでした。だから僕は悪くありません。両親こそが本当に悪いのです。だからどうか他の人ではなく、僕の両親を罰してください」
すると、このような答えが返ってきた。
「自分の犯した罪をあろう事か親になすりつけようとするとは、なんと屈折した子供だ。親はお前を産み育ててくれた恩人であり、お前にとって絶対の存在である。人間が産みの親である神を愛するように、子は産みの親である父と母を愛さなくてはならぬ。それが出来ぬお前は人の子ではない、何と邪悪な存在だ。もはや疑いの余地は無い、真に悪いのは他の何者でもなく、お前自身である」
かくして少年は適正な法の下に罰せられることとなり、運転手、作家、女子生徒、担任教師は釈放された。




