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Partial rain

作者: 舞島 慎

 久しぶりの雨だった。

 ここ最近はずっと天気に恵まれていたから、そこかしこに漂う雨独特のにおいが余計に新鮮に感じられる。

 そんな事を考えながら戻ってくれば、両隣の教室の照明もすでに消えていた。おそらく生徒は残っていないのだろう。

 放課後の教室は、その空気そのものが変質していると思う。日頃の騒がしさも、授業中のどこか緩みと緊張が同居した空気も、今は欠片も感じられない。

 電気も消え静寂に包まれた教室。その中で微かに開けた窓から外を眺める一人の少女。風はほとんどないので雨が吹き込む事は無いだろうが、いったい何を見ているのか。

 自分には理解し得ない。もっとも、彼女の考えを読めた事なんてほとんど無いのだが。

「終わったの?」

「ああ、いちおうね」

 先生に頼まれた用事はさほど面倒でもなかった。時間にして三十分てところだろう。

 定期試験が終わって間もないせいか、皆の帰宅は思ったより早いみたいで。もう少し残っている生徒がいると思ったのだが、その予想は外れたようだ。

「何、見てるんだ?」

 ゆっくりと窓際の彼女に近づき、見ていた方へと視線を向ける。が、見えたのは灰色の空と雨に濡れたいつもの風景だけだった。

「ん。べつに」

 彼女は答えながら窓を閉める。白く細い指がクレセント錠をくるりと回した。

「ねぇ、ケイ?」

「ん?」

 呼ばれた声に振り向く。十センチほど低い位置から彼女の双眸がこちらを見上げていた。

「……抱いて」

 一度引き結ばれた唇を割って出てきたのは、そんな言葉だった。

 まさか、と思うこちらを他所に、彼女の手は胸元のリボンへと動いていく。

「お、おい、待て。ナナカ」

 俺は慌てて彼女の、ナナカの手を止める。その行動に対して彼女は軽く小首を傾げて見せる。

 たしかに可愛い。が、しかし。

「ここ、教室だぞ?」

「うん。誰も居ないよ。隣も」

 それは分かっている。だからといって大丈夫な訳が無い。

「誰かが廊下歩いてたら気付かれるだろ。先生の見回りもあるだろうし」

「そっか。そうだね」

 ナナカは俺の言葉に頷くと、そのまま俺の手を引いて窓から離れる。

「んじゃ、ケイ、帰ろうか」

「……ああ」

 今度は俺の方が頷いて、連れ立って教室を後にする。

 隣を歩きながら、俺は頭の中で盛大に溜息を吐く。何故こんな事になっているのか。

 ちらりとナナカの顔を窺っても、その表情から何かを汲み取る事など俺には出来ない。元々機微に聡い方でないというのもあるが。


 あの頃は、こんな風になるなんて欠片も思ってなかったな。ライバルみたいに勝手に思っていただけだった。

 テストの順位で一喜一憂をしていたあの頃。一桁の順位でしのぎを削っていた俺達に対して、ナナカはいつも自然体だった。

 そしてその自然体のまま、ナナカはずっと一位を守り続けていた。俺は最後までその牙城を崩すことが出来なかったんだ。

 その後、結果として俺とナナカはその成績から地域トップ校である一高の切符を掴んだ。その年に三中から一高に合格したのは俺達二人だけだった事を思えば、意地をはっていたのも悪くなかったんだろう。

 まだまだ田舎なこの辺りでは、進学先といえば公立という意識が根強い。私立校も頑張ってはいるのだろうが、公立、それも「一高」というだけである種のステータスになっているのもまた現実だ。

 実際、両親も喜んでいた。

 でもその気持ちも長くは続かなかった。トップ校たる一高には当然それ相応の学力の持ち主が集う。その中で今までのように上位に食い込んでいくことは簡単ではなかった。

 得意、不得意が点数で顕著に示され、これまでのようにただ満遍なくでは上位は狙えなくなった。生活スタイルの変化と共に学習スタイルも見直す必要に迫られた。

 もっともそれは自分だけじゃないのだろうが。


 傘を差し隣を歩く横顔をまた窺う。その視線は前を向いたまま、いつもと変わらない歩調。

 教室であんな言葉を発したというのに、何の変化も見られない。いや、それでこそナナカなのだろう。

 だが果たして俺は、ナナカのことをどこまで分かっているのだろうか。


 バスに揺られ、また傘を差して歩き、着いたのはナナカの家。来るのは当然初めてじゃない。ナナカの両親は共働きで、夜にならないと戻らないことも知っている。

 それでも、だからこそ、胸の奥がチリチリと痛む。外的要因で止める事は出来ない。それもいつもの事であり、そう考える自分もまた、いつも通りなのかもしれない。

 落ち着かない玄関と廊下を通り、扉を開ければ向かいの窓に青いカーテンが見える。ナナカの部屋だ。相変わらず整理された部屋で、床に置いてある物すら無い。

 ナナカが自分の鞄を置いた机の上には、何冊かの本が見える。おそらく参考書の類だろう。ローテーブルに雑誌が一冊置いてあるほかは、全てきちんと収納されている。変わってない。

 俺もいつのもように扉に近い壁際に鞄を置く。特に会話も無い。ただ意識だけがこれからに向いている。

 嬉しさはあんまり無い。いや、ちょっとだけある。だがそれ以上に何故、という疑問が大半を占めている。訊いたところで答えてくれる訳が無い。これまで何度もそうしてきたけど、ナナカの口から語られた事は無かった。

 それでも自分がこうしている理由。それはただ、ナナカの事を受け入れよう、そう決めた事だけ。

 それが、後出しの思いだったとしても――。


 しゅるりと衣擦れの音が耳につく。ナナカがゆっくりと制服を脱いでいく音。徐々に露になるその肌はお世辞抜きで綺麗だと思う。

 視線を外す事など出来るはずもない。淡い色の下着姿のナナカが、白い肌と頬をほんのりと赤く染めてこちらへと歩み寄る。幾分慎ましい気もするそのふくらみも、手を伸ばせばすぐに届く距離。

 でも手は出さない。その事をナナカは分かっているからか、ゆっくりと手を伸ばして俺の上着を、制服を脱がせてくる。

 そう、全てがナナカの意思で行われる事。それがナナカの出した条件であり、ナナカなりの俺への気遣い。

 それが分かってしまうから、俺が自分からナナカを抱きしめる事は許されない。

 上を脱がされ、素肌にナナカの手が、頬が触れる。ひんやりと、そして暖かく。存在を確かめるように俺の体に触れてくる。その感触がくすぐったく気持ちいい。

 まず思う。どうして俺なのか。

 ナナカとは中学二、三年と同じクラスだった。それほど印象に残る会話をした記憶は無い。あの頃はただ張り合う相手という認識が強かったし。

 同じ一高に進学してから、それは少し変化した。当初は数少ない知人として、慣れない生活の中でその接点は増え、距離感は縮まったと言えるだろう。

 以前はしなかったくだらない話もするようになったし、一緒に帰る機会も少なからずあった。試験対策の席を共にする事もあった。そうあった事も、ただ友人であるからだと思っていた。

「ん……」

 いつしかベッドに腰かけ、促されるような声に腕をナナカの背中へと回す。吸い付くような肌ざわりは変わっていない。ずっと触れていたいと思ってしまう。

「あ……ふふ」

 手を滑らせれば、くすぐったそうな声を上げる。場所を移せばその反応も変化する。そして少しずつ呼吸は浅く、速くなり、細い声で鳴いてみせる。

「……ケイ」

 吐息と一緒にこぼれてくる名前。それが聞こえるたびに体が、心が震える。

 求められている。少なくとも、今、この時だけは。間違いなく。

 だから俺もそれに応える。片手で髪を撫でながらもう片方の手はナナカの体を滑らせる。背中を滑らせ当たった障害に指を這わせ、ゆっくりとそのつなぎ目を外した。

 肩紐がするりと滑り落ちる。ナナカは顔を俯けたままゆっくりと腕を抜き、外したそれを床に落とした。

 俺は露になった丘へと手を伸ばす。小さな呻き声と共に感じたのは、やわらかさと熱量。

 止まらない。止められない。

 そのままゆっくりとナナカの背をベッドへと押し付ける。上から眺める桜色のその姿は、ただただ綺麗で、そして脆くも見えた。

「あっ……ふ……ケイっ」

 俺の一挙一動に反応を見せるナナカ。その途切れ途切れの声が俺を熱くし、動きを大きくさせる。

 何の為に名前を呼び、何の為に求めるのか。

 誰も居ない家で、重ねる肌が示すもの。

 考えが分からなくても、気付いてしまう事もある。わずかな表情の違いから、分かってしまう事もある。

 ナナカの頭の脇に額を落とし、噛み締めるようにその名を呟く。

「いいよ……ケイ」

 ゆっくりと頭を撫でられる。その手付きも、変わっていない。俺がゆっくりと頭を上げると、その手はやはりゆっくりと俺の頬を撫でた。

 許されている。そう思う瞬間。

 俺は改めてナナカの額に唇を落とし、その手を下へと沈ませる。

「んんっ……!」

 うわ言のように名前を呼び合いながら、ただひたすらにお互いを求め合う。指が触れ手を握り、肌が触れ合うたびに焼けるような電気が走り抜けていく。

 そして思考は、白く、白く、濁っていく……。


 荒い息のままベッドに伏した俺に、やわらかな手が伸ばされる。

 自分の呼吸も落ち着かないにもかかわらず伸ばされる手。俺は体勢を変えてその手を掴み、引き寄せる。

「あ……っと」

 引き寄せに応えるように、半身を俺に重ねてくる。ナナカの頭はちょうど俺の肩口に位置していた。

 片手を動かし再びナナカの髪を撫でる。乱れた部分を直すように梳いてやれば、指は抵抗も無く滑っていく。

 微かに見える表情を窺えば、どこか満足そうにも見える。その様子は、さながら陽だまりの猫といったところか。

 側に居ても掴み所が無いあたり、そんな印象を与えるのかもしれない。

 猫の気まぐれに付き合うのは、大変だよな。

「……ケイ?」

「ん、どうした?」

 気付けば上目遣いのナナカがこちらを見ていた。

「溜息、吐いてた」

「そう? そんなつもり無かったけどなぁ」

 手は変わらずナナカの髪を撫で続ける。

 危うく勘違いをするところだった。理由はどうあれ、俺はただ求められただけ。この時が過ぎれば、またいつもの友人へと戻る。

 当事者二人だけの秘密。謝る事も、感謝の言葉も言わない。

 利害の一致。ただそれだけ。最初にそう念を押されたのだ。

 今の自分の心情が変わっていようと、前提条件を変えるわけにはいかない。

 こうしてナナカに触れていられるのは、ベッドから降りるまでの期間限定なのだと。

「悩ませてるよね、私」

「ナナカ?」

「でも、もう少し。もう少しだから。待ってて。お願い」

「ナナカ……」

 もう少しでナナカの求めるものが手に入るのか。それとも俺の態度がそうさせてしまっているのか。だとしても。

「思い通りにすればいい。最初にそう言ったはずだろ」

「うん。そうだったね」

 ナナカはくすりと笑い、するりと俺の側から抜け出した。そしてすっと落とした物を身にまとい、普段着に着替えて部屋を出て行ってしまう。

 終了の合図、か。

 温もりが残るベッドに後ろ髪を引かれながら、俺はのろのろと制服を身に着け始めた。


 戻ってきたナナカの手にはコーヒーの入ったマグカップが。これもまたいつも通りの事だ。

 そしていつも通り、他愛の無い話に花を咲かせる。クラスメイトの話、中学の同級生の噂、音楽の話等々。ごくごくありふれた話が俺達の間を流れていく。

 あくまで友人であると、声高に主張するように。

 それでしっかり上辺を固めて、俺はナナカの家を出る。ナナカの思いに応える為に。

 それが歪だと分かっていても。俺がナナカの為に出来る、唯一の事だから。

 傘を差し、家路へと着く。こんな後でもナナカはきっちり予習復習をするのだろう。

 ナナカの求めるもの、本当に届くのかは分からない。でもそれが届いた時、俺は今の位置ではいられなくなるのだろう。

 その先の解は、何も見えてこない。だが、雨の止むようにいつか見える時がくるのだろう。

 ならば、今俺の出来る事など、限られている。将来の為、そしてナナカを手伝う為に出来る事なんて、これしかないのだ。



***


 似たような日々の繰り返し。学生生活は特にそう。学校に行き授業を受けるローテーション。時折挟まれる行事がアクセントになって、その日々が回っていく。

 避けたくても避けられないイベントと言えば、当然試験だ。たった一回の試験と言えど、その結果は先の選択に影響を及ぼすものであり、決して油断していいものじゃない。

 そう分かっていても、という思いを如何に律するかが点数につながる事だと理解はしている。そして今回はそれが上手くいったと思う。

 試験結果が返却された日、その日の天気は雨だった。結果を見て空のように暗くなる者もいれば、跳ねた水滴のようにはしゃぐ者もいる。かくいう自分は後者であり、入学以来最高の出来だった。それでも学年で上位一桁に食い込むか微妙な所だろう。

 成績表を持って席に戻る時にナナカと目が合った。その表情は微かに紅潮しており、嬉しさがにじみ出ているように感じた。多分それに気付いたのは俺だけだろう。

 そう思いながらただ目礼だけを返し自分の席へと戻った。

 ナナカの結果も良かったのだろう。もう少し待って、というのはこの事だったのかもしれない。

 成績表を鞄にしまい、帰り支度を整える。明日は土曜日。今日は仲間とカラオケに行く予定になっている。結果も良かった訳だし、少しくらい羽目を外してもいいだろう。


 翌土曜日も雨だった。しとしとと降り続ける雨は、休日のテンションを確実に押し下げる。

 時刻は午前十時。昨日の疲れもあるのか、ちょっと寝過ぎたようだ。

 キッチンでコーヒーを淹れ、置いてあった菓子パンを口にする。そうするうちに少しずつ頭が覚醒してくる。

 両親は家に居ない。親父は単身赴任中で母親はパート、姉貴は大学生で一人暮らしをしているからだ。

 昼飯は適当に何か食べるしかないな、と考えながら部屋に戻ると、携帯に着信の表示が見えた。

 履歴を見ればナナカの名前。電話をかけてくるなんて滅多に無い事だ。校内ならば口頭だし、普段はメールがほとんどだ。

 急ぎの用なのだろうか、と思いながらコールボタンを押す。呼び出し音が一回、二回……。

『もしもし』

「もしもし。どうした?」

『ケイ。うん……今日、時間あるかな?』

「特に予定は無いけど。何か問題でも?」

 この問題は文字通り勉強の問題を示す。時々試験勉強の席を兼ねた席で、お互いに疑問点を尋ねたり解説をしたりしているのだ。

『ううん。そうじゃないけど、ちょっと会えないかな?』

 これまた稀有な言葉だ。勉強以外で呼び出された記憶はほとんど無い。

「ん、別にいいよ。どうする? どこかで落ち合うん?」

『えっと、私がそっち行ってもいいかな?』

「うちに?」

 ナナカがうちに来た事は一度だけある。勉強ついでに何かのCDを貸した時だったか。

「構わないけど、お昼までかかりそうか?」

『あー……そうだねぇ」

 黙考。移動時間の計算でもしているのか。

『ん。お昼食べてから行くよ。一時くらいに着くと思う』

「了解。んじゃ後で」

 通話の切れた携帯を置いて時計を見る。針は午前十時半を回った所。不本意ながら午前中は部屋の掃除で潰れる事になりそうだ。

 体裁くらいは整えて然るべきだろう。


 午後一時五分を回った頃にナナカはやって来た。手土産と言って渡されたコンビニの袋の中には、二本のペットボトルとスナック菓子が。完全に遊びに来た形だ。

 リビングで、と思ったがナナカに言われて部屋へと招き入れる。もっとも前回も入れてるので初めてじゃないのだが。

「相変わらず綺麗だね」

「いや、お前の部屋の方が綺麗だから」

 ナナカは着ていた上着を脱いで椅子の背もたれに引っ掛ける。それから唯一のクッションを座布団代わりにしてカーペットにぺたりと腰を下ろした。

 俺は袋から中身を取り出しナナカの前、テーブルの上に置き、自分の分のペットボトルを手にベッドに腰を落ち着けた。

 アクセントにフリルの付いたハイネックにスカートという落ち着いた印象の私服姿。あまり目にする事の無いその姿は、とても新鮮に映る。

 俺は軽く視線を逸らし、ペットボトルを開けて口を付ける。冷たい感触が喉を流れていき、すっと心持ちを落ち着かせてくれる。

「それで、用件は?」

 多少ぶっきら棒な言い方だったかもしれない。だがそれでもボールをナナカに渡す事を優先した。

 俺達の間にあるのは、利害の一致なのだから。

 コトっとナナカがペットボトルをテーブルに置く。そのゆったりとした所作から何かを感じ取る事は出来ない。

「今回の試験の結果、良かったんでしょ?」

「ああ。ナナカのおかげかもな」

「あら。じゃあ感謝してもらわなくっちゃ」

「そういうそっちも良かったんだろう?」

 教室で見た表情を思い出す。いつもの微妙な表情と違ったのだからはっきりと覚えている。微妙な時ですら俺よりも良い結果だったというのに。

「うん。まぁ、良かったよ。先生が言うのが本当なら、一位だって」

「マジか?」

 思わず大きな声が出る。そんな俺の反応にナナカは曖昧に微笑んだ。

 その顔を見て浮かんだのは、何故、という疑問だった。トップを取る事、それは大きな目標であり、求めてきた結果だったはずだ。なのになんでそんな曖昧に笑うのか。

「念願だったんだけどね。もちろんそれ自体は嬉しいんだけどさ」

 明らかに溜息と分かる息を吐き出し、また笑う。

「ナナカ……?」

 その笑顔があまりに弱々しく、そして似合わないもので。またひどく見慣れなくて、それ以上の言葉が続かない。

「私の家の事、知ってるよね」

 確かめるような言葉。その視線はこちらを向いていないが、俺はただ頷く。

 ナナカの家。父親は地元企業の上の方の役職だと聞いている。母親も関連会社で働いているとも。そして――。

「相変わらず、良くないのか」

 俺の言葉に、ナナカは弱々しく頷いた。

 いつの頃からだったか。ナナカの両親が上手くいってないと聞いた。あの時ナナカは笑いながら話してくれた。その時と今と、その笑顔は変わっていないかもしれない。だが俺にはずいぶんと無理をしているように見えた。

「私は、何も出来ないのかな」

 吐き出された言葉に力は感じなかった。いったいどれほどすり減らしてきたのか。俺には想像がつかない。

 うちは単身赴任とはいえ、家族間の仲が悪い訳じゃない。もちろん親をうっとおしいと思う事はあるが、気を使い精神をすり減らすような経験は無い。

「私、どうしたらいいんだろうね……」

 力の無い言葉が落ちていく。その顔には笑みが張り付いたままで、俺は何と声をかけていいか分からず、ただ見つめていた。

「ごめん。こんな事言われても、困るだけだよね」

 笑みを絶やさず視線を上げるナナカ。そのしぐさに俺は思わず息を呑む。

 遠い。同じ部屋に居るのに、少し手を伸ばせば届くはずなのに。その距離がひどく遠く思える。

「……ナナカ?」

 存在を確かめるように出した声に、ナナカはゆっくりと弱い視線を返してくれる。

「あー……なんだ。愚痴くらいは聞いてやるぞ。友人としてな」

 もうちょっと上手い事言えんのかね。俺は。

 気恥ずかしさと情けなさから思わず視線を外し、ペットボトルに口を付ける。

 くすりと微かに笑う声。その空気は近くから感じられた。

「ありがと。んじゃ、ちょっとだけ愚痴る」

 落ち着いた声。いつものナナカのトーンに少しほっとする。

「もう何年前からになるかな。はっきりとは覚えてないけど、だんだん喧嘩が増えていったの。何が原因だったのかは分からないんだけどね」

 淡々と、でもはっきりと言葉を紡ぐ。

「私には気付かれないようにしてたみたい。でも、分かっちゃうんだよね。空気が違う事くらい。家族だもん」

 そうかもしれない。俺は親の喧嘩を目撃した事は無いが、機嫌の良し悪しくらいは分かるものだ。

「だから、素知らぬ顔して色々言ったりしたの。旅行行こうよ、とか、結婚記念日なんだからって色々提案したり。逆に気遣ってるって思われてたみたいだけど」

 乾いた笑い。

「せめて明るい話題を出したくて、自分の事で心配して欲しくなくて、だから勉強だけは頑張ってきたの。その結果は、知ってるよね」

 知っている。ナナカの点を上回った者は三中にはいなかった。

「最初は喜んでくれた。その時は二人とも笑ってくれてた。でも重ねる毎に反応も薄くなって。でも下げられなかった。せめて心配はかけたくなかったから」

 だから取り続けた。一位の座を守り続けた。ただひたすらに。

「さすがに一高では厳しかったな。だからこそ、と思って、やっと届いた。でも、やっぱり変わらなかった」

 ゆっくりとペットボトルを傾けるナナカ。

「分かっていたんだけどね。それでも一縷の望みを賭けてた。で、ダメだったから、つい、噛み付いちゃってね。でもやっぱり同じ。引っ込んでなさい、って。それだけ」

 それだけ。まとめられた一言。

 淡々と吐き出され続けた言葉に、いったいどれだけの感情を詰めたのだろう。

 想像する事しか、いや、想像する事も正直出来ない。だからこその愚痴であり、解決策を求められている訳じゃない。でも。

「好きなんだな。ご両親の事」

「当たり前……じゃない」

 無関心でいられたら、そんな思いは抱かない。好きだからこそ、なんとかしようと考えて、頑張って、動いて。

 でも出来る事では上手くいかず、空回りもして。そしてただただ、自分をすり減らしていく。そんな日を何日も繰り返してきたのかもしれない。

 そしていつか、その居場所を見失った。外に家の事情を晒す事なんて出来なくて、家ではただ気を使い、疲れていく。

 存在の肯定として求められた。それがナナカの言う利益だったと、今初めて分かった。

 それが俺である理由は分からないけれども。

「そんな二人が目の前で罵り合って。後悔を口にして。正直、見ていられない。だから今日、ここに来たの」

 逃げてきた、という事か。別にそれをどうこう言うつもりは。

 いや、そこまで気に病んでる。追い詰められてるという事なのか。あまりに言葉だけが淡々としていて、推し量る事も出来ない。

 だからこそ、またこの言葉を口にする。

「思い通りにすればいい。別に迷惑と思ってないから」

 俺の方が負担が少ない。そう思っていた。だからこのイレギュラー程度、なんて事は無い。

「うん……。ちょっとだけ、泣いていい、かな」

「ああ」

 俺が頷くと、ナナカは立ち上がり俺の隣へと移動してくる。同時に微かに甘い香りが俺の鼻をくすぐった。釣られるようにナナカの髪に手を伸ばすと、ナナカはぽすっと俺の肩口に顔を埋めた。

 熱い。発熱でもしてるんじゃないかと思うくらい、ナナカの体は熱かった。押し殺し、唸るような声がその体から響いてくる。

 震えるその体に腕を回し、そっと髪を撫でる。俺に出来る事はただそれだけ。

 ナナカの両親への思いや感情を、共有する事は出来ない。俺が想像するはあくまで俺の経験に基づくものであり、それは必ずしも一致するものじゃない。

 もちろんナナカも分かっているとは思っていないだろう。それでもなお、俺にすがるしか無いという事なのか。

 自分に都合よく解釈をしているのかもしれない。いや、事実そうなんだろうが、求められたという事実は変わらない。

 存在の肯定。その為に、心を守る為に、体を使った。好意よりも何よりも、主眼はそこにあった。

 それでも情は湧いている。男とはそんな単純なものだ。

 他人が、たかが学生が口を出せる事じゃない。そんな事はお互いに理解している。解決策なんて求められない。対処法だって限られている。それでも何とかしたくてもがくナナカを、俺は見捨てられない。

 欲を捨てられない。正直にそう言ってもいい。でも多分、そう思えるのは相手がナナカだから。他の誰でも、ここまでは思わないだろう。

 前提を崩したいとは思わない。それは単に今が変わる恐怖から。肩で泣く人を撫でながら、なんて勝手な思いであろうか。

 それでも手は止めない。腕の力は弱めない。今こうしている事は、お互いに望んでいる事だから。ただただその存在を感じ、示し、もたれ合う。

 その歪んだバランスが揺れないように、細心の注意を払いながら。

 ただ、もっともっと知りたいから。その中に潜むのが狂気であったとしても。

 俺はもう、浸かってしまったのだから。


 いつしか肩口の呼吸は一定になっていた。泣き疲れて眠ってしまったナナカを、俺はゆっくりとベッドに横たえる。

 穏やかな呼吸。寝顔。せめて寝ている時くらいは、その気遣いからも解放されていればいいと思う。

 その手伝いが、自分に出来ていればいいのだが。

 ペットボトルの中身を一口飲み、窓のカーテンを開ける。外は相変わらずの雨模様。灰色の空には差し込む光も見えない。

 それでも雨は止む。どんな爪痕が残るか分からないけれど、いつかは止む。

 それまで寝かせておけばいい。晴れた時に、そっと手を離せばいい。

 だが、本当に離せるだろうか。

 それで自分は納得できるだろうか。仮にその体に触れ続ける事が許されたとしても、その時俺達の関係は変わってしまうはずだ。

 ペットボトルを握ってもまだ、その手に残っている熱。部屋に微かに漂う甘い香り。それを意識するたびに、頭の中が痺れる。

 分かっていた。自分の中に澱むものが何なのか。

 今も必死に押し隠そうとして、これ以上その顔を見る事が出来ない。

 ゆっくりと窓を開ける。風向き的に吹き込む事はなさそうだ。

 しっとりと重い空気を吸い込む。雨のにおいが鼻から抜けていく。

 思えば、ナナカと接する日はいつも雨だった。今日も、その前も、そして最初も。

 視界に映る水溜り。しとしとと降る雨が絶えず波紋を作り続ける。その不規則に揺れる波紋の下には、小さな石や砂が積もり、また晴れる日を待っている。

 俺は傘で在りたかった。そう思っていた。

 でも違う。寄り添う事を願ってしまった。寄り添って、その熱を感じて。そして濡れるナナカをただ、見ていたい。

 それで共に濡れても構わない。寄り添う限り、寒さなど感じないから。

 俺が欲しいのは今の、この状態のナナカだから。

 いくら言い訳を口にしても、そう自覚してしまったものは変わらない。

 思い通りにすればいい。そう言いながら、自分はそう出来ていない。決定的にずれている。そう分かっているから。

 雨のにおい。そっと外に手を伸ばし、その水滴を受け止める。それから窓を閉め、ナナカの眠るベッドに寄り添い、そっとその手をナナカの額に触れさせる。

「……ん」

 小さくこぼれる声。でもそれ以上の反応は無く、再び規則正しい呼吸音が聞こえてくる。

「ナナカ」

 その名前を呼びながら、俺はそっとナナカの髪に、頭に顔を寄せ、深く息を吸い込む。

 ふわりと香る甘く苦いにおい。それが微かな熱と一緒に、俺の中に落ちていく。

 胸の中の澱みに混ぜ込んで、固める。吐き出さぬと決めた感情を律する為に。

 顔を上げてナナカの頬に、許されぬその唇に、そっと乾いた指で触れる。

 反応が無い事を確かめて、かすれる声で小さく空気を揺らす。

「好きだったよ。ナナカ……」

 最初で最後。でも、これでいい。

 思い通りにする事は、こういう事なのだから。


「ケイ、帰ろう?」

 いつもの放課後、変わらぬ声でナナカは誘う。

「ああ。行くか」

 だから俺もいつも通り答える。

「それで、届きそうか?」

「どうかな。まだ厳しいと思う」

「そっか」

 変わらぬ声。そして変わった目標。

「出来る事はこれだけだから」

 昔と変わらない言葉。その先に見えるものを追いかけたい気持ち。

 俺はただそれに寄り添うだけ。止める事も、同意する事も無く。

 そんな彼女の姿が、俺の思うナナカだから。

 今日もまた、ナナカの部屋に上がる。綺麗に整理整頓されたこの部屋の空気は、いつも変わらない。

「ケイ……」

 ただ求めに応じる。その手を、その体を、存在を重ねる。

 それが行き過ぎだとしても、もう戻れない。

 いや、戻りたいと思わない。

「綺麗だよ。ナナカ……」

 一度割れたガラスを抱いたら、物足りなくて離せない。


 そしてまた、雨が降る。しっとりと世界を濡らす。

 明日が晴れるかなんて、自分には分からない。いや、そんな事はどうでもいい。だから。

「明日、晴れるかな?」

 そんなナナカの言葉に答えるかわりに、ただその髪を撫でる。

 その執着は秘めたまま。ただ自分の利を求めて。

 俺はゆっくりとナナカの髪に顔を埋めた。


 そしてまた、雨が降る――。

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