煙草
煙草
流川は待ち合わせの池袋駅へ向かった。約束の時間の5分前に着いたが、二人とももう既に来ていた。
「早いですね二人とも。お待ちになりましたか。」
「いえ、私たちも今来たところです。」
定岡が答えた。古畑は相変わらず黙っている。
(通夜に来て顔を合わせたときに話したっきり古畑はずっと黙りっきりだ。何か話しかけてみようかな。いや、放っておこう。触らぬ神にたたりなしだ。)
「二人ともどうぞ乗ってください。」
「あっ、ありがとうございます。」
また声を発したのは定岡だけだ。そしてどういうわけか古畑が助手席に座り、定岡が後部座席に座った。
「じゃあ、車出しますね。」
流川はそういって車を走らせた。
車を走らせてすぐ、古畑が、
「あのう、煙草吸ってもいいですか。」
と言った。
(お前、やっとしゃべった台詞がそれかよ。喫煙所なら駅にもあっただろ。何でこいつわざわざ俺の車乗ってから煙草吸うんだよ。灰皿は使っちまってるから、禁煙車ですとも言えないし、断る理由ないからしようがないか。病院までは15分くらいで着くのに・・・。)
「ええ、構いませんよ。」
流川はやむなく許可した。古畑はバッグから煙草を取り出した。
(ピアニシモ・1ミリか。ずいぶん軽い煙草吸ってんだな。古畑よりも定岡のほうが煙草を吸いそうだけどな。)
「定岡さんは煙草吸われないんですか。」
「ええ。私はどうも煙草の臭いが苦手で・・・。」
(こいつ、またおかしなこと言ってるぞ。古畑は窓を開けて煙草を吸っている。車が走っているときは、風で煙草の臭いがすべて後ろへいくはずだ。煙草の臭いが苦手なら古畑が煙草を吸うのを止めるはずだ。特にこいつは女軍団のリーダー格だ。古畑に有無を言わせず止めさせられるだろ。なのに、こいつわざわざ古畑を助手席に座らせて、吸ってくださいと言わんばかりだ。こいつおかしなこと言わせたら伊古瀬といい勝負だな。突っ込んだほうがいいか。いや、下手に突っ込んでこいつに警戒されたら、今後いろいろ聞きだしにくくなる。ここはすっとぼけておこう。)
「そうですか。最近煙草を吸われる女性が増えているのに古風ですね。」
「それは褒めてるの。」
「もちろん。」
「ありがと。」
「ところで、病院へお見舞いに行くのに手ぶらってわけにはいかないですよね。どこかでフルーツの盛り合わせでも買って行きましょうか。」
流川がそう言うと、定岡が、
「そうですね。病院の近くにスーパーがありますから、そこで買いましょう。」
と答えた。古畑は煙草の件以来まただんまりを決め込んでいる。
三人はスーパーでフルーツの盛り合わせを買って病院へ向かった。紀伊は4階の病棟に入院していた。1階の受付、4階のナースステーション、紀伊の病室という順に三人は足を運び、紀伊の病室に入って流川が最初に紀伊に声をかけた。
「骨折されたってうかがったんですが、大丈夫ですか。」
「ええ、しばらく安静にしていれば大丈夫だってお医者さんが・・・。」
「そうですか。よかった。あっ、これここへ来る途中三人で買ってきたんですけど、よかったら召し上がってください。」
流川はそう言って紀伊にフルーツの盛り合わせを手渡した。それと同時に定岡たちからは見えないように、〈後で連絡ください。昨日の話の続きを詳しく聞かせてください。〉というメモ書きを渡した。紀伊もそれが定岡たちに知られてはマズイものだと分かり、定岡たちに気づかれないように懐にしまった。
「ありがとうございます。美姫も入香もありがとう。」
「ううん。それより、誰にやられたか心当たりはないの。犯人の顔とか見てないの。」
定岡が紀伊に尋ねた。
(誰にやられた?心当たり?犯人?どういうことだ。)
「うん。いきなり後ろから突き落とされて、下にはもう一人いたみたいで、バッグ持っていかれて・・・。」
「それであんた今日公衆電話からかけてきたんだ。」
と定岡が言うと、流川はとっさに、
「どういうことですか。自分で足を滑らせたのではなく、誰かに突き落とされて、倒れている隙にバッグを盗まれて、その中に携帯電話がはいっていた。そういうことですか。」
と尋ねた。それに対し紀伊は、
「そうです。ご存知なかったんですか。」
と答えた。
「いえ、階段から落ちて怪我をされて、入院しているとしかうかがってなかったものですから・・・。」
(定岡ぁ~、何で俺にそのこと話さねぇんだぁ~。あっ、でも隠すつもりだったら俺に入院している病院教えねぇだろうし、まして一緒に見舞いに来るなんてことしねぇか。ってことは単純に言い忘れてただけか。)
「定岡さん。何でそのこと教えてくれなかったんですか。」
「あっ、ごめんなさい。言ってなかったでしたっけ。」
「言ってなかったですよ。」
流川はちょっとおちゃらけて言った。
(ハッ、マズイ。もし携帯にメモリして、俺の携番を書いたメモ書きを捨てていたら、紀伊は俺に連絡がとれない。いやそれよりももっとマズイのは紀伊の携帯に俺の番号がメモリされていたら、紀伊を襲った奴らに、昨日、俺と紀伊が会ったことがバレてしまう。)
「このことは警察に話したんですか。」
流川は紀伊に尋ねた。
「はい。そうしたら、昨日里緒奈のお通夜でお会いした刑事さんが来ました。」
(ぬぁにぃ~、それはヤバイヤバイ。伊古瀬が絡んでいるとなると、犯人は100%見つからない。俺の携帯番号が入ってる紀伊の携帯を見られたらもっとヤバイ。そうなったら紀伊の命もヤバイ。ただ、一つ気になるのは、犯人が紀伊麻奈を階段から突き落とした目的だ。狙いはバッグだったのか、それとも紀伊麻奈の命なのか。)
「バッグの中に携帯の他に貴重なものって入ってたんですか。」
(くそっ、定岡たちがいるから、こんな一般的なことしか聞けない。)
「あっ、それ警察の人にも聞かれたんですけど、昨日里緒奈の葬儀があるからお金下ろしたばかりで、財布に10万円ほど入ってたんで、警察の人はおそらく物取りの犯行だろうって。」
(バカか。物取りならバッグを引っ手繰れば済む話だ。わざわざ階段から突き落とす必要はない。しかも二人ががりだ。女性からバッグを引っ手繰るなんて訳無いだろ。間違いない。犯人の狙いは携帯で、しかも場合によっては、紀伊を殺すつもりだ。とりあえず定岡たちを帰らせて、それから話を聞きたい。でも俺がここを離れたら紀伊が危ない。)
「そうですか、物騒ですね。定岡さんたちも気をつけてくださいね。あっ、僕ちょっとトイレ行ってきますね。」
そう言って流川は病室の外へ出た。そして陣華に電話した。
「陣華、今から津瀬岩病院まで、ワンボックスカーを借りて来られないか。」
「無理。私免許持ってないし。」
「じゃあ、亜由か瑠香に聞いてみてくれ。」
幸い瑠香が免許を持っていた。
「陣華、今から言うことをよく聞けよ。おそらく、俺らがここから帰ったら、昨日の夜来た紀伊麻奈は殺される。その前に紀伊麻奈を病院から連れ出して安全な場所に移して欲しいんだ。紀伊は骨折していて歩けない。車椅子で連れ出すしかない。だからワンボックスカーが必要なんだ。」
「ちょっと、どういうこと。」
「詳しいことを話している時間はないんだ。あと、どこかに見張りがいるはずだから、裏口から連れ出してくれ。そのまま連れ出すとヤバイから、陣華の好きなドンキへ行って、ナースの服買ってきて、ナースのフリをして連れ出してくれ。ここのナースは白衣じゃなくてピンクだ。トイレにでも連れて行くフリして、見張りを振り切って連れ出してくれ。」
「べつに私ドンキ好きじゃないし。」
「でもカッパは好きだろ。」
「うん。」
「申し訳ないけど、今回はナースだ。紀伊にはメモ書きを残して事情が分かるようにしておくから、頼むな。」
「わかった。でも安全な場所って・・・。」
「お前のマンションが一番安全だ。オートロックだし、玄関は二重鍵だし。念のためチェーンロックもしておけ。」
「わかった。」
「それから、俺以外の誰が来てもロックは開けるな。管理人でもだ。」
「わかった。」
「じゃあ、頼むな。俺と定岡たちは、もう少ししたら病院を出る。そうしたら、すぐに決行だ。病院を出るときメールするから。」
「OK。」
流川は電話を切り、急いで紀伊宛のメモを書いた。もう病室を出てから15分以上経っている。
流川は病室へ戻った。
「いやあ、遅くなりました。すいません。うんこの切れが悪くて・・・。」
「流川さん、レディーの前でそういう話は控えてください。」
「あっ、すいません。僕、デリカシーのない男で・・・。」
紀伊麻奈はクスッと笑った。
(笑っていられるのも今のうちだ。お前はこれから修羅場を潜り抜けなければならないんだから・・・。)
「ところで、紀伊さん何でまたこの病院なんですか。ご自宅がこの辺りなんですか。駅から遠いし、何かと不便でしょ。そもそもどこで被害に遭われたんですか。」
(しまった。被害に遭ったのはおそらく夜中だ。下手なことを聞くと昨日のことを定岡に悟られる。俺としたことが・・・。)
「昨日、里緒奈のお通夜の後、美姫たちと別れて、家に帰ろうとしたら、大学時代の友人から電話があって、飲みに行こうと言われたので、着替えて新宿に行ったんです。」
(たしかに、昨日の夜あったときは喪服じゃなかった。下手なこと言わないでくれよ。)
紀伊は続けた。
「飲んでたら、終電逃してしまって、歩いて帰ったんです。あっ、私の家新大久保なんで、新宿から歩いて30分もあれば帰れるので・・・。」
(そうか。こいつ昨夜終電逃したのか。変なことは言わなそうだな。こいつ定岡にビビッてたし。でも、通夜があったのは四谷だ。総武線で大久保まで行けば新大久保まで歩いて数分だわざわざ30分歩く必要ないだろ。通勤定期の都合もあるかもしれないが、30分歩くくらいなら乗り越し料金払えばいいだろ。何でこいつ新宿で降りたんだ。無事陣華のマンションに辿り着けたら聞いてみよう。)
紀伊はさらに続けた。
「それで、帰る途中歩道橋から突き落とされたんです。」
「新宿、大久保あたりだったら、いくらでも病院あるでしょ。何でわざわざ板橋まで・・・。」
ここまできたら聞かないわけにはいかないので、流川は尋ねた。
「時間が時間だったので、救急外来を受け入れられる病院がここしかないって救急員の人が・・・。」
「そうですか。」
流川が聞きたいのはこんなことではない。しかし、定岡たちがいるので、警戒しなければならない。そんな流川にチャンスが到来した。
「あのう、私たちもトイレに・・・。」
定岡がそう言いだした。
「ああ、うんこですか。どうぞ、どうぞ。」
「アンタ、殺されたいの。」
定岡の鋭い眼が流川を突き刺した。
「すんません。」
定岡たちはその後無言で病室を出ていった。
(こぇ~。あいつも陣華タイプだな。キレたら何するかわかんねぇぞ。でも、これで定岡とも馴染んできたし、あいつからいろいろ聞き出せるかもしれん。)
流川は早速伊古瀬が敵であることを紀伊に話し、ここの病院を伊古瀬が指定したのではないか確認した。どうやら伊古瀬が事情を聞きに来たのは、この病院に入院してかららしく、伊古瀬がこの病院を選んだ可能性は低いということがわかった。
「僕たちが帰った後、あなたをこの病院から連れ出しに僕の仲間がここへ来ます。おそらく今回の件は物取りの犯行ではなく、狙いはあなたの携帯電話です。あなたの携帯電話から得られた情報次第で、犯人はあなたを殺しに来るかもしれません。ここを抜け出す手筈はこのメモに書いてあります。」
そう言って流川はメモ書きを紀伊に渡した。紀伊は怯えだした。流川からメモ書きを受け取る手が震えていた。
「大丈夫ですよ。僕と僕の仲間を信じてください。必ずあなたを守りますから。今は定岡さんたちがいるので詳しいことを話している時間はありません。ここを出て、安全な場所に移動したらすべてを話します。」
紀伊は黙って頷いた。
(今回この子が襲われたのは、俺の責任だ。昨日俺がこの子を信じきれなかったばっかりに・・・。何としてもこの子は守らないと。)
廊下から足音が聞こえてきた。
「定岡さんたちが戻ってきたみたいです。あとはそのメモ書きどおりにしてください。」
「わかりました。」
紀伊は小さな声で答えた。
「早かったですね。昔から速メシ速グソは芸のうちっていいますもんね。」
「流川ぁ~。さっきからうんこじゃねぇって言ってんだろ。」
定岡はそう言って流川にヘッドロックを決めた。
「イタイ、イタイ。やめてくださいよ。」
とか言いつつ、〈定岡って結構、胸デカいな。着痩せするタイプだな。〉と思うスケベな流川であった。
「定岡さん、離してください。もう遅いですし、そろそろ帰りましょうよ。」
「あっ、もうこんな時間。」
そう言って定岡は流川に掛けたヘッドロックを解いて、
「そうね、そろそろ帰りましょう。」
と言った。
「じゃあ、またね。そのうちまた来るから、お大事に。」
定岡は紀伊にそう声をかけた。
「うん、ありがとう。」
紀伊は定岡にそう返した。
「バイバイ。」
古畑が紀伊に声をかけた。
(それだけ。相変わらず無口だな、こいつ。帰りもこいつ俺の車で煙草吸うのかな。)
「バイバイ、入香。」
「じゃあ、そういうことで・・・。お大事に。」
流川はそう言って紀伊に目配せした。紀伊は軽く会釈してそれに応じた。
病院を出て、駐車場へ着くと、流川は、
「あっ、ちょっとそこのコンビニで煙草買ってきますから、二人とも車に乗って待っててください。」
と言って定岡に車の鍵を渡した。流川はコンビニへ向かいながら陣華にメールを送った。コンビニの前の喫煙所で煙草を吸っていると、陣華から返信が来た。三人はもう病院に着いているらしい。これで間髪を入れず紀伊を連れ出せる、と流川は少し安心した。ポケットに煙草が結構余っていたが、車に戻って怪しまれると困るので、流川はそれを捨て、新しい煙草を買って車に戻った。
「お待たせしました。二人ともお宅までお送りしますよ。」
「駅までで構いませんよ。」
定岡がそう言ったが、流川は、
「里緒奈の葬儀ももう終わりましたし、社長にしばらく仕事休んでいいって言われてるので暇ですから。」
と言った。
「そうですか。じゃあお願いします。」
(古畑ぁ~。お前もなんかしゃべれよ。煙草吸ってもいいからさぁ~。でも二人を家まで送れるのは都合がいい。こいつらの住所を押さえておけば、今後の調査に役立つ)
「古畑さん。池袋って言ってましたけど、ご自宅はどの辺りですか。」
「東池袋3丁目です。サンシャインのすぐ近くです。ここからだと、このまま中仙道を直進して、山手通りと交差する交差点を左折して、池袋駅の西口に出てください。それからビックリガードを潜って東口に出て、河合塾の脇の細い道に入って、ずっとまっすぐ行けば家に着きます。」
(すげぇ、すげぇ。長文しゃべったぞ。どの辺りって聞いただけなのに、ご丁寧に道案内までしてくれて、やればできるじゃないか。)
「わかりました。あと20分くらいで着きますかね。お煙草はいいんですか。」
「じゃあ、お言葉に甘えて・・・。」
古畑は早速プカプカやり出した。
(こいつ、俺が言わなかったら吸わない気だったかな。〈お言葉に甘えて〉だって。お言葉が無かったらどうする気だったんだよ。ああ~、気になる。)
そうこうしているうちに、古畑の家に着いた。陣華のマンションを見てしまったせいだろうか、古畑のマンションが流川にはチャチくみえてしかたがない。
「流川さん、ありがとうございました。美姫、前に来れば。」
そう言って古畑は車を降りた。
(おお、だんだん学習できてきたじゃないか。しゃべれるようになってきたぞ。)
流川は車を降りて古畑を見送った。定岡は助手席に移り、窓を開けて古畑を見送った。
ここから新宿までは定岡と二人きりだ。何らかの情報を得られるのではないかと流川は期待した。
「先ほど病室では下品なことを言って失礼しました。紀伊さんが襲われたとうかがって、元気づけようと思いまして・・・。」
「気になさらなくていいですよ。私も冗談で対応してましたから。怒ってませんよ。」
(嘘つけ。お前の目は本気だった。)
「定岡さん。以前は里緒奈と仲良くされてたっておっしゃいましたよね。里緒奈ってどんな子でした。僕、里緒奈とつき合うようになった次の日に里緒奈を亡くしてるんです。
だから、実は彼女のことよく知らなくて。」
(やばい、泣いちゃいそうだ。)
「ごめんなさい。里緒奈さんと親しかったというのは、実は嘘なんです。ある人にそう言えって言われてたんです。そのある人が誰かっていうのは教えられません。」
(しまった。裏をかかれた。)
流川はとっさに灰皿を開け古畑が吸った煙草の吸殻を取り出した。そこにはマイクロチップのようなものが埋め込まれていた。
(盗聴器だ。古畑が俺の車に乗ってすぐ煙草を吸いたいって言ったのは、これを仕掛けるためだったんだ。たぶん2本目は俺が言わなければ吸わなかっただろう。くっそ、何であのとき気づかなかったんだ。定岡を警戒していたから、奴はノーマークだった。)
「ちょっと失礼」
流川はダッシュボードから電波傍受器を取り出し電源を入れた。
「どうしたんですか、流川さん。」
電波傍受器から定岡の声が聞こえる。
「どういうこと。何でその機械から私の声が聞こえるの。」
流川は窓から吸殻を投げ捨てた。
「盗聴器だ。さっきのある人って古畑入香だろ。奴が煙草の吸殻に盗聴器を仕掛けたんだ。」
定岡は真っ青な顔をしている。
(定岡は今ここにいるから、助けられる。気がかりなのは津瀬岩病院へ向かった陣華たちと紀伊麻奈だ。病室にも盗聴器が仕掛けられていたら・・・。)
「古畑に脅されていたんですね。」
「そうです。」
定岡は震えている。
「定岡さん。家に帰るのは危険だと思うんで、今から別の場所へ向かいます。それで構いませんか。」
「はい。」
定岡は震えが止まらない。