表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

第五章 変心

 第五章 変心

 

 美代子が純白のウェディングドレスを着て立っている。

 結婚式場の控室から、係員にともなわれて出てきたところなのだ。

 彼女は美しかった。

 義男の死んでしまった妻である和代も美人の部類であったが、美代子はそれ以上だ。

 彼の心は、甘やかな思いの中に沈んだ。

 なにか声をかけてやらねばとあせるが、喜びや感動、そしてさみしさ、さらには少しだけ混じる嫉妬がないまぜになって、どうしても言葉が出てこない。

 「ほら、お父さん! しっかりして!」

 係員にはげまされ、義男はやっと一歩だけ娘へ近づけた。

 「み・・・美代子・・・おめでとう・・・な」

 美代子はあたたかな笑みで父親にこたえた。

 その表情からは、余裕と強さが同時に感じられる。すでに母親の風格があった。

 ある特定の男性を愛し、そして自分も愛されていることに自信をもつ女性に特有の、満ち足りた顔だ。

 「ねえ、お父さん」

 美代子が話しかけてきた。

 「なんだい?」

 「私ね・・・」

 

 夢は、そこでさめた。

 義男が目を開くと、周囲は相も変わらずの森の中であった。

 もちろん美代子などいない。

 彼は一人で、ベニバナトチノキの枝でまどろんでいたのだ。この木は、面積の広い葉の向こうに、トウモロコシのような円錐形の赤い花をつけている。

 その花の一つが葉の間から顔をのぞかせており、それがどういうわけか美代子の横顔に見えた。

 「私ね・・・」

 夢の中の美代子の声がよみがえる。

 いったい、なにを言いたかったのだろう。

 義男は空をながめた。だが、枝と葉と花に視界をさえぎられて、空など見えない。

 「美代子・・・美代子・・・!」

 呼んでも彼女はあらわれない。

 じれた義男は、ベニバナトチノキの頂上まで移動した。

 今日は朝から体調がよかった。こういう時、美代子は出てきてくれないのである。精神的にも肉体的にも追いつめられた時こそ、彼女はその笑顔を見せてくれるのだ。

 だから義男はまつ。自分の限界を。

 ただひたすら美代子の名を呼びながら。

 

 だがここへきて、彼の思いは少し変わりつつあった。

 美代子には惚れた男がいる。合わせてやりたい。となりに立たせてやりたい。一緒に、どこまでも一緒に、あの子のそばに・・・。

 この思いが大きくふくらんでいた。

 そして、なんとかこれを達成してやらねばという強烈な焦燥感が、心を焼いている。

 そのために、まだ自分は死ねないと、今の彼は考えていた。

 新宿に向けて出発した時は、こんなではなかった。

 まさか、娘のためとは言え、見ず知らずの若者を殺すつもりになるとは、思ってもいなかった。

 その若者が、この大異変の中で生き残っているという、根拠のない確信がある。またさらに、その彼を殺そうとしていることに罪悪感がわかない。

 理性では否定している。それはわかっている。しかし、やらずにはいられない。

 どうやら自分は変貌しつつあるようだ。それも得体のしれないなにかに。

 だが、それでもよいと義男は思った。それで美代子があらわれてくれるなら。

 「おお! 美代子!」

 義男は、その瞳に喜色をうつした。

 いつもこの子は俺の願いを聞いてくれる。それでいいじゃないか。今度は、俺が願いを聞いてやる番だ。

 今、美代子は、肉親には見せない艶やかなほほ笑みを浮かべ、地上の一点を見つめている。

 そこか・・・。

 銃をなでる。

 「まかせておけ。お前の相手は、まちがいなく送ってやる」

 彼の目に、おき火のような暗い光がやどった。


 ゴウグワアアアアオオオオン!

 ダンドリオンの吠え声は、圧倒的な力で人々の魂を凍りつかした。

 「な、なんだ!」

 「キャアア!」

 「ひいっ!」

 まだ彼の存在に気づいていなかった者も、そのたった一声によって恐慌におちいってしまっている。それほどに、この獣の声には、強い死の気配がこめられていた。

 哲也と命は、闇の中で光る巨眼から、目がはなせなかった。

 大きい。

 その顔だけで、命の上半身くらいある。

 彼女の背を冷たい汗がつたった。

 獅子は人間たちを存分に睥睨しおわると、猛然と突進を開始した。

 ダンドリオンが、もっとも好きな瞬間であった。

 ふつう、ライオンは狩りをする際、不用意に吠えたりなどしない。だが、彼にそんなことを教えてくれた者などいなかった。

 さらに今、空腹なわけでもない。ただただ、弱者の恐怖にゆがむ顔を見たいだけなのである。

 つまりこの獅子は、純粋に自分が楽しむだけのために、殺戮を行おうとしているのであった。

 それだけに、獲物をおびえさせる、ありとあらゆる努力をおしまない。最初の咆哮も、その一つなのだ。

 百獣の王の巨体が、闇の中を疾走した。

 彼の通った後は血と肉の残骸が山をなし、彼の行く先は血風の吹きだまりと化し、彼の視線の先は死と破壊の荒野があるのみであった。

 首が飛んだ。

 腕がもげた。

 足がちぎれた。

 ダンドリオンのようなオスのライオンは、二百キロを超す体重と、三百キロ近いアゴの力、そして七〜八メートルを飛ぶ跳躍力を持つ。

 とても人間ごときがあらがえる生き物ではない。

 「ぐげ・・・」

 哲也の前にいた高田の体が二つにさけた。

 人間など、獅子にしてみれば豆腐のようなものだ。あまり力を入れずとも、かんたんに崩れてしまう。

 高田の体から、噴水のごとく血がふき出た。それを頭からあびた哲也がまっ赤に染まる。

 だが、それでも哲也は動けなかった。この彼ですら、目の前の事態にぼう然自失するのみだった。

 高田を前足の一振りで屠ったダンドリオンは、次に哲也をその視界に入れた。

 わざとゆっくり獲物に近づく。

 口を大きく開き、舌なめずりすることも忘れない。

 彼はこの虐殺ショーの、監督、脚本、そして主演をつとめているのだ。

 実に気分爽快であった。

 ここまでは。

 

 「おおおおっ!」

 とつぜん奇声が発せられ、直後、ダンドリオンは横腹に強い衝撃をうけた。

 哲也の危機に我を忘れた命が、そばに落ちていた長い鉄骨を手に、全体重をのせた突きをはなってきたのである。

 間髪を入れず、続けて獅子の顔を、そして体をうちまくった。

 その攻撃は、なみの人間なら最初の一撃で内臓破裂はまちがいないところであったし、さらにつづく一発一発にも、致命傷ものの威力があった。

 しかし、そんな命の力も、百獣の王には通用しない。

 二百七十キロの体は、岩をもくだく攻撃を受け止めてしまっている。ライオンは痛がるそぶりすら見せなかった。

 命はあせってきた。

 いくら百獣の王が相手だとはいえ、これほどにも力の差があったとは。圧倒的な筋力と膂力を見せつけられ、彼女は自分が小さくなっていくような錯覚をおぼえた。

 ところが一方、ダンドリオンはダンドリオンで、はじめて他者から向けられた強い敵意と殺気に、あっけにとられてしまっていた。

 彼にとって、目の前の人間がくり出す攻撃など、まるで涼風のようなものだ。しかし、その眼光や気迫はおそろしいと思った。

 今までは、獅子が狩りを行うと、獲物はただおびえるばかりで、ダンドリオンはまさに帝王だったのである。

 人間のペットとして長い年月をすごし、世間知らずな彼は、世の中には自分に逆らう者もいるということすら知らなかった。

 だからダンドリオンは、命の迫力にすっかり飲まれてしまっていたのである。

 それが百獣の王に、決定的なすきを生じさせてしまった。

 

 命の背後から、赤い影がおどり出てきた。

 高田の血を全身にあびた哲也である。彼は命が戦っている間に自分を取り戻し、ライオンをしとめるべく、時をうかがっていた。

 それが今であった。

 「ヒョウッ!」

 口から鋭く息吹が吐き出される。その手には、食事で使っていたナイフが光っていた。

 閃光にも似た突きが、ダンドリオンの左目をふかぶかとつらぬく。

 しかし、彼の恐ろしさは、ここからが本番であった。

 哲也はナイフを手放し、のけぞる獅子を追いかけると、右手の人差し指と中指の二本で、残る右目をもつぶしたのである。

 グギャアアアアアッ!

 ライオンの口から苦悶の絶叫がほとばしった。

 百獣の王は狂ったように全身をふるわせ、哲也を吹き飛ばす。

 「がはっ!」

 哲也は、ダンドリオンがあばれる前に指はぬいておいたが、その体当たりをくらってしまい、宙を飛んで壁に激突した。

 肋骨がいっぺんに何本も折れた音を、彼は自分の体から聞いた。

 獅子は口を大きく開いて悲鳴をあげつつ、生まれてはじめての死の恐怖を味わっていた。

 その彼の口の中に、とどめとばかりに命が鉄骨を思い切り突き刺す。

 「神野くん!」

 ライオンを倒した気になった彼女が哲也のもとにかけよると、彼は苦しげにあえぎながら立ち上がろうとしているところだった。

 「お・・・終わって・・・ない」

 まともに呼吸ができず、言葉がでてこない。 

 「あいつはもう動けないよ! それより神野くんの体が!」

 「て・・・ 手負いの・・・獣は、お、恐ろしい・・・」

 激痛にたえながらうったえたが、遅すぎた。

 ギャアアアアアオオオオッ!

 痛みと恐怖にあぶられたダンドリオンは、メチャクチャに走りまわって、その体に触れるものすべてを破壊しだしたのである。

 人もものも、ビルの壁や柱ですらも、茶色い狂風と化した百獣の王の前に、おがくずのごとくつぶされていく。

 両眼から血流をあふれさせ、口から鉄骨を突き出して吠えるその姿は、まさに地獄の魔獣そのものであった。

 

 「これじゃ、どうにもならねぇ!」

 ダンドリオンの、あまりにもケタ違いな破壊力を見せつけられ、命はここから逃げ出すと決めた。

 その肩に哲也をひっかつぎ、脱兎のごとく走り出す。目指すは獅子がおりてきた階段だ。

 「ぐっ、うがっ」

 「ちょっとだけ、少しだけガマンしろ! がんばれ!」

 うつ伏せに命の肩にかつがれた哲也は、折れた肋骨に振動がモロにつたわる。彼は激痛から苦鳴をもらした。

 だがその声を耳にしても、命は足をとめるわけにはいかない。体の動きを遅くする服を脱ぎちらし、また裸体になりながら、さらに力をこめて加速した。

 しかし、すでに階段は、逃げ惑う人々が殺到して道をふさいでしまっていた。

 後ろからは、水を蹴立てて走る命の足音を聞きつけたのか、ライオンがせまっている。

 一瞬で命は決意した。

 「どけえっ!」

 鬼の形相で突進し、進行方向にいた人々を、突き飛ばし、投げ飛ばしながら、階段をかけ上がる。

 背後から絶叫がひびいてきた。

 「許して・・・許してぇ・・・」

 謝罪の言葉をつぶやきつつ、けれどスピードはゆるめない。

 今、彼女の肩では、哲也が激痛に顔をゆがめている。命は彼の無事のみを願った。

 必死に走りながら、自分の心のあり方に気がついた。

 哲也と自分が生き残ることこそが、彼女にとって最重要なのである。そこに善悪の判断が入る余地などない。

 他の救えない人たちは、ほんとうに申し訳ないと思う。特に彼女が突き飛ばした人などは、その手で殺したようなものだ。だがそれでも、彼女は彼女のルールをつらぬくしかない。

 たとえ地獄に落ちてもかまうものか! それで神野くんが助かるのなら、それでいい!

 心の中で叫ぶ。

 しかし、自分がなぜ哲也にそんなにこだわるのかは、自分でもよくわからなかった。

 以前から好きだったし、デパートを脱出した時には尊敬の念をいだきもした。だが、ここまで自分が彼に傾倒していたとは。

 正直、自分でも奇妙に感じた。

 

 出口が近づく。

 一階は、割れたガラスとコンクリ片で床がうめ尽くされていた。そこを命は裸足で疾走したが、平気な顔をしている。どうやら、これでも足に傷がつかないらしい。

 ビルはかろうじて原形をとどめていたが、竜巻によって徹底的な破壊をうけていた。窓に無事なものはなく、吹き抜けの内壁には、なんと車が突き刺さっている。

 だが壊されたのは、建物ばかりではなかった。このビルを取り巻いていた植物群も、きれいさっぱり吹き飛ばされていたのだ。

 竜巻が通り過ぎた後は、森の中の一本道と化して、白く浮かび上がっている。

 その道の表面からは、早くも次の芽が顔を出しはじめ、急速成長するきざしを見せていた。

 

 命は、ここを青梅街道方面へと走った。

 不幸中の幸いか、今は天候が落ち着いてくれている。彼女が走るのに障害となるものはない。

 その命の後ろを、同じようにダンドリオンに追い立てられた四〜五人の人々が走っていた。

 「ぎゃあああああっ!」

 その内の一人が、とつぜん絶叫をあげる。

 「ライオンか」

 自分の後ろでおこった悲鳴を、命はダンドリオンによって引き起こされたものだと思った。しかし、そうではなかった。

 これの犯人は、急速成長したキョウチクトウだったのである。

 命が哲也を正面から肩にかついだため、進行方面とは逆さまを見させられていた哲也は、その一部始終を目の当たりにしていた。

 二人の後ろを走っていた中年男性を、またたく間に巨大化していくキョウチクトウが、その幹の中に取り込んでしまったのである。

 男性の体はキョウチクトウの成長の力で押しつぶされた。さきほどの悲鳴は、彼の絶命の声であった。

 「キャアア!」

 また一人、今度は若い女性がハナミズキの成長に巻き込まれた。

 彼女はハナミズキによって天高く持ち上げられ、下半身と腕の一部を木と融合させられてしまっていた。その姿は趣味の悪い胸像のようだ。

 「ぐぎゃっ!」

 断末魔の声があたりにひびく。キョウチクトウに捕らわれた男性と同様に、圧死させられたのである。

 これは! そうか、そうだったのか。人間がどこに消えたのかわかったぞ!

 ケガの痛みも忘れて、この光景に見入っていた哲也だったが、同時に命のまわりにも次々と新芽が芽生えてきているのも見つけた。

 しかし、後ろから二度も絶叫がとどいているというのに、命はけっしてふり向こうとせず、自分たちが包囲されつつあることにも気づかない。

 「お、大里、せ・・・ん・・・」

 苦しい息の中、哲也は必死に命をよぶ。だが、肋骨を折った身で腹を下にかつがれては声が出せない。言葉をあきらめ、命のポニーテールを引っぱって合図を送った。

 「いてっ! なに?」

 見ると、肩の上の哲也が、森を指さして苦しげにあえいでいる。

 「森? 森へ行けってのか?」

 やっと命に意志が通じたが、少し遅かった。

 彼らの周囲で、植物群の急速成長がはじまってしまったのである。いたる所から木々が噴出するその光景は、さながら間欠泉のようであった。

 「な、なんだこりゃ!」

 植物の嵐を見た命は、驚きのあまり足が止まってしまった。ライオンから逃げるということで頭がいっぱいだった彼女は、今の今まで事態を把握していなかった。

 そうか! 太陽の光だ!

 そんな彼女も、やっと哲也の言わんとしていることを理解した。

 木々は陽の光をあびて狂うのである。だから、これから逃げるには、光のとどかない所へ行くしかない。彼はそれを伝えたかったのである。

 すぐさま彼女は、沿道にひろがる森へとダッシュした。

 しかし、その行く手を、とつじょそびえ立ったネムノキがはばむ。放射状にのびる枝が二人をとらえた。

 命は、これを力任せに蹴散らす。ところがその直後、今度はサネカズラの成長に巻き込まれてしまった。

 サネカズラは、固いはずの幹がやけにやわらかく、しかも熱いほどの温度をもっていた。それでいて圧力と弾力はかなりある。普通の人間なら、こんなものに取り込まれては抜けられまい。

 だが命は、普通ではなかった。

 彼女はサネカズラを片手で倒し、自分たちの体を強引に木から引き離す。驚くべき怪力だ。

 サネカズラとの攻防に打ち勝った彼女は、そのままの勢いで道を横切り、かたわらの森へ姿を消す。もはや何物も、その足を止めることはできなかった。

 

 二人が逃げ去ってしばらくたったころ、ハイジアビルからダンドリオンがのっそりと出てきた。

 その全身は血で真っ赤に染まり、口には一人の女性をくわえている。

 暴れるだけ暴れた彼は疲れていた。

 まずは消費したエネルギーをなんとかしなくてはならない。ダンドリオンは食事をはじめた。まったく味などしないが、機械的に口を動かす。

 刺さっていた鉄骨やナイフは抜けていたが、口から流れる血はいまだ止まらず、もはやその両眼に光がもどることもない。

 獅子は、痛みと屈辱にじっと耐えながら、女性の肉を噛みしめた。

 今日、失ったものは、あまりにも大きかった。

 ライオンは、命の気迫におされ、哲也の攻撃を受け、完全に敗北したのである。ただ両目をつぶされたというだけでなく、よみがえりかけていた野生の心、百獣の王としての気概を奪われてしまったのであった。

 あの二人・・・けっして忘れんぞ・・・。

 彼らを、哲也と命を殺し、失われた誇りを取り戻さないかぎり、ダンドリオンに明日という日はこない。

 おぼえておれ! 人間どもめ!

 獅子の咆哮が、空に吸い込まれていった。

 

 暗い森の底で、哲也が苦しげにうめいている。

 その額に浮かぶ汗を、命がぬぐった。

 彼女は自分のヒザを枕にして、哲也を仰向けに休ませていた。ふだんの彼なら照れてしまってイヤがりそうだが、今は体力も気力も限界を超えていて、命のなすがままだった。

 すでに哲也は、胸に包帯を巻いて肋骨を固定し、痛み止めと熱さましの薬を飲んでいる。すべて、命が薬局をさがして取ってきたものであった。

 だが、それでも消しようのない痛みと熱が、彼をおそっていた。

 二人は、森の中のわずかな空間に身を寄せあうようにして、テイカカズラの白い星形の花の下で休んでいる。もっと広い場所をさがしてキャンプすることも考えたが、哲也がこれ以上動けなかった。

 「大丈夫?」

 命の言葉に、かすかにうなずくが、言葉での返事はない。

 やさしく哲也の髪をなでる。これ以上、なにもしてやれない自分が悲しかった。

 きもちいいな・・・。

 哲也は、命の手のあたたかさを感じている内に、ゆっくりと体の力がぬけてきた。

 どうやら熱さましの中に入っていた眠り薬が、ようやくきいてきたようだ。

 だが、熟睡とはいかないらしく、彼は夢を見ながらも、自分が夢を見ているという自覚をもっていた。

 自分の前に、五才当時の自分がいる。

 しかし、それが本当に自分の姿なのか、自信はもてない。自分がどういう姿をしているかなどということは、しょせん自分自身では知りえないものなのだ。

 ただ、その幼児は、あの時の自分にそっくりなんだろうなとは思う。

 こんな外見をしていた人間は、自分か、死んでしまった双子の兄しか考えられないからである。

 ああ、また、この夢か・・・。

 うんざりした。

 この後この夢がどんな展開を見せるか、よく知っているからであった。もう数えきれないほど、繰り返し見てきた夢なのである。

 父がいて、母がいて、兄がいて、自分がいる。父は運転席に、母は助手席に、そして兄と自分は後部座席でふざけ合っていた。

 車は碓氷峠の山道を軽井沢へと向かっている。

 カーブを曲がった。

 後三回。

 夢を見ている哲也はカウントを開始した。

 見慣れたとは言え、あの瞬間にもどるのには心構えがいる。

 次のカーブを曲がった。

 後二回。

 カーブに車が進入するたびに、兄は左右に体をゆすられて喜んでいた。

 もしかしたら、これはぼくなのかもしれないけど。

 正直、見ている哲也でも、どっちがどっちだかわからなくなる。

 夢の中では、人は自分の姿を外から見ている場合がある。これは人間の過去の思い出し方のパターンなのだ。

 たとえば、自分と友人との食事風景を思い出そうとすると、本来は見えていないはずの自分の姿までが、友人と一緒に風景の一部となって記憶されている。

 こうして脳は情報整理をしているわけだが、夢も記憶から作られるものなので、自分がビジュアルの一部として出演する時が多いというわけであった。

 だから、今、笑っている二人の少年のうちの、どちらが兄でどちらが哲也なのか、彼にもわからなくなってしまうのである。

 もう一度カーブを曲がった。

 後一回。

 哲也は目を閉じた。

 これ以上は見たくないと思ったが、夢は消えてくれない。

 最後のカーブを曲がった。

 次の瞬間、彼らの前に突然トラックがあらわれた。スピードの出しすぎで、対向車線に大きくはみ出している。

 不幸にも父は運転が下手だった。彼はトラックを見ておどろき、ハンドルをあやまってしまう。

 ゆれる車内。腹をえぐる落下感。

 車は谷底へ落ちて行った。

 哲也は見た。自分と同じ顔をした兄が、天井に頭をぶつけて口から血をはいたさまを。

 首はいやな角度に折れ曲がり、そのまま動かなくなった。

 どこか笑顔に見える表情で。

 

 なぜ哲也だけ無傷だったのか。数時間後に救助してくれた大人の人は、奇跡だと言っていた。

 奇跡なのだろうかと、今でも考える。父と母と兄の、三つの死体とすごしたあの数時間は、奇跡などと呼べるたぐいのものだったのだろうかと。

 車内で彼は、自分の死に顔をずっと見ていた。兄の顔は自分と同じだった。

 その後、父方の祖父母に引き取られた彼は、すっかり陰気な人間になっていた。

 誰に対してもそつなく笑顔で対処するが、けっして他人に心を開かなくなっていたのである。

 彼は、死んだのが兄で、生き残ったのが自分だという事実に、どうしても現実感をもつことができなかった。

 記憶の中の自分と兄は同じ顔をしていて、一人は死に、一人は生きている。

 記憶では自分も風景の一部にすぎない。生きている方が自分だとする確信がもてない。その材料がない。

 本当にぼくは、哲也という人間なのか。

 それではお前はなんなのだ? と問われても答えられないが、自分が自分だという感触もない。なにを目にしても、なにを手にしても、心が冷えていて楽しめない。

 どうせ動かない心なら、いっそのこと機械になってしまえと、感情をすてて知識と教養と常識のみを愛する人間になろうとしていた。人の心など、不確かなものはすべて遠ざけていた。

 そんな彼に、祖父はだまって剣道を教えつづけた。祖父は範士八段の資格を持つ、剣道連盟の重鎮だったのである。

 竹刀をとっては鬼神のごときと怖れられていた祖父も、道に迷う孫の前では無力だった。なんら力になってやれない悲しみを、道場で相対しつづけることでなぐさめていた。

 哲也は、祖父と二人だけで剣の修行をしつつ成長した。

 彼は試合や段位に興味がなかったが、去年、祖父が他界してしまうと、それも変わらざるをえなかった。剣道の相手がいなくなってしまったからだ。

 面をつけていれば、いろいろなことを忘れて純粋でいられる。その瞬間は、彼にとって貴重であった。なくしたくなかった。

 何事にも積極的な興味をもてなくなっていた哲也にとって、剣道は唯一の手放したくないものであった。だから大学では、思い切って剣道部に入部したのである。

 そこには命がいた。

 彼女とは、それほど親しかったわけではなかったが、この異変が起きていらい、命は血を流して哲也のことを守り、そして本気で怒ってもくれた。

 ちょっと問題の多い人だけどね。

 思わず苦笑する。だが彼女のことを意識したとたん、自動的にハダカのビジュアルも出てきてしまってあわてた。

 いつしか夢は、事故の現場から、命とすごしたここ数日の記憶にうつっていた。

 こんなことは、はじめてだった。事故の記憶が一度あらわれると、しつこく脳裏に付きまとい、彼の心をさいなむのが常だったのである。

 夢の中で命は、泣いたり、笑ったり、叫んだりと、忙しいことこの上ない。冷静に返事をしていたかと思うと、とつじょパニックにおそわれるし、今の今まで怒っていたはずが、いきなり機嫌がよくなったりする。彼女には、行動の一貫性というものが、まるでないのである。

 ずいぶんそれに振り回されもしたが、最後は必ず、命はそのすべてを哲也のために投げ出してくれている。

 目をさますか・・・。

 この浅い夢からさめれば、そこには彼女の顔がある。それをながめたかった。

 

 「あっ、目、さめたの? 体はどう?」

 心配そうな命の顔が、彼女のゆたかな胸のふくらみ越しに見えた。

 「はい、まあ、少しは楽になりました」

 答えつつ、すごいアングルだなと思う。

 この裸体を見るたび、彼の心と体はすなおに反応してしまう。それに困りながらも、自分の心は死んでいなかったと自覚できて、どこかうれしくもある。

 「ところで、ぼくはどれくらい寝ていましたか?」

 「いや、実は私もウトウトしちゃっててさ。わかんねぇんだよな。ゴメン」

 いたずらっぽくほほ笑みながら頭をかく。

 さすがの命も、ライオンと戦ったり、人食い植物から逃げまわったりで、疲れていたらしい。

 「あれだけ大暴れしましたしね。眠くなるのもしかたないですよ」

 「そら、そうだな」

 今度はアハハと、軽く明るく笑い声をあげた。そのくったくのない表情を見ていると、自然に哲也も笑顔になる。

 二人は今やっと、お互いの無事を喜びあえたのであった。

 「でも、あれで、どうして人がいなくなってしまったのか、その理由がわかりましたよ」

 「あれ? あれってどれ?」

 「あの人を巻き込んだ木のことです。ぼくは、あれを見てわかったんです。この東京が無人になった、そのわけが」

 ここで言葉を切った。もったいぶったわけではなく、長時間話すのがつらいのだ。

 「あの、人を巻き込んで食べてしまったように見えた木。

 あれはよく道端などで、ガードレールなど避けられない障害物と一体化して成長している木がありますよね。

 ああいうヤツの急速成長バージョンなのではないかと思うんですよ」

 「公園とかでも、低いフェンスにくっついているものがあるけど、そういうの?」

 「そうです。あれは木の防衛本能とも言うべきもので、リグニンというプラスチックみたいな物質が働いているんですよ。

 このリグニン、ふだんは植物細胞のすき間をうめて、木を頑丈にするのが役目です。でも木の表面に傷ができると、リグニンは傷口を木化してふさぎます。ちょうど、ぼくら人間で言うかさぶたみたいなものですね。

 この物質が成長途中にあるものを、なんでもかんでも取り込んでしまった。というのが、あの現象ではないかと思うんです。

 今、この森には、人間はおろか、鳥も虫も、猫とかの動物もいませんよね。これらも木々の成長に飲みこまれてしまったんでしょう」

 哲也は胸をおさえながら、呼吸を整えつつ、ゆっくり説明した。

 「そ、それじゃ、この辺りの木にも、誰か人が・・・」

 命はびくっとして、まわりを見た。

 新宿を歩いていた人々が、巨木群に飲みこまれて姿を消した。つまりそれは、周囲の木々の一本一本が、すべて人々の墓標だということになる。

 「本当にそうなのか、証拠はありませんけどね」

 哲也は命をこわがらせたと思い、わざと結論をごまかした。

 話すべきじゃなかったかも。

 少し後悔した。冷静冷徹な彼でも、真実に到達したかもしれないという興奮から、話さずにはいられなかったのである。

 しかし彼女は、こわがってなどいなかった。そのあまり突拍子のなさに、少し驚いていただけなのだ。

 この植物群があらわれてから、いろいろ信じられない光景を目の当たりにしてきてはいる。だがそれにしても、あれだけいた新宿の人たちを森が飲みこんでしまったとは、いまいち実感がわかない。まあ、不気味に感じてはいるが。

 でも、あの水流の手は・・・。

 実感がなくても、まったく心当たりがないわけではない。

 命の心に、濁流からあがった時のできごとがよみがえっている。

 あの時、彼女は人間の手らしきものを水流の中で見つけ、思わずそれにしがみつき、へし折ってしまった。その時は木の枝とまちがえたんだろうと考えていた。

 神野くんの話がほんとうなら、あれは人の手だったのかもしれない。

 自分の左手を見る。この手で人間の腕を折ったのかもしれない。

 だが、後悔は生まれてはこなかった。

 たとえあれが人間の腕だったとしても、死人のものだったはずなのだ。やたらと固い手触りだったし、折れても悲鳴もなかった。

 命は死人に用などない。

 「どうしました?」

 だまってしまった彼女を心配して、哲也が声をかけてくる。

 キレイだな・・・。ホントにキレイ・・・。

 中性的な彼の容姿を見て、いつもの感想が浮かぶ。

 こんな宝石のような存在を守れて、しかも自分も無事だったのだ。それなら、たとえ両手が血に染まろうともかまわない。

 彼女の信念はゆるがないが、別の不安ならある。

 夜目がきくようになり、足は手のように動かせ、しかも力が異常にあふれるようになった。命だってバカではない。ここまでくれば、自分の変化を意識しないではいられない。

 今までは口に出してもしかたないと、あまり深く考えないようにしていたのだが、いくら痛みもなにもなくとも、ことが自分の体なのである。彼女だって本心では怖い。

 いや違う。違う違う違う違う! 

 ここまで考えて、命は自分の思考に甘えを感じた。真の恐怖から目をそらすために、自分が見たいものだけを見ようとしている。強くなった体のみを手に入れ、ほかは今までと同じでいられると思いたがっていると感じたのだ。

 怖いのは、私が私を怖いと思うのは、体の変化なんかじゃない。体が変わっていくことなんかじゃないんだ! ほんとうは、ほんとうに怖いのは・・・。

 「どうしたんです? ほんとうに大丈夫ですか?」

 彼女の様子をいぶかしんだ哲也が、、また声をかけてきた。

 「大丈夫だよ。神野くん。私は大丈夫」

 「そうですか。それならいいんですが・・・」

 そう言ったが、あまり納得はしていない。

 「ねえ、神野くん」

 命は、ヒザ上の哲也の額にそっと手を置き、彼を見つめた。

 「なんです?」

 「私に・・・」

 私が怖いもの、それは。

 「私になにがあっても、そばにいて」

 心だ。この先も、今まで通りの私でいられるのかなんてわからない、そんな私の心が、私は怖い・・・。

 哲也の額においた手がふるえる。

 ハイジアビルから逃げる時、他人を犠牲にした。あれは非常事態だったし、緊急避難的にしかたないことだったと言えるかもしれない。しかし、以前の自分に、あんなことができたとは思えない。

 確実なのは、他人を殺せる自分がここにいるということである。ふつうの日常を平穏に生きていたころに、そんなことができたはずはない。体が変化しているように、心も変わってしまっている。

 たとえば今、哲也が自分を否定したら、自分はどうするのか。彼をどうしてしまうのか。

 この先が想像できない。あまりにも怖い。

 「お願い、私になにがあっても、そばにいてくれ。それだけ、それだけでいいんだ」

 なんで、こういう風に会話が飛んじゃうのか、ちょっと意味不明だ。

 一方、哲也は、命の言葉を聞いて混乱していた。

 彼女の様子から、シリアスな問題であることはわかる。

 しかし、人々がどこへ消えたのかという話から、そばにいてほしいというお願いに、どうやったらつながるというのか。単純に怖いからというだけではないらしいが、理屈っぽい彼には、命の考え方が理解できない。

 だが、理解できないからと言って、その努力を放棄してはならない。

 「ねえ、神野くん・・・」

 ふるえを帯びた声が、彼にかけられる。

 今の彼女からは弱さだけしか見えてこない。ライオンと戦った時や、ついさっきまでの明るさが、まるでウソのようになくなってしまっている。これでは、どちらがケガ人なのかわからなかった。

 「先輩、哲也でいいですよ」

 「え?」

 「ぼくのことは哲也と呼んでください。大丈夫、ぼくはいつでもあなたの隣にいます。いや、先輩こそ、ぼくのそばを離れないでください。シャレではなく、死んじゃいますからね」

 「あ・・・あり、ありがとう・・・じ、神野くん・・・」

 哲也の顔に、あたたかい涙の雨が降りそそぐ。

 「哲也ですよ」

 「うん、うん。て、哲也」

 彼女はいつまでも泣いていた。

 

 太陽の光がとどかない森の底でも、どうやら一日が終わろうとしていることはわかる。

 だんだんと濃さを増してくる闇の中、哲也はななめになって寝転がっていた。

 いくら薬があるとはいえ、肋骨が痛くてかがめない彼には、寝るか立つか、どちらかのポーズしかとれない。必然的に動かない時は寝転がっているしかないのだが、これも仰向けだろうがうつ伏せだろうが胸がつらい。それで中途半端な寝方になっているのであった。

 今、命は食料をさがしに行っていていない。彼は木の間越しに見える空間を、なんとはなしにながめていた。

 こんな状況になって、まだそんなにたってないんだよな。

 哲也には、命といっしょに新宿に行く約束をした部活でのできごとが、もう何年もすぎた過去のような感覚がある。だが、実際にはあれからたったの二日しかすぎていない。あまりにも次々にいろいろなことが起こりすぎて、時間感覚がズレてしまっているのだ。

 古代人の気持ちって、こんなだったのかも。

 そんなことも考えてみた。

 こんな意味のない想像を楽しめるヒマなど、今後もうないかもしれない。今だけは思う存分思考遊びを楽しむことにした。

 何千年もの昔、まだ国家というものすらなかった頃、人は三十年ほどしか生きられなかったらしい。

 それから時代が進むごとに文化文明がのび、それにつれて寿命ものびたわけだが、一日一日をあまり重要視していない現代人の人生と、自然と対決しつつ緊張感のある毎日をすごしていた古代人の短い一生では、たとえ同じ一時間でも、その重みが違う。

 現代人のライフスタイルを悪く言うつもりなどないが、短命だったからと言って、それだけで不幸だったとも言えないだろう。

 こんなことを思うのは、彼なりに今の状況に対して慣れようとしているからであった。

 人は生まれる場所や境遇を選べないのと同じように、自分が生きていく間に起こる環境の変化も自由にはできない。歴史の激動時に生きた者は、その大波と戦いつつ生きるほかない。要は、いかに割り切るか、なのである。

 「なに考えてるの?」

 命が両手に食料をかかえて帰ってきた。光も目印もない森を動き回り、それで正確に帰ってこれるのだからずごい。

 「いえ、ま、大したことではありません。ただ、こうして先輩と森をさ迷って、まだ二日なんだなと思いまして、それからいろいろとくだらないことを考えていました」

 言いながらゆっくり体を起こす。

 「哲也、動けないもんねー」

 ケラケラ笑いつつ、彼女は袋入りのパンをわたしてきた。手の荷物を見ると、ジャムやバター、それに缶コーヒーまである。なかなか文化的な食事に見えるが、バターなどは溶けてドロドロだった。

 「あはは、ぼくはヒマでしたからね」

 哲也が苦笑したので、命は自分の失言に気づいた。

 「あっ、あっ、私、別にイヤミを言ったんじゃないぞ。哲也はケガ人だしな!」

 「そんなこと、気にしてませんよ」

 ジャムやらバターやらでベトベトな彼女の手からパンを受け取る。あわてているその顔を見ていたら、なんだか笑えてきた。

 「でも、ほんとにそうだな。まだ二日なんだよな。停電だの、火事だの、大雨だの、濁流だの、竜巻だの、そんでとどめにライオンだもんな。まったく、次から次へと・・・。たくさん人も死んだよな・・・石館さんも、高田さんも・・・」

 明るかった声が湿る。

 「ええ・・・」

 「なあ、哲也」

 「はい?」

 「私たちは生き残ろう」

 「はい。彼らの分まで」

 死んだ人間は、もう戻らない。植物に壊された街も、もとに戻せるかわからない。それに、いまだ終息しない異常事態の中を生きている哲也と命の二人に、過去を振り返っている余裕もない。それでもとにかく前向きな心でいないと、死神がすぐやってくる。

 哲也たちはこの二日間で、そのことに気づいていた。

 

 その晩、哲也は寝つけなかった。

 むし暑く、胸は痛み、眠るどころか休むのもむずかしい。

 だが眠れないというのに、意識はもうろうとしてきて、どこか現実と夢の区別がつかないような気分になってきていた。

 かたわらに、大きく美しく白い、一匹のヘビがいるのに気づいた。

 白いヘビは、なまめかしくうごめきながら、狂おしく彼を見つめていた。赤い瞳が、切なげな吐息のたびにまたたく。

 それでも決して触れてこようとはしない。哲也のケガを心配しているからであった。

 もちろん彼は、最初からヘビの正体がわかっている。

 「こっちへおいで」

 声にだした。


 翌朝、哲也が目をさますと、熱は少し下がってくれていた。楽になってはいないが、動くのに問題はなさそうである。

 ゆっくり首をめぐらすが、命の姿がない。

 朝食をさがしに行ったのかな? まだ大丈夫だろうか。

 彼が心配しているのは命についてではない。なにしろ彼女は、目印のない森で迷わない人なのである。

 だから、危惧しているのは食料の鮮度のことであった。

 この状況では、賞味期限など守っていられないし、そもそもこれは冷蔵庫があるという前提で決められているはずだから、電気がとまり、気温と湿度も異常に高い今は、食品が傷むスピードは表示以上に早いはずであった。

 二人が食料を携帯せず、いちいち一食ごとにさがすのも理由は同じである。

 なにが起こるかわからないので身軽でいたいし、たとえ持ち歩いても食べ物が腐るのは防げない。ならばいっそのこと、食事のたびに新鮮なものをさがし出す方がいいのだ。ここは東京だから、スーパーマーケットもコンビニも、少し移動すれば必ず見つかる。

 だがそれも、そろそろ限界かもしれなかった。

 継続的に安全な食べ物を確保する方法か・・・。

 あれこれ考えるが、こんな状況になってしまうと、それはなかなか難問であった。

 

 それからしばらくたち、頭上から、また激しい雨が落ちてきた。

 「ち、また雨かよ」

 哲也のもとに帰ってきて食事をしていた命は、せっかくの数少ない楽しみに文字通り水をさされ、不機嫌そうにつぶやいた。思わず空をにらむ。

 「また大雨になるかもしれません。行くしかありませんね」

 口の中のものをムリヤリ飲みこみ、哲也は命をせかした。

 ケガ人の彼だって、ほんとうはまだ出発したくない。だが、この雨でまた何時間も立ち往生させられては、いつになったら家族と会えるかわからなくなってしまう。危険や疲労は承知の上で進むしかなかった。

 「先輩、青梅街道の位置はわかりますか?」

 「木の上から、かすかに大ガードが見えたから、たぶんわかるよ」

 「では、行きましょう」

 二人は歩きはじめた。

 空からやってくる水量は、確実に増えている。

 前回、木の上にいて失敗した経験から哲也は、今度は地上を移動することにしていた。だが、雨水はじょじょにその量を増やしており、水流から逃れるため、二人は否応なく木の上へ上へと追いやられつつあった。

 「雨はやんだわけじゃなかったのかよ!」

 八つ当たり気味の言葉を命がはいた。

 からみ合った枝が、天井のように空をさえぎるこの森だが、その間隙をぬって、大量の雨水が降りそそぐ。それはそのまま雨量の多さを物語っている。

 「さっきまでも晴れていたわけではないんですよ。ただ、竜巻や旋風が一時的に雲を散らしていただけで。この気温と湿度がある以上、雨は定期的にやってくるでしょう」

 「じゃあ、また雹や竜巻も?」

 「そうですね。その可能性は否定できません。

 ですが、あの時は急に気温や湿度が高くなったために、不安定な天候になりましたが、もうこの状況になってずいぶんになりますからね。

 雨はしかたないんですけど、雹や竜巻はそんなには起こらないでしょう」

 「そっか。また合っちゃったら、よほど運が悪いってこったな」

 「まあ、あまり運任せにしないで、雹や竜巻の発生には積乱雲が関係してますから、雷が鳴りだしたら注意するとしましょう」

 「なるほど」

 今は上方から雷の音はひびいてきていない。ひとまず命は安心した。

 

 二人の行く先に、小さな黄色い花を枝先につらねたナンキンハゼによって包まれた、大ガードが見えてきた。

 「先輩、よくこれが見えましたね」

 この付近はナンキンハゼをはじめとして、ユスリハやモクセンナなど広葉樹が多い。そのぶん視界が悪く、建築物なども覆い隠されていた。

 「そんなの簡単さ。上から見ると、森の中の直線のものって、とっても目立つんだ」

 「いや、たぶん、ぼくにはムリかと・・・」

 「そうかな。哲也だって、やればできんじゃね?」

 そう言って笑う命の瞳の中心は、薄闇の中で赤く輝いている。ちょっとターミネーターのようだ。

 あ、もしかして。

 「ところで今、色は見えていますか?」

 赤い瞳を見て思いついたことがあった哲也は、確認のために質問した。

 「色? あ、そう言われりゃ今は白黒だな。でも当たり前じゃん、暗いんだからさ」

 「やっぱり、そうですか」

 なっとく顔になる。

 人間の網膜の中の視細胞には二種類ある。一つは色を見分ける錐体で、残る一つは明暗を感じる桿体だ。この桿体という細胞は、遠くのものを見たり、物体の形を正確に把握する能力にすぐれており、その内部にロドプシンという赤い色のタンパク質をもっている。

 命は、この桿体がふつうより発達しているのではないかと、哲也は思ったのである。

 この考えが正しいのなら・・・。

 「哲也!」

 哲也の思考は、命の叫びによって中断させられた。

 「哲也、なにか変だぞ! ほら、この振動!」

 「え、ぼくにはなにも・・・?」

 たしかに、水流に根元を洗われた木々はゆれている。しかし彼には、命の言うような振動は感じられなかった。

 だが命の表情は真剣だ。彼女がこう言うのであれば、なにかがあると思ってよい。

 「振動の出どころってわかりますか?」

 「正面! 真正面!」

 命は前方の様子をうかがった。形のよい眉間と鼻にシワがよる。

 哲也も彼女と同じ方向に目をこらした。

 しかし彼には、分厚く何十にも重なりあった緑色以外に、見えるものなどない。

 「近づいてる」

 命は哲也を右手でかかえた。密着した彼女から緊張がうかがえる。かかえられて肋骨が痛むが、今はしかたない。

 「来た!」

 「な、なんだこれは!」

 ドオン!

 その球体の物体は、大ガードを粉砕しつつ、こちらへ転がって来た。

 大きさは直径五メートルから六メートルほど、動くたびに進路上のなにもかもを踏みつぶしつつ、水流を動力源に近づいてくる。そのスピードは、おどろくほど早かった。

 「哲也、逃げるぞ!」

 命は走り出した。

 「あれは、あれは、まるで・・・」

 哲也は、思わず叫んでいた。

 「レギオン!」

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 幕間 その五

 

 『それ』の内部には、千五百万度という高温の中心部があり、原子の核融合反応がつねに行われている。

 そして毎秒四百五十万トンのエネルギーをそこから生み出しつつ、これを百万年かけて自分の表面に運び、その内の約二十五億分の一のみを地球に送っている。

 これは、生きとし生けるものすべてにとって、めぐみの炎だ。

 だから地球上の全生命は『それ』に感謝している。もちろん人間も例外ではない。

 『それ』は大きく、あたたかい父親。

 『それ』はあらゆる宗教の中心。

 『それ』がのぼる東は誕生。

 『それ』が沈む西は死。

 

 だが、人間たちは知らない。

 実は『それ』とは、孤独に苦しむ、毎日に退屈しきった存在にすぎないことを。

 全知全能といえども、生きる苦しみから無縁ではいられないということを。

 『それ』は今日も地球をながめる。ほかにやることもない。

 

 今、地球上では、自己進化をとげた人間たちが、おのれの力をふるい始めていた。

 その変化のしかたは個々人でかなり差があるが、『それ』の観察で、地球人のすべてがウィルス進化を成していることがわかっていた。

 最初はわかりやすい変化をしている人間しか見つけられなかったので、ウィルス進化をしたものはみな、強い筋力を手に入れるのかと推測していた。だが、その後そんな単純なものではないと知れたのだ。

 現在、『それ』が見るところ、自己進化をしていない人間は皆無である。

 

 『それ』は人間をうらやましく思った。

 人間は『それ』とちがい、自由に自分を変えることができる。

 

 『それ』は、また地球を見た。

 そして今日も朝がくる。

 

 

 




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ