イルニアの魔女
この世界のどこかにあると言う楽園。セルティナ。
実際にその街を見た者はいない。人々の間でまことしやかに語り継がれている空想都市。
しかし、俺はその存在を信じている。
この世界のどこかに必ずあるその街を探して俺は旅を続ける。
そしてこれは、その途中に立ち寄った、とある街での話…。
「一番安いやつを1つくれ」
「はいよ」
旅の途中に立ち寄った街のパン屋。
この街は鉱山を中心に工業が発展し、この辺りでも1・2を争うほどの発展を遂げているようで、焼きたてのパンの匂いが香る街というのも久々だった。
夜中まで交代で作業を続ける男達のためだろうか、すっかり夜も更けたこの時間でもこの店は開いていた。
ついそんな匂いに釣られて店に入ってしまったのだが、俺は旅をする身。満足に腹を満たせるだけの金など持ち合わせてはいない。
しかし、入ってしまった手前、冷やかしで店を去るのも悪いものだ。
だから俺は一番安いパンを1つだけ注文して、それを受け取ると金を払ってすぐに店を出ようとした。
「っと、失礼…」
俺が店を出ようとするのと同時に店に入ってきた人とぶつかりそうになり、とっさに俺達は互いに半身で避け合った。
全身黒ずくめの姿と、すれ違いざまに微かに漂った匂いに異様さを感じ、その異様さは何だろうかと店を出て少し思いを巡らせていたのだが、そんな俺の耳にも届くほどの声が店の中から響き、むしろそちらのほうに異様さを感じた俺は、窓越しに中の様子を窺った。
「帰んな!」
「1つでいい…金はちゃんと持っているんだ」
「ダメだ。あんたには売れないよ」
「そう言わずに…1つだけでいいから…」
何かあったのか…?
客なのに売れないというのはどういうことだろうか…。
後になってみれば、俺も余計なことをしたと思う。
それに、芝居なんてしたこともない俺の演技はそれはそれは下手くそで見え見えだったとも思う。
でも俺は助けてしまったのだ。その黒ずくめの人間を。
「何揉めてるんだか知らないけど、買わないなら先にいいか?」
「帰りな。いくら言われても無理なものは無理だよ」
「……あぁ」
聞こえるか聞こえないか、そう言い残して黒ずくめは店を出て行った。
今のも倒れそうなフラフラをした足取りで…。
「悪いな。で、何だい?」
「あぁ、美味かったからもう1個貰おうとしただけさ」
「あんたも高いのを買ってくれりゃいいんだけどな」
そんな嫌味を言われながらも、俺はもう1つパンを手に入れた。
これで次の街まではまたサバイバル生活をしなければならないと思うと、少し後悔もしたが、そう思うよりも先に、俺はさっきの黒ずくめの後を追って、夜の街を走っていた。
「おい!」
ようやく追いついて肩を掴むと、その勢いにさえ負けて、ふらついた黒ずくめは俺に倒れ掛かってきた。
「何だ…いきなり」
「何で売ってもらえなかったのか知らないけど、ほら」
「ふざけるな!」
さっきまでの力の無さがまるで演技であるかのように力強く俺を跳ね除け、怒りに満ちた目で俺を睨む黒ずくめは、よく見ると髪が長く、顔付きも女性であるかのように見えた。
「お前、女か…?」
「だったら何だ」
「いや、そんなの着てるから男かと…。
それより、これ、食えよ」
「同情なら必要ない」
女は背を向けて行ってしまおうとした。
しかし俺はそれを許さず、再び肩を掴んで、今度は無理矢理その手にパンを握らせた。
「同情じゃない。ただ放っておくのは違う気がしただけだ。悪いことをしたな」
女がパンを自分で握ったのを確認して、今度は俺の方から背を向けた。
何故こんなことに関わろうとしてしまったのか、今になってようやく後悔をし始めることが出来た。
さっさと今夜の寝床を確保して、夜が明けたらさっさとこんな街は出て行こう。
そう決めて、俺は黒ずくめの女に別れを告げた。
「お前、旅人か?」
「ん?あぁ、そんなとこだ」
「そうか。じゃあ気を付けることだな。
私にこんなことをした事が知れたら、たぶんお前も、同じ目に遭うからな…」
「ご忠告どうも」
旅人なんて受け入れられるほうが珍しい。
そんなことにはもう慣れたし、今さらこんな相手に忠告されるほどのことでもない。
俺は宿を探すために黒ずくめの女と別れ、街灯に照らされながら夜の街を歩いていた。
「さっき魔女が街に下りて来たんだってな」
「また物乞いか?」
「いや、今回は金持ってたらしいぜ」
「へぇ…。どこで拾ったんだかな」
「知らねぇよ。けど、それでもパン屋の主人は追い返したって聞いたぜ」
「まぁそうだろうな…」
そんな話がどこからか聞こえてきた。
繁華街を歩いているから、誰の声かはわからない。
しかし、それがさっきの黒ずくめの女の話だということは分かる。
と言うことは、あの黒ずくめの女は魔女だったのか…。
魔女という言葉は知っていたが、それが実在して、自分の目の前にいたという事実に、俺はまだ半信半疑だった。
「まぁ俺達はあれだけどよ…。騎士団の耳に入ったら、また物騒なことになるだろうな…」
「狩りか…」
「あぁ…魔女狩りだ」
魔女狩り。
その恐ろしさを俺はまだ知らなかった。
パン屋の件から察するに、たぶんお城の兵隊さん達が、あの黒ずくめの女を捕まえて牢屋に入れる。
それくらいのことだろうと考えていた。
再び黒ずくめの女と出くわすまでは…。
パン1つが仇となり、俺の懐にはこの街で充分な宿を確保できるだけの温もりは残っていなかった。安価な宿を求めて、街外れまで歩いた俺だったが、それでもこの街には俺の止まれる宿は無かった。
今夜は野宿か。そう諦めて、安全な場所を探し歩いていた俺だったが、どうも街の様子が騒がしく、繁華街で耳にした話を思い出した俺は、再び街中の方へと足を向けていた。
「お前、こんな奴を見かけなかったか?」
「見てないよ」
同じ質問をすでに3回目。
当然、奴らが探しているのは魔女。つまり、俺がパンを渡したあの黒ずくめの女。
騎士達が持っていた似顔絵は、それはそれはあの黒ずくめの女にそっくりで、これは捕まるのも時間の問題だろうと、俺でさえ思ったほどだ。
「見かけたらすぐに知らせるように」
「あぁ、分かったよ」
そうして騎士達は再び魔女狩りを再開する。
さて、俺はどうしたものか。
俺は宿を探していたはずだ。しかし、足はいつしか宿の無さそうな街灯も無い裏道へと向いていた。
確信があったわけでもなければ、何かアテがあったわけでもない。
しかし、俺は見つけた。
顔が隠れるくらいに深く被った黒いヴェールから、少しだけのぞくその細くとがった顎。暗闇の中でその色までを見て取ることは出来ないが、クセひとつないほどに整えられた艶やかな長い髪。そして、「助けてくれ」と物陰へと俺を引き込んだ華奢な腕と指先。
どれを取っても、俺がパンを渡したあの黒ずくめの女そのものだった。
「助けてくれ…」
「ここでまた会ったのも何かの縁ってやつか?」
「縁でも何でもいい。追われているんだ…!」
「そんなこと言われてもなぁ…」
どうやら魔女は俺だということに気付いて腕を引いたようで、まるで俺が唯一の味方であるかのようにすがりついてきた。
「お前は本当に魔女なのか?」
「そんなのは、この街の奴らがそう呼んでいるだけだ」
「じゃあ、魔法は使えないのか?」
「私の魔法なんて下の下なんだ…」
「まぁ一応は使えるんだな」
「何故だ…。何故、魔法を使うだけでこんなに忌み嫌われるんだ…!」
「いや…まぁ落ち着けよ…」
たった一人として味方のいなかった人間が味方を見つけるとこうなるのだろう…。
たった2回しか顔を合わせていない俺にさえ、魔女は素直な気持ちをぶつけてきた。
さらに、魔女はヴェールを取り、その素顔を初めて露わにし、すがるような目で俺に対してさらに訴えた。
「この街から逃がしてくれるだけでいい…。力を貸してほしいんだ…」
「同情はされたくないんだろ」
この街から外へ逃がすなんて、そんな命懸けの綱渡りなど出来るわけがない。俺は魔女を突き放し、一歩二歩後ろへ下がって、後の様子をうかがっていた。すると魔女は絶望感に打ちひしがれたようにその場に座り込み、すべてを諦めたといった様子でうな垂れていた。
たぶんこのまま俺が去ってしまったら、いずれ騎士達がやってきて魔女を捕まえるだろう。
魔女は抵抗もせず、騎士達のなすがままに連れていかれてしまうのだろう。
そして、断首か銃殺か公開処刑か、いずれにせよ明日のうちには無惨な姿になってしまうのだろう。
たかがパン1つとは言え、自分の関わった人間がそんな姿になってしまうのは、いい気はしない。
しかし俺に何が出来るだろうか。俺は魔女でもなければ騎士でもない。ただの人間。ただの旅人。
そんな自分に出来ることは何も無いなどと考えていると、いつの間にか魔女は立ち上がり、空を見上げて何やらぶつぶつと呟いていた。
「どうした?」
「風が来る…。静かにしていてくれ。風を抑える呪文を唱えているんだ」
風を抑える?
風なんて地球の気まぐれだ。そんなものを抑えることに何の意味があるのだろう。
しかし、わざわざ呪文を唱えるくらいだから何かがあるのだろう。
俺は魔女が呪文を唱え終わるのを待ち、そして風を待った。
「来る…っ!」
魔女がそう言うと、穏やかな風が吹き始めた。
風は街中に吹き抜けながら、その強さを次第に増していき、それに合わせるように魔女狩りをしていた騎士達も、繁華街で一杯やっていた男たちも皆引き上げ、街はあっという間に閑散とし、人一人の姿すら見えない、まるでゴーストタウンと化していった。
「私達も隠れよう」
訳も分からぬまま、走り出した魔女の後を必死で追いかける。
魔女の速さこそまるで風のようで、脚力には自信のあった俺でも全速力で走らなければ置いて行かれてしまうほどだった。
「だめだ!間に合わない!」
しばらく走り続け、街中を流れる川に掛かる橋の上に差し掛かったところで魔女は足を止めそう告げた。
「何だよ、どういうことなんだ…?」
息を切らし、そう問いかける声すら途切れ途切れの俺に魔女は更なる難題を押し付ける。
「いいか、飛び込むぞ」
待て。いくらなんでも無理だ。
全速力で走った後に水の中に飛び込むなんて、死ねと言っているようなものだ。
しかし、俺は抵抗虚しく魔女に手を引かれ、呼吸を落ち着けて肺に空気を蓄える暇も無いままに川に引きずり込まれた。
当然、俺の息は10秒と持たずに切れ掛かり、何とか水面に這い上がろうと両手でもがいたが、魔女は俺の腕を強く握ったまま離さず、むしろ逆に自分の方へと引き寄せた。
一体何だと言うんだ…。俺はこんなところで死ぬのか…?そんなのは御免だ。
でも、もうこれ以上息は続かない…。意識も朦朧としてきた。
閉じていた口が開きかけるのが分かる。限界か…。
と、消えかかる意識の中で、死ぬことさえ覚悟した俺の唇に何かが触れた。
あの世の天使達が迎えにでも来たのだろうか…。
柔らかく触れたその感触が次第にハッキリとしてくるのを感じ、俺は目を開けた。
生きている。でも何故だろうか、視界は真っ暗だ。
水の中にいながらも風の音が聞こえる。
ビュービューなんて生易しいものではない。ゴゴゴゴゴと地響きのような唸る音。
木がバキバキと音を立てている。この風で折れたのだろうか…。
確かにそんな風の中に生身の人間がいたら危険だったかもしれない。
水の中にいなかったら、今頃俺はどれくらい遠くへ飛ばされていたのだろうか…。
色々なことが頭の中を巡れるほど、俺の意識はハッキリと戻っていた。
なのに、依然として視界は暗いまま。唇に感じる温かな感触も相変わらずだ。
それからどれくらいその状態が続いたことだろうか、風の音も聞こえなくなり、静けさが戻った頃、俺の視界にもようやく光が戻って、水面に映る月に我に返り、俺は水面に顔を上げた。
「まったく、だらしないな。こんなところで死ぬつもりか」
「飛び込んだのはお前の方だろう…」
何度も何度も口元を拭いながら、魔女は俺への不満を次々に口にしていた。
必要以上に続けるその仕草に、俺もようやくそれが何であったかに気付いて、自分の唇に手を当てた。
「そうでもしなければ死んでいただろうが……」
「あぁ…。すまない…」
「とにかく、一旦帰ろう。このままじゃ風邪をひくから」
自力で岸に這い上がった俺達は、当然のことながら頭の先から足の先までずぶ濡れで、弱まったとは言え、まだ風が吹きつけるこんな場所にいたら、確実に熱を出し兼ねない状態だった。
「帰るって、どこへ」
「仕方が無いからうちへ来ればいい。着替えは無いが、火に当たるくらいはしていけ」
「あぁ…」
魔女に案内されるまま、俺はその後を付いて行った。
街外れの雑木林の中を抜け、開けた草原を通り、山道とも言い難い獣道をただひたすらに登り、
1時間2時間、ずぶ濡れのままの姿で歩き続け、ようやく辿り着いたのは、ごく普通の木造のロッジのような建物だった。
「結構普通なんだな」
「これはカムフラージュだ」
何のためのカムフラージュか。
こんな立派なロッジ風の建物にしてしまったら、誰かが山小屋か何かと勘違いをして、逆に人が寄り付いてしまうようにも思えてならなかったのだが、本人がそう言うのなら、何か意味があるに違いないんだと解釈して、俺は中に入った。
「中も普通なんだな…」
「何ださっきから、普通で悪いのか?」
「いや、別に…」
決して広いわけではないが、暖炉があり、食卓を囲めるほどのテーブルと椅子があり、1人で暮らすには充分すぎるほどの内装に俺はある意味落胆して、でもこれが今夜の寝床かと思うと、久々にまともな睡眠が取れると安心もした。
「私のものしかないからな…。とりあえずこれで隠してくれ」
魔女が渡したのは、カーテンにでもするような大きい布だった。
まぁこれだけ満足のいく寝床を与えられたのだから、この際それは我慢しようと、俺は濡れた服を脱ぎ、それをひとつひとつ暖炉の前に干して、渡された布を大昔のギリシャ人のように身に纏い、自らも暖炉の前に座り冷えた身体を温めた。
「飲むか?」
暖炉の火をボーっと見つめていた俺は、その声で我に帰った。
自分の分と俺の分。魔女は、右手に持った方を啜りながら、左手に持った方を俺に差し出した。
「少し詰めてくれ。私も温まりたい」
俺が体一つ分左へずれると、魔女は俺の隣に座った。
「ん…。お湯か?これ」
「お湯に魔法の粉を溶いた物だ」
魔女の口から魔法の粉なんて言葉と聞いてしまうと、いかがわしさが2倍にも3倍にも増して聞こえる。
しかし、味は悪くない。
何が入っているのかは知らないが、色々な街を旅する俺でさえ、初めて口にする味だった。
「こんな呑気なことをしてていいのか?」
「安心しろ。ここには兵隊は来ない」
「随分と強気なんだな」
「奴等の目的は、私の家を探すことではないからな…」
「魔女狩り…か」
魔女を捕まえることが目的であれば、その棲み家を探してしまえば早い話だと俺は思った。
しかし、どうやら騎士達の目的はそうではないらしい。
魔女狩り。
俺はその恐ろしさとおぞましさを魔女の口から聞くこととなった…。
「魔女のミイラを見たことはあるか?」
「見たことは無い…。どこかの博物館にあるという話は聞いたことはあるが…」
「その魔女がどんな姿をしているか、知っているか?」
「いや…」
魔女は膝を抱えて目を瞑り、思い出すことさえ辛いその画をパチパチと燃える炎に投影させながら続けた。
「両腕を落とされているんだ…。
切られた両手は捨てられるでもなく、体とは別に保存されて、本当に切り離しただけの状態なんだ…。
いや…それだけじゃない…」
魔女は俯き、膝に頭を乗せた。
「両胸まで切り取られて、子宮をえぐり取られて…。
それこそが、魔女狩りに遭った魔女の姿なんだ……」
「……酷いな」
「殺されるだけならまだいいさ…」
魔女の口元を見ると、半分笑っているようにも見えた。
しかし、もう半分は泣いているようにも見えた…。
「奴等は悪魔を捕まえて粛清すると言う…。
でも、粛清なんて口だけさ…。どうやって捕まえた魔女を清めると思う」
俺には答えられなかった。が、魔女は答えなど期待していなかったかのように話を続けた。
「犯すんだよ。徹底的に。
腕を一本落として魔女を動けなくして、それから1人ずつ順番に、全員に犯されるまで終わらない。
溜め込んだ性欲を爆発させて、魔女をその捌け口にするのさ。
何十人に犯される間に、腕が致命傷になって死んでしまえばそれが楽なのかもしれない。
でも、それでもまだ魔女が生きていたら、奴等は剣を抜くのさ。
そして、ついさっきまで自分達が犯し続けていた部分に剣を当てて、一気に突き刺すんだ。
いや、突き刺すだけじゃない、そのまま切り開くんだ。
そして、何十人に穢され続けた子宮を取り出して、串刺しにするんだ。
もう魔女は生きてはいないよ。それで終わりさ。
残ったもう片方の腕は、バランスが悪いから、運びやすいように切り落とすだけ。
穢れた悪魔を粛清するんだと大義を掲げている奴等がそのざまだ。
まったく…涙も無いよ…」
「そんなことをされるかもしれないのに、何故この街に居続けるんだ…?」
それは俺の率直な疑問だった。
確かに騎士達の行為はおぞましい。
しかし、そうであればもっと他に魔女を受け入れてくれる街もあるのではないかと思えてならなかった。
「魔女はな、意味もなくその街に住み着くわけじゃないのさ。
魔女にも魔女なりの理由があるんだ」
「じゃあ何のためにここにいるんだ?」
「"イルニアの風に乗って魔女が降り立ちし時、街は滅び、世界は終焉に向かう"」
「何だそれ…」
「この街に古くからある言い伝えみたいなもんさ。
でも、元々の言い伝えは、全然違うんだ」
魔女は一度奥の部屋へ行き、大きな魔術書のような本を両手に抱えて戻ってくると、それを俺の前に広げた。
「これを魔女以外の人間が見るのは初めてかもしれないな」
「いや…言葉が読めないんだが…」
「"イルニアの風に乗りし魔女は、滅びし街に奇跡を起こす"」
「さっきのと全然違うな。むしろ真逆だ」
魔女は重そうに本を閉じると、再び炎を見つめながら、俺に言うのだった。
「人間が言い伝えをどんな形に変えようが、私達は正しい言い伝えを継承して、
その日が来るのを待つだけなんだ。
そして、それが危機であれば、魔術によって人間を救う。
それまでは何があってもその土地を離れることは許されないし、
それが終わってしまえば、私達は帰れるんだ。セルティナへ…」
「今…何て言った…!?」
「何がだ…?」
「セルティナ。お前、セルティナを知っているのか!?」
「いや、知っているも何も…セルティナは魔女の故郷じゃないか」
「じゃあ、お前はセルティナの場所を知っているんだな!?
教えてくれ!俺はセルティナを探して旅をしてるんだ!」
「そうか。でも、残念だったな
そろそろ効果も表れてくる頃だろう。今夜はゆっくり休むといい。
朝になれば、お前はすべてのことを忘れているだろうから…」
その声がすべて聞き取れたかどうか、意識は一瞬のうちに飛んでしまい、俺は床に倒れ込むとそのまま眠ってしまった。
気が付けば、火の消えた暖炉の前で、窓から差し込む朝日に照らされていた。
暖炉の前には乾ききった俺の服が干してあり、俺は再びその服に着替えると、まずはここがどこなのかを確かめるように歩き回った。
「起きたか」
俺の後ろでドアが開き、奥から女性が現れた。
この家の住人だろうか…。
「世話になったみたいだな。これと言った礼も出来ないんだが…」
「ちゃんと礼は貰ったよ。憶えてないのか?」
「あぁ…まだちょっと頭がボーっとしてる…」
「そうか。まぁそのうち思い出すだろう」
「あぁ。じゃあ俺は行くよ」
「気をつけてな」
外に出ると、そこは繁華街のど真ん中だった。
俺は頭の片隅の方で少しだけ違和感を感じつつも、多くの人々で賑わう繁華街へと繰り出した。
繁華街をしばらく歩くうちに気付いたことがあった。
銀色の鎧を身に纏った大勢の兵士達が、何やら聞き込みを行っている姿がやたらと目に付く。
しかし有力な情報は得られていないようで、皆一様に疲れきった表情をしていた。
俺も何か知っていることがあれば協力してやりたいのだが、あいにく旅人の分際では、有力な手がかりとなる情報など持ち合わせてはいなかった。
時々声を掛けて来る兵士を一人ずつかわしながら、さらに繁華街を進み、ようやくその終わりが見え始めた頃、再び周りの様子に目をやると、何やら人々の様子がおかしかった。
それに、さっきから臭うこの焦げ臭さは何だろうか…。
ふと空に目をやると、遠くの方に雲のような黒煙が上がっているのが見えた。
臭いの正体もさっきから人々が騒いでいたのも、正体はあれか…。
そう思ったところで、俺には何が出来るわけでもないし、ましてやここの住人でもないから俺には関係が無い。強いて言えば、火の手が街中にまで及んで寝床となるべき宿が燃えてしまったら、それは俺にも関係があるけれども、今からこの街を出て行こうとする俺にとってはそんな心配は無用だった。
「おい。あんたも隠れな!」
「いや、俺はもうここを出て行くんだ」
「あぁ?何言ってんだよ、風が吹くんだぞ?外にいたら死ぬに決まってんだろ」
風が吹く?
風が吹いて人が死ぬなんて、そんな話はよほどの台風や竜巻で無い限りは聞いたことが無い。
こんなに晴れていて、こんなに心地良い風が吹いているのに、何故この人はそんなことを言ったのか。
俺には全く理解は出来なかったが、でも頭のどこかでは分かっていた。
きっとこれから風は強さを増して、木々も簡単になぎ倒されるくらいになる。
そしてその風はあの黒煙を街へと運び、さらには煽られた炎が街の方へ向かって燃え広がる。
しかし、風が吹いているうちは外へは出ることは出来ない。
風が止むのを待つうちに人々は逃げ遅れ、甚大な被害が出てしまうのだろう…。
しかし、逃げられないのは俺も同じこと。
ならばいっそ、この場で…。
さすがにそんな安易な思考になることはないが、そんなことを考えている間にも風は強くなり、俺は仕方なく声を掛けてくれた人の家に上がり、窓から外の様子を伺うしか出来なかった。
「神の悪戯か…魔女の仕業か…」
魔女。
その言葉に俺は妙に引っかかるものを感じた。
しかしそんな引っ掛かりよりも気掛かりなのは外の様子だ。
思ったとおり、火の手は街に及んでしまっていた。
しかし、風が吹き続けているために、誰も火を消しに行くことは出来ていない。
「製鉄所の火が回ってきたな…。風が強すぎて火の手が早すぎる…。
このまま火薬工場やら薬品工場に火の手が回ったら、この街は終わりだな…」
この家の主人も、外を見ながら俺に言った。
「"イルニアの風に乗って魔女が降り立ちし時、街は滅び、世界は終焉に向かう"
言い伝えは本物だったか…」
諦めて覚悟を決めた様子で、主人は椅子に座った。
最後の一服だろうか、天井を見上げたままパイプをプカプカと吹かしている。
「魔女だ…」
「ついに来たか…」
吹き荒れる風の中、お決まりの箒のような物に乗って、魔女はやってきた。
窓からしか覗くことの出来ない俺は、何度も位置や角度を変えながら魔女を追い、
自分でも何故だかわからないが、きっと魔女がこの事態を何とかしてくれると信じて、その姿をじっと目に焼き付けていた。
「そんなに世界の終わりが見たいのか…?」
「いや、あの魔女はそんな奴じゃない…」
そんな言葉が出たのも、信じて願う気持ちが強かったからだろうか。
それとも、今朝からずっと唇に残り続ける微かな温もりのせいだろうか。
どちらにしろ、俺は信じていた。
魔女は風を操り、迫り来る火の手を抑え、自らの使命と共にこの街を守る。と
「風が…止んできたな」
主人は、それが信じられないような声で呟いた。
「火は…どうなった…?」
「もう大丈夫だ。煙も出ていないよ」
「まさか…そんなことがあるわけがない…。
魔女が街を救ったとでも言うのか…」
俺は深く頷いた。
他の誰が魔女の姿を注視していたかは分からない。
でも俺はちゃんと魔女が成し得たことのすべてをこの目で見届けていた。
そして人々がそんな魔女の姿を探して外に飛び出してくる様子までもを見届けて、俺は窓から離れた。
もうこの窓から見るべきものは何も無い。
そして、もうこの街に居続ける必要も無い。
俺は主人に一言の礼だけを告げて街を出た。
***
さて…次の街へと続く道はどちらだろうか。
海沿いへと続く道か、旅の間幾度と無く越えて来た山道へと続く道か。
「たまには海も…悪くないな…」
特別海を綺麗だと思ったことも無いし、どちらかと言えば山のほうが好きだ。
でも、何故か直感的にそう思った俺は、旅の中で初めて海沿いの道を選んだ。
小高い丘の上に立ち、半島状の切り立った崖とその先に広がる広大な海を見下ろす。
吹きぬける風がとても心地良く、海もなかなか良いものだと感じさせてくれる。
歩き疲れた足を休めるためにも、もう少しだけこの風を感じていようと思い、俺はその場に寝転がった。
雲一つ無い大きな空。その姿さえ今の俺には広大な海のように映る。
空や海の大きさに比べれば、俺なんてちっぽけなものだ。
俺が探し求めている楽園でさえ、本当はちっぽけなものなのかもしれない。
どこにあるのかも分からない理想郷。本当にこの旅の先にセルティナはあるのだろうか。
もしかしたらそれは、この広い空の中にたった一つの星を探すようなものなのではないだろうか。
もしかしたらそれは、この広い海の中どこかに沈む財宝を探すようなものなのではないだろうか。
いずれにしろ、それは奇跡に近い確率だろう。
そんな低い確率の中で本当にセルティナを探し出せるのか。
そんな不安な気持ちにさえなる俺の頭上を何者かの影がよぎって、俺は体を起こした。
「何か思い出せたか?」
「何だ、あんたか。また会うとは奇遇だな」
それは、今朝俺が目覚めた家にいた女だった。
「その様子じゃ思い出してはいないようだな」
「何、訳の分からないことを…」
女は俺の目の前に顔を寄せ
「すべて思い出させてやろう」
と言うと、自らの唇を俺の唇に重ね合わせた。
何が起きたのか分からない俺だったが、触れた唇を感じた瞬間、一瞬だけ意識が無くなり、
次に目が覚めたときには、女の言うとおり、色々なことを思い出していたのだった。
「行くか?セルティナへ」
「その前に、お前のことは何と呼べばいい…?
魔女なんて呼び方は変だろう?」
「マヤと呼んでくれ。それが私の名だ」
「そうか。良い名前だな。俺はウィリアムだ」
「良い名前だ」
そして、俺達はセルティナへ向けて歩き出した。
マヤの故郷であり、俺の目指す理想郷。
そこがどんな場所なのかはまだ知らない。
楽しみとして取っておくためにもマヤには聞かないし、マヤもそれを察して言おうとはしない。
一つの風によって引き寄せられた偶然は、運命となって俺達を結びつけた。
しかし、イルニアに風はもう吹かない。
あんなに強く猛威を振るっていたイルニアの風は、マヤの力によって魔法と化され、今はマヤが自由に操れるものとなっていた。
「魔女も笑うんだな」
「あはは。何だそれ、笑うに決まってるじゃないか」
無邪気そうにマヤが笑うたびに心地良い風が吹き抜けていく。
イルニアの風は、今も俺達の間に強く強く吹き続けている。