割れ鍋に綴じ蓋
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割れ鍋に綴じ蓋という言葉がある。
スウェルヴェン公爵家の嫡男シルヴァと、マウンティア公爵家の長女ミリスの関係はまさにそれであった。
ただし当人たちがそれに気づくまでには、いささか回り道が必要だったのだが。
──もっとも気付いたのかどうかすら、実のところ定かではないのだが。
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ミリスは鏡台の前に座った。
淡い桃色の髪が肩口で緩く跳ねている。癖の強い髪だった。幼い頃からどう整えても跳ねるので朝ごとに侍女と格闘しているのだがこの髪は一向に言う事を聞かない。いっそ短く切ってしまいたいとずっと思っているのだがこのホラズム王国においてそれは許されない。淑女は髪を長く保ち控えめに結い上げるものとされている。
何もかもそうだ。
控えめに。慎ましく。男の三歩後ろを歩き、口数は少なく、決して出しゃばらず。
それなのに、とミリスは一つ溜息をついた。鏡台の上に置いた籠の中にある林檎を手に取り、かじる。甘酸っぱい果汁が口に広がるとほんの少し気分が持ち直す。ミリスは酸味の強いものが好きなのだ。
──昨日もやってしまったわ。
茶会の席でカーライル伯爵令息が隣国との穀物取引の税制について見当外れな持論を展開したとき、ミリスは思わず口を開いてしまった。このミリスという女は、馬鹿を馬鹿として放置できない悪癖があるのだ。
「それは二年前に王宮が発布した改訂税令の第三条と矛盾しますわ」
彼女の弁は間違いなく正しい。だが場の空気は凍りつき、カーライル伯爵令息は顔を真っ赤にしてミリスを睨みつけ、挙句の果てにミリスの母親は帰りの馬車の中で彼女を叱った。
「あなたは公爵家の令嬢でしょう。殿方の面子を潰すような真似をしてどうするの!?」
彼女の母の言葉は正しい。少なくともこのホラズム王国では。
女が男の知識の誤りを正すなど言語道断。ましてや公の場で。それは紳士を辱める行為であり淑女として最も恥ずべき振る舞いなのだ。
その辺の理屈はミリスとて分かっている。分かっているのだ。
だが。
侍女が紅茶を注いでくれるとき母が髪を梳いてくれるとき、誰かの手が自分に向けられるたびに体の芯がじんわりと温まる。それを当然だと思ってしまう自分がいる。いやそれではまだ生ぬるい。この世界の生きとし生けるものすべてが自身に傅いて当然という極まった自尊心が、ミリスの骨の髄まで染みているのだ。
──わたくしって傲慢ね。
鏡の中のミリスが林檎を齧りながら薄く笑っている。その笑みには一片の反省もなかった。
◆
こんな傲慢女のミリスではあるが──婚約の打診は後を絶たなかった。
それも当然で、マウンティア公爵家は王国有数の名門でありミリスはその嫡流の長女である。容姿端麗、頭脳明晰。多少気が強いという噂はあるもののそれを差し引いても余りある家柄と教養を持っていた。
だがどの縁談もうまくいかない。
理由は様々だったが煎じ詰めれば一つに行き着く。ミリスがどうしてもいわゆる三歩後ろを歩けないのだ。
ザッハーク侯爵家の嫡男とは乗馬の腕前を競ってしまい破談。ベルトラント伯爵家の次男とは晩餐会で相手の食器の使い方を無意識に直してしまい破談。フィッシャー子爵家の長男に至ってはミリスが先に扉を開けて通してしまったという些事で「男を立てられぬ女」の烙印を押された。相手が負けたのが悪いのではなくミリスが勝ったのが悪いのだと母は溜息をついた。
ミリスは自室の窓辺に頬杖をついて庭園の薔薇を見下ろした。指先で無意識に自分の桃色の髪をくるくると巻いている。物憂げに溜息を一つ。
──わたくしって駄目ね。
この国の女性は皆自然と男を立てることができる。ミリスの母も祖母もそうだった。周囲の令嬢たちもそうだ。それが苦痛だとか屈辱だとか、そういう素振りは微塵も見せない。本心はどうか知らないが少なくとも表面上は息をするように振る舞えている。
なぜ自分にはそれができないのだろう。
そんな風に、ミリスもミリスなりに悩んでいたのである。
◆
シルヴァ・フォン・スウェルヴェンは自室の書斎机に向かい燭台に火を灯した。まだ夜明け前だった。
机の上には昨夜読みかけの紡織技術の論文が広がっている。領地の繊維産業を改良するための調査で夢中になっていたら日付が変わっていた。冷えた茶の入ったカップが論文の脇に置きっ放しになっている。この男は何かに没頭すると飲食を忘れる癖がある。書斎にはいつも古い紙とインクの匂いが澱んでいて本人はそれを心地よいと思っている。
スウェルヴェン公爵家の嫡男。文武に秀で容姿に恵まれ社交にも長けている。王太子レオポルドの腹心として将来を嘱望された青年──ということになっている。
そう、「なっている」のだ。
この国の男は学問よりも武芸を尊ぶ。外交よりも戦勝を語り経済よりも剣術を磨く。それが男らしいとされている。シルヴァも剣術はそつなく──騎士団長にすら勝るほどの恐ろしく高い水準で──こなすが本心では紡績機の構造のほうが百倍面白いと思っている。
武は人を殺せるが知は国を殺せる。すなわち殺せるなら生かすこともできる──だからこそ積み上げるならば知なのだ、とシルヴァは考えている。
そんなシルヴァに彼の父が求めるものは「堂々たる態度」であり「女を導く力」であり「一家を率いる威厳」だった。小賢しい知などではない。とはいえシルヴァは父親の求める姿を完璧に演じてみせていた。社交の場では誰よりも朗らかに笑い狩猟では先陣を切り女性には鷹揚に振る舞った。
無論、それらすべてがシルヴァにとっては仮面である。
本当の彼は相手のために手を動かしているときが一番心が落ち着く人間なのだ。紅茶を淹れてやりたい。外套の埃を払ってやりたい。相手が寒そうにしていたら自分の上着をかけてやりたい。困っていたら助けてやりたい。
なぜならばそれこそが支配の本質だからである。
そう、この男は柔ではない。己を頂点捕食者だと信じて疑わぬ、傲慢極まる生来の覇者である。シルヴァが構う相手の精神をやけに充足させるのは、彼が相手の精神の一挙手一投足を掌握しているからだ。
支配者という者は自身の影響力を周囲に見せつけたがるのが洋の東西を問わぬ所ではあるが、シルヴァにとってそれこそが自身の能力の喧伝に他ならないのである。
しかしこの国において男がそれをやれば「女々しい」の一言で片付けられる。
これは深刻な問題だ。
ホラズム王国において「女々しい」は単なる悪口ではない。社会的な死刑宣告に近い。
この国には「男徳」という概念がある。武勇、威厳、寡黙、不動。この四徳を欠く者は爵位の継承から騎士団の推挙から婚姻の市場から──要するに貴族としての一切から弾き出される。三十年前ドルンブルク伯爵家の嫡男が「刺繍を趣味とする」という理由で男徳不足の認定を受け弟に家督を奪われた。刺繍だ。針と糸で布に花を縫っていただけで伯爵の椅子を失ったのだ。
互いが互いの仮面を被って堂々たる男と慎ましき女を演じ続ける。好きで被っているのではない。脱げば死ぬから被っているのだ。それがホラズム王国の社交というものだった。
◆
そんなシルヴァもまた、婚約の打診には事欠かなかった。名門スウェルヴェン公爵家の嫡男で若くして領地経営の才を示し王太子にも信頼されている。
だがうまくいかない。
ガラーゼ侯爵家の令嬢との食事会では彼女のグラスが空になった瞬間に自然と手が伸びていた。給仕よりも先に水差しを掲げてしまい令嬢は目を丸くし、その父親は露骨に不快そうな顔をした。「公爵家の嫡男が給仕まがいの真似をするとは」と。
シルヴァに媚びるつもりがなくとも、周囲はそうは考えない。男徳欠けたる者──そう見られる事はこの国では大きなリスクとなる。
結句、シルヴァとしてはフラストレーションを募らせる日々を過ごさざるを得ないのだった。
◆
それからやや時は流れ、王都ホラディアの秋の夜会が開催された。
ミリスは薄紫のドレスを身にまとい会場の隅で壁の花と化していた。
踊る気にはなれなかったのだ。先月断られたばかりの縁談の相手ヴァルゼ侯爵家の嫡男がホールの中央で別の令嬢と優雅に踊っているのが目に入ったから。やる気が皆無のミリスに比べ、あちらの令嬢は完璧だった。相手に合わせて半歩退き微笑みは控えめで視線は常に相手の胸元あたりに──つまり「見上げる」でもなく「見下ろす」でもない絶妙な角度に保たれている。
ああいう風にできたらいいのに、とミリスは思った。
とはいえそんな事をするくらいなら死んだ方がマシだという思いも同時にあるのだが。
「マウンティア嬢ですな」
声をかけてきたのは初老の紳士でどこかの子爵だったはずだ。名前が出てこない。
「こんな場所で壁としけこんでいらっしゃるなど、もったいないことですぞ。どなたかお相手を──」
「結構ですわ。壁は何も要求してきませんもの」
また言ってしまった。子爵は頬をひくつかせて去っていく。ミリスは額を手のひらで覆った。
──もう帰ろう。
踵を返した瞬間、誰かと肩がぶつかった。
「あ──失礼」
低い声だった。ミリスが顔を上げると銀灰色の髪の青年が立っている。蝋燭の灯りを受けてその髪が微かに光っていた。右手の指先に小さなインクの染みがある。
スウェルヴェン公爵家の嫡男、シルヴァ・フォン・スウェルヴェン。
ミリスはその名前と顔を知っていた。知っていたが話したことはない。
マウンティア公爵家とスウェルヴェン公爵家は犬猿の仲だ。犬と猿どころか龍虎の争いと言ったほうが正確かもしれない。
百年前の王位継承戦争においてマウンティア家は第一王子ヴェルナーをスウェルヴェン家は第三王子オスヴァルドを擁立し、王国を二分する戦を繰り広げた。結果は第一王子派の辛勝に終わったが、その過程でスウェルヴェン家の当主は戦場で討ち死にした。
だが勝者であるマウンティア家も無傷では済まなかった。新王ヴェルナーは内戦の再来を恐れ「戦時の越権行為」を名目にマウンティア家の領地の三割を王家直轄として接収したのだ。
勝ってなお切り取られる──その理不尽さたるや。かくして勝者も敗者も傷だけが残る典型的な内戦が完成した。
以来両家は同じ夜会に出席していても互いの存在を素通りするのが暗黙の了解となり、万が一廊下ですれ違えば微かに顎を引くだけで言葉は交わさない。子供たちは物心つく前から「あの家の人間とは口をきいてはなりません」と教えられた。
百年という歳月は憎悪を風化させるには十分だが、習慣を消し去るには短すぎる。誰ももう恨んではいないのに誰も最初の一歩を踏み出さない。両家の間に横たわるのは、そういう種類の断絶だった。
「お怪我は」
シルヴァが言った。そしてミリスのドレスの裾が乱れているのに気づいたのだろう、自然な動きで膝を折ろうとする。
ミリスの目が丸くなった。この国の男が女の前で膝を折る? ドレスの裾を直すために?
シルヴァもまた自分が何をしようとしたか気づいて硬直した。
二人の視線が交差した。
ミリスの琥珀色の瞳とシルヴァの銀灰の瞳が正面から噛み合った。ただの視線の交差ではない。互いの眼球の奥にあるものが瞬時に牙を剥いて威嚇し合い、ぶつかり合い、そして一拍の後にふっと力が抜けてほどけるように絡み合ったのだ。
ミリスはシルヴァの目の奥に、
シルヴァの頬にうっすらと赤みが差す。慌てて姿勢を正し何事もなかったかのような涼しい顔を取り繕おうとする。
だがもう遅い。
「あの」
ミリスは言った。いつもの慎ましい令嬢の口調ではなく素の声で。
「直してくださらないの?」
沈黙。
シルヴァが微かに目を見開いた。
「……え?」
「裾。乱れたままですわ」
ミリスは自分でも信じられないことを言っている自覚があった。初対面の男に裾を直せと命じるなどこの国の常識からすれば狂気の沙汰だ。だがなぜか口が止まらなかった。
迷いは一瞬だった。
シルヴァはするりと膝をつきミリスのドレスの裾を丁寧に整えた。繊維の一本一本を確かめるように手を動かし皺を伸ばし刺繍のラインを正しい位置に戻す。その手つきは妙に慣れていた。
「──ありがとう」
ミリスの声が蜜を含んだように柔らかくなっていた。
シルヴァは顔を上げた。跪いた姿勢から見上げるミリスの顔は燭台の灯りを受けて琥珀色の瞳が金に輝いて見える。
その瞬間シルヴァは理解した。何を理解したのかは判然としない。しかし理解したのだ。
「いえ」
シルヴァは立ち上がりながらほとんど無意識に付け加えた。
「他にも何かありますか」
シルヴァの脳が一拍遅れて追いついた。自分は今初対面の令嬢に「他にも何かご用は」と言ったのだ。まるで召使いのように。
だがミリスは笑った。上品に口元を隠すのではなく本物の笑いだった。目尻に皺が寄り白い歯がちらりと見えて肩が小さく震えている。
「ええ。ありますわ」
「喉が渇いたの。何か持ってきてくださる?」
シルヴァの口元が綻んだ。
「良いでしょう」
◆
「あなた、変な人ですわね」
「よく言われますね」
「褒めているのです」
シルヴァは少し困ったような顔をしてそれから小さく笑った。シルヴァがテラスに運んできた紅茶は冷め始めていたがミリスはそれを構わず啜った。甘さよりも渋みの方がこの夜にはよく合う。秋の夜風が二人の間を通り抜けテラスの石畳から這い上がる冷気がミリスの足首を撫でた。
「ねえ、シルヴァ様。あなたはどうして、そんなに自然にわたくしの世話を焼けるのですか? 殿方はそういう事をしたがらないでしょう?」
「まあ、性分といった所でしょう」
シルヴァは星空に視線を移した。
「母上には『男がそのような真似をするものではありません』と何度も叱られたものです」
「お母様に」
「ええ」
ミリスは小さく頷いた。よく分かる。ミリスの母もそうだ。「女はこうあるべき」と最も強く訓じてくるのは女自身なのだ。
「わたくしもね」
ミリスは目を伏せた。
「幼い頃から、人に尽くされるのが心地よくてたまらなかったの。食事の支度を侍女がしてくれるのは当たり前だけれど、そうじゃなくて……もっと、こう。わたくしのためだけに手を動かしてくれる人がいると、体の芯がぽかぽかするの」
言ってから顔が熱くなった。なんという告白だろう。初対面の男に。
「分かります。私は逆だ。相手のために手を動かしているときが一番落ち着く。ボタンを留めてやる。髪を梳いてやる。上着をかけてやる。それが……ああ、変に聞こえるでしょうが、喜びなのです」
ミリスはグラスの縁を指先でなぞりながら考える。
──してやる。
シルヴァは三度そう言った。「してあげる」ではない。「させていただく」でもない。してやる。上から下へ降ろす言葉だ。
「ねえ、シルヴァ様。少し窮屈だから、言葉を崩しても良い?」
「ああ、では私もそうさせてもらう」
「……うん、こちらの方がやっぱり話しやすいわね。ところで、一つだけ聞いてもいいかしら。率直に答えてほしいの」
「聞こう」
「あなたが誰かの世話を焼くとき──あなたはその人より、上にいるつもりかしら?」
ひゅるり、と秋の夜気が二人の間を通りすぎた。
シルヴァの目がミリスを正面から見据えた。涼しげで朗らかな社交用の微笑がするりと顔から落ちる。
「……ああ」
たった一言の返答に滲む声色はやや精彩を欠く。いくつかの懸念といくつかの打算がせめぎ合い、瑞々しさを失った結果だ。
「そう」
ミリスは紅茶を一口啜った。ぬるくなっていた。
「不遜ね」
「自覚はある」
「でもね」
ミリスはカップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う小さな音が妙にくっきりと響いた。
「わたくしもまた、尽くされるのは当然だと思っている人間よ。わたくしの世話を焼いてくれる人がいるなら、それはわたくしがそうされるに値するからだと心の底から信じている。あなたはこの考えについてどう思う?」
「しないな」
「そう。ならわたくしたち、仲良くなれそうね。家同士の関係は最悪だけど。あなたはスウェルヴェンだもの」
「確かに。君はマウンティアだ。だが、君との関係は奇貨だ」
「そうかしら?」
「今まで、私のこれを見抜いた人間がいなかった。裾を直されて喜ぶ令嬢はいた。水を注がれて感謝する淑女もいた。だが──私がなぜそうするかを正確に見抜きしかもそれでいいと言える人間はいなかった」
シルヴァの銀灰色の瞳がミリスを射抜く。
「君が初めてだ」
「わたくしもよ。尽くされることを当然だと言ったらこの国では傲慢だと叱られるの。控えめになさい、慎み深くなさい。でも──それってわたくしに嘘をつけと言っているのと同じだわ。あなたはわたくしに嘘をつかせない。わたくしが『直してくださらないの』と言ったときあなたは顔をしかめなかった。当たり前みたいに膝をついてくれたでしょう。あの瞬間、わたくし──」
ミリスはそこで口をつぐんだ。
「……忘れてちょうだい」
「忘れられないと思うが」
「忘れなさい。命令よ」
「命令か」
シルヴァの口元がまた綻んだ。
「では──命令に従おう。ただし条件がある」
「条件ですって? わたくしが命じているのに?」
「もう一度、会ってほしい」
「いいでしょう」
ミリスは立ち上がった。薄紫のドレスの裾がテラスの石畳を掃く。
「次はわたくしが場所を決めるわ。また、いつか逢いましょう」
「承知した。いつか」
◆
その夜ミリスは屋敷に帰ってから布団に潜り込み枕に顔を埋めて足をばたつかせた。
そんなミリスに侍女のレーニアが怪訝そうに尋ねる。
「ミリス様、具合でもお悪いのですか」
「いいえ、とても元気よ。元気すぎて足が勝手に動くの。放っておいて」
「……かしこまりました」
レーニアが去って一人になると枕から顔を上げて天井を睨む。
──まずい。あれはまずい。
スウェルヴェン公爵家の嫡男だ。マウンティア家にとって百年来の宿敵の家だ。父が知ったら卒倒する。母が知ったら気絶する。
だが。
あの手つき。ドレスの裾を直してくれたあの手つき。
ミリスは自分の裾を握りしめた。まだあの指の感触が残っているような気がした。丁寧で確かで──何かに似ている。何に似ているのかは分からない。ただ体の奥が温かくなるのだ。
──わたくし、あの人にくるまれて眠ってみたいわ。
一度湧いてしまった思いはもう取り消す事はできない。
◇◇◇
一方のシルヴァは自室の書斎でじっと手を見ていた。
ドレスの裾を直したときの手だ。指先にまだあの薄紫の生地の感触が残っている。ミリスが「直して」と言ったとき体の奥底で何かが弾けた。
──もっとしたい。
シルヴァは両手を組んで額をつけた。論文の紙の匂いが鼻先に触れる。
まずい。あれはマウンティア公爵家の令嬢だ。父が聞けば烈火の如く怒るだろう。「百年の遺恨を忘れたか」と。
だが──。
「もう忘れられる気がしないな……」
そんな事を思うのだった。
◆
ところで、王都には『詩苑季報』という季刊の詩誌がある。ホラズム王国で最も歴史ある文芸誌であり創刊から百二十年、貴族から市井の文人まで幅広い投稿者を擁していた。投稿はすべて雅号で行われる。本名で詩を発表するのは野暮とされており貴族も商人も職人も等しく筆名を用いる。身分を隠して詩だけで語り合うそれがこの国の詩の流儀であった。
この詩苑季報の巻末には「星辰占術」なる占いの読み物が載っている。生まれ月と星の配置から前世の魂の形を占うという代物でもう五十年来続いている軽い読み物だ。
ミリスの生まれ月の欄にはこうある。
──『あなたの前世は野に棲む兎。群れの中にあって毛づくろいを受けることで安寧を得る魂』
あの夜会の前なら鼻で笑って忘れていた戯言だ。ミリスという女は極めてプラグマティックな側面がある。だが夜会の後、その文言が不意に重みを帯びた。
その夜ミリスは夢を見た。
◆
草原にいる。風が耳の長い毛を揺らし足の裏で柔らかい土を踏んでいる。自分の体は小さくて丸くて白い。前肢で顔をこしこしと洗いそれから大きな後肢でとんとんと地面を叩く。仲間たちが集まってくる。背中を舐めてくれる者、耳の付け根を毛づくろいしてくれる者。心地よくて目を細めると体の奥からじんわりと満足感が湧いてくる。
ミリスは目を覚ました。天蓋に朝日の影が這っている。
占いを読んだからだ。暗示にかかっただけだ。
ミリスは頭を振って寝台を降りた。だが翌月も同じ夢を見た。
そして、翌々月も。
◆
ちなみにシルヴァはどうかといえば──生まれ月の欄にはこうある。
──『あなたの前世は灰色の猫。他者の毛並みを整えることに至上の悦びを見出す魂』
以前は鼻で笑っていた。だが夜会の夜からその文言が頭の底に貼りついて剥がれない。
その夜から夢を見始めた。
暖かい場所にいる。自分の体は柔らかくてしなやかで思い通りに伸縮する。近くにもう一匹がいてその毛並みが乱れている。放っておけない。ざらりとした舌で相手の額を舐める。耳の裏を丁寧に整える。相手が気持ちよさそうに目を閉じると胸の奥がごろごろと振動する。
目を覚ますと窓の外に星が見えた。まだ夜明け前だ。
──猫、か。
シルヴァはふと、自身が猫ならば、ミリスは何だろうか──と考えた。
◆
シルヴァが初めて詩苑季報に原稿を認めたのは夜会から三日後の朝であった。それまでは読むだけで、投稿まではしていなかった。
雅号は「灰猫」。
なぜ詩などを投稿したのかはシルヴァ本人にも判然としない。この男には珍しく、ほとんど衝動的なものであった。
掲載されたのは次の号である。
あなたのためではなく花を育てる
名も告げぬひとのために鋏を入れる
フリジアの珊瑚の綻びを繕い
ヒシャールを土に隠して春を待つ
温室の灯は夜ごと点る
ただしそれを見る窓はどこにもない
フリジアとはホラズム王国の沿岸部に群生する珊瑚色の多年草で、冬の寒風に晒されると花弁の先から裂けるように綻ぶ。庭師はその綻びを一弁ずつ手で繕い直すのだが、翌朝にはまた風に裂かれている。花言葉は「報われぬ手仕事」。
ヒシャールは温暖な南部に自生する球根花で秋に土へ埋め込むと冬の間は地中で眠り早春に深い紫の花穂を立てる。花言葉は「悲しみの後の再会」。
ミリスがそれを読んだのは偶然だった。新しい号をぱらぱらとめくる。知らぬ雅号が並ぶ中にそのたった六行の詩を見つけた。
あなたのためではなく花を育てる。
一行目から手が止まった。育てること自体が目的なのだ。あのドレスの裾を整えてくれた指先が脳裏をよぎった。名前も聞かず礼も求めずただ乱れを見たから直すあの手つきとこの詩の庭師の手は同じだった。
温室の灯は夜ごと点る。ただしそれを見る窓はどこにもない。
ミリスの指先が無意識のうちに文机の羽根ペンに触れていた。雅号を何にするかで一晩悩み、結局翌朝に「野兎」と決めた。
◆
次の号に「灰猫」への返歌が掲載された。
薔薇よおまえは純粋な矛盾
たくさんの花弁の奥で
誰の眠りでもない眠りを眠る
硝子の裡に囲われてなお
おまえは一弁ずつ綻ぶことを
自らの意志と呼ぶのか庭師の手と呼ぶのか
シルヴァはその号を開いたとき息を止めた。
「野兎」とある。
──薔薇よ おまえは純粋な矛盾。
この返歌は自分の詩を完璧に読み解いている。温室で庭師に育てられる花を薔薇と名指しその薔薇を「純粋な矛盾」だと斬った。
自らの意志と呼ぶのか 庭師の手と呼ぶのか。
あの夜会のテラスで琥珀の目の令嬢は問うた。「あなたはその人より上にいるつもりかしら」と。この最後の一行はあの問いを韻律に翻訳したものだ。
次の号。灰猫から野兎へ。
北の空に星がある動かず独り
永い瞼を見開いたまま
波が岸を洗う祈りを見つめ
山に降る雪の仮面を見つめる
だが星はそれを望みはしない
ただ遥かな野に眠るものの
静かな息の満ち引きを
目を閉じることなく聴き望む
次の号。野兎から灰猫へ。
ある者は朝焼けの赤を称え
ある者は野を渡る風を詠う
この暗い地上でもっとも美しいものは何かと問えば
騎兵の列だと船団だと人は答えるだろう
だがわたしは言う
それは硝子に残る指の痕
拭い残された一条の筋が
朝陽に虹を散らすその刹那だと
シルヴァがその号を開いたのは冬の夜更けの書斎であった。
それは硝子に残る指の痕。
温室の窓のない温室のガラスに庭師の指が触れた痕。「窓はどこにもない」と詠んだ自分の詩のあの温室のことだ。この詩人はその指の痕をこの地上で最も美しいものだと言い切っている。
シルヴァは詩誌をそっと閉じた。それから長い間己の両手を見つめていた。
さらに次の号。灰猫から野兎へ。
冬の終わりに庭師は気づく
土の底で球根が裂けている
繕った花弁が再び綻ぶとき
それは傷かそれとも蕾か
答えを知る者はいない
ただ苗を植え替えた手のひらに
泥と微かな緑の匂いが残る
ミリスはその詩を読んで長い間窓の外の冬空を見ていた。
庭師が変わり始めている。最初の詩では庭師は窓のない温室の中で孤独に花を世話していた。だがこの詩の庭師は土に手を入れている。球根が裂けるのは傷なのか蕾なのか分からない。分からないが手のひらに泥と緑の匂いが残っている。答えがなくても手を動かし続ける庭師に、ミリスは不覚にも胸が詰まった。
返歌を書くミリス。
兎は穴を掘る
星を天に返すために掘るのではない
ただ柔らかい土の感触が好きだから
掘り終えた穴に何が入るか知らぬまま
前肢の泥を舐めて 顔を洗って
月の光を浴びて 目を閉じる
穴はまだ空いている 誰かが来るまで
◆
二つの雅号による詩の応酬は詩苑季報の読者の間で小さな話題になった。「灰猫と野兎」と呼ばれるようになったその連作は、韻律の端正さと返歌の精緻さで愛好者を増やしていった。
ちなみに灰猫と野兎だが、何度かの応酬の後には互いの正体に見当がついていた。嗅ぎつけたのはミリスのほうが先だ。灰猫の最初の詩を読んだ瞬間にほぼ確信した。シルヴァが確信を得たのはもう少し後で、野兎が「硝子に残る指の痕」を詠んだときである。あのテラスの会話を共有した者以外にあの比喩は書けない。
だが二人とも互いに「知っている」とは口にしなかった。詩の匿名性はこの国の文芸における矜持であり雅号の裏を暴くのは野暮の極みとされている。
そして一年が過ぎた頃、二人は同じ夢を見た。夢の中に相手が出てきたのだ。
◆
ミリスは夢を見ている。
草原にいた。いつもの兎の夢だ。だが今日は違う。近くに猫がいた。灰色の柔らかい毛並みをした猫がこちらをじっと見つめている。
猫が近づいてきた。兎の耳の付け根に鼻先を寄せざらりとした舌で一舐めした。
体の芯が痺れた。
兎は目を閉じて地面にぺたりと伏せた。猫は応えるように耳から首筋、背中へと丁寧に毛づくろいを続けた。
◆
同刻、シルヴァも夢を見ていた。
暖かい場所にいる。いつもの猫の夢だ。だが近くに兎がいた。白くて丸くて耳が長い。琥珀色の目でこちらを見ている。
その兎の毛が乱れている。
近づいて耳の付け根から舐め始めた。兎は最初ぴくりと体を強張らせたがすぐに力を抜いて目を閉じた。喉の奥からごろごろとした音が零れでた。
・
・
・
二人が次に会ったのは冬の初めの園遊会だった。灰猫と野兎は詩中に次の逢瀬の暗号を織り込んでいた。
庭園の最も奥にある東屋。
「来てくれたんだな」
「わたくしが来ないとでも思って? ところで、“野兎”がよくわたくしだと分かったわね」
「君こそよく私が“灰猫”だと分かったものだ」
「わからないと思っているの?」
「同じ言葉を返そう」
そんな応酬の後、二人は示し合わせた様に笑う。
ミリスは東屋の椅子にどすんと座った。淑女らしからぬ座り方だがもうシルヴァの前では取り繕わないと決めていた。
「首」
「え?」
「首の後ろ。凝っているの」
シルヴァは一瞬呆気にとられそれから目元を緩ませた。
「承知した」
ミリスの背後に回り細い首に両手を添える。親指が僧帽筋の硬い結節を捉えるとミリスの口からくぐもった声が漏れた。
「だいぶ固まっているな。机仕事が多いだろう」
「嫌味を言わないで。論文を書くのが好きなのよ」
「論文?」
「ホラズム王国の穀物流通における中間業者の過剰利潤について。提出先はないけれど」
シルヴァの手が止まった。
「読みたいな」
「あら本当に?」
「穀物流通は私の領地の主要課題だ。中間業者の搾取構造には以前から疑問を持っている」
ミリスは首だけ振り返った。その拍子にシルヴァの指がミリスの耳の後ろに触れた。
二人とも一瞬固まった。
耳の後ろ。あの夢で猫が舐めてくれた場所と同じだ。
ミリスの頬がぱっと赤くなった。
「続けて。手を止めないで」
「ああすまない」
二人は長い間東屋で過ごした。シルヴァがミリスの肩と首を丁寧にほぐしミリスはそれを堂々と享受した。穀物の話をし繊維の話をしくだらない冗談を言って笑い互いの両親の頑固さを嘆き合った。
帰り際ミリスが立ち上がったときシルヴァが自然に彼女の外套の襟を立てた。
「ねえ、シルヴァ」
「ん」
「わたくし、恋というのはよくわからないのだけれど」
冬の東屋に風が落ち葉を一枚だけ運んできた。それが二人の足元でくるくると回り静かに止まった。
「もしわたくしが恋をするならば、あなたの様な人としてみたいわ」
シルヴァは動かなかった。
三秒。五秒。ミリスは待った。シルヴァの銀灰の瞳が微かに細まり口の端がほんの僅かだけ持ち上がるのが見えた。あたかもミリスの言葉を一語ずつ分解して噛み砕いているかのようだった。
「もし」──仮定だ。
「あなたの様な人と」──あなた、ではなく、あなたの様な人。一段置いている。
だが「してみたいわ」──これは願望だ。仮定で包みながら本体は願望なのだ。
シルヴァは手を伸ばした。ミリスの桃色の髪が肩口で跳ねている。その一房を指先で丁寧に整えながら、真正面からミリスの琥珀色の目を見据えた。
「私は君に恋をしている」
仮定も婉曲も願望もない。ただの断定だった。ミリスが三重に包んだものをシルヴァは一息で剥いた。
ミリスの瞳が揺れた。
「……ずるいわ」
「何が」
「そんなに簡単に言うの。わたくしは一言もそうとは言ってないのに」
「言わなくてもいい。君が望む答えを差し出すのが、私の仕事だ」
ミリスはしばらく口を開かなかった。それからとても小さな声で言った。
「……好きと言いなさい」
「好きだ」
その迷いのない声にミリスは妙に気恥しくなってそっぽを向いてしまうのだった。
◆
だが恋仲になったとて障害は大きく、そして高い。
五十年ほど前にスウェルヴェン家の分家筋にあたるルードヴィヒ卿が独断でマウンティア家との商取引を画策したことがある。
結果は悲惨だった。
ルードヴィヒ卿は本家から爵位を剥奪され、所領を没収され、マウンティア側の庶務官も即座に罷免された。百年の遺恨は今なお足を斬る刃であり王家もまた二大公爵家が手を結んで王権を脅かすことを望まないがゆえにこの断絶を放置していた。
しかし二人にはある強みがあった。「失うものがない」ということだ。
まだ当主ではない。家臣団を率いてもいなければ議会に議席を持っているわけでもない。和解によって失うものがほぼ皆無である代わりに、得るものは大きかった。すなわち、互いの傍にいられるという報酬である。
ミリスの策は懐柔ではなかった。
「王家はこの百年、両家の不和を放置してきた。放置というより利用してきた。二大公爵家が結べば王権を脅かす。だから対立したまま牽制し合わせるのが王座にとっては都合がいい。──ねえシルヴァ、これはつまり王家が両家の断絶から利益を得ているということよ」
シルヴァは黙って頷いた。
「ならばこう言えばいいの。わたくしたちは和解します。王家がこれを祝福するなら両領を結ぶ街道事業は王家の功績になる。祝福しないなら二大公爵家が王家の妨害を受けてなお結んだという事実だけが残ります。どちらがお好み? ──ってね」
「……それは脅迫だな」
「選択肢の提示よ。それにわたくしは正しいことを言っているだけ」
シルヴァはミリスの背に、高く掲げられた剥きだしの大刃を幻視した。
◆
王太子レオポルドにミリスの策を伝えたのはシルヴァだった。ただしミリスの言葉をそのまま伝えたわけではない。角を少し丸めた。レオポルドは論文を一読し鷹揚に笑った。
「面白い。次代は私がこの国の王となる。百年越しの和解を私の功績にできるなら悪い話ではない」
鷹揚に笑う余地を与えたのはシルヴァの配慮だった。ミリスの原案どおりに伝えていたらレオポルドは笑えなかっただろう。
王太子の認可を得ても議会には抵抗勢力が残った。反対票を公言した家は七つ。うち三つが特に厄介だった。
ここから先は二人の分業だった。ミリスが斬り、シルヴァが繕う。
フィッシャー子爵家。ミリスは王宮の書庫に三日間通い詰めて、フィッシャー領の羊毛取引に関する過去十年分の税務記録を精査した。見つけた。関税の算定基準に用いている羊毛の等級分類が七年前の改訂税令の新基準ではなく旧基準のままになっている。違法ではない。だが税務監査が入れば是正勧告の対象にはなる。
ミリスはフィッシャー子爵家の姉マリアンネに書簡を送った。
──先日の羊毛取引の席で気になった点がございます。等級分類が旧基準のままのようですが、これは意図的なものかしら。わたくし正しいことしか申しませんが、王宮の税務官にも同じ疑問を持つ方がいらっしゃるかもしれませんわね。
マリアンネは聡明な女だ。書簡の意味を即座に理解した。
だがここでシルヴァが動いた。翌日シルヴァはマリアンネを紡織技術の研究会に招いた。そうして、三度目の会合でこう切り出す。
「フィッシャー領の羊毛はスウェルヴェン領の紡績機で加工すれば現在の三倍の単価で売れます。街道が拡張されればの話ですが」
脅迫の後に利益を差し出す。ミリスが退路を断ちシルヴァが新しい道を敷く。翌週フィッシャー子爵家は反対票を撤回した。
カーライル伯爵家。ミリスは穀物流通の論文を書いた女である。カーライル領の穀物取引における中間業者への認可手続きに不備がある可能性を以前から疑っていた。精査すると案の定だった。認可更新の届出が二期連続で期限を超過している。
ミリスは何も言わなかった。ただカーライル伯爵主催の茶会に出席し「穀物流通における認可手続きの適正化について」という自作の小論を話題に上げただけだ。
◆
翌日シルヴァが訪ねた。カーライル令息の縁談が暗礁に乗り上げていることを知っていたシルヴァは、グラーゼ侯爵家の次女を紹介し縁談を仲介した。嘘は一つもない。ただし順序がある。ミリスの刃が喉元に触れた翌日にシルヴァの手当てが来る。
「ところで街道拡張の件ですが」
伯爵は黙って目を伏せた。
「……善処する」
最後に残ったヴァルゼ侯爵家が最も厄介だった。百年前に失った四つの村の返還を求め続けることが家の存在意義になっている。恩にも利にも動かない男だ。
ミリスはここでも書庫に籠った──百年前の王位継承戦争の後に新王ヴェルナーが「戦時の越権行為」を名目に、旧ヴァルゼ四村を王家直轄地として接収した際の法的根拠を洗うために。
そして見つけた。接収令の発布日が当時の国王大権の発動要件を一日だけ超過している事がわかる。戦時中ならこの超過は認められるが、正式な終戦宣言は接収令の三日前に出されている。すなわち接収令が発布された時点で「戦時」はもう終わっていた。
百年前の書類の中に眠っていた一日分の瑕疵だ。
ミリスはヴァルゼ侯爵に書簡を送った。
内容はといえば、まあ端的に言えば「お前は毒で死ぬ。だが〇〇すれば助かる」というようなものだ。
それからはシルヴァが後事を引き受けた。ヴァルゼ侯爵に一通の私信を送る。
──拡張街道は旧ヴァルゼ四村の跡地を通過いたします。街道の名に四村の旧名を冠することを王太子殿下に進言する用意がございます。
法的な刃はミリスから。弔いの名はシルヴァから。ヴァルゼ侯爵の返書には一行だけ書かれていた。
──善処する。
と。
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七つの反対家のうち三つが沈黙し残りの四つは大勢に抗う気力を失った。物流改修案は議会を通過し両領を結ぶ街道の拡張工事が国家事業として認可された。
百年の氷が溶けたわけではない。だがひび割れは入った。
◆
そしてシルヴァがマウンティア公爵家を正式に訪問した日。
ミリスの父ハインリッヒ公爵は娘の目の輝きとシルヴァが娘の椅子を引く姿を見てすべてを察した。
「お前、この男と」
「はい」
ミリスは一切の弁解をしなかった。
ハインリッヒ公爵はシルヴァに視線を移した。長い沈黙の後、窓の外の庭園を振り返った。百年前に植えられた老木が冬の陽射しを受けている。
「うちの娘は気が強い。この国の基準で言えば、とんでもなく」
「存じております」
「それでも欲しいと?」
「むしろそれゆえに」
ハインリッヒ侯爵は「そうか」と答えたのみであった。
拒否はしない。肯定もしない。しかし両家の関係を考えれば、その逃げにも似た返答が何を意味するかは明らかであった。
◆
スウェルヴェン家のほうはもう少し厄介だった。
ゲオルク公爵は息子を書斎に呼び出し扉を閉めた。
「百年の遺恨を女一人で帳消しにするつもりか?」
「帳消しには致しませぬ。ただ次の百年を憎悪だけで過ごす理由もないでしょう」
ゲオルク公爵は机の上の収支報告書をぱらりとめくった。息子が主導した事業はわずか一ヶ月で繊維産業に好影響を与えていた。
「数字は正直だな。王太子殿下の後ろ盾もある。だが」
ゲオルクは報告書を机に置いた。シルヴァは「だが」の次が告げられる前に口を開く。
「父上も、もうお疲れでしょう。後事は我々にお任せください」
ゲオルクはすぐには答えなかったが、ややあってふ、と息を吐く。
ところで、息とはすなわち気体である。よって、軽い。だがシルヴァは、ゲオルクの息に百年分の何かが込められている事を感得した。
ややあって──「好きにしろ」とだけ、ゲオルクは答えた。
◆
両家の説得が完了し、数日後。二人はスウェルヴェン家の中庭でお茶を飲みつつ談笑していた。
まあ内容はといえば何てことのない日常会話だ。
そんな些細な時間の中で、ふとミリスの雰囲気が変わる。それは非常に小さい変化だったが、シルヴァがその変化を見逃すはずもない。
「ねえ、シルヴァ」
「ん」
「あなたの生まれ月って秋の第二月よね」
「そうだが」
「詩苑季報の占い、読んだことある?」
シルヴァの手がカップの取っ手の上で一瞬だけ止まった。
「……占いなど信じていないが」
「わたくしも信じてないわ。聞いているのはそういうことじゃなくて」
ミリスは巻末の頁を開いたままシルヴァに差し出した。
「あなたの生まれ月の欄。読んでみて」
シルヴァは黙って目を落とした。もう何度も読んだ文言がそこにある。
──あなたの前世は灰色の猫。他者の毛並みを整えることに至上の悦びを見出す魂。
「……知っている」
「やっぱり。とっくに読んでいたのね」
「毎号載っているからな。嫌でも目に入る」
「わたくしもよ」
ミリスは紅茶を一口啜った。
「わたくしの生まれ月の欄には『野に棲む兎。毛づくろいを受けることで安寧を得る魂』ですって。くだらないでしょう」
「くだらないな」
「でもね」
ミリスはカップを膝の上に置いた。
「あなたが『灰猫』という雅号を選んだとき、わたくし思ったの。この人もあの占いを読んだんだなって」
沈黙。
「そしてわたくしが『野兎』を選んだとき、あなたも同じことを思ったんでしょう」
シルヴァは答えなかった。答えなかったが否定もしなかった。
「怖いのよ、少しだけ」
「何がだ?」
「わたくしたちが噛み合っているのは、本当にわたくしたちだからなのかしら。それとも──猫と兎だから噛み合っているだけなんじゃないかって」
シルヴァは実際はどうなのか考えてみた。この男は考えれば大体なんでも分かるのだ。癒し方、傷つけ方、活かし方、壊し方──いうなれば、支配の才がある。
が、この問いに関しては分からない。いくら考えてもわからなかった。だから正直に答える。
「分からない」
「……正直ね」
「分からないが一つだけ言える。君の論文を読みたいと思ったのは、猫の本能に依るものではない」
ミリスは兎の様に目を丸くして、それから少しだけ笑った。
「それもそうね。猫は論文なんて読まないもの」
「穀物流通の中間業者を分析する猫がいたら学会が騒ぐだろうな」
「ふふ、あなたもそういうジョークを言うのね」
「適度なジョークは君も好む所だろう?」
「そういう事はあえていうものではないわよ……まあ、合っているけれど」
そうして二人はしばらく笑っていた。だがミリスの胸の奥にあの問いは沈んだまま消えなかった。シルヴァの胸の奥にも同じものが沈んでいるのだろう。互いにそれを知っていて、互いにそれ以上は踏み込まない。
◆
婚約披露の夜会。
ミリスは深紅のドレスを纏いホールの中央に立っていた。数百の視線が包む。囁きが波のように広がり扇の陰から探るような目が光る。
「緊張しないのか」
シルヴァが小声で尋ねた。
「なぜ? あなたに尽くしてもらっているのだもの。これ以上の安心がどこにあるの」
「君の図太さには敬服する」
「あら。それなら、もう少し褒められておこうかしら。このドレスの背中のリボンが少し曲がっている気がするの。直してくださる?」
シルヴァはミリスの背後に回り深紅のリボンを指先で整えた。絹の結び目を解いて結び直すその手つきを見た周囲の貴族たちが小さくどよめいた。
「ありがとう、シルヴァ」
「他にも何か?」
「ええ。喉が渇いたの」
「取ってこよう」
シルヴァが踵を返す。その背中を見送るミリスの琥珀の目には穏やかな光が宿っていた。
それから一年後。
・
・
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「ねぇ、シルヴァ。わたくし喉が渇きましたわ」
「そうか。じゃあ侍従にいや、私が淹れよう」
シルヴァは椅子から立ち上がり自らティーポットを手に取った。スウェルヴェン公爵家の書斎には上質の茶葉が常備されていて、シルヴァの淹れる紅茶はどの侍従のよりも美味いとミリスは心の中で認めている。口に出すかは気分によるが。
「今日はダージリンにしたが口に合うかな」
「あら気が利くわね。わたくしがダージリンの気分だと分かったの?」
「なんとなく。座ったときの姿勢が軽かったから、重いアッサムではないなと」
「あなたって本当に」
「何?」
「猫みたいね」
シルヴァは首を傾げた。ミリスは紅茶を一口啜ってソーサーをことりと置いた。
「ねえ。ずっと聞きたかったことがあるの」
「何だ」
「あなたがわたくしの世話を焼いてくれるのは、わたくしだからなの? それとも──あなたが猫だから?」
シルヴァの手が一瞬止まった。聞いてしまった、とミリスは思う。しかし我慢ができなかった。このミリスという女は生来そういう気質なのだ。
「目の前に乱れた毛並みがあれば直す。相手が誰であれ。猫とはそういうものだろう」
「……そう」
「だが」
シルヴァはダージリンの湯気越しにミリスの目を見た。
「猫は相手の姿勢の軽さから、茶葉の好みを読んだりはしない」
ミリスはカップを持ち上げて唇に当てたまま動かなかった。
「……それは猫じゃないわね」
「ああ」
シルヴァは短く笑った。
「猫じゃない」
ミリスは紅茶を一口啜った。答えが出たわけではない。前世の魂が兎であれ猫であれ、そんなものはただの占いの読み物に過ぎない。
だが一つだけ確かなことがある。
些細な事から今日のミリスはダージリンの気分だと見抜いたシルヴァの目は、猫のそれではない。
それは一年以上の歳月をかけてこの女を見つめ続けた男の目である、ということだ。
(了)
本作はXの
『ウサギは「毛づくろいして」と要求することで優位性を示し、猫は相手を毛づくろいすることで優位性を示す。
完璧な関係』
というポストからインスピレーションを得て執筆したものです。茶色い猫が兎をべろんべろん舐め倒してて癒されました。




