第一幕:精神病院への護送
1908年頃のイギリスのロンドン、霧に包まれた夕方の街路。
馬車の車輪が建物を通り過ぎていく音を響かせた。
馬車の中には、二人の男がいた。
一人はスコットランドヤードの警部補。だが不機嫌そうに座っていた。
その隣りには、黒髪の短髪と黒いシャツと黒ズボンを着た男がいた。
この男の手首には手錠がかけられており、時折不服そうに腕を上げた。
「この手錠は僕には小さすぎるーーグレグソン。どうにかならないか。」
「話しかけるな。」と警部補は短く答えた。
「君、そんな名前をしてるから僕を任されたんだーー」と呟いた。
「黙っていろ。吾輩の名は変えられんが、貴様の名は変わる。嫌でもなーー」グレグソンと呼ばれた警部補は吐き捨てるように言った。
彼はアーサー・コナン・ドイルの小説に出てくるトバイアス・グレグソンと似た名前だった。名をトビー・グレグソン。警部ではなく、警部補だった。
「君がなぜ、吾輩がこんな事をーーという前に、聞かせたかったのさ。」と男は嘲笑した。
馬車は鉄門前で止まった。
警部補に背中を押されるようにして、長身の男が馬車の中から出てきた。
その男は周囲を眺めて、門を見上げた。
その門は黒い鉄で作られたように見えた。まるで中世の城塞を思わせた。
門番の男が鍵を回す音がした。
鎖の軋みと共に、ゆっくりと開いた。
向こう側は庭園だ。
月明かりの下で、苔むした石畳がみえた。時折、フクロウのような鳴き声が聞こえた。男の頬がぴくついた。
ここはハンウェル精神病院。
正式にはミドルセックス・カントリーの精神病院。
1831年の開設以来、貧困者や心の病を負う者を保護するための施設だ。
敷地は広大。緑に囲まれたレンガの病棟。中央の管理棟は、ビクトリア朝のつくりをしてたが、窓辺に鉄格子がはめられていた。
「さあ、ゆけ。手間を取らせるな!」
男の後ろで、警部補が近づいた。
「それとも、こう呼ばれたいのか?
シャーロック・ホームズとーー」
男は病棟を眺めてた。
それからーーゆっくりと顔だけを警部補に向けた。
「僕はシャーロック・ホームズだ。そう呼ばれるのが筋だ。わかったかね、グレグソン。」
警部補は顔を歪めた。
この男、シャーロック・ホームズを自称する哀れな魂は、収容命令の羊皮紙を握りしめ、護送馬車からでてきた。
警部補は彼の背中を突き飛ばし、先を歩かせた。
彼らは庭園を抜けた。
そして建物の中に入った。
男性棟へ向かう長い廊下は、
足音が反響する石の回廊だ。
男は鋭い目をあらゆる方向に動かし、
なるべくーーゆっくりと歩いた。
空気は湿った石の匂いがした。
そこに消毒薬の鋭い臭いが混じった。
壁は剥げかけた白塗りだ。
燭台の淡い光が等間隔に設置されていた。
ホームズの後ろ姿を眺めながら、警部補は心の中で呟いた。
ハンウェルにいれば、彼の「ホームズ」なる妄想に終止符が打たれるだろう。
この男を院長に渡してしまえば、
それで彼の任務は完了だ。
廊下の奥から、誰かが鉄格子をゆっくり叩く音がした。
それは規則的で、祈りのようでもあった。
そしてーー警部補は院長に、
無事に男を預けた。
次の日の朝。
観察室の小さなベッドに、
ホームズは仰向けに横たわっていた。
彼の耳に複数の足音が近づく。
扉が開かれた。
――白衣の男が、
ノートを片手に現れた。
中肉中背の男性だ。歳は五十歳ぐらい。茶色の髪は短く分け、口髭とあご髭を蓄えていた。眼鏡をかけていた。
表情は柔和だが、目は患者の反応を逃さない真剣さがあった。
彼が院長だ。名をアーサー・ヒル・トレバーと言った。だが、院内での彼の名はエドワード・ハントリーと呼ばれた。彼も患者に名乗る時、この名を使う。
彼の背後には二人の強面の看護師がいて、男を睨んでた。
白衣の男は、ベッドから上半身を起き上がらせたホームズに、穏やかな声で話しかけた。
「ようこそ、シャーロック・ホームズ。ここはハンウェル精神病院。
事件はないが、謎があるーー私の職場だ。」白衣の男はホームズを眺めた。
「私かね。私はエドワード・ハントリーだ。皆はドクター・ハントリーと呼ぶ。さてーー自己紹介を続けようーー」
そういうと、ホームズに問うた。
優しさに、厳しさを込めてーー
「君は誰だ?」 と。
ホームズは嘲笑した。
だが、その笑みの裏で、一瞬だけ眉が震えた。
“名前を問われる”という行為そのものが、彼には最も危険な刃だった。
(こうして、第一幕は精神病院のホームズによって幕を閉じる。)




