9. 笑顔の余韻
「……は……?」
私は思わず殿下の顔を見上げた。一体何をおっしゃっているのだろう。それなりのポジションとは……? 仕事のこと……?
返事もできずに見つめていると、再び鍬を振るった殿下が、しゃがみ込んで見上げている私に視線を向け口角を上げた。
「あまり発言などはしなかったが、君の外交の場での冷静さと懸命な立ち回りはよく見かけていた。さりげなく王子を補佐しているところも、何度もな。アルーシア王国は女性に権限のない国だ。だが、君は与えられた役割の中でその才を確かに示していた。それをこの先ただ埋もれさせるのは、あまりに惜しいと俺は思う。もしもメロウ侯爵が、君を表舞台から遠ざけるような選択肢しか考えてくれないのならば……いっそこの王国を出るのもいいんじゃないか? ふとそう思ったんだ」
「……」
(突然何を言い出すの、この方……)
私の脳内が一気に不信感で満たされる。
親しくしていたわけでは全くない。この方とはただ国同士の親交の場で、何度か社交辞令の挨拶を交わしたことがあるだけだ。そして今初めて、こんな片田舎で泥に塗れて作業をしながら、個人的な会話をわずかに交わしたに過ぎない。
(……何か裏があるに決まっているわよね……)
警戒心が芽生えた私は、慎重に言葉を選びつつもはっきりと答えた。
「……このようなことにはなりましたが、私は仮にも王子妃だったのです。アルーシア王国の機密事項や王族に関する情報などを口外するようなことは、決してございません」
すると王弟殿下はハハッと声を上げて笑った。
「もちろん承知している。ただ純粋に、あなたの才をみすみす埋もれさせるのは惜しいと思っただけだ」
そう言いながら、殿下はまた両腕を上げ鍬を振るう。……疲れるということがないのかしら、この方は。こんなに動き続けているのに、息が上がる気配さえない。
土を見つめながら、殿下は私に言い聞かせるように話す。
「我が国はアルーシアのような大国に比べれば、経済規模も軍事力も決して敵わない。だが君のような逸材を得ることができれば、その歩みは強いものになるはずだ」
「……。とても光栄なお言葉ではございますが……。私にはこれまで背負ってきた立場も、侯爵家の娘としての責任もございます。お気持ちだけは、ありがたく」
やんわりとそう断ると、王弟殿下は私をちらりと見て微笑んだ。
(……本心が読めない笑顔だわ……)
その後しばらく黙々と作業を続けていた殿下だが、やがて従者が「殿下、そろそろご移動をお願いいたします」と声をかけに来た。
彼は最後に作業中の両国の民に激励の言葉をかけると、私のそばへ戻ってきて言った。
「あとは民たちに任せ、君ももう屋敷に戻りたまえ。送っていこう」
「いえ、滅相もございませんわ。自分で帰れますので……」
「何かあってからでは遅い。いいから送らせてくれ。それに、また途中で誰かと出会って交渉でも始めてしまえば、帰り着くのが夜になるぞ」
「そ、そのようなことは……!」
慌てて否定しようとして、王弟殿下の瞳の奥に楽しげな色が浮かんでいるのに気付き、言葉に詰まった。からかわれているのだと分かり、耳が熱くなる。
結局殿下は私と並んで歩き、メロウ侯爵家の古びた屋敷のそばまで送ってくださった。手入れの行き届かぬ古びた屋敷に視線を送った殿下は、立ち止まって私に向かい合う。私は先に礼を述べた。
「わざわざありがとうございました、王弟殿下」
「かまわない。楽しい時間だった。また会おう、メロウ侯爵令嬢」
そう言うと、殿下は後ろをついてきていた従者のもとへと戻り、彼が引き連れていた白馬に跨った。
夕日がその背中を照らし、青みがかった銀髪が朱に染まる。見惚れるほど美しいシルエットだった。
手綱を手にした殿下が、私の方を振り返る。
「考えておいてくれ。もしも本当に、望まぬ道しか示されないようならば、我が国に来るといい。歓迎するよ」
最後にそう言い残すと、トリスタン・イルガルド王弟殿下は白馬に軽く手綱を入れ、その場を後にした。
馬の蹄が静かに土を踏む音だけが、夕暮れの空気に溶けていく。王弟殿下の背が、次第に遠ざかっていった。
(……変わった人……)
そんな風に思いながらも、私の脳裏には去り際の彼の美しい微笑みが余韻のように残っていた。
国境沿いの水利は、あの後すぐに王都から調査官が派遣され、伐採による地形の変化が認められた。元の水路は回復が難しいと判断され、あの日私たちが泥まみれで作った仮設水路が、そのまま新たな水の道として整備され、継続的に利用されることになったのだ。
あれ以来気になって何度か顔を出してみたけれど、以前から揉め事が多かったらしい二国間の村人たちは、今回の騒動をきっかけに少しずつ関係を修復しつつあるようだった。仮用水路の作業を共にしたことで距離が縮まり、わだかまりが解け、今では顔を合わせれば挨拶を交わす程度には打ち解けているらしい。
今後は両国で協力し、この水路を管理していくことが決まり、地域の小さな平和が築かれつつあった。
私がそれを見届けほっとした頃、父から一通の手紙が届いた。




