7. 土を掘りながら
突如現れたイルガルド王国の王弟殿下が開通作業に加わったことで、場の空気は一変した。つい先ほどまで「そっちのせいだ」「人のせいにするな」と揉めていた両国の村人たちは、もう誰がどこを掘るかさえこだわっていない。
声をかけ合いながら、皆真剣に作業に取り組んでいる。威勢のいい声と、様々な道具の音。最初は殿下の存在が気になって仕方なかった私も、気付けば夢中になって手鍬を振るっていた。
ぬかるんだ土と草の根っこの混じった匂いが新鮮で、胸が躍る。雨上がりの外の空気に少し似た、それでいてもっと野性的な、少し生臭いような匂い。
手を動かすたびに、ここ最近の胸のもやもやが流れ出ていくようで、私は無心になって土を掘り続けた。
(楽しい……。こんな香りも感触も、これまで一度も味わったことがないわ。……でも、どうしましょう……。なんだかもう、腕が疲れてきてしまった気が……)
堂々とこの作業を先導した私だけれど、さほど時間も経っていないのにもう腕が痛くなってきてしまった。でも村人たちの前で威勢よく「手伝うわ!」などと言った手前、休憩させてとも言いづらい……。
額にじんわりと汗を浮かべながら、荒い呼吸を繰り返し手鍬を動かしていると、誰かが私の隣にしゃがみ込んできた。驚いて顔を上げると、そこにいたのは王弟殿下だった。
「そろそろ疲れたんじゃないのか。見た目より力のいる仕事だ。非力な女性には荷が重いだろう」
「……いえ。まだ大丈夫ですわ」
「いいから。その手鍬は一旦置いて、君は小石や雑草をどけてくれるか。その方が我々も作業がしやすい」
「……。はい」
どうやら私がすでにヘロヘロになっていることは完全にバレているらしい。気恥ずかしく思いつつも、私は手鍬をそっと置き、小石を拾いはじめた。それを見届けた殿下はぬっと立ち上がり、今度は大きな鍬を持つと、土の固い部分を力強く掘りはじめる。
「なぜ護衛も侍女も付けていないんだ?」
彼は軽々と鍬を振るいながら、息を切らすこともなく私にそう問いかけた。
「……先ほどは視察と言いましたが、本当はちょっと散歩に行くと言って勝手に出てきただけでして……。ここまで足を伸ばすつもりではなかったものですから」
言い訳にもならない言い訳をする。本当は侍女も使用人も皆私のことを疎んじているから、散歩についてきてくれとは頼みづらいのだ。でもたしかに、あまりにも無防備すぎた。
同じことを思ったらしい王弟殿下に、早速咎められる。
「いくらもう王子妃でないとはいえ、さすがに油断しすぎだ。若く美しい貴族令嬢がたった一人で村の男たちと交渉など、感心しないな」
(……美しい……)
「……それについては、反省しております」
しゃがみ込んで雑草をむしりながら素直にそう答えると、鍬を振り下ろした殿下が私を見下ろしにやりと笑った。
「まぁ、自ら泥にまみれて作業に加わろうという意志と、場を見極める胆力は悪くない」
その笑顔に、一瞬心臓がどきりと高鳴る。けれど殿下はすぐに視線を逸らすと、再び土に目を向け鍬を振るいながら言った。
「ところで、そちらの王太子ご一家は相変わらず静かにお過ごしなのか」
(……っ)
突然の話題に、ピクリと肩が跳ねる。王家の内情をやすやすと他国の王族に漏らすことはできない。そう身構えたけれど、彼らのことはもう周辺諸国の重鎮で知らぬ者などいない。私は慎重に口を開いた。
「王太子ご夫妻は離宮にて引き続きご静養中です。時折神殿に足をお運びだとか……」
王弟殿下は淡々とした表情のままで小さく相槌を打つ。
「王家の後継者が政の場に姿を見せぬとあっては、臣下らの不安も募るだろうに」
私はひそかに周囲を見回す。……声の聞こえる範囲に村人たちはいない。皆もっと奥の方で、声をかけ合いながら作業に没頭している。近くにいるのは、先ほど殿下が上着を手渡していた騎士くらいだ。おそらく側近なのだろう。彼も殿下に倣い作業に加わっていた。大きなスコップで掘り起こした土を手押し車に黙々と積んでいる。
事情を知られているとはいえ、あまり踏み込んだ話をするわけにはいかない。あくまで他国の方なのだから。
「……公務に関しては国王夫妻とヒューゴ第二王子殿下が出席することが多いですので……」
「ご息女もお元気なのか。例の、男児であると大層噂の広まっていた姫君は……」
(……やっぱりそれもご存じなのね……)
隣国の王族ともあれば、あの話が耳に届いていないはずがない。
アルーシア王国王太子夫妻のスキャンダル──それは彼らが政から遠ざかっている大きな原因でもあった。