40. 小賢しい勘違い王子
個別の呼び出しなど断りたいところだけれど、その返事を使者に託したところで、この使者が二度手間になるだけだろう。承諾するまでしつこく呼び出すつもりかもしれない。
私はテレーザと護衛のうち二名を連れ、他の護衛にトリスタン王弟殿下への伝言を任せた後、迎賓館を出た。
指定された場所は、王族専用の中庭だった。
(よりにもよってここか……)
今となっては苦いばかりの思い出が、脳裏をよぎる。ヒューゴ殿下の婚約者だったおよそ十年間、何度もここで二人の時間を過ごした。弱音を吐いたり泣いたりする幼いヒューゴ殿下を慰めたり、ともに勉強し、お茶を飲み、王国の未来について語り合ったり……。けれど彼が突然冷たくなってからは、ただの一度も足を踏み入れたことはなかった。胸が苦しくなるだけだからだ。
すっかり日は沈み、深い紺色に染まった空には星々がきらめいている。重い足取りで中庭の奥へと向かった私は、ガゼボが見えた瞬間、思わず足が止まった。
白い柱にはたくさんの花飾りが絡められ、甘やかな香りが夜気に漂っている。屋根からは小さなランタンが幾つも下がり、星明かりと競うように金色の光を瞬かせていた。
中央のテーブルには、ワインボトルと二脚のクリスタルグラス。そして色鮮やかな菓子がいくつも並べられている。大ぶりの花瓶にはピンク色の花々がこれでもかと詰め込まれ、周囲の小道には花びらまで撒かれていた。
(……な……何よこれ……)
愛の告白でもするかのように整えられたそのシチュエーションに、頬が大きく引きつった。テーブルの奥で優雅に足を組み座っているヒューゴ殿下は私の姿を認めると、ワイングラスを手に取りこちらへと掲げた。
「やあ。来たね、セレステ」
「……」
(え……? き、気持ち悪い……)
その気障な仕草に、背筋と腕に一気に鳥肌が立った。一体何のつもりなのか。イルガルド王国の外交顧問としてやって来た私に、何らかの外交的駆け引きでも仕掛けてくるつもりかと思っていたが、どうもそんな雰囲気ではない。
私は警戒心を強めながら、ゆっくりと彼のもとへと近付いた。……大丈夫。こちらには護衛たちがいるし、向こうも従者や護衛、メイドらがいる。変なことはされないだろう。
「……わざわざこのような場所にお呼び出しとは、何事でございましょうか。会談の続きでしたら個人的な形ではなく、明日謁議の間にて、皆の前で行うべきかと」
歩みを進めテーブルを挟んだ彼の向かいに立ち、微塵の隙も見せまいと固い声でそう告げる。するとヒューゴ殿下が困ったように眉尻を下げ、グラスを置いた。
「随分冷たいな。まるで赤の他人のようじゃないか。仮にも僕たちは夫婦だったんだよ、三年間もね。いや、それよりもずっと前から、誰よりもそばにいた存在だ。……違うかい? 僕たちは互いに励まし合い、慈しみ合いながらともに成長してきた。このアルーシアという大国の、父と母となるためにね」
(……今さら何を言い出すの、この男は)
媚びへつらうかのようないやらしい笑みにも虫酸が走る。私は怒りを抑えながらゆっくりと言った。
「たしかに。そのような時期がかつてございましたね。懐かしゅうございますわ。今となっては、まるで前世の記憶のように遠い思い出です」
「そ、そんな……セレステ……」
「私たちの信頼関係を台無しにしたのは、どこのどなたでしょう。……あなた様は私を裏切り、リリエッタ・メロウと通じていた。さすがにそのことは、まだ忘れてはおりませんよ。今がとても充実しておりますので、過去のことなどもうどうでもいいのですが、かといって今さらそのように良き日々のことなど持ち出されましても。こちらは困惑するのみです。……それで、ご用件は?」
「……っ」
凍てつく感情をそのまま視線に乗せ、彼を貫く。ヒューゴ殿下はビクッと肩を跳ねさせ露骨に動揺した後、私から目を逸らした。さっきまでの悠然とした様子はもう消え去っている。
「……は、はは……。なかなか辛辣だな。……うん。たしかに、僕はあの頃絶対に犯してはいけない過ちを犯した。リリエッタの口車と巧みな媚態に惑わされてね……。愚かだったよ。君に心から謝罪したい。いやぁ、リリエッタはすごいよ、本当に。この僕を、まるで黒魔術にでもかけるかのように誘惑してしまうんだからね。あれは恐ろしい娘だ」
まるで「僕その辺の女に簡単に引っかかるタイプじゃないのに」とでも言っているように聞こえる。品性も教養もないリリエッタに簡単に誘惑されている時点で、この男は軽薄で脆弱だということだ。なんだか苛々してきた。
「今さら口先だけの謝罪は結構でございます。殿下、それでご用件は」
私はさらに畳みかけた。外交的な話でないのなら、さっさと部屋に戻って休みたい。明日も話し合いは難航しそうだ。ゆっくり頭を休ませ、備えなければ。
ところがヒューゴ殿下はおもむろに立ち上がると、テーブルを迂回して私のそばへとやって来た。背後に控える護衛たちの空気がピリつくのを感じる。
目の前に立った彼は、まるで慈しむような優しい眼差しで私を見つめると、噛み締めるようにゆっくりと言った。
「セレステ、君の気持ちはよく分かったよ。まさかここまでするとはね……。それほど僕を恨んでいたんだね。いや、そんなにもこの僕を強く想ってくれていたとは。ある意味とても感動したよ。……アルーシアに戻っておいで、セレステ。僕の妃の座は今さらどうにもできないけれど、君には別の地位を授けようと思う」