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25. 熱い想い

 昼食の後は大通りを離れ、貴族向けの庭園や文芸サロンなどの施設を見に行き、平民たちが多く生活する市場や裏路地、職人街なども視察した。

 行く先々で気付いたのだが、殿下は民たちの暮らしぶりを熟知していた。高騰している食材や、今どんな生活品が入手しづらくなっているか、どんな職業の人々が、どの時間帯に何をしているかなど、何でもご存じだったのだ。


(最近ご自分の目で街を見ていないなどとおっしゃっていたけれど、おそらくこのご様子を見るに、頻繁に足を運んでいらっしゃるはずだわ。……やはり私を気遣って、わざわざ案内してくださっている気がする……)


 言葉で言われなくても、この方の態度や表情から、どれほど王国の民たちの暮らしに心を砕いていらっしゃるかが分かる。

 時折私をさり気なく気遣い、スマートにエスコートしながら、民や王国の未来について熱く語る。そんな殿下のことが、これまでで一番魅力的に見えた。


 殿下は途中何度も私に「まだ歩けるか」「大丈夫なのか」と尋ねてくださったけれど、こんな機会は滅多にないのだからと張り切り、「まだまだ平気です」と返していた。そして日が傾く頃、ついに私は深く息をついた。


(さ……さすがに足がジンジンするわね……)


 馬車で移動したり休憩を挟んだりしながらだったとはいえ、かなりの距離を歩いた。

 人通りが少ない道に入った時、殿下が私に声をかけた。


「セレステ。そこのベンチに座れ」

「? は、はい」


 手を引かれ路肩のベンチに座ると、なんと突然殿下が私の前に跪いた。驚いて喉がヒッと音を立てる。


「でっ……、トリス様……っ!?」

「じっとしていろ」


(……あ……)


 その時、ようやく気付いた。私が履いていた編み上げブーツの紐が片方、解けてしまっていたのだ。殿下はためらいも見せず、自らその紐を結んでくださっている。従者の一人がすぐさま歩み寄ってきたけれど、殿下は軽く首を振って手伝いを拒否した。従者は静かに下がっていく。

 夕日が差し、あたりがオレンジ色の光に包まれはじめる。殿下の指先が、私の足元で器用に動く。伏せられた目を縁取る長い睫毛の美しさに、思わず見惚れた。


「……よし。しっかり結んだ。もう解けないだろう」

「……ありがとうございます……」


 顔を上げた殿下の漆黒の瞳が、夕日を受けて金色にきらめく。視線が重なった瞬間、胸が熱くなり、じんわりと体温が上がっていく。

 太陽がゆっくりと沈んでいく中、じっと見つめ合っていると、まるでこの世界に私たち二人だけが存在しているかのような錯覚に陥る。

 静かな時間が、ゆったりと流れていく。


(……何だか……まだ帰りたくないな……)


 そんなことが頭をよぎった時、立ち上がって私の隣に腰を下ろした殿下が言った。


「もう少し休憩してから帰ろうか」

「……はい」


 そのまま並んで座り、何となく無言になる。何か話題を振るべきかとそわそわしはじめた時。通りの向こう側を、平民らしい若い男女が楽しげに声を上げ、笑いながら通り過ぎていった。目を細めた殿下がふっと声を漏らす。


「幸せそうでいいな」

「ふふ……。はい。こちらまで笑顔になってしまいますね」


 殿下でもそんな風に思うんだ……と少し意外に感じながらそう答えると、彼はまるで私の反応を試すような悪戯っぽい笑みを浮かべ、こちらに視線を向けた。


「俺たちも今日は何度か、恋人同士と思われていたがな」

「えっ? ……ええ、まぁ。はい」


 まただ。さらりと受け流せばいいものを、なぜだか動揺してしまう。殿下の視線に耐えきれず、そっと目を逸らした。

 そしてふと、殿下のそういったお相手のことが気になった。


(近隣諸国の王族に関する情報は、あらかた頭に入っている。この方には奥方や婚約者はいなかったはず……)


 ご年齢ももう二十代半ばくらい。まるっきり女性と縁を持たずにここまで過ごして来られたとは、到底考えられない。親しいご関係だった女性の一人や二人……いや、むしろ幾人も……? 何せこの麗しい容姿とオーラに、このお立場だもの……。


(私ったら、なんて下世話なことを考えているのかしら。どうしてこんなに殿下のことが気になるんだろう)


 いっそのこと、世間話のような雰囲気でさらっと聞いてみようかな、などと考えたその時。殿下の方が先に口を開いた。


「君はどうだ? 母国を離れここへ来て、数ヶ月経つ。まだ思うところはあるのか。前の……()に対して」


(え……っ)


 反射的に殿下のお顔を見上げる。けれど彼は胸の内の読めない穏やかな表情で私を見つめていた。もしかしたら、今日私がぼうっとしたりしてしまったから、まだ母国に未練を持ちヒューゴ殿下を思い出しているのかも、なんて思われたのかしら。もしそうなら、そこは誤解されたくない。

 私は努めて落ち着いた声で彼に伝えた。


「いいえ、トリス様。正直に申し上げますと、母国のことについていくつか気にかかっていることはございます。ですが、()()()に対する特別な感情は、もう微塵も残っておりませんわ」

「……そうか」

「はい」


 はっきりとそう答えると、殿下の顔が一瞬柔らかくなった。

 けれどすぐに表情を引き締めると、彼は真っ直ぐに私を見つめて言った。


「過去を手放せば、新しい出会いがある。自分に相応しい男の手を取ればいい。君の価値を理解し、決して手放さぬと誓う男の手を」

「……っ!?」


(ど……どういう意味??)


 突然真剣味を帯びたその言葉と声色に、心臓が痛いほど大きく跳ね、息が詰まる。なぜこの方はこんなにも私も戸惑わせ、混乱させることばかりおっしゃるのか。

 妙に具体的に感じられる彼の言葉に、頭が真っ白になる。い、一体誰の手を取れとおっしゃってます……?

それともこれ、ただの例え話なの……!?

 そのわりには熱のこもった視線で私をじっと見つめてくる殿下から、またそっと目を逸らす。体が熱い……。何か口にせねばと思った私は、混乱のままに尋ねた。


「……で、殿下には……特別なお方がいらっしゃるのですか?」


(……し、しまった……またやってしまった……!)


 さっきから他のことに一切頭が回らず、口にできたのはそんな言葉だけだった。そこを突っ込んでどうする。むしろ全く別の話題にさり気なく持っていった方が気持ちが落ち着くのに……。

 静かに動揺する私の隣で、殿下はきっぱりとした口調で答えた。


「ああ、いる。ようやく出会えた。誰よりも美しく、賢く、献身的で……。全てを失ってもなお、前に進もうとする誇りと強さを持ち、自分の足で凛と立ち続ける。……そんな人だ。俺がそばで支え、守っていきたいと思っている」

「……さようでございますか……」


 いたたまれない。そちらを向いていなくても、殿下が私を見つめているのが分かる。その眼差しに頬をじりじりと焼かれているような気持ちになっていると、殿下の声が低くなる。


「そんな理想の女性に出会うことなどないと思っていた。けれど……この出会いは俺の全てを、たった一瞬で変えてしまった。律してきた心の均衡が、大きく音を立てて崩れた。そんな恋に、案外簡単に落ちるものなのだな。知らなかったよ」


(……殿下……)


 情熱的なその愛の言葉は、一体誰に向けられているのだろう。

 強く胸を打たれ、思わず息を呑む。鼓動が乱れ、耳の奥でどくどくと音が響いた。私に向けられた言葉だなんて、思ってはいけない。

 けれど、殿下の熱烈な言葉が、真っ直ぐに私の胸に響く。

 私は殿下のおかげで、この王国でようやく新しい務めを得たばかり。果たさなければならない役目に、今まさに向き合おうとしているところだ。浮ついた想いに心乱されている場合じゃない。今の私に必要なのは、地に足をつけて前に進むことのはずだ。

 だから、気付かぬふりをしなければ。胸を締めつけるこの想いごと、見なかったことにして。


「……そろそろ帰りましょう。今日は貴重なお時間をありがとうございました、トリス様。たくさんの学びがございましたわ。明日からまた、頑張ります」


 そう彼に伝え微笑み、私は先に立ち上がる。

 殿下は引き留めることなどせず、同じように立ち上がると、私の手を優しく握った。


「では馬車までは、こうしてエスコートさせてくれ。……行こうか」

「……はい」




 その後私は雑念を振り払うように、ますます仕事に邁進した。この王国でひたむきに生きる全ての民たちの暮らしを、私も守りたい。殿下が大切にしている彼らの暮らしを。アルーシアという大国の王子妃となるべく邁進した日々や、王宮で培った知識や人脈。それらを駆使すれば、アルーシアの圧力に屈することなく、他のやり方で未来を切り拓く道を探し出せるのではないか。

 そんな思いで、ひたすら仕事に打ち込んだ。

 

 母国アルーシアの第二王子妃が決まったという噂を伝え聞いたのは、それからしばらくしてのことだった。






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