清鑑院塾(せいかんいんじゅく)
江戸時代後期に公家・高橋在長によって創設された教育機関。明治維新後に清鑑院大学へ改編され、日本最初期の本格的私立総合大学の一つとして知られる。
清鑑院塾は、身分や性別を問わず教育機会を開き、和漢洋の知を横断する実学の重要性を説いた。学問は人々の役に立つべきだという理念のもと、儒学・国学に加え、洋学・医学・物理学・政治学などを教授し、自由な論壇を提供。先進的な学問体系を築き、幕末・明治期に多くの知識人を輩出した。
1.設立の由来
校名の由来は朱熹「観書有感」にちなみ、仁孝天皇が「清」「鑑」の二字を選んだことに始まる。天皇の御意を受けて『清鑑』の御宸翰が在長に下賜されたが、当時の学制(のちの学習院)を主導した広幡家への配慮から公表は控え、私的な下賜にとどめられた。
仁孝天皇は、公家社会の枠を超えた在長の建白を全面的に是としきれないながらも、その志の成功を願って二字を選んだと伝わる。思し召しを知った在長は「子孫は末代までこの御恩に報いるべし」と記したという。
なお、幕末から明治にかけての天皇神格化の風潮の中で、この御宸翰が過度に政治的意味を帯びることを畏れ、在長は存在を秘匿。戦後の史料公開まで高橋家当主の秘蔵とされた。
2.幕末期の政治的立場と試練
在長の学名を聞きつけ、多くの志士が清鑑院塾に集った。在長は尚歯会の伝統を理想とし、佐幕・尊皇・攘夷の立場を問わず受け入れ、広義の公議政体論を唱えて、従来は聴講に限られた平民にも、一定の学識があれば壇上で論ずる権利を与えた。
これは、単なる幕府の諮問機関ではなく、公家・武士・庶民が広く参加し、合議によって方針を決する仕組みの試行であり、のちの議会政治の先駆けといえる思想だった。しかし激動の時代、塾生は政治的立場で分裂し、士族層の多くが離反。在長は中立を貫いたため、佐幕派からは「協力不足」、尊王攘夷派からは「運動消極」と批判され、一部は過激運動へと流出した。
命を狙われる局面もあったが、在長は外国人を含む講師(蘭学者・洋医・測量家等)を招聘し、身分を問わぬ教育を続行。平民層の塾生が中核として残り、その後の発展を支えた。
3.明治初期の転換
維新後、元塾生の一部は政府要職に進み、清鑑院塾は初期教育政策に一定の影響を及ぼした。だが在長没後、政府の中央集権的教育行政が強まるにつれ、塾は統制に距離を置く。
とりわけ1880年代には、教科書検定の整備や修身科の標準化が進み、1903年の国定教科書制へとつながっていく。清鑑院塾は「多様な学問の自由」を掲げ、洋学・医学・政治学の独自カリキュラムを維持し、政府統制に屈しなかったため、自由民権運動や社会改革に関心を持つ学生が集まり、官側の警戒も招いた。
明治14年の政変以降、中央集権化は一段と進む。学習院が宮内省所管の官立華族学校として再編される中、清鑑院塾にも官立編入の議論が及んだが、民間支援と同窓の尽力で私立のまま存続が決定。このとき「自由・叡智・実学」が校是として明確化され、明治中期に独立性を保った私立総合大学への改組を果たした。
・関連項目
高橋在長
高橋家(伯爵)
清鑑院大学