第九話 戦いの行方
雨が強まり、彼らは皆、全身に水を纏っていた。
「ただのじゃんけんだ! グーチョキパー、それらの関係性も変わらない! 最初に出すのはグーだ。一回勝負。流石にルールを破ることは許さねえ」
二人目の対戦相手はニヤニヤしていた男のうちの一人、やや太った男だ。彼はクリスの先ほどの行動を見て、先にルールをしっかりと伝える。なんとも賢い。
今回のクリスは周囲をガチガチにルールで固められてしまった。流石にこれは逃れられまいと、覚悟する。せめて雨が弱まれば運気も上昇するだろうと考え、天に向かって叫んだ。
「ああ、鎮しずめたまえ、荒れ狂う嵐を! 時は刻々に迫っています。太陽も今どれくらいの高さにあるかわからないじゃないか。あれが沈んでしまわぬうちに、図書館に行き着くことが出来なかったら、あの佳い友達が、俺のために」
「何言ってんだお前、早く手を出せ! 雨強まってきたじゃねーか」
突然天に向かって叫ぶ男など、気が知れたものではない。小太りの男はクリスの様子を見て気味悪く感じた。クリスの目的は相手を動揺させること。まんまと術中にはまっていることに男は気付かない。
「じゃんけんッ」
二人は拳を構えた。
「ポイッ」
勝負は一瞬。
「うあああああああ」
小太りの男の悲鳴は、雨によってかき消された。その場で崩れるようにして倒れた仲間を見て、まだ勝負をしていない残りの二人が襲い掛かってきた。
しかし、そのうち一人は濡れたマンホールで足を滑らせ、その場に倒れる。もう一人の小柄な男の拳はクリスによって受け止められた。
「クソーッ…………卑怯だぞ!」
彼は顔面をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。これでも彼は二十歳なのだが。
「勝負はついた。さて、君には駅まで一緒に来てもらおう」
クリスは彼の腕を掴んだまま、引きづるように駅構内へと戻る。残りの三人は雨に打たれたままだ。クリスは屋根のある所に置いておいた鞄を拾って、中の本を確認する。大丈夫だ、濡れていない。
「さあ六百円出してもらおうか」
クリスからの要求に渋々応え、小柄な男は券売機に金を投じた。
「ありがとう、助かった」
クリスは彼にそう告げると、足早に改札を通り、駅のホームへと急いだ。その場に残された男は、少しの間立ち尽くした後、仲間たちの元へとぼとぼと歩いて行った。
「もう四時半か」
アクシデントにより運転を見合わせていた区間は予定よりも早く復旧していた。電車に遅れは発生しているものの、着実に目的地へと近づくことはできている。
電車に乗ったクリスは、その川に飛び込んだかのような服装では流石に席に座れないと思い、ドア付近の棒ににもたれるようにして立っていた。ずっと雨水が滴り続けている。足元には大きな水溜まりだってできそうだ。
彼は図書館に残してきた友人芹川のことを考えていた。彼は本当に何もしていない。ただ、クリスのためだけに囚われている。彼は自分を信じてくれた。それなのに、閉館時間に間に合うことはできない。それは、この電車が図書館の最寄り駅に到着する頃には閉館時間である午後五時を余裕で越えてしまうからだ。
暴君出尾木乃香は言った、「今日中に本を持ってきたら許してあげる。全く……特例よ、特例!」と。
しかし、忘れてはならないのは彼女が暴君であることだ。今日中という言葉が言葉通り日付が変わる前までを意味するとは限らない。寧ろ彼女は、閉館時間までを指してそう言ったと考える方が一般的だ。誰が深夜まで図書館に本を返しに来るのを待っていようか。有り得ない。このように考えると、クリスは自身の行動が意味を成さないのではないかと不安になった。今日中と言われて、閉館時間までに返しに来なくていい理由にはならない。常識的に考えて、その時間に間に合うように返しに行くに決まっている。そんな常識から外れてしまっている自身を情けないと思った。
段々と彼の中に沸いていた意志が薄れていく。自分自身に対してだろうか、それとも友人芹川に対して、はたまた暴君出尾に対してか。身体疲労すれば、精神も共にやられる。彼は明確な対象を定めない言い訳を考えるようになった。
俺は確かに友人のため、自身のため、本を今日中に図書館へ返しに行くと誓った。しかし、道中がこんなにもうまく行かないことばかりだとは思わなかった。交通系ICカードの残高が無い上に現金を持ち合わせていなかったり、見知らぬゆるふわツインテに声をかけられ、つい限定スイーツのために並んでしまったり、電車が止まって同じ意志を持つ男と共に脱出を図ったり、自転車がパンクしたり、下らないお遊びに巻き込まれたり。それでも俺は、走ったのだ。途中、歩かざるを得ない場面もあったが、一刻も早く図書館へ戻るため、考えて考えて動いていた。
俺は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、微塵も無かった。でも、これが、俺の定った運命なのかも知れない。芹川、許してくれ。君は、いつでも俺を信じた。俺も君を、欺かなかった。俺たちは、本当に良い友と友であったのだ。一度だって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。今だって、君は俺を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、芹川。よくも俺を信じてくれた。それを思えば、たまらない。でも俺は、永遠に裏切者になってしまうんだ。
クリスの中にあった言い訳の対象は、友であり、自分であり、暴君であった。
髪から滴り、頬を伝う雨水に、彼の内から溢れた水もまた一滴混ざり、落ちるのであった。