第七話 橋の上のクリス
協力者を得たクリスは、先頭車両へと向かっていた。まずは正攻法。車掌さんに頼んで降ろしてもらう作戦だ。
「意外と前の方の車両は人が多いな」
「そうですね」
人を掻き分けては、ドアを開きを繰り返し、ついに先頭車両へと到着した。
「少年よ、俺が先に行く。そこで待っていてくれ」
「よろしくお願いします」
サラリーマン浪也が、運転席に立つ男と交渉しようとした。しかし、一度だけ彼の方を見た車掌は呆れたように首を振った。
「お客様の安全を守るために列車から降ろすことはできません」
「そうか、そうだろうな」
浪也の交渉はうまくいかなかった。クリスはまた頭を抱える。そんな彼をクリスは励ました。
「まだ方法はある。多少危険だがバレなければ大丈夫だ」
そう言うと、今度はまた来た道を戻って行き、今度は列車の一番後ろより一つ手前の車両へとやって来た。そこには他の場所よりも人が少なかったため、浪也はクリスに「俺の姿が見えないように隠せ」と伝え、クリスを盾に列車のドアをこじ開け始めた。
「フンッ」
僅かに開いた隙間に指を入れ、更に力一杯左右に開く。
「フン…………ヌッ」
じわじわと扉が開き、人が一人通れそうなくらいの隙間ができた。誰かに気づかれてもおかしくない状況だったが、誰もが自身のスマホと睨めっこしていたおかげで二人の行動は誰の目にも入らなかった。
「今だ、通れ。結構高さがあるから気をつけろ」
「わかった。ありがとうございます」
浪也がドアを押さえている間にクリスは外へと出た。次は浪也の番だ。彼もドアの外へと出ようとした。しかし、車内を見回りに来た車掌に見つかってしまう。
「おい、何をしているんだ! 早くそこから離れなさい!」
無理やりこじ開けたドアを指して車掌が怒鳴る。その声を聞いて周囲の乗客たちも一斉に浪也の方を見た。浪也は今、ドアに挟まっている。まだ体は半分も外に出ていない。
「いや、違うんです! ドアにもたれていたら誤動作して開いてしまって、それで挟まってしまったんですよ」
そんなことあるのか? と単純に疑問に思っていたクリスだったが、列車に挟まったままの浪也が彼の方に顔を向けて小さな声で言った。
「さあ君は行きなさい。俺はここで彼らを止めておく。残念ながら本来よりも帰宅が遅くなりそうだが、仕方ない。全て上手く収めておくさ」
「浪也さん! そんな、俺だけ行くなんて…………あなたが開いてくれた扉なのに」
クリスは急いでいた。とはいえ、彼自身のために動いてくれた人間への礼儀や感謝を欠くような人間ではなかった。だからすぐにはその場を離れようとしない。だが、腹の出たサラリーマンは言う。
「いいから行ってくれ。俺は君よりもずっと年上だ。若輩者のために道を繋げるのが俺みたいなおっさんの役目なんだよ! ほら行け! 見つかるぞ!」
「何をコソコソしているんだ! 早く車内に戻れ!」
車掌は確実にキレていた。それがよくわかる声がクリスの耳にも届いた。
「…………じゃあな、上手くやれよ」
クリスは後にも先にも、彼以上に勇敢なおっさんを知らない。頷き、それから手短に感謝を述べると彼は線路の脇にある通路へと移動し駆けだした。但し、箱の中のケーキが崩れないようにだけ注意して。
一度だけ振り返ったが、既に電車のドアは完全に閉まっていた。
列車からの脱出により、クリスは午後三時半頃、最寄駅から自転車に乗って、ついに一人暮らしの自宅へと帰還した。冷蔵庫にケーキを入れると、今度こそは忘れずにリュックの中に本を入れる。汗の染みこんだ服を脱ぎ、清潔な服へと着替えた。
再び靴に足を入れ、扉を開ける。
「なんとか閉館前に到着できそうだ」
時刻は午後三時五十分。先ほどまで乗っていた自転車のペダルにもう一度足をかけた。そして、力強く漕ぎ出す。ところが。
「なんだか重いな」
一度自転車から降りてタイヤを確認すると、後輪の空気が抜けている。クリスは青ざめた。今日の彼はツイていない。自転車を使えば十分ほどで到着する駅だが、歩けばニ十分から三十分はかかってしまうだろう。彼の前には二つの選択肢があった。
一つは、部屋に戻り、空気入れを持ってきて、タイヤに空気を入れ直すという選択。しかし、タイヤ自体がパンクしている可能性もある。その場合、結局時間を無駄にしてしまう。
では、もう一つの選択は。
「走るしかないか」
歩いていては本来乗れたはずの電車を何本か逃し、閉館時間に間に合わない。だから、彼にとっての最善策は「走る」だった。
彼は薄手の上着を着ていたが、脱ぎ、リュックの中に突っ込んだ。そして、Tシャツ姿になる。無地のTシャツではない。英字で大きく「RUN」と書かれている。
彼の意志も、Tシャツも言っている。
「走れクリス」
と。