第六話 走らなくていいクリス
「わ、めっちゃストレート!」
包み隠さず金をくれと頼むクリス。友人芹川が彼の様子を見たらなんと言うだろうか。「クリス、それは流石に良くないよ」と声をかける姿が容易に想像できる。
クリスの真剣な様子を見て、ツインテの彼女は迷わず財布を開いた。ツインテよ、そんな簡単に金を出してしまうなんて、君の将来が心配だ。
「それで、いくらいるの?」
「多少残金があるから、五百円くらいかと」
「んー、それくらいちゃんと持ってこないとー。はい、五百円くらいなら返さなくていいからあげる」
「感謝しかない…………ありがとう。天使すぎる」
「て、ててって、天使だなんて大げさよ! もう、早く友達助けに行って!」
クリスの目には彼女のファッションのゆるふわ具合が本当に天使のように見えたという。五百円玉を一枚受け取ると、何度も感謝を伝えながら、駅の改札口へと向かった。
クリスが去った後、彼女はスマホを取り出し、何かを検索している。
「そこの駅から片道五百円くらいで行けるところは……」
検索結果が並ぶ。それを真剣に見つめていた彼女だったが、我に返ったのか、突然検索を止めてスマホの画面を落とした。
「偶然を装うのはやっぱ駄目だ」
そう呟くと、ケーキの入った箱を揺らさないように気をつけながら、鼻歌を歌いながら駅から自宅へ向けて歩き始めた。
クリスは切符を買っていた。交通系ICカードへのチャージは千円からになっており、チャージすることはできないからだ。普段、料金についてあまり気にしていないこともあって少々手こずる。
なんとか切符を手にした彼は、ケーキを揺らさないようにだけ気をつけ、急いでホームへと向かった。
五分ほど待っているとちょうど電車が到着した。
午後二時過ぎ。この時間帯の電車内はあまり混雑しておらず、座って乗車することができた。ケーキの入った箱に一緒に入れられている保冷剤がひんやりとして気持ち良い。彼は、その冷たさにうっとりしながら目を閉じた。
「…………あぶねえ」
クリスは耐えた。お昼すぎに突如やって来る睡魔に打ち勝った。もし彼が寝落ちしたのなら、それは絶望を意味しただろう。
一度目の乗り換えと二度目の乗り換え、それらを共に乗り越え、安心して電車に乗り込んだ。
「ケーキは家で冷やしておこう」
座席でクリスはほくそ笑む。乗り換えがスムーズだったおかげで、最寄り駅に到着するまで残り四分ほどだ。三時前には帰宅できるだろうと考えていた。
しかし、それは甘かった。クリスには甘くない現実が襲い掛かる。
突然電車が急ブレーキをかけた。
『緊急停止信号が出ましたので、停止いたします。車内の揺れにご注意ください』
列車内に流れたアナウンスに、乗客たちはざわめき始めた。クリスも内心、落ち着きはなかった。
『只今、先行列車が踏切内に侵入した自動車と衝突し、当車両も運転を見合わせております。運転再開の目途は十七時頃を予定しています』
「おい、マジなのか」
彼の心に不安の二文字が浮かぶ。すぐさま、スマホで図書館の営業時間を調べた。そして、彼は落胆した。
「本日の閉館時間は午後五時」
友人のことを思うと、彼は心が痛かった。このままでは閉館時間に確実に間に合わない。
しかし、暴君の言葉を思い出し、彼は諦めることをやめた。
「出尾さんは、今日中に返しに来いと言った。つまり、閉館時間を過ぎてもまだ約束を破ったことにはならない」
彼の記憶力は都合の良いところで発揮される。暴君出尾木乃香は恐らく閉館時間までに返しに来るよう言ったつもりだったのだろう。しかし、彼女は確かに「今日中」と言った。このことは、友人芹川もわかっていた。
だから、クリスはまだ諦める必要はないのだ。
とはいえ、それが急いで図書館へ行かない理由にはならない。今この瞬間も、友人芹川テウスは囚われている。一秒でも早く彼の元へ行くため、クリスは橋の上で立ち往生している電車から抜け出そうと考えた。
試しに、彼に一番近い列車のドアを力づくで開けようとした。しかし、びくともしない。
「二時間も電車に閉じ込められるのは絶対嫌だぞ……」
「激しく同意する」
クリスの独り言に応じる者がいた。それはサングラスをかけた中年の男だった。筋肉質な体系だが、腹が出ている。腹は出ていようが、相当の筋力は見込めた。
「お名前は何ですか?」
クリスが質問すると、彼はサングラスを外し、白い歯を見せ答えた。
「俺は浪也。しがないサラリーマンさ」
「あなたも早く帰宅したい感じでしょうか?」
「勿論だ。折角早めに退勤してきたんだ。家族の元へ一刻も早く帰りたいに決まっている。どうだ? 俺と手を組むか?」
クリスも当然、二時間も電車内で身動きが取れないのは避けたかった。だから、サラリーマン浪也の提案を迷わず受け入れる。深く頷くと、浪也はニヤリと笑い、再び白い歯を見せた。
「いい度胸だ、さあ、この暑苦しい列車から脱出するぞ」