第三話 走れクリス(駅まで)
クリスは走っていた。図書館から駅まで、歩いても五分ほどだったが、電車が出発するまでに時間がない。次の電車に乗ればよいとも思われるだろうが、二度の乗り換えがスムーズにいくとも限らなかった。
「全く…………どうして今日に限って」
駅に到着したクリスは、自身に対して苛立ちを覚えていた。交通系ICカードの残高が足りないのだ。そして、慌てて家を出たため、財布も忘れていた。スマホで改札を通る人を見たことがあったクリスだったが、彼自身はそういったものはやっていない。
駅から自宅の最寄りまで、電車を使えば四十分だ。しかし、歩くとなれば話は変わってくる。
「ああ、これはもう」
クリスは覚悟した。
「走るしかない」
最低限以下の荷物しか持っていない彼は、幸か不幸か、とても走りやすい格好をしていた。リュックの中にはタオルとペットボトル飲料が一本、しかも半分くらい飲んだものが入っているくらい。出発前に本が入っていないことに気づけよ、と自身を責める彼だったが、今は前を向く。
渋々駅の改札を通ることを諦め、線路沿いの道をひたすら走っていくことにした。
時刻は正午過ぎ。昼食は食べたいと感じたクリスはコンビニでおにぎりを購入し、あっという間に完食した。ついでに、ペットボトル飲料も空になったため、ゴミ箱に捨てた。結局十二時半より走り始めることになる。
「はっ……はっはっ…………」
走り出して五分もしないうちに息が切れ始めた。何もしなければ運動不足になりやすい大学生にとって突然の長距離走は過酷なものである。しかし、歩いていては辿り着かないので、彼は必死に走り続ける。
クリスは面の良い男だった。流れる汗を輝かせながら走る彼の姿を目撃した者は、誰しも一瞬立ち止まって目で追ってしまうほどだった。
このことが、クリスを苦しめた。
目で追うだけでなく、中には近づいてくる人もいたのだ。
「あ、あの! 私たちどこかで会ったことありませんかっ!?」
走っていると突然同年代の女性に声をかけられ、クリスは困惑した表情を見せた。彼が彼女のことを知らないから、という理由もあるが、単純に異性と話すことに慣れていなかったのである。そんなことはお構いなしに、ツインテールの彼女は彼が何と言おうとグイグイと迫ってくる。
「あ、えっと、急いでいるので」
「絶対会ったことあります! ほら私! この顔覚えてない?」
「え、うーん、覚えてないというか知らないというか」
「嘘! 絶対知ってるって! ちょっとこっち来て!」
強引にも彼女はクリスの腕を掴んだ。彼は本当に彼女のことを知らなかった。しかし、傍から見れば、二人は知り合いで、彼は友人若しくは彼女から逃げようとしている男にでも見えただろう。
その様子を見た通りすがりの屈強な男に「おい、しっかりしろお前。彼女が泣いているぞ」という見当違いな言葉をかけられ、クリスはあわあわした。
「ちょっ、本当にやめてください。誰なんですかあなた」
「いいからついて来いって!」
口調が変わった彼女に対し、クリスは一層不安感を抱いた。しかし、結局言われるがまま、腕を引かれて彼は図書館の最寄り駅周辺まで戻っていた。
駅の周辺には飲食店や娯楽施設などがちらほら。クリスの腕を引いてきた彼女は、一つのお店の前で立ち止まる。とてもファンシーなデザインの外観をしている場所ではないか。
「ここで待ってて」
「え、嫌だ」
「逃げても無駄だから」
「…………」
ツインテは店の中へ入って行き、暫くすると綺麗な衣装を身に纏って出てきた。クリスは悟った。俺は客引き行為に遭遇したのだと。その場から逃走を図るも、すぐにまた腕を掴まれてしまう。
「待ってよ」
「申し訳ないけど、客引きを相手している暇はないんだ!」
「客引きじゃないし! ねえ、この服可愛いでしょ」
「ああ、そうだな。可愛い可愛い。早く手を放してくれ!」
クリスの冷めた対応にもかかわらず、ツインテの彼女は頬を赤らめた。どうやら面の良い男はどんな難題であっても解決してしまうようだ。手を振り解こうとしたクリスに対して、ツインテはその手を緩めることはなく、寧ろ更に強く握った。
困惑し続けるクリスに対し、ツインテはもじもじしながら言う。
「本当に客引きじゃないの。ただ、もう一箇所だけ一緒に来て欲しいところがあって」
「…………いやそんな余裕はないんだよ」
「お願い! ちゃんとお礼はするから!」
お礼をする、という言葉をクリスは聞き逃さなかった。彼は現在現金を持ち合わせていない。電車の運賃を彼女から得られれば、自宅へと一気に近づけるチャンスだと考えた。
一度断っておきながら図々しくも彼は「それならいいよ。但しお礼はきっちり貰うぞ」と格好悪い発言をした後、彼女についていくことにした。
気付けば駅の目の前まで戻ってきている。
時刻は午後一時。
クリスは今日中に図書館へ戻ることができるのだろうか。